義経とは?

以下は放送開始前にご案内した過去の情報で、日付・予定などは現在のものではございません。
7月28日に行われた記者取材会にて、石原さとみさんが静御前役で出演されることを発表しました。役柄の詳細については、以下をご覧下さい。
みなもとの・よしつね。源義朝の末子で母は常盤御前。幼名は牛若。平治の乱で父を失い、母は平清盛に身を委ねて乳飲み児の牛若ら息子達の助命を請うた。父と慕った清盛が実は父の敵だと知ったのは、仏門に入るべく送られた鞍馬寺でのこと。やがて平家の目を避け奥州平泉の藤原秀衡のもとで青年期を過ごし、異母兄頼朝が挙兵するとその軍に加わって兄範頼とともに東国武士を率いて上洛、木曽義仲や平氏一門を追討。当時の合戦の作法を度外視した戦法によって連戦連勝した。しかし頼朝の許可なく官位を受けたために頼朝と不仲になり、一転悲劇のヒーローとなってゆく。
むさしぼう・べんけい。源義経の郎従。もとは比叡山の僧。寺を追われてのち京に入って刀狩をしていたが、義経に清水観音境内(のちに五条大橋として伝説化)で敗れて家来となる。平家追討や奥州逃避行に従い各所で知略・怪力によって主君を助け、衣川の合戦での殉死は「立ち往生」として有名。
いせの・さぶろう。伊勢の生まれ。父はかつて源氏の家来だったというが、今や盗賊熊坂長範の徒党に落ちぶれていた。美濃青墓で、奥州に下る義経一行を襲撃。義経に一命を助けられたことを機に、家来として仕えようと決意する。口八丁の彼の弁舌と交渉術がたびたび一行の窮地を救う。
するがの・じろう。もとは船乗り。奥州行きの道程を海路に取らざるを得なくなった義経一行。伊勢三郎が船を借りたいとやって来たのが次郎との出会いだった。奥州までの船旅の中で義経という男に魅力を感じ始め、平泉到着後も帰らずに一向と行動を共にすることになる。
さとう・ただのぶ。藤原秀衡の臣下。もとは義経たちの平泉滞在中の監視的役目だったが、頼朝の挙兵に呼応して義経が平泉を離れる際、兄・継信とともに従う。歌舞伎「義経千本桜」の狐忠信のモデルにもなっている。このドラマでも、義経の愛妾静御前を守って壮絶な最期を遂げる。
きさんた。京の孤児。幼い頃から孤児仲間と小さな悪行を重ねながら生き延びてきた。平家のために人を討つという話に乗せられて、誰とは知らずに義経を襲う。結果は義経一人に惨敗。しかし痛手を負った自分にかけてくれた義経の優しさに改心。最初の家来として同行を許され、馬の口取りとなる。
ちどり。鎌倉の漁師の娘。海で溺れかけた弁慶を助けた。潮にまみれ日に灼けてまるで女っ気のない自分を「女」として見てくれた弁慶に好意を持ち、何かにつけて世話を焼く。女の扱いを知らない弁慶とのやりとりは義経主従の格好の興味の的となる。
さとう・つぐのぶ。藤原秀衡の臣下だったが、弟・忠信(ただのぶ)とともに義経に従う。屋島の戦いで義経をかばって死んだとされる。
わしお・さぶろう。一の谷の合戦の際、義経一行に鵯越え(ひよどりごえ)のルートを案内した地元の猟師。以降義経主従に加わる。
かわごえたろうのむすめ・ながこ。義経のもとに、兄・頼朝から送りつけられた「正妻」。実は監視的な役目を帯びていたが、やがて義経の人柄に本当に魅かれていく。
いそのぜんじ。静の母で、自らも白拍子(しらびょうし)であった。義経と静の関係をかげで優しく支える。
きいちほうげん。陰陽師(おんみょうじ)。鞍馬寺に入った義経(=遮那王/しゃなおう)に武術をさずける。
いちじょう・ながなり。京・一条に住む貴族で、官職は大蔵卿(おおくらきょう)。清盛のもとを去ることになった常盤が牛若を連れて嫁いだ「三人目の夫」。
ときわごぜん。義経の生母。もとは九条女院の雑仕女。「平治物語」によれば、雑仕女の採用にあたり都じゅうから千人の美女を集めた中でも一番の美女であったという。源義朝の愛妾となり、今若・乙若・牛若(源義経)を産む。平治の乱で義朝が敗北したあと、母と三児の助命を請いに六波羅に出頭。その後平清盛の愛妾となり、廊御方能子(ろうのおんかたよしこ)を産んだ。
夫を討った敵将の愛妾に甘んじたことを、幼い義経は理解できなかったに違いない。しかし常盤は、母や子供たちの助命と引き換えに清盛に身をゆだねた訳ではない。清盛は情のある人物だった。この人になら自分も、子供たちの未来も託せる。そう感じた。母と子供たち三人を抱えて放り出されたら、どうやって生きるか、その術もない常盤であった。打算ではなく、常盤は女として母として清盛を受け、流れのままに身を置いたのである。
源義経が生涯愛した女性。生業は白拍子(しらびょうし)。母・磯禅師も白拍子であった。
今回のドラマでは、都で一度義経の窮地を救った静は、富士川の合戦に巻き込まれて傷ついたところを義経と劇的に再会。義経に愛され、二人は行動を共にするが、静の存在は鎌倉の頼朝・政子には疎まれた。壇ノ浦の後、義経追討の院宣が出ると義経の都落ちに従うものの、生き別れて吉野の山中で捕らえられる。
翌年、鎌倉に護送され尋問を受ける。この時静の腹には義経の子が宿っていた。生まれる子が男子なら殺す約束で出産。閏七月二十九日、生まれた赤子は男子で、約束どおり海に投げ捨てられたという。
その後、頼朝に強要されて鶴岡八幡宮で歌舞を披露。「しずやしず しずのおだまきくりかえし むかしをいまになしよしもがな」と義経への思いを素直に唄い、頼朝を激怒させるが、却って政子はその潔さに同調する。
みなもとの・よりとも。鎌倉幕府初代将軍となる、義経の異母兄。平治の乱後平家に捕らえられ、伊豆に流罪となった。その監視役だった北条時政の娘・政子を妻にする。以仁王の平家討伐の令旨に応じる形で挙兵、石橋山の合戦で敗れたがのちに勢力を回復し、鎌倉を本拠とする南関東軍事政権を確立していく。武家の組織を統率するためには肉親をも切り捨てる冷静さの陰で、今回のドラマでは弟義経や妻・娘ら家族との関係に頭を悩ませる人間的な部分も描かれる。
ほうじょう・まさこ。源頼朝の妻。母親を早く亡くし坂東武者の中で育ったせいか、男勝りの真直ぐな性格。伊豆流刑中の頼朝に出会い恋に落ち、「自分の夫はこの男」とばかり押しかけ女房で結ばれた。頼朝が政治家として成長していく過程で政子自身も成長し、陰で巧みに夫の成功をリード。人を惹きつける義経の魅力に早くから気づき警戒した彼女は、徐々に頼朝・義経兄弟の間の溝を深めていく。
ほうじょう・ときまさ。北条氏はもともと平家方で、時政は伊豆に送られた頼朝の監視役であった。京都在勤の間に娘政子が頼朝と夫婦になったことは「寝耳に水」。しかし頼朝の将来性に賭けた時政は彼の挙兵に協力し、やがては鎌倉幕府の屋台骨を支える存在となる。
かめのまえ。伊豆・蛭ヶ小島の農家の娘で、政子と結婚する前からの頼朝の愛妾。頼朝の身の上にも、ましてや政にも一切頓着しない女。そんな彼女の性格が頼朝には何よりの「癒やし」となっていたが、その存在に気づいた政子の猛烈な嫉妬のもと、頼朝との仲を悲しく引き裂かれる。
ひきのあま。頼朝の乳母。頼朝が伊豆に流される際、自らも東に下り、以降彼の身の回りを支え続けた。
みよし・やすのぶ。頼朝の乳母の甥にあたる。京から月に三度頼朝に手紙を送り、都の情報を伝え続けた。やがて鎌倉に招かれ幕府の重臣となる。
きそ・よしなか。通称木曾冠者。以仁王の令旨に応じて挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を破って入京を果たす。しかし義仲軍の洛中での乱暴狼藉には公家や町民の不満がつのり、朝廷と対立。征夷大将軍となり自ら朝日将軍と称したが義経らの大軍に攻められ、その首を京の町に晒された。
ともえごぜん。義仲の従者で愛妾。容貌にすぐれ武芸に優れた伝説の女性で、いわば「和製ジャンヌダルク」。自分の姪にあたる義仲の正妻の産んだ子・義高を手元で育て、我が子のように慈しんだ。義仲の死後は、その後を追って果てたとも鎌倉方の家人に嫁いだとも諸説あるが、今回は意外な形で…。
しんぐうじゅうろう・ゆきいえ。義朝の末弟。源頼政の挙兵の際、以仁王の令旨を諸国の源氏のもとに伝える。しかし頼朝とは相容れず、義仲と結んで上洛した。その後義仲とも対立し、頼朝・義経兄弟の不仲が表面化すると義経側に加担。あちこちにくっついては掻き回し続けた男は、潜伏先の和泉で非業の死を遂げる。
みなもとの・のりより。義朝の六男。通称蒲冠者。異母兄頼朝の挙兵に呼応し、源氏軍の大将を務める。異母弟義経のような奇襲奇策の能力はなかったが、実は彼の連勝を陰でサポートしていた人物。
かじわらの・かげとき。石橋山の戦いでは平家方だったが源頼朝を救い、以降巧みな弁舌で頼朝に重用される。屋島攻撃の際に義経と作戦上の問題で対立。頼朝への梶原の「讒言」が義経失脚の一因を作ったといわれるが、律儀な軍監である彼にとっては、義経の戦法は理解できなかったのかも知れない。
みなもとの・よりまさ。源三位入道と称する。保元の乱でははじめ源義朝にくみしたが、のちに離反して平清盛方についた。清盛の厚い信頼もあったが、目に余る平家の横暴に以仁王を奉じて反平家の兵を挙げるも、宇治で敗死する。時に齢七十を超えていた。弓の名手、歌人としても有名。
平忠盛の嫡男だが、実父を白河上皇とする説もある。六波羅殿・六波羅入道とも称する。
1156年保元の乱では後白河天皇方として一族を率いて活躍し、その功により播磨守となる。1159年平治の乱で源義朝(義経の父)を破り、確固とした地位を獲得。乱の後、平家一門の官位は急速に上昇する。
1160年武士としてはじめて参議となり、1167年には従一位太政大臣。翌年出家、摂津国福原に引退したのちも、平家政権の中核として権力を掌握し続けた。娘・徳子を高倉天皇の中宮とするなど、摂関家をはじめ朝廷内の有力貴族との婚姻政策を進めた。
1177年には反平家勢力による鹿ヶ谷の陰謀が発覚する一方、1179年に後白河法皇を幽閉し、院政を停止した。翌1180年、外孫の安徳天皇(徳子の子)を即位させて独裁政権を樹立したが、以仁王が挙兵したことに衝撃を受け、福原遷都を強行。以仁王(もちひとおう)の令旨を得た源頼朝ら反平家勢力が挙兵する中病死した。
「傲慢な独裁者」と思われやすい従来の清盛のイメージ。それだけでなく、「ロマンあふれる早すぎた改革者」という一面も描いていくのが今回の「義経」。清盛の有り余る夢は一種のロマンだが、それを一人追い求め過ぎて周りは置き去りにされがちだ。日宋貿易をもって国を豊かにしようという、貿易立国をも意図した福原への遷都も清盛の改革の一つだったが、思いだけが走りすぎて根回しを怠り朝廷や仏徒などの反感を買った。息子たちの中に彼ほどの人物がいなかったという、後継者に恵まれなかったのも清盛の悲劇だ。
また清盛は常に、白河院のご落胤ではないかという心の屈託、親の縁に薄い寂しさを胸に抱えていた。その心の揺れが、父・義朝を失った義経・頼朝兄弟の命を救うことになった。そして幼い義経は母・常盤とともに清盛と一時を過ごし、奇しくも清盛からロマンの遺伝子を誰よりも強く引き継いだのである。
清盛の妻。六波羅二位・八条二位・二位尼と称す。宗盛・知盛・重衡および高倉天皇の中宮となった徳子を産んだ。時忠は弟、建春門院滋子は妹である。1180年准后、翌1181年には従二位となり、平家一門の中でも影響力をもった。
母親との縁の薄い清盛にとってはある意味母のような存在であり、また清盛の夢の一番の理解者でもある。清盛が外で為した子まで面倒をみたという懐の広い女だが、こと義経の母・常盤との関係だけは決して許せなかった。
清盛の死後は夫の遺志を継いで気丈にも一族を率いた。1183年平家の都落ちに従って西国へ下り、1185年壇ノ浦の戦で「波の下にも都がございます」と、外孫である安徳天皇と三種の神器を抱き入水――。
たいらの・しげもり。清盛の嫡男で、宗盛・知盛らは異母弟になる。平家軍政の中心的役割を果たした人物。父・清盛を諌めることのできるただ一人の息子として父の信頼も厚かったが、早逝する。
つねこ。重盛の後妻で、高倉帝の乳母。同じ後妻同士ということもあり時子の信頼も厚い。日頃は冷静沈着だが、なさぬ仲の維盛が敗戦の際に手放してしまった平家嫡流伝来の鎧を奪回するため奔走する。
たいらの・これもり。重盛の嫡男。踊りの名手で、後白河法皇五十歳祝の宴では舞楽「青海波」を舞う。富士川の戦いで総大将となったが、水鳥の飛び立つ音に驚いた兵が混乱し戦わずに敗走。平家都落ちに従ったがその後一門から離れ、世をはかなんで入水する。
たいらの・すけもり。重盛の次男。摂関家の藤原基房の行列の前を横切って舎人に路上で恥辱を受け、これに怒った父重盛が基房に報復した「乗合事件」の発端を作った。
たいらの・むねもり。清盛の三男。異母兄重盛・父清盛の死後は一門を統率したが、兄ほどの力はなかった。壇ノ浦では死にきれずに捕えられ鎌倉に護送される。今回のドラマでは、自分だけは後白河法皇のご落胤ではないかと思い込み、武芸よりも雅を愛す人物として描かれる。
たいらの・とももり。清盛の四男。勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられている。源氏軍入洛の際には都落ちを主張し再軍備を図った。壇ノ浦の戦いで敗れ「見るべきものはすべて見た」と潔く入水する。
あきらけいこ。知盛の妻。安徳天皇の弟・守貞親王の乳母。常に気丈で明るく、時子に一番頼りにされている。平家一門が西国に流れ窮地に陥った時、時子からある重大な「計画」を持ちかけられ、実行する。壇ノ浦で生き残り、徳子と守貞親王を守って大原に隠棲する。
けんれいもんいん・とくこ。清盛の次女。高倉天皇の中宮として安徳天皇を産み「国母」となる。帝の死により「建礼門院」の院号を宣下された。源氏の上洛に安徳帝を伴って一門とともに都を落ち、壇ノ浦で安徳帝とともに入水したが、彼女だけ助けられて京に送られる。まもなく出家し、大原寂光院で余生を送った。
たいらの・しげひら。清盛の五男。南都興福寺・東大寺を焼き討ちした人物として知られる。一の谷の戦いに敗れ捕虜となって鎌倉に送られたが、潔い態度で頼朝とも対等に渡り合った。その後奈良で処刑された。義経とは歳も近く、今回のドラマでは幼少時代の義経との交流も描かれる。
すけこ。重衡の妻。安徳天皇の乳母。おっとりした性格の女房だが、一の谷で夫が捕えられてからは不安な日々を送る。壇ノ浦で生き残り都に戻ったのち、奈良へ護送される重衡とつかの間の悲しい再会を果たす。夫の処刑後はその身柄を引き取って供養したという。
よしこ。義経の母・常盤御前と平清盛の間に生まれた娘で、義経にとっては妹。幼くして時忠・領子夫妻に引き取られ、領子付きの女房となる。源氏の血を引く者と見られがちだが、都落ちの際にはあくまで清盛の娘として毅然と平家一門に従う。やがて義経と再会し、壇ノ浦で生き残る秘策を託される…。
たいらの・ときただ。時子の弟。「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのはこの人。様々な政略を仕掛け何度か流罪の憂き目に遭うが、清盛の台頭と妹・滋子(建春門院)が後白河法皇に寵愛されたことで異例の出世もした。壇ノ浦にも生き残り、助命のために義経に娘を差し出したといわれる。
むねこ。時忠の後妻。理知的だが主張が強すぎて、時に周囲との軋轢を生むことも多い。反面お役目には忠実な人。引き取った能子は所詮源氏の子、と何かにつけて辛くあたる。都落ち後は特に猜疑心を強くし能子を常に警戒、能子を炭小屋に閉じ込めたこともある。
いけのぜんに・むねこ。清盛の義母で、彼も頭が上がらない存在。平治の乱後捕えられた頼朝の姿形が、自分の死んだ長男に似ていると言い出し、清盛に助命を嘆願する。
たいらの・よりもり。清盛の異母弟で、母は池禅尼。母が頼朝の助命に一役買ったことから、平家没落後は都落ちに従わず鎌倉に招かれた。その背信がやがて彼をさいなむ。
たいらの・もりくに。清盛の家人(けにん)。先代・忠盛からの家人であり、長老的存在。
てこな。もとは北条政子の侍女だったが、頼朝に接近され鎌倉を出奔。時子の侍女となる。
ごしらかわ・ほうおう。鳥羽天皇の第四皇子。皇位継承順位は低かったのだが、激しい継承争いのなか幸運にも即位。まもなく長子・二条天皇に譲位し院政を開始。以降三十年以上、衰勢はありながらもその死まで朝廷政治の中心にあり続けた。平家・源氏という武家の台頭の中、自らは武力を持たない朝廷として、いかに生き延びるかということに智略の全てを注ぎ込んだ。ある時は清盛に、また義仲・義経に、そして頼朝に接近しては切り捨てる。すべては後白河の掌の中のゲームの持ち駒であるかのようだ。一方で信仰に厚く、遊びごとを好み、今様(当時の流行歌)を集成して「梁塵秘抄」を編纂したほか、朝儀の復興にもつとめ「年中行事絵巻」を作らせた。
たんごのつぼね。後白河法皇の寵姫。夫・平業房は後白河の近臣だったが、清盛による院政停止の際に解官・処刑された。夫の死後法皇の傍に上がる。以後法皇に適切な助言や示唆を与え、朝廷の地位を支え続けた。後白河が唯一弱音を吐ける相手でもある。
つづみほうがん・たいらの・ともやす。後白河法皇の側近。鼓の名人であったことから「鼓判官」と呼ばれた。
もちひとおう。後白河法皇の第二皇子。源頼政とともに反・平家の兵を挙げるが敗死。しかし彼の発した平家追討の令旨(りょうじ)が全国の源氏を動かすことになる。
幼い頃両親を亡くし鞍馬の里の農家の夫婦の養女になった。義経が鞍馬寺に入れられた頃に出会う。自分を遊女に売り飛ばすような酷い兄がいるが、その兄が義経をが襲ったことを知って、うつぼは心から兄を憎み義経への忠誠を誓う。その想いはやがて恋心に変わるが、それは終生報われることはなかった。それでもうつぼは義経につかず離れず、最期まで見届けることになる。
だいにちぼう・しゅんけい。うつぼの兄。幼くして両親を亡くし仏門に入れられたが、今や破戒僧。平家に雇われて、仲間の喜三太たちとともに義経を襲う。
おとく。京七条で、鎧武具に使う組紐などを商う老女。政変や夜盗、火事や飢饉や、魑魅魍魎が跋扈する都でしたたかに生きている。武具の商いから知れる武家の動向、そして昔面倒を見ていた孤児たちからの噂話。徳に集まる情報は多岐に渡る。清盛の幼い頃を知るほどで、清盛にもずけずけとものを言える関係である。今回のドラマは、時空を超越したかのような彼女の目線によるナレーションで語られる。
ごたり。京の孤児。お徳に拾われ、働き口の世話を受ける。洛中を動き回っていたせいで、おのずと情報収集能力も備えた。また耳がよく、囁く声も聞き逃さず、口の動きだけで何を言っているか読むことも出来る。耳が弱り、またあまりに民の声が届かなくなった清盛を心配したお徳は、五足を「耳役」として清盛に差し出す。清盛の死後まもなく、彼の遺志を遂行する途中で命を落とす。
すざくのおきな。普段は好々爺然として、お徳や烏丸の押す押し車に乗っている。その実体は京を牛耳る闇の世界のボス。
からすまる。京の町の孤児で、お徳に育てられ、今ではお徳や朱雀の翁を手伝っている。感情を滅多に表に出さないのが五足(ごたり)とは対照的。
かくにちりっし。鞍馬寺の僧。平家によって仏門に入れられた幼い牛若の精神面を育てることになる師。牛若はやがては寺に留まらず源氏の復興を担う者と感じつつ、鞍馬に送られてきた牛若少年を厳しく、時に優しく指導する。
吉次の女。もとは借上という金融業。吉次と知り合ってからは、吉次の京での仕事も手伝っている。吉次が不在の時は何人もの雇い人を動かす女傑。
ふじわらの・ひでひら。奥州藤原氏三代目の当主。平泉を拠点として陸奥・出羽諸国に強力な支配を展開した。それはいわば独立国家とさえ言えるほどで、源平争乱の際も双方からの誘いにも動かなかった。若き義経を保護し、彼の青年期の人格形成を支えた「第三の父親」。義経追討令が出たのちも義経をかくまったが、秀衡の死により義経も奥州藤原氏も滅びていく。
かねうり・きちじ。奥州平泉の砂金商人。藤原氏の領地の砂金や鉱石、特産品を売買することで藤原氏の財力確保の一端を担う。奥州にとどまらず京、奈良、西国と各地にその人脈は広い。清盛の福原遷都の動きに平家が交易を独占するのではと危機を感じ、対平家抑止力を求めて源氏に接近する。吉次が目をつけたのは鞍馬山に送られた義経であった。
ふじわらの・やすひら。秀衡の次男で、奥州藤原氏四代当主。義経が平泉に来た当初は敵視していたが、ある時義経に命を救われ、以来心を許しあえる関係となる。しかし父の死後、兄弟ともに義経を守れという父の遺言と、義経を差し出せという頼朝の命令との狭間で大いに揺れる。
ふじわらの・くにひら。秀衡の庶長子。西木戸太郎と称す。秀衡は國衡とその異母弟泰衡に、源義経を主君と仰ぐよう遺言したが、泰衡による義経謀殺を傍観したという。
ふじわらの・ただひら。秀衡の末子。義経を最初敵視していたが、歳が近いこともありやがて同調する。
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[ 129] 大河ドラマ「義経」…大河ドラマ義経の情報
[引用サイト]  http://www.nhk.or.jp/drama/html_news_yoshitsune.html

登場人物が多く、しかも名前が似ているので、タレントに置き換えるなどして理解する。
○勝村正信、鶴見辰吾、阿部寛は渡哲也の子、賀集利樹、小泉孝太郎は勝村正信の子
様々な場所を舞台とし活躍するのは義経の特徴のひとつです。今どこで何をやっているのか、しっかし彼の足取りを追いましょう。
天才戦術家・義経がなぜ悲劇的な最期をとげたのか?その理由を探ることがこの物語の最大の焦点となります。そのためには、先入観をすて、義経の行動や考え方をゼロから客観的に分析し理解する必要があります。
まずは、全体を把握し自信をつけてください。段階で学習できる構成になっています。
ここは大事な基本となりますので大河ドラマを意識しない一般論で説明しています。
基本と照らし合わせながら放送をお楽しみください。参考資料も用意してあります。
香取慎吾の近藤勇、滝沢秀明の源義経と2年続けてジャニーズを主役に抜擢しましたが、アイドルのイメージに配慮したせいか、人間臭さというか泥臭さというか、そういった部分はことごとくカットされ、双方とも「やさしさ」ばかりが目立つキャラクターに仕立て上げられたような気がします。
まあ、あくまでもドラマなので、歴史を忠実に再現する必要はないのですが、さすがに2年も続くと「おなか」がいっぱいになってしまいました。
2006年の大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊も原作は不恰好かつ不器用な男だけに、上川さんがどのように演じるかある意味楽しみです。
とりあえず、昔、頼朝と義経という兄弟がいて、義経は頼朝の圧力で殺されたということだけ理解したら先に進んでください。
予習の仕上げです。出来事の説明は、なるべく文章を用い読めるよう作ってあります。
ドラマに何ら関係ありませんが、登場人物の特徴がわかってきたら勝手にキャスティングなどして楽しみましょう。
どのキャスティングの義経を見てみたいのかアンケートも実施しています。
年表・人物相関図・キャスト解説の計15ページからなる手持ち資料です。プリントアウトしておけば、レッスン中わからないことがあっても調べることができます。
Readerをダウンロード&インストールすればご利用になれます。(最近のパソコンならば既にインストールさてれいるとは思いますが)
義経が弁慶に出会った時期など、複数説がある場合、ドラマではどちらの説を採用するのかチャックしながらレッスンにのぞみましょう。
ドラマでわかりにくかった点や補足事項などを各放送のシナリオに沿ってまとめてあります。

[ 130] 【オールイン義経】NHK大河ドラマ「義経」に関する通史、年表、登場人物、みどころを解説
[引用サイト]  http://www.webvider.com/yoshitsune/

義経(よしつね)は、2005年1月9日〜12月11日に放送された44作目のNHK大河ドラマである。原作・宮尾登美子。脚本・金子成人。主演・滝沢秀明(タッキー&翼)。
平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の愛妾・常盤御前は、三人の子を連れて京を逃れるが実母が平家方に捕らえられている事を知り、清盛に出頭する。清盛により、末子・牛若(後の義経)との生活を許された常盤であったが、清盛との関係がその正妻・時子の知るところとなり、常盤は清盛の元を去り、牛若は鞍馬寺に預けられる事になった。
清盛を実の父と信じて疑わず、清盛が目指そうとする「新しき国」に淡い憧れを抱いていた牛若は、自分がその敵である義朝の子である事を知り、愕然とする。やがて逞しい青年へと成長し、奥州の藤原秀衡のもとへ身を寄せた義経は、兄・頼朝のもとへ参じて源平の戦いに身を投じる。
しかし、清盛をはじめとする平家方を敵と割り切る事ができない。そして同じ源氏である木曽義仲と戦わねばならない葛藤・・・、兄弟としての情を求める義経は武家政権のリーダーとして理を重んじる頼朝と徐々にすれ違っていくようになる。
家族の絆、親子の絆をコンセプトに、疑似家族としての主従の絆、貿易立国の建設を目指す清盛との親子的なつながり、武家政権を樹立するために弟を切らねばならない頼朝の「政治家」そして「兄」としての葛藤と苦悩などを新しい解釈も取り入れて描いた。清盛・頼朝らとの葛藤や義経の想いを描くにあたって「新しき国」との言葉が何度も用いられ、これが物語上でも重要な要素となっている。また老獪な後白河法皇に翻弄される源平双方の悲哀は従来通りで、平幹二朗演じる後白河法皇と夏木マリ演じる丹後局コンビの怪演が異彩を放った。
源義経が大河ドラマの題材となるのは1966年の『源義経』以来2回目で、『源義経』の作者である村上元三が資料提供として名を連ねた。また「源義経」で架空の人物として登場したうつぼが『義経』でも登場(キャラクター設定は別)し、京に住む孤児うつぼを通じた現代の目線からの義経像が描かれた。なお、源平合戦の時代が大河ドラマとして描かれたのは1993年の『炎立つ』以来となる。
原作が“平家物語”であることもあって、平清盛とその妻時子を中心とした平家一族の描写が丁寧にされたが、義経周辺(義経主従、静御前など)の物語は比較的少なく、淡々と描写された印象が残った。
滝沢の大河出演は『元禄繚乱』(1999年・吉良義周役)以来で、主演は初。2年連続でのジャニーズ事務所所属タレントの主演であり、タッキー&翼でコンビを組む今井翼が那須与一役で友情出演した。さらに放送前の2004年11月には、うつぼ役の上戸彩が出演するオロナミンCのCMに滝沢扮する義経(牛若)が登場(2005年4月まで)。東京ドームで2005年3月に行われたマツケンサンバのコンサートでは前年度『新選組!』に主演した香取慎吾扮するカツケンが、松平健演じる武蔵坊弁慶のモノマネをした。
武蔵坊弁慶役の松平健は、『草燃える』では北条義時を演じており、頼朝、義経兄弟にそれぞれ仕えることとなった。それぞれのドラマでも「御曹司!」など同じ科白もある。
静役の石原さとみ(『てるてる家族』)、建礼門院徳子役の中越典子(『こころ』)をはじめ、戸田菜穂(『ええにょぼ』)、高野志穂(『さくら』)などNHK朝の連続テレビ小説のヒロインが多く出演した。他にも重鎮クラスのベテランから、中堅、若手、アイドル、お笑いに至るまで幅広いキャスティングがされた。
また。主演の滝沢、ヒロインの上戸、静御前の石原と主役が創価学会の学会員で占められたのも特徴的である。
メインディレクター・黛りんたろうの独特の美学に基づいた演出は、「時代絵巻」ともいえる美しい映像表現を生み出した。 五条の大橋、壇ノ浦の戦い、鶴岡八幡宮での舞といった物語のクライマックスとなる場面において、それぞれ桜、金粉、紅葉を大量に撒き散らす大胆な演出を試みている。 最終回での「義経が自害した後、持仏堂の屋根から“白く輝く光”が噴き出す」という演出は金子成人との打ち合わせで生まれたという。
第1回の一の谷の合戦のシーンでは「播磨国一ノ谷」とクレジットが出たが正しくは「摂津国」である。再放送では「摂津国一ノ谷」と訂正された。ちなみに、古戦場の西にあたる垂水区との境にある境川が、摂津国と播磨国の国境である。
宮田は既に故人であるため、作品集の中からオープニングタイトルに「黒髪」「中世」などが、エンドタイトルにはその回の内容に合わせて「厳島神社」「静御前」などが使用された。
撮影協力:岩手県江刺市(現奥州市)、茨城県水海道市、群馬県妙義町、沼田市、南牧村、神奈川県三浦市、山梨県小淵沢町(現北杜市)、富士吉田市、京都市、毛越寺、三十三間堂、厳島神社
梶原景時:中尾彬(『新・平家物語』、『炎立つ』に続き平安時代末期を舞台とした作品に出演。『炎立つ』では後白河法皇を演じた)
第1回と最終回は1時間拡大版である。第36回は衆議院選挙特番の為地上波7:15〜8:00の放送である。
2005年12月24日、25日に放送。滝沢が義経と邂逅する新撮映像と主従座談会の一部が番組の前後に追加された。
義経及び周囲の人々の生涯については歴史的資料及び軍記物語などに残された記述にそれぞれかなりの相違がある。そこで、このドラマで採用された解釈とそれとは異なる歴史的あるいは物語上の解釈とを以下にまとめる。全体としてはドラマで採用された解釈が歴史学会の通説に即している場合もあるが、通説に矛盾した後世の創作と考えられる解釈をとっている場合もある。なお「うつぼ」などの架空の登場人物については省略する。
師匠は鞍馬天狗。法眼は陰陽道の法師で伝家の兵書『六韜』の持ち主で人間。義経の師匠ではない。義経は法眼の娘と通じて『六韜』を盗み学んだ。(『義経記』他)
重盛が制止したが清盛が報復した。(『平家物語』)。ただし、この場合ドラマの方が史実に忠実。平重盛参照。
平治物語では近江国蒲生郡(今の竜王町)鏡の宿で元服、『義経記』では頼朝の母の実家尾張国熱田神宮で元服。
美女が小舟で現れ、那須与一が扇を射落とした。その後平家の武者が与一を褒め称えて舞を舞ったが、義経の命令により与一が武者を射殺した。激怒した平家は再び源氏と戦う。(『平家物語』)
頼朝の命で土佐坊昌俊が義経を襲った事を聞いた後、叔父の源行家らとともに京で頼朝打倒の旗を挙げた。源義経参照。
知盛の亡霊を退散。難破の後吉野へ。師匠の鬼一法眼が義経一行を助ける。吉野で静が別れを申し出た為、静と別れる。
吉野で弁慶が静と別れる事を提案した為、静と別れる。その後知盛の亡霊を退散。(能の『舟弁慶』)[6]。義経の師匠は登場せず。[7]
静を京に送る役目をまかされて義経と別れたが、静を鎌倉方に奪われてしまった。静を取り返すべく奮戦して死ぬ。
吉野で義経の身代わりとなって踏み止まり、義経一行を逃がす。都に潜伏した所を鎌倉側に発見され奮戦したのち六条堀川で自害。(『義経記』)
鎌倉方に捕らえられて和田義盛の妻になってその子を産み、義盛の挙兵による敗死後は尼僧になったという説がある(『源平盛衰記』)[8]
ドラマの描写は歌舞伎の『勧進帳』に基づいているが、『勧進帳』のもとになった『義経記』では単に関守が騙されただけであり、義経であることが見破られる記述は越中の如意の渡でのことになっている。
また、源平物では必ず登場する平敦盛や平教経などが登場せず、敦盛と熊谷次郎直実との一騎打ちは描かれていない。 屋島の合戦では「弓流し」のエピソードが描かれなかった。 主要な登場人物でも、史談で有名なエピソードが描かれなかったケースとして、梶原景季が挙げられる。景季はドラマの早い段階で登場して義経主従と関係していたが、その最も有名なエピソードである宇治川の戦いにおける佐々木高綱との先陣争いが省かれ、鉦を演奏していたとのエピソードがある鶴岡八幡宮での静の舞のシーンにも登場しなかった。
^ 今日ではこの遺言の存在自体は当時の武家の慣習からして文学的創作ではないかと歴史学上疑問がもたれている。
^ 『平家物語』は、維盛の息子・六代が斬られて平家の血筋が絶えることで物語を終えるが、この設定では源氏の滅亡後まで平家の血筋が残されたことになる。また、ドラマでは触れられてないが、承久の乱後に後堀河天皇の父親として院政を行った後高倉院が実は安徳天皇だったことになる。
^ ちなみに、歌舞伎の義経千本桜でも安徳天皇が実は生きていたという説を取っているが、ドラマと違い、どうやって生き残ったのかは不明。
^ 能の『鞍馬天狗』では、義経の師匠である鞍馬天狗が後に義経を助ける事を約束しているので、ドラマの描写はあるいはこの影響かもしれない。
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[ 131] 義経 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%B5%8C_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

この項目では河内源氏の武将について記述しています。その他の用法については源義経 (曖昧さ回避)をご覧ください。
源 義経(みなもと の よしつね、源 義經)は、平安時代末期の河内源氏の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。本姓は源氏。家系は清和源氏の一支流 河内源氏の棟梁 源頼信の流れで代々東国における武家の棟梁を輩出した家柄。仮名(けみょう)(輩行名)は九郎、実名(諱)は義經(義経)である。
河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
清和源氏の流れを汲む河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前は九条院の雑仕であった。父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄今若、乙若とともに大和(奈良県)の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と2人の兄と母の助命の許しを得た。
後に常盤は公家で院近臣の一条長成に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時鞍馬寺(京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。そして、11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知った。鞍馬山の牛若丸伝説(鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院へ僧や僧兵として落ち延びた源義朝の郎党たちであろう)は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。
遮那王は成人するに至って父を滅ぼした平家に対する復讐の念を抱き、16歳の時に鞍馬寺を出奔する。自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服したとする。(『平治物語』では滋賀県竜王町で元服したとある)儀式は熱田神宮にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名(じつみょう)を義経とした。藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。
治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信、佐藤忠信兄弟等およそ80騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。
平氏を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永2年(1183年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永3年(1184年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を討ち取り、頼朝の代官として入京した。
この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、鎌倉軍は一ノ谷の戦いで平氏軍に大勝する。『平家物語』『源平盛衰記』では、この戦いで義経が鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて、一ノ谷の平家本陣を奇襲し源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『吾妻鏡』でも義経が精兵70騎で鵯越から一ノ谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。
一ノ谷の合戦後の元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、そこに任官を願っていた義経の名は無かった。8月6日、義経は頼朝の推挙を得ずに後白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡り、平氏を包囲する遠征に向かう。9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。
範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利し、ついに平氏を討ち滅ぼした。宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平家から取り戻した鏡璽を奉じ京都に凱旋する。
『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている(ただし、よく義経の卑怯な戦法として語られる水夫と船頭を射殺した話は、『平家物語』でも義経が命令したという場面はなく、また史料にも無い話である)。
元暦2年(1185年)4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状であり、その中で義経は次のように記している。
「私は兄上の代官として、朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、父の仇を討って名誉を回復しました。当然賞賛されるべき所を、思わぬ讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく涙にくれております。生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まることはありませんでした。諸国を流浪し所々に身を隠し、身分の低い者に仕える事もありました。しかし機は熟し、平家一族の追討のため、上洛し木曾義仲を誅し、平氏を傾けるため、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも厭わなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるがために他なりません。五位検非違使に補任されたことは当家の名誉であり、希なる出世です。他に何があるでしょうか。これを兄上に取り次いで下されば、貴殿(大江広元)は必ず一門と子孫を栄えるでしょう。」
義経が頼朝の怒りを買った原因は、許可なく官位を受けたことのほか、平家追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、頼朝への子細の報告もなく独断専行で事を進めたこと、範頼は九州、義経は四国の支配を命じてあったにもかかわらず、義経が壇ノ浦の合戦後に範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事による。そして平家追討の立役者である義経の戦功が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。
特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた(御門葉)。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。
結局義経は鎌倉へ入る事を許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。
10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、これを梟首し同じく頼朝と対立していた叔父の源行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼って京を落ちた。義経一行の船団は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。
難破した義経は郎党や愛妾の白拍子の静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族、寺院勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝が、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。
京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃国を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。
平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の頼衡を殺害。そして閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。
泰衡は義経の首を差し出し、先に殺害した弟頼衡と同じく義経派であった別の弟忠衡も殺し、頼朝に助命を願い出る。しかし鎌倉は奥州追討に乗り出し、逃亡した泰衡は家人に裏切られ殺害された。
義経の首は43日かけて、泰衡の弟・高衡に護衛されて鎌倉に送られた。首は、美酒に浸けて運ばれたものの、折からの暑気で腐敗し、誰の首かわからなくなったという。このことが義経不死伝説(後述)を生む一因となっている。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。
伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、その際に使われたという首洗い井戸が残されている。また、栗原市栗駒沼倉の判官森に胴体が埋葬されたと伝えられる。
義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父為朝が鎮西八郎という仮名(けみょう)であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。
源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。
妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身の為に差し出したとされる時忠の娘がある。子には、奥州への逃避行中に誕生し衣川館で死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜に遺棄された男児、伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)の妻になった女子の3人が確認される。
義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。義経は2年近く筆まめな京都の貴族社会と接しているが、容貌については良くも悪くも書かれたものはない。ただ、身長に関しては大山祇神社に甲冑が奉納されているのでこれを元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。書籍などでよく掲載されている中尊寺所蔵の義経画像は弁慶と対になっており、『義経記』で藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものである。戦国時代、もしくは江戸時代の作とされ、本人の実際の姿を描いたものではない。
義経の死後まもない時代にまとまったとされる『平家物語』では、義経の風貌に関して平氏の武士、越中次郎兵衛盛嗣が「九朗は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九朗は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べられている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである。この盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。
義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と描写されている。その一方で平家物語をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』には「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である。」との記述がある。(『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く)『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている。同書では母親の常盤は絶世の美女とされており、容姿が重視されて源義朝の側室となった。一方、父親の義朝は苦みばしった美男子と伝えられる。
江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。
伝説の類を省いた史料のみでまとめた人物叢書『源義経』(吉川弘文館)の著者・渡辺保氏は、義経について「戦はたしかに強くて巧かった。一ノ谷、屋島、壇ノ浦で大功を立てた事は言うまでもない。機敏ではあったが猪突ではなかった。万策を講じた上での決戦である。一ノ谷の合戦後、鎌倉の瀬戸内海の平家に対する大包囲作戦は、範頼軍に属した東国武士の厭戦的傾向を呼び、軍を停滞させてしまった。そこで都に待機させられていた義経の機敏な行動がなければ、鎌倉の計画は決して順調に運ぶことは出来なかったのである。
人柄については、率直であり一本気である。当時の武力一途な鎌倉武士に対し、義経には協調性があり柔軟性があり、人に愛される素直さを持っていた。同じ時代を生きた九条兼実が書き残したように、「勇と仁」においては当代抜群の人物であった。果敢な用兵作戦を行って戦功をあげ、戦後処理にあたっては軍規を厳しくして敗者にも情義ある扱いをする。しかし、当時の複雑な公武の間で賢明な立ち廻りは出来ないし、兄頼朝に代わって天下を支配しようとの画策も抱き得ない。功を賞されれば喜んで受け、官位は一門の名誉と単純に思い込んで深謀には及ばない。動作は敏だが読みは浅かった。「智」においては、良かれ悪しかれ欠けたところがあった。
このような義経の性格が、政略好きの貴族だけでなく、静御前や武蔵坊弁慶の前身となった僧侶達から愛されたのであり、またそれ故に、頼朝にも貴族にも法皇にも利用されるだけ利用され、結局自ら墓穴を掘る事になった。そこに義経の悲劇があった。」と評している。
源九朗義経が確かな歴史に登場するのは、義経が22歳の冬から31歳の夏(治承4年(1180年)10月〜文治5年(1189年)閏4月)までのわずか9年間である。そののち何百年の間にあらゆる伝説が生まれ多くの物語が作られたが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。
奥州にいた義経は頼朝が伊豆で挙兵した事を知ると、すぐにでも進発しようとするが秀衡は強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立った。秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。(『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日)
養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経は「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。(『吾妻鏡』)
寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞する為、少数の兵で都に戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚である為、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である。」と強行に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。(『玉葉』)
元暦2年(1185年)2日16日 屋島へ出陣する義経を引き留める為に、宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか。」と訊くと、義経は「特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う。」と答えて出陣した。『吾妻鏡』は「非常に強い兵士と言うべきか」と書いている。18日、船で海を渡ろうとするが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。風雨の難を顧みるべきではない。」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
壇ノ浦の合戦後に届いた梶原景時の書状に「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにも関わらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承ってるものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います。」とあり、これを受けて「義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている」と書かれている。その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「見る者皆涙を流した」とあり、義経への批判と哀惜の両面が伺える。(『吾妻鏡』)
義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録に「源延尉(義経)は、尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物」とある。
頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにも関わらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい。」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。(『玉葉』・『吾妻鏡』)
追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れる為、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。頼朝派の公家・九条兼実は、義経の平穏な京都退去に対し「都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか」「義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものである。嘆美すべし、嘆美すべし」と褒め称えている。
優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき、判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い)というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。
義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川合戦での弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。
また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。
義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする『義経=ジンギスカン説』である。
この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』(偽作者は日本人)が珍本として喜ばれたりした。
このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は、当時中国の属国としか見られていなかった日本の自己主張のために、ケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。
大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。小谷部の著書は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになった事によるものである。
こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられる事はなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、このジンギスカン説も領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の気運と共に生み出された時代の産物であった。(伝説の詳細については義経=ジンギスカン説を参照)
菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―」(角川選書、2005年)で、源義経について以下の説を述べている。
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らない。
鎌倉政権内部には、発足当初から「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。東国御家人は親京都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。このことが、親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者であった義経の失脚を招いたのである。
また、佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。
元木泰雄『源義経』(吉川弘文館、2007年)は、従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に付き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。
挙兵当時の頼朝は、所領の拡大にのみ関心を持ち、自分本位の合戦をする東国武士たちによって担がれた存在にすぎなかった。それゆえ、義経は、ごく限られた郎党を率いて参じたにすぎないとはいえ、頼朝にとって自らの右腕ともなり得る弟の出現は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。
義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一の谷の合戦も、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。
合戦後の義経は、京に戻り、疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。
頼朝は、戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し、自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き、京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。
義経は頼朝追討の院宣を得たにも関わらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちにも義経は不信を与えていたためであった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。
退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
義経千本桜(人形浄瑠璃・歌舞伎)作者「二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳」成立 - 延享4年(1747年)
宝塚歌劇団『この恋は雲の涯まで』(作:植田紳爾)、『花のもとにて春-ある日の牛若丸-』(作:大関弘政)
『星の王女〜宇宙意識に目覚めた義経〜』(美蕾 Windows XP 2007年 源九郎義経:声: 柿野聖 遮那王:声: プログレス)
カテゴリ: 平安時代の武士 | 鎌倉時代の武士 | 源氏 | 1159年生 | 1189年没

[ 132] 源義経 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C



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