歌合戦とは?
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紅白歌合戦はこの項目NHK紅白歌合戦へ転送されています。その他の用例については紅白歌合戦 (曖昧さ回避)をご覧ください。 NHK紅白歌合戦(こうはくうたがっせん)は、日本放送協会(NHK)が毎年12月31日(第3回までは1月3日)の夜に放送する、紅白対抗形式の大型歌番組。通称「紅白」。会場はNHKホール(1973年から)。デジタル双方向機能対応番組。 国内向けには、NHKの総合テレビ・デジタル総合テレビ・衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョン・ラジオ第1放送で放送される。このうち、アナログ衛星第2テレビではBモードステレオ放送で、デジタル総合テレビ・デジタル衛星第2テレビ・デジタル衛星ハイビジョンでは5.1chサラウンドステレオでNHKホールの臨場感を楽しめる。ラジオ中継では、ステージ上の司会者よりも会場の熱気を実況する中継アナウンサーがメインである。なお、NHK-FMでは放送されない。 海外向けには、NHKワールド・プレミアム(日本時間で翌1月1日の7:20〜11:45(2007年の第58回は7:15〜)にも再放送)、および、NHKワールド・ラジオ日本(地域により数時間遅れまたは後半部分のみの放送だが、2007年以降は東南アジア・アジア大陸地域のみの同時放送となる。)で放送される。また、NHK主体ではないが、海外のケーブルテレビを通じて放送されることがある。 開始時刻は、1967年(第18回)以来長らく午後9時(JST、以下同じ)に固定されてきたが、2部制となった1989年(第40回)から午後7時20分に繰り上がった。その後、開始時刻は年によって午後7時20分から午後8時の間で推移している。第2部の開始は午後9時台、特に1994年以来は午後9時30分に固定されている。 終了時刻は、1962年(第13回)以来一貫して午後11時45分である(総合テレビの場合。放送メディアによって例外もある)。 第1部と第2部の間の5分間(第50・54・55回は10分間)は、その年の最後のNHKニュースを放送する(ただし、デジタル衛星ハイビジョンは別番組となる)。 総合テレビ・BS2・BSハイビジョンはリアルタイム字幕放送を実施(総合テレビ・BS2は中断ニュースも含む)。 その年を代表するアーティストが、女性は紅(あか)組、男性は白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する。 男女混合グループは、男女の人数に関わらずメインボーカルの性別を優先する。例えばEvery Little ThingやDREAMS COME TRUEなら紅組、サザンオールスターズなら白組(メンバーの原由子はソロとして出場する際は紅組で出場)である。 男女のデュエットは基本的に紅組扱いとなる(例外として1978年(第29回)の平尾昌晃・畑中葉子は白組で出場。おそらく、平尾がこのデュエット以前にソロ歌手として白組出場経験があることを考慮したものと思われる。)また、ユニットであるヒデとロザンナも白組から出場した。 複数の男女混合ボーカルグループの場合も紅組の可能性が高いと思われるが、場合によっては枠が空いている組に振り入れられると言うこともあると言われる。(例1972年の第23回に出場した青い三角定規) ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は、各々がそれぞれの組の出場歌手として出場する。1992年(第43回)の堀内孝雄と桂銀淑のデュエットや2003年(第54回)の女子十二楽坊と錦織健、森山良子・BEGIN・夏川りみのコラボレートなど。 美川憲一などのような「女装した男性」は白組から出場するが、2005年(第56回)ではゴリエ(ゴリ)が女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。理由は、実際に歌っているメインボーカルがゴリエ本人ではなく女性(ジャスミン・アレンとジョアン)であるから。逆に、和田アキ子は「m-flo loves AKIKO WADA」として白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。 選ばれる曲は、原則としてその歌手のその年のヒット曲である。ただし、例外も多い。たとえば、森進一は1971年のヒット曲「おふくろさん」を今日まで6回歌っている。薬師丸ひろ子のヒット曲「セーラー服と機関銃」を紅白で歌ったのは本人ではなく桜田淳子だった(1982年・第33回)。その回のテーマに沿った歌が選ばれることも多い。 出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地の南極観測隊からの電報は恒例行事であった。2005年(第56回)には南極観測隊からのメールが紹介された。 勝敗は、ゲスト審査員(タレント・スポーツ選手・著名人など)とNHKホールの観客および地上・BSデジタル放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査方式は回によって異なる。優勝チームが決まると、天井から大量の紙吹雪がステージいっぱいに降り(画面には「紅組又は白組 優勝!!」の字幕スーパーがでかでかと出る)、放送終了まで降り続く。番組初期はステージ中央にくす玉が吊るされ、優勝が決まるとくす玉が割れ、紙吹雪と風船と共に紙テープが降るという演出だった。 番組のフィナーレは、出演者全員で「蛍の光」を歌うのが恒例である。ただし、東京オリンピックを翌年に控えた1963年(第14回)だけは、例外として「東京五輪音頭」が歌われた。 合唱の指揮は藤山一郎が死去する前年の1992年(第43回)まで務めた(1971年の第22回は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年(第8回)まで歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出場記録である。 藤山の死後の1993年(第44回)〜2005年(第56回)まで作曲家の宮川泰が務めた(宮川は1972年・第23回でもザ・ピーナッツの歌唱の際に指揮をしていた)。 基本的に、その年にヒット曲を出した歌手が出場する。かつては、紅白に選ばれることは歌手にとって最高の栄誉であるとされ、現在でも、多くの歌手にとってはなお大きな栄誉である。一方、出場を辞退する歌手も少なくなく(B'z、松山千春、小田和正、宇多田ヒカル、Mr.Childrenなど)、出場経験のある歌手が辞退することもある(サザンオールスターズ、松田聖子、GLAY、L'Arc?en?Ciel、ゆずなど)。辞退理由は明示されないことが多いが、一般的には、内容そのものに魅力を感じないという以外に、拘束時間・出演料などをはじめ希望が通りにくいためと受け取られている。そうした中で、以前は「拒否組」であったフォークの大物などの出場が決まると、そのたびに注目が集まる(1994年(第45回)の吉田拓郎、2002年(第53回)の中島みゆき、2005年(第56回)の松任谷由実など)。 CD売り上げを重視した選考では演歌勢が不利となり、高年層の視聴率を逃してしまうことになるため、現在では芸能事務所に一定の枠で出場を制限するなど調整を行っている。北島音楽事務所もジャニーズ事務所も基本的に2枠程度である。 ジャニーズ事務所の出場枠は、1993年(第44回)以降SMAPとTOKIOでほぼ固定されている。そのためTOKIO以後にデビューしたアイドルはほとんど出場機会を与えられていない。これは2001年(第52回)と2004年(第55回)にSMAPが辞退した時も同様で、TOKIOのみ出場した。1997年(第48回)はデビュー曲「硝子の少年」を大ヒットさせたKinKi Kidsの出場が有力視されていたが、実現しなかった。ただし、ゲスト出演は出場枠に抵触しないため、1999年(第50回)にはV6と共にゲスト出演している。2004年(第55回)では、タッキー&翼の滝沢秀明が審査員として出演した。 モーニング娘。などハロー!プロジェクトを擁するアップフロントエージェンシーの出場枠は紅白常連の堀内孝雄を含めて3枠程度である。そのため、多数のユニットを抱えるハロー!プロジェクトではユニット同士のコラボレーションやソロ歌手を集めたユニットの結成などでやりくりしている。そのため松浦亜弥や元モーニング娘。の後藤真希、藤本美貴は3度の初出場(最多タイ)を果たしている。 以上の理由から、1974年・第25回に渡辺プロダクションが記録した「同一所属事務所最多出場記録」(後述)の更新は困難となっている。 近年は、海外アーティストの招致にも積極的であり、アジア・南米からも出場者が現れている。2004年のRyu、イ・ジョンヒョンの出場は話題になった。 クラシック音楽系の歌手の出場は極めて少数派である。佐藤しのぶ、鮫島有美子、鈴木慶江、ジョン・健・ヌッツォ、秋川雅史が出場している。 毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年(第13回)の調査開始以降での最高視聴率は1963年(第14回)の81.4%(関東地区・ビデオリサーチ調べ、以下同じ)。1980年代前半までは、「お化け番組」「怪物番組」とも称され、新聞社系の週刊誌でも「紅白で歌われる曲の歌詞一覧」といった特集を組んだ。もっとも、近年は裏番組や生活の多様化などにより、視聴率は低落傾向にある。最低視聴率は2004年(第55回)の39.3%である。 紅白への出演は、翌年初頭のアーティストのCD売り上げに少なからぬ影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得した例としては、1986年(第37回)出場の吉幾三の「雪國」(1987年2月9日付)、2002年(第53回)出場の中島みゆきの「地上の星」(2003年1月20日付)、2006年(第57回)出場の秋川雅史の「千の風になって」(2007年1月22日付:クラシックの同チャート1位は史上初)がある。2003年(第54回)に大トリを努めたSMAPの「世界に一つだけの花」は、それまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。 司会者や出場者、曲目などが決定すると、そのつど大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は、NHKニュースはもちろん、民放各局の情報番組でも大きく報じられる。民放の番組で、自局の大晦日特番の宣伝に先んじて紅白報道を行うことも多い。梨元勝によれば、民放に紅白の取材が開放されたのは1981年以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日「アフタヌーンショー」の突撃取材だったという(『週刊朝日』2006年12月29日号)。 舞台袖の通路は、放送終了後にアーティストが大挙するため、正月明けに民放各局のワイドショーで大きく扱われる。この通路は、和田アキ子が翌年の干支の被り物をして通ることでも有名である。 2003年(第54回)と2004年(第55回)ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。 紅白では、歌唱中に視聴者、観客を驚かせるような演出のパフォーマンスがしばしば行われる。小林幸子や美川憲一の、ステージ一と一体化した豪華な衣装は特に有名である(「歴史」の「1970年代〜1990年代」の節を参照)。 番組が生放送であることを利用し、アーティストが制作側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年(第57回)のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後、NHKは打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう、歌番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは、当該の回やアーティストの項目を参照)。 1982年(第33回) - サザンオールスターズの桑田佳祐が、三波春夫をパロディ化した衣装と歌い方をした。「裏番組(を見たい場合)は録画しましょう。」という発言で、賛否両論が巻き起こった。 1985年(第36回) - 吉川晃司が、歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。出番が終わっても退場しなかったため、次の河合奈保子は曲の冒頭が歌えない結果となった。 1991年(第42回) - とんねるずが、パンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。 1992年(第43回) - 本木雅弘が、首に白い液体を入れたコンドームをいくつも巻きつけて登場した。 2006年(第57回) - DJ OZMAがボディスーツを着て出てきて、女性バックダンサーも同様の格好で、全裸に見えたため、「公共放送で、しかも老若男女が視聴する時間帯である事の配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。 NHKホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎年多数の応募が集まるため、抽選となる。 当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚につき2人までNHKホールに入場できる。 これにより、NHKの受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開収録番組の応募(例:NHK歌謡コンサート)で実施されていたものと同様である。 第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に「紅白音楽試合」というラジオ番組が放送された。番組は近藤積(つもる)ディレクターの発案であった。近藤は、剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を製作しようとした。当初は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQが「合戦」の語に難色を示したため、「試合」という名称になったものである。音楽試合ということから、歌以外の出場者も登場し、木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した。童謡歌手・川田正子が歌った「汽車ポッポ」は、もとは「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤ディレクターが作詞者富原薫に依頼して、「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の紅白歌合戦には出場していない)。 当初は1回だけの放送の予定だったが、あまりの好評から1951年以降もタイトルを「紅白歌合戦」と改めて継続されることになる。第1回の白組及び大トリは藤山一郎で、「長崎の鐘」を歌った。1953年(第3回)では、テレビでの実験放送が実施された。当初、第3回までは正月番組として放送されていたが、この年の12月31日には第4回が放送され、テレビでの本格的な放送開始を機に、以降、大晦日の放送が定着した。なお、大晦日の収録・生放送を行った理由は当時年末年始には大晦日しか大規模な会場が開いていなかったことが一因という。また、この第4回から会場に観客を入れての公開放送となった。 会場は、第1〜3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。ラジオ・テレビ同時放送開始(第4回)以降は東京宝塚劇場や日劇・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場などを転々としたが、1973年(第24回)以降は渋谷のNHKホールに固定されて今日に至る。 黎明期の紅白は、映像はおろか音声すら現存しないとされてきたが、愛知県名古屋市在住の一般の男性が1954年(第5回)から録音していたテープが1999年末に発見された。一方、現存する映像は1963年(第14回)が最古である。1962年(第13回)はニュース映画で紹介された映像が残っている。なお1964年(第15回)よりカラー放送となったが、この回の映像はカラー・白黒とも現存しない。1964年を除いた1963年以降の1960年代の現存映像は白黒のみ(1965年はカラー版が部分的に現存している)で所々激しくぶれる。1970年はカラーで現存するが、フィルム映像でとても汚く、一部が欠落している。1971年もカラーで現存するが一部が欠落している。1972年以降の現存映像はカラーで安定している。 黎明期(第9回頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年(第8回)を以て、戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以降、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年(第10回)では、新世代デュオ歌手、ザ・ピーナッツが出場した(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)。さらに1962年(第13回)では、前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。 テレビ視聴率調査(ビデオリサーチによる)が、1962年(第13回)から開始される。翌年(第14回)において81.4%の視聴率を記録する。これは、紅白史上およびビデオリサーチの全統計史上最高のテレビ視聴率である。 美空ひばりは、1963年(第14回)から東京宝塚劇場での最終開催となった1972年(第23回)まで一貫して紅組のトリを務めていた。だが、翌1973年に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕された事が発端となり、全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年(第24回)の紅白も落選となった(その後、1979年(第30回)に藤山一郎と共に「30回記念特別ゲスト」扱いで出場、「リンゴ追分」などをメドレーで熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出場となってしまった)。 1960年代のグループサウンズ全盛の頃、長髪のグループは出場できなかった。1967年(第18回)のザ・タイガースはその例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルーコメッツのみであった。時が経ち、当然ながら長髪は解禁になった。1989年(第40回)にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年(第50回)にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。 沖縄は米国の施政権下にあったため、1964年(第15回)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌年の1965年(第16回)から沖縄テレビがスポンサーをつけるという形で放送を開始した。1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると、その年(第19回)から同局での放送となり、ようやく本土と同じ内容になった。1972年の本土復帰で沖縄県が再発足すると、沖縄放送協会はNHK沖縄放送局となり、同時に、1945年以来中断していたラジオ放送が再開されると、その年(第23回)から、沖縄でもラジオ中継を開始した。 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。 1970年代になると、新三人娘、新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。「若い人の歌う歌は分からない」と高年層から文句が出るようになったのもこれ以降である。1973年(第24回)に初出場が当確と見られていた西城秀樹が、「アクションが激しすぎる」という理由で落選した事は、当時の世相を物語る出来事であった。 公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつては現在に比べてその規制も厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年(第24回)にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年(第29回)にも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(別番組の「レッツゴーヤング」では「真っ赤な車」として歌った)。 視聴率は、1970年代から1980年代前半は、なお驚異的に高い域にあった。1974年(第25回)から9年間白組司会を務めた山川静夫アナウンサーが降板した理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の司会の1982年(第33回)の視聴率は69.9%(ビデオリサーチ、関東)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年(第35回)の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後は、テレビの音楽番組が減るなど、状況の変化もあって、視聴率が大幅に落ち込むようになった。 1989年(第40回)から紅白は2部構成になった。この年に昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが、視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は、視聴率は50%前後で推移するようになる。 1980年代の紅白は、それまでより話題を集めにくくなっていた。この時期、最も注目されたものの1つが、小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年(第36回)の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌1986年(第37回)の「別離(わかれ)」ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年(第42回)の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林および美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる。 1981年(第32回)から、これまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場者は、舞台の後ろから入場行進をするようになった。また、応援合戦が少なくなり、出場者の歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった。1980年代半ばあたりから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。1991年(第42回)から入場行進、優勝旗返還、選手宣誓が省略され、またそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった(現在は別スタジオにて、生の映像を見ながら演奏している)。このため、現在の紅白は「歌合戦らしさが失われている」とよくいわれる。2002年(第53回)ではオーケストラが小規模ではあるが、久しぶりに表舞台で演奏した。 1970年代までオープニングの入場行進で流れていた「乾杯の歌」(ドイツ民謡、アメリカ・メイン大学学生歌、別名:「スタイン・ソング」)が演奏される回が少なくなっていった(1980年代以降、入場行進で流れていたのは第31・32回および36〜38・40回のみ。なお第47・48回のオープニングでは「乾杯の歌」のアレンジ版、第51回では1フレーズのみ流れ、近年は司会者および出場歌手発表時の記者会見で流れるのみである)。 1990年代には、小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば1996年(第47回)の出場者のうちTRF、安室奈美恵、華原朋美、globeらが「小室系」の歌手であった。 21世紀の紅白は、国民の生活様態の多様化などに加えて、BSでも見られることなどから、地上波放送の視聴率が減少傾向にある。演歌歌手の出演数が半分以下になったため、演歌ファンの中には、演歌や懐メロ中心の裏番組「年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)を見る人も増えている(BSジャパンでも同時放送されているため日本全国で視聴可能)。また紅白の全盛期を過ぎた90年代は比較的J-POPの旬なアーティストが積極的に出演していたこともあり、視聴率は50%台をキープする安定期に入っていたが、2000年代になると、J-POPの旬なアーティストすら紅白を避ける傾向にあり、全盛期を過ぎたアーティストやさほどCD売り上げや知名度がないアーティストまで出演するようになり、近年40%前後へと視聴率が再び低下している。 紅白の出場依頼を断る歌手も依然として多い。比較的キャリアを積み人気も一定以上になった歌手は、もはや紅白に関心を示さず、自身が主催する「年越しライブ」を行うことも増えつつある。演歌歌手も「年忘れにっぽんの歌」への出場に目標を変える傾向が強くなっている。 一方で、モーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未らエイベックス勢、aiko、氣志團、ORANGERANGE、中島美嘉など、紅白に好意的な歌手も増えている。演歌歌手は、紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い。さらに、中島みゆきや松任谷由実など大物歌手が初出場するなど、大晦日の一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。 SMAPは、2003年に大トリを務めた。グループとしては史上初、ポップス歌手としては25年ぶりだった。しかし、翌2004年には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年には2度目の大トリを努め、視聴率上昇に大きく貢献した。 2001年の第52回から2004年の第55回までは、当時の海老沢勝二会長の強い意向によりNHKアナウンサーが全ての司会を担当した。 2004年には、紅白も担当したNHKプロデューサーが5千万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、翌2005年(第56回)には「スキウタ」アンケートを実施し、その結果を参考に曲目を決めるなどの試みが実施された。視聴率は一応下げ止まりを見せたものの、視聴者の理解を真に得られるかどうかは、なお今後の取り組みにかかっている。 2006年以降の元日、総合テレビでは紅白終了の40分後に『年の初めはさだまさし』が放送されている。さだ以外の出場歌手の中には、このスタジオに乱入する者もいる。また、さだはこの番組で爆弾発言をすることがあり、紅白の視聴者を他局へ逃げさせない工夫となっている。 2007年から2009年(第60回記念)までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年はクイズ企画「紅白検定」が行われる予定。 ?〜1962年 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。 1963年・1964年 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のNHK芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。 1965年〜1968年 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会者がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。 1969年〜1980年 得点集計センターのオペレーターが、電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両チームの得点を集計する。その後、特別審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。 1981年(第32回)から客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色を団扇で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(1986〜91年は行われず)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。団扇の得票数をボールの個数に置き換え、特別審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。 なお、日本野鳥の会がこれを担当したのは1981〜85年と1992年のみであり、1993〜2002年は麻布大学野鳥研究部が担当している。日本野鳥の会および麻布大野鳥研究部によると、紅白用にわざわざスケジュールを空けているという。 2002年から客席審査員(2002年は観客の一部、2003年は観客全員)がボールを使う投票方式となった。これはNHK総合テレビの人気番組「爆笑オンエアバトル」の方式によるものである。 また2002年からは、デジタル放送(2002年からはBSデジタル放送、2003年からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった。 2005年には審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてNHKホールに招待された。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける「ポップジャム」のブレイクレーダー方式が用いられた。 2006年からワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、この回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、特別審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換える形となった。 最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個づつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。 「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。 2007年も前年の方式が踏襲されるが、「ケータイ審査員」は50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となる。 ジンクスとして前年優勝の紅組司会者が翌年も司会をした場合、連勝した事がない。過去に中村メイコ・江利チエミ・佐良直美・黒柳徹子・和田アキ子・三田佳子・上沼恵美子・久保純子アナウンサー・有働由美子アナウンサーが紅組優勝の翌年も連続で司会を行っているが、すべて敗れている。ちなみに佐良直美・黒柳徹子は2度連勝のチャンスがあったが2回とも失敗している。ただ連続ではないが水の江滝子は2勝している。また、ジンクスとしては他にも、女性アナウンサーが総合司会を担当すると必ず紅組が敗れると言うものや、放送年か放送前年に大河ドラマか朝ドラに主演・出演した女優・タレントが紅組司会をすると敗れると言うものがある。ただ、こちらも例外として、86年の大河主演の三田佳子は89年に司会をした際は優勝している。 総合司会のうち第18回までと、第25回の土門・中江両アナウンサー、第34回のタモリ、第45回の宮川アナウンサーは厳密には「進行役」という名義の下で出演した。 第56回については、当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表された。ただし実際の放送では仲間由紀恵が紅組歌手、山本耕史が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのもんたは実質上生放送のすべての進行を統括する総合司会的な役割、山根アナウンサーは進行役的役割という形で役割分担がなされた。上記の表では、実質的な役割に従って氏名を記載した。 以後2003年・第54回、2005年・第56回の森山良子・直太朗親子まで「歌手」としての親子同時出演はない。ただし片方が「歌手」としての出場は、1974年・第25回の小坂務(指揮)・小坂明子親子の例があり、同一の曲での親子共演(小坂明子の曲を小坂務が指揮)が実現している。同一の曲での親子共演は2005年・第56回の森山良子・直太朗親子で実現している。 ザ・ピーナッツは兄弟・姉妹歌手としての紅白最多出場記録並びに兄弟・姉妹での最多連続出場記録をどちらも通算16回の記録をも残している(一括りのグループとしての初出場(下記参照)の記録もある)。なおこの記録は第57回現在も破られていない。また兄弟・姉妹同時出演はその後数組(こまどり姉妹などが)登場している。最も代表的なのが由紀さおり・安田祥子姉妹。ザ・ピーナッツの次に兄弟・姉妹での同時出演回数が多い(通算10回の同時出場)。また白組での最多同時出演は鳥羽一郎・山川豊兄弟および藤井郁弥・尚之兄弟(チェッカーズ)の通算9回。 紅組では岩崎宏美・岩崎良美の姉妹がソロで別々の曲で出場を果たし(1980年岩崎宏美「摩天楼」、岩崎良美「あなた色のマノン」)、その記録は以降破られていない。 この年に結婚。なお入籍前にも1979年・第30回で桑田佳祐、原由子の同時出演はあった(この際も同じサザンオールスターズの一員として)。なお沢田研二と伊藤エミ(ザ・ピーナッツ)、ヒデとロザンナ、チェリッシュ、ハイ・ファイ・セット(山本俊彦・潤子)などは初共演時はまだ夫婦ではなかった。また片方が「歌手」でなければ1971年の第22回で坂本九がこの年に結婚した妻で女優の柏木由紀子と共演した例がある。この回では前川清(内山田洋とクール・ファイブ)と藤圭子の夫婦(当時)の競演も決定していたが、前川清の急病により実現しなかった。 それまでも、男女混合グループのヒット曲が出場曲になっているが同時の出演は認められておらず、女性ボーカルの場合、紅組で単独出場したり、男性達のみで白組に出場した時は男性ボーカルが女性ボーカルのパートも歌っていた。 単独名義では欧陽菲菲(1972年・第23回)。また、日系人を含めればジェームズ繁田(1957年・第8回)。 両組を通じて。また、同時に「トップ・トリの両方を務めたグループ」としての単独記録も持っている(トップは1992年・第43回)。 当初ソロとして自身の持ち歌を歌うのみの予定だったが、母・良子がソロで歌う予定だった『さとうきび畑』で共演が決定。 2005年・第56回では松浦亜弥がソロおよびDEF.DIVAとして、そのDEF.DIVAの安倍なつみ、後藤真希、石川梨華がモーニング娘。にも参加して歌っていたが、同回は松浦、D.D、娘。が同じコマ内に登場するパッケージでの出場であったため、ここでは参考記録としての紹介とする。なお、2006年・第57回では藤本美貴がGAM→モーニング娘。として同じ形で登場した。 ここでは、種々の数値的な記録を集める。「最高記録」の名で一括するが、「最年少出場者」など少ないことで記録となっているものも含む。 この項目「NHK紅白歌合戦」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。 ソロではオユンナ(15歳)(1990年・第41回)。森昌子、松浦亜弥、弘田三枝子、山口百恵も15歳で初出場だが、誕生日の関係でオユンナが最年少になる。 複雑な経緯を辿ったグループなのでデビュー時期には諸説あるが、ここではいわゆる「お馴染みの5人」(いかりや・加藤・仲本・荒井・高木)が揃った1964年9月時点を基準とする。なお、正式な出場歌手でなければ1969年・第20回に特別ゲスト扱いで出場しており、「秋田音頭」「斎太郎節」「ドリフのズンドコ節」をメドレーで歌っている。 最多初出場 … グループとしての参加など、形式上「初出場」となった回数が最も多い歌手(いずれも3回) 木梨憲武(とんねるず、憲三郎&ジョージ山本、野猿・1991年・第42回、1996年・第47回、1999年・第50回) 後藤と松浦は、後浦なつみとして(2004年・第55回)初出場が決まっていたが、安倍なつみの出場辞退があったため、最多初出場新記録(4回)は幻となった。 また、1999年の後藤と2003年の藤本において、グループとしてのモーニング娘。自体は初登場ではないが、後藤と藤本の個人記録としてここでは扱うものとする。 『津軽じょんから節』三橋美智也(1975年・第26回)、金沢明子(1979年・第30回)、岸千恵子(1988年・第39回)、香西かおり(2002年・第53回) 『花〜すべての人の心に花を〜』喜納昌吉(1991年・第42回)、石嶺聡子(1995年・第46回)、由紀さおり・安田祥子(2001年・第52回)、夏川りみ(2006年・第57回) 『津軽じょんから節』は1984年・第35回でも細川たかしが歌っているが応援合戦の演目であるためここでは対象外とする。 イレギュラーな形も含めると、同じくモーニング娘。の2005年・第56回登場時、当時の正式メンバー10人にOG9人が加わった計19人でのパフォーマンスが最高となる。 一般的にはコアメンバー&ダンサーチーム「シュークリームシュ」が正式メンバーとして認識されており、2006年の再結成においてもそのスタンスを取っているが、1995年から1997年の解散時まではホーンセクション「BIG HORNS BEE」およびサポート陣も区別せずカウントしていたため。 黒柳、佐良はそれぞれ4年連続(黒柳:1980〜1983年、佐良:1974〜1977年)で紅組司会を担当しており、歴代紅組司会の連続担当記録としても最多である。 宮田は白組司会以外にも紅組司会(1955・1956年)、総合司会(1968・1969年)も担当しており、通算司会担当回数は15回を数える。また紅組・白組・総合の「グランドスラム」を達成した唯一の人物であり、タレント・歌手が司会に起用されるようになった1986年以降、2〜3年周期で司会が交代する慣例がある近年の白組司会の起用法や、女性の司会者を置くことが当然の鉄則となっている紅組司会の起用法を勘案してもこの記録は今後も破られる可能性はかなり少ないと考えられる。 紅白合わせて10組の歌手を出場。(紅組:アグネス・チャン、梓みちよ、天地真理、いしだあゆみ、小柳ルミ子、ザ・ピーナッツ、白組:内山田洋とクール・ファイブ、沢田研二、布施明、森進一) 夏川りみ『涙そうそう』(2002年・第53回〜2005年・第56回。このうち2003年・第54回は森山良子&BEGINとのジョイント)。 1952年・第2回大会に出場が決まり、放送当日に会場に向かう予定が交通事故のため出場できなかった。しかし番組スタッフがその代役として越路吹雪を出場させた。 1956年・第7回大会の出場が決まっていながらも、インフルエンザによる風邪のため出演できず、代役も立てられなかった。このため紅組の出場者が予定より1組少ない構成で進行した。このため江利チエミが代理で2曲歌い、雪村の分をカバーした。 2006年・第57回で、中断中のニュース枠(21:25〜21:30)で阿部渉アナウンサーが「次はこの歌から始まります」と絢香の『三日月』を紹介。ニュース枠で「引き続き紅白歌合戦をお楽しみ下さい」程度のコメントは多々あるが、曲へつながるコメントを読むのは初めて。また、半井小絵キャスターによる気象情報が会場のNHKホールから伝えられた。 「○○紅白歌合戦」というタイトルのNHK紅白歌合戦のパロディについては、紅白歌合戦 (曖昧さ回避)を参照。 NHKウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』(NHKサービスセンター 2000年1月) 1945年〜2004年の紅白歌合戦について詳細に言及(1963年〜2004年は視聴者として、特に1980年代以降は候補希望者として)。 この「NHK紅白歌合戦」はテレビ番組に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者 を求めています(ポータル テレビ/ウィキプロジェクト 放送番組)。 |
[ 32] NHK紅白歌合戦 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E7%99%BD%E6%AD%8C%E5%90%88%E6%88%A6
