驚きとは?
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興味を持つ対象の中には、危険なものがあります。これが体の驚きへと分岐します。また、未知の対象の場合には心の驚きへと分岐します。 一口に驚きといいますが、実は驚きには2種類あります。運動プログラムの驚きと、思考プログラムの驚きです。そして、運動プログラムの驚きは恐怖から、思考プログラムの驚きは興味から分岐しています。 驚くと、眉が上がり、額にしわを寄せ、目を見開き、口をすぼめます。この表情は興味と同じく、注意のアピール信号「ここに何かあるぞ」であり、時間的猶予を求める信号「ちょっと待って」です。 驚きの後には、短い行動の停止か、あるいは、びっくりして跳びあがるかの二種類の行動があります。それは驚きの対象の緊急性により決まります。体に直接接触するような場合は跳びあがり、テレビの驚きでは注視することになります。 思考プログラムの驚きは、テレビで有名人が亡くなったとか、ニュースの大事件を聞いたりなどです。動きを止めて対象を注視します。 運動プログラムの驚きは、びっくり箱を開け物が飛び出したり、廊下を歩いていて人が飛び出してきたときなどです。反射的に避けたり、身を堅くして守ります。そして安全になってから動きを止めて対象を注視します。 わたしたちは、つねに自分の回りの環境を予測しながら行動しています。これは、意識的なものや無意識のものも含みます。その予測が誤りであると驚きが生まれます。 予測に無関係だと驚きません。仮説の立てることのできないまったく未知の出来事では、どんなにすごいことでも驚きを感じることはないのです。たとえば、天文学に興味のない人間にホーキングの宇宙論を話しても驚かないでしょう。道を歩いている一般の人に、「ホーキングによると、ブラックホールは自然消滅するそうだ」といっても、ほとんど驚かないと思われます。変な人と思われるだけです。 物事を緊急に特定しようとすることが驚きといえます。自己に無関係なことは緊急ではありませんから驚かないのです。 こうして驚きによって、身を堅くしたり、跳び逃げることにより、身体的損傷を減らします。目を見張るのはよく観察するためです。それにより、原因を推測し、古い知識を訂正できるわけです。 当惑は、戸惑いともいいます。おろおろして狼狽するなかで、行動を停止させ、次に取るべき自己の行動の検索を行っているのです。パターン的な解決策が用意されていないとき、思考することによって解決策を生み出そうとします。 当惑とは、行動が要求される状況での驚きです。ただ驚くだけでなく何か行動しなくてはいけないとき、当惑となるわけです。 状況による分岐。怒りがありながら、周囲の状況により退避するように強いられ、それを自分が受け入れたとき恥が生まれます。 状況による分岐。怒りがありながら、周囲の状況により退避するように強いられるも、それを自分が受け入れず、次には必ず借りを返すと決心したとき悔しさが生まれます。 4番目の基本感情が怒りです。怒りは興味から状況による分岐をした感情です。侵入してくる敵から自己の領域を守る防衛の感情が怒りです。 怒りには特有の表情があります。額の皮膚が引っ張ってしわを寄せ、眉が内側に下がり、あごをくいしばり、唇を上下より押し付けます。「近寄るな」を意味する、相手への威嚇、追放の信号です。 怒りの行動は、相手への威嚇と攻撃です。まるで宣戦布告のようににらみつけたり、実際に殴りかかり喧嘩したりします。その後の闘争に備えて肉体は緊張し、精神も興奮します。 怒りはいろいろな場面で発生します。他人に侮辱されたとき、ばかにされたとき、詐欺にあったとき、何かをしているときにじゃまされたとき、大事で難しい計算をしているときに話かけられたときなどです。 怒りはふつう同じ人間に対して向けられます。ところが、歩いていて石ころにつまずいたときとか、家具の角で体を打ったときでも怒ることがあります。これは、擬人化しているからというより、脳のシステムの簡便さのためと考えられます。 怒りのシステムは次のように考えられます。そのとき自分がしていることが突然の出来事により停止され再開されないとき、障害になるものを除去しようとする行動プログラムを生み出すのです。 脳の中のはたらきは次のようになります。人間は体を動かそうとするとき、意識するより早く補足運動野に反応が現れます。運動のためのプログラムの原型です。それが運動連合野、運動野に移行し、運動プログラムが組まれて実際の運動となります。怒りを起こす出来事があると、運動プログラムは阻止され運動野へ伝わりません。運動が阻止されていることが認識され続けると、前頭前野から扁桃体へ信号が送られ細胞が反応し、怒りを覚えます。 たとえば、道を歩いていて石につまづいたりすると、歩行プログラムが停止させられ、その知覚が扁桃体へ流れ込み、その石に腹を立てるのです。その後、扁桃体から運動野へ信号が流れれば、その石は遠くにけり飛ばされることになるのです。 怒りを感じた人間は、ある程度の恐怖や痛みを忘れることができ、闘争をスムーズに進めることができます。カッとしているときは擦り傷などに気づかないのです。 動物において怒りによる威嚇と闘争が行われるのは、同胞同士に限られます。目的は、テリトリーの防衛、群れの順位闘争、配偶者を巡る争いです。同胞に遭遇して自己の行動が阻止されると、運動や思考の継続的阻止が発生するため、怒りが発生するのです。 テリトリーとは、自分の行動できる領域であり、実際の地面の広さで表されます。また、順位の高い動物はそれだけ自由に行動できます。ですから順位の高さとテリトリーの広さは同じことを意味します。 現代の人類では、土地の広さよりも行動範囲となります。すなわち、怒りとは、自己の生活に必要な領域を守るための本能だということです。 怒りは興味から分岐したと考えられます。興味をひくものにしか怒りは感じないのです。そのため、好きなのに会うとケンカしてしまう恋人同士がいるのです。女性が男性に“大っ嫌い”と高いテンションでいうとき、その女性は嫌悪しているのではなく、腹を立てているのです。 怒りは、自己のテリトリーを主張する、同胞に対するコミュニケーションの一種です。戦争が政治の一つの手段であるといわれるのに似ています。 チンパンジーは、群れのボスを目指して激しい示威行動──大きな物音をたてながら暴れ回る──をしますが、これは怒りの行動かもしれません。 動物の群れ順位闘争は、多くは雄──すなわち、男性のものです。怒りは、平均すると男性に強く現れやすいのです。 怒りは思考や行動の継続的障害の突破行動、すなわち不自由から自由になろうとすることです。そのため、自由を求めて戦って死ぬのは男性であり、女性は現実に妥協して生き抜こうとすることが多いのです。 すべての動物は、食物をめぐって同じ種とある程度競争状態にあるので、ほとんどの動物には怒りがあると考えてよいでしょう。 ぐいぐいとひっぱってくれる男性が好きという女性は多いのですが、その逆に振り回す女性はあまり好まれません。これは、怒りと愛が男女で異なるためです。 カップルがいます。相手の意見を問わずに物事を決め行動すると、相手は自分の意見を撤回しなければならないので、怒りのメカニズムが反応します。しかし、女性が愛する人と一緒の場合、愛しているから自分のためにしてくれていると感じ、怒りより愛が上回ります。さらに、怒りの興奮も愛に交じってより強く愛情を感じることになります。 一般に、プレゼントは男性から女性へ贈ることが多いものです。これは、男性よりも女性に、意表をつくプレゼントが効果的なためです。女性に愛を感じさせることなら、女性の意志を無視しても許されるわけです。 嫁と姑の対立はワイドショーの貴重な話題です。これは、嫁が姑のテリトリーに入ってきてその権限を犯すことになるからです。毎日の食事の味付け、子どもの教育方針、室内の掃除などお互いがそのテリトリーを主張して譲りません。 お互いの仕事をはっきりと分業してテリトリーを分けるか、上下関係をはっきりつけて一歩引く気持ちがなければ、同居は不適当となります。 若い頃はケンカもした熟年の夫婦がいます。このごろはケンカもしないが会話も少ない、まあ平穏な生活です。 ところがある日、夫は妻に唐突に離婚を宣言されて驚くことになります。これがいつのまにか怒りが嫌悪へと切り替わっていたケースです。 怒りは相手を変えようという気持ちなのでケンカになるわけですが、嫌悪は相手を避ける感情なので会話もなくなるのです。熟年夫婦の離婚の問題は、ケンカしているうちはまだまし、何も言わなくなると問題なのです。 子どもの成長過程には、何度か反抗期があります。とかく怒りっぽくなり、何事にも反発するようになります。これは自己の能力が大きさにあわせてテリトリーを広げようとするのに、両親が相変わらずそのテリトリーを占拠しているためなのです。親は今まで通りなのに何を怒っているのかと思い、子供の側もうまく説明できないためややこしくなります。 これは、子供の行動の権限が両親に支配されているため、それを奪い取り自らのテリトリーにしようとしているのです。 現代の子供は、最初からできることが大きいため、大人への成長過程で新たに拡大できるテリトリーが見い出せず、他人のテリトリーを侵食する形になりわがままな人間に育つことがあります。 怒りは、「攻撃しないという攻撃」を生むことがあります。カッとすると嫌になってふさぎ込み何もしない人のことです。実はこれは、怒りを覚えたとき、相手や関連するものを無視する攻撃で受動攻撃というものですが、本人が自覚できていることはほとんどありません。何もしていないのですから、怒っている自覚ができないのです。しかしこれは、たいてい自分自身も損失をこうむる無益なものですから、もしこうした習慣ができてしまったなら、行動療法などで訂正していかなければなりません。 引きこもりする人々の多くは、この受動攻撃の状態にあります。無力感と似ていますが、決定的に違うのは、周囲の指示に従わないことです。本当に無気力なら周囲に逆らわないもので、指示に従わないのは消極的な反抗なのです。 不幸なことに、怒りは現代の生活の邪魔になることが多いものです。動物のテリトリーの防衛では単なるにらみあいのようなものが多く、命にかかわる闘争のようなものは多くありません。人間の怒りも、もともとは相手を倒そうとするのではなく相手への意志表示であったはずです。だから、格闘技を学んだわけでもない素手のケンカは、きわめて非能率で、負傷の程度は知れているはずでした。怒りのプログラムが成立した時点では拳銃で撃ち合ったり、集団で闘争するなどは考慮されていなかったのです。 また、怒りは個人のものなので、公人は怒りから無縁であることが要求されます。おおやけのことを自己と同一化して怒りのもとに判断すると、問題が発生します。怒りには、闘争の集中のためにまわりを見えなくする作用があります。そのまま判断したのでは、多くの失敗を生み出すのです。 人の下に立ち陰から支える参謀として有能だった人物が、トップに立つと無能だったりすることが、歴史上しばしばあります。参謀は責任者ではないため感情から無縁に冷静に判断できますが、指導者は責任者であるため自らの感情に振り回されるためです。 他人の意見を受け入れるには、自分の考えを引っ込めなければなりません。それは大なり小なりある程度、怒りのメカニズムが反応します。執着、頑固、意地っ張りは、怒りのメカニズムが弱く作用した結果なのです。こうした怒りのメカニズムが強いと他人の意見を受け入れることができません。怒りを調整する能力がリーダーには要求されるのです。 現代、怒りは危険なものとなってしまったため、怒らないことが褒められる傾向があります。怒らないで楽しく生きるのがよいという人もいるでしょう。しかし、怒りも大切な感情です。ときには怒ることも必要なのです。怒りを示さない人間は、自己のテリトリーと地位を次々と失うことになります。特になれなれしい人、無神経な人と付き合うには適度な怒りが欠かせないものなのです。自己の問題であり干渉しないでほしい場合には、小さく怒りを示すべきなのです。怒りを示さないと、その人の下の順位と認定されてその扱いを受け続けることになります。 ちょっとした事にすぐ怒るのはよくありませんが、まったく怒らないのも問題なのです。小さな事には怒らないで、大きな事にだけ怒るのでもよくありません。正しくは、小さな事には小さく怒り、中ぐらいには中ぐらいに怒り、大きな事には大きく怒るということです。 怒りは、何を当然のこととするかによって決定するため、教育が欠かせません。いじめの問題も、怒りの教育に関連しています。怒りの貧困さが原因にあります。 いじめの対象となる人間は、怒りを表現できないことが多いことがわかります。怒りを表現しないといじめはどこまでもエスカレートします。 また、いじめる人間は、怒りに程度が存在しません。0か、大きな怒りかしかないのです。そのため、ちょっとしたことでも腹を立てて怒りを発動させます。この事態は異様です。怒りのない人間と、大きな怒りしかない人間がいるのです。 こうした怒りを示さない人も、必ずいじめられるというわけではありません。知能が高く機敏な人なら要領よく切り抜けていくことができます。 こうした人たちは成長すると八方美人タイプになります。誰に対しても愛想がよく、頼みごとにもすぐに応じてくれます。しかし、誰にもいい顔をしているので、可能な量を超える仕事を抱えてしまい、中身をさばききれず失敗することがたびたびあります。 頭がよく機敏で性格も朗らかなのに、確実性がなく戦力にならないため、周囲の人はその落差に困ることになります。 怒りは、運動や思考の強制停止により生まれ、それを打破する行為です。その場合、しばしば公共のルールを破壊する結果を生むことがあり、それを防ぐための感情として恥があります。羞恥心、格好悪い、プライドが許さないともいいいます。 下を向いて沈黙し、目立たないように、隠れるような動作をします。顔を隠すこともあります。気が動転し、意識が混乱します。恥ずかしさのあまり、怒り出し、暴力的にふるまうこともあります。「恥をかかされた」といって怒り出す人がいることでわかるように、恥は怒りから分岐した感情だからです。 恥は、強い不快感であるので、次から恥の場面を回避しようとします。自己の行動の訂正を行い、より適応した行動をとろうとします。 トイレの鍵を閉め忘れて、開けられてしまったときは恥ずかしいでしょう。排泄行為及び性行為を見られると恥ずかしいものです。 ただし、愛する人には、こうした無防備な状態を見られてもそれほど恥ずかしくないものです。愛が恥を打ち消すためです。そうでないと、人類は滅ぶでしょう。 舞台の上で発表するとき、多数の人間の注目を集めているとき、朝寝坊による遅刻したとき、授業中や会議中の居眠りを見られたとき、楽勝の相手に敗れたとき、0点のテストを発見されたとき、なども恥を感じます。ただし、テストの場合、一生懸命頑張った結果の低い点数は、恥ではないとされます。 共通項は、自らが望まないことの発生、弱点を他人に認識されること、格好が悪いことを見られたときなどです。恥は他者がいなければ成立しません。トイレにアマガエルがいても恥ずかしくはないのです。 まとめると、恥は、他人に注意や指摘される、すなわち、叱られるようなことをしたときに発生するといえるでしょう。 多数の注目を集めているとき恥ずかしいのは、指摘可能な人間の絶対数の多さと、叱られる状況に類似しているための反応と考えられます。もし、絶対の自信があれば、多数の注目を集めていても、せいぜい照れるだけでしょう。 恥は誤りの指摘ですから、誤りがなければ感じない、そう他人は判断します。ところが、感情というものは、ただそれに類似するだけの状況にも発動します。感情はその場その瞬間の判断だけで、文脈はないのです。そのため、他人から見れば何も恥ずかしがることがない場合にも恥を感じてしまうのです。 恥を感じさせる信号は、他人の注視や怒りを含んだ声です。そのため、恥が異常に強いと他人の目や反応が気になり生活に支障をきたします。これは後天的に作られる要素が大きく、幼児期の教育によって拡大されることもあります。そのため、行動療法によって回復することができます。 逆もあります。もし怒りがすべて受け入れられるような極度に甘やかされた環境で育つと、恥のない人間に育ちます。 恥は他者の非難を気にして、自分の行動を控えるということです。もしも成長の過程で恥が発達しなければ、度胸はあるが傍若無人、人の噂やゴシップが大好きな出しゃばりで無神経な人間になります。この人は他者の非難を気にしない人ですから、直接非難して態度を改めさせることはできません。 恥の感情は文化によって大きく異なります。欧米人と日本人は、風呂に入るときに隠す体の場所が異なるとされます。一般に、日本人は恥の感情の範囲が大きく、恥の文化といわれます。恥は後天的にしつけによって作り上げられる部分の大きい感情であるため、文化の差、個人の差が大きく、変化もしやすいのです。 恥は怒りから分岐する感情です。子供が悪いことをしますと、親や教師が注意します。それにたいしては、子供はまず怒りで反応しますが、親に抵抗しても勝てないので、それをしつけとして受け入れ、恥と認識するようになります。それ以後、その恥を生み出した行為には恥の感覚をともなうようになります。 他者に誤りを指摘する動物とは、人類だけです。文化が恥を求めるのです。恥は人類しか感じないでしょう。ただし、ペットにはあるかもしれません。彼らは人類の文化の中で生活し、教育を受けることすらあるからです。 まず、有名ブランドといってもそれは身につけるのものだということが重要です。ブランドとは他人による価値づけですから、これにより他人の尊重が得られます。これは、恥を回避する行動と考えられます。 原始時代の長期間、女性はパートナーの男性により群れの順位が決定されていたと考えられます。ブランドは、自分の男性が高い順位であることを示す目印、あるいは所属する群れの優位さを示しているのです。ですから、有名ブランドを身につけるという行為は、自己の順位の高さを認識する、すなわち恥から遠く離れた状態と認識する行動なのです。 かつての三高(収入、学歴、身長)の男性を求める心理も、ブランドを求める心理と同じです。ただ、これは恥のメカニズムによるもののため、愛や恋とは無関係です。本当に大切な人を見失う危険もあります。 女性に比べると、男性はブランドにこだわる人は少なめです。ブランドなどの他人の価値づけを受けると、その下の順位を意味します。男性は怒りのメカニズムが強く、他人に与えられた順位が不快なのです。 過剰に卑屈な態度をとる人、おべっかを使う人など、他人に対する服従を示す行動が目立つ人は軽蔑されます。自分の価値観で測って、価値のない人を軽蔑します。相手の影響力の低さを感じ、相手をコミュニケーションすべき存在と認めていないのです。あくまでも、人間にたいしてであり、石とか木は軽蔑の対象とはなりません。 影響力がマイナスの人間──悪人も軽蔑の対象になります。それは今後、関連しないことにより影響力が低くなるからです。しかし、その悪人の被害を受けた場合は、軽蔑ではなく怒りになるでしょう。 軽蔑を感じると、人は背を高くして見下ろし、顔を斜めに傾けます。眉をつり上げ、片方の口の端を上げます。無関心の信号であり、勝手にしろ、を意味します。嘲笑をともなうときもあります。嘲笑は笑いですが、「おまえの影響力などありはしないから何でも容認してやる」を意味しています。 軽蔑が生み出す行動は、その対象を相手にしないということです。無視します。そういう奴なんだよ、と吐き捨てるようにいったり、唾を吐いたりします。 軽蔑は、不要な思考を切り捨て、次の行動へと向かわせるものです。プラスにもマイナスにも影響力がない相手と交渉するのは無益です。心理的なエネルギーをより有益な方向へに消費しようとするのです。 軽蔑する相手が邪魔になると、加減のない攻撃が発生します。軽蔑する相手は、物扱いなので、怒りではなく、狩猟本能がはたらくのです。なぶり殺しというのは、軽蔑の対象に発生します。 偏見や差別は、文化による誤った軽蔑感から生まれることがあります。人種や性別など、本来の軽蔑とは無関係なものを軽蔑対象として誤認識すると差別が生まれます。 過剰な軽蔑は無気力を生みます。世捨て人へと向かわせるのです。逆に、少なすぎる軽蔑は気苦労を多くするでしょう。 軽蔑は、怒りに対して無行動で応対することです。しかし、軽蔑すべき相手を軽蔑するのは問題ありませんが、実際には自分が無力で何もできないにもかかわらず、自分が対決するに値しない相手であると勝手に納得して、相手を軽蔑したりすることもあります。自分の無能さが許容できずごまかすわけです。 例えば、政治家について名指し下品な非難を浴びせ、さも正義漢であるかのごとくこき下ろしますが、実際の行動は一切しません。デモするわけでも、押し掛けて行動するわけでもなく、ひたすら口汚く罵る人です。 こうした人は、そのまま怒りに対する無行動を受け入れるようになり、何もしない癖にひたすら他人を批評してこき下ろす困った人になります。世をすねた辛口の批評家なのです。 不平不満は、怒りを押さえねばならない場面があって、それが避けられないときに発生します。その結果ぴりぴりした雰囲気を出し、周囲の仲間は避けるようになります。不快なため行動は張り詰められ、肉体的にも緊張し、精神的に興奮します。 こうした肉体的準備である緊張は、怒りがその場にないから価値がなく、即断即決をうながす興奮も無意味です。ほとんど不適応です。ただ不快感のみが、以後の怒りの状況の回避を促します。これはもう知性の副作用と呼ぶべきものでしょう。 不平不満は、その不快さのあまり周囲に愚痴をこぼすことがあります。愚痴をこぼすと、周囲の人が慰めたり同意してくれたりするため、不快さが中和され、心の負担が軽くなるのです。 しかし、いつも愚痴ばかりこぼすと、ついには不平不満の行動が固定され、何かあるたびに不満を愚痴にしてばらまく、周囲に嫌われる人になります。不満が直ちに愚痴に結びつくようになると、もはや自分が不平不満を感じていることの自覚すらなく愚痴ばかりいう人間になってしまうのです。不平不満が麻痺してしまったのです。 特に同じ内容の愚痴を2度以上語る人は要注意です。愚痴による心理負担の軽減効果は最初に語る一回目にしかありません。そのため、2回目以降は効果がなく、効果がないからこそ止めどなく愚痴を続けてしまうことがあるのです。 たとえば、いじめている子供といじめられて泣いている子供を見かけるとします。そのとき、泣いている子供の立場に自分を置いて怒りを覚えます。 私たちは、共感能力により相手の感情をそのまま感じます。しかし、憤りでは感情ではなく立場を置き換えて感じます。泣いている子供は、怒っているとは限らず、怖がっているかもしれませんが、正義の怒り──憤りを覚えるのです。 人は、社会的な犯罪や、許しがたい悪にたいして憤りを感じます。 憤りにより、他人の暴力を制止したり、ハンガーストライキや、デモ行進するとか、社会にたいする抗議行動をします。個人的なものは怒りであり、憤りではありません。憤りとは、他者の立場で感じることによる怒りといえるでしょう。 恨みは、発生した怒りが行動とならず、蓄えられ、その相手と怒りの記憶が結び付いた状態です。怒りが知性により持続したものです。 相手への報復攻撃することにより、自己への攻撃を減少させます。特に一時的に弱っているものへの攻撃を減らすでしょう。恨みの危険により、社会全体の攻撃行動が減ると考えられます。 悔しいときには決まった行動があります。じだんだを踏み、八つ当たりします。下を向いて沈黙し、唇をかみしめ、手を強く握り締めたりします。物をたたきつけたり、壊したりすることもあります。その行動は怒りに似ていますが、本来の対象ではないものへ攻撃が向かいます。 怒りの感情を覚えたときに、怒りの行動をしたのですが、それが無駄であると知ると、行動が失われます。能力が不足するため攻撃行動をしなかったのです。その後は、その類似の状況には怒りでなく悔しさが発生します。悔しさは、怒りの状況に異なる行動を組み合わせた感情記憶です。 悔しさは、自己の能力の不足が原因で競争に敗れたときに生まれます。擬人化しないかぎり、相手は必ず人間です。怒りの原因が自己の能力にあるわけです。もし、能力の不足でなく、不注意が原因なら恥となり、不正な理由であれば怒りのままとなります。 悔しさははなはだ不快であり、悔しさは二度と経験はしたくないものです。自己の研鑽へと向かわせる感情です。悔しさは向上心に比例するといえるでしょう。ど根性の持ち主は悔しさが人一倍強いといえます。 世の中には、はたから見ても情けないと思わせる人物がいます。上司のいうことには何でもハイハイと逆らわずに従う卑屈な人です。それでその人は誰にも卑屈なのかというとそうではなく、自分より弱いものに対しては横柄に振る舞い、時には暴力をふるいます。 たとえば、仕事では上司にへつらい続け、家では妻に暴力をふるうといった人たちです。あるいは、酒を飲んでは暴れたり、旅行先で旅の恥はかき捨てとばかり暴走する人です。 こうした人たちは、悔しさの感情が麻痺してしまっていると考えられます。悔しさ、怒りの状況で我慢させられ、時にはそれを他に転嫁するものです。悔しさは自分に向かうことで、自分を鍛えるものですが、それには苦痛をともないます。そのため、もしも他に転嫁できる対象があると、そこにぶつけ続けることになります。身近に自分より弱くかつ逃げることのできない人がいると、そこに攻撃を加えることになるのです。 感情というものは、実際に行動してしまうと、自覚ができないものです。強いものにはへつらい弱いものに転嫁して攻撃するパターンが定着すると、もはや悔しさを自覚することすらなくなってしまいます。 悔しさの麻痺は、情けない人間だけでなく、出世に成功した地位の高い人間にも見られることがあります。地位の高い人間は強い立場にあるため、自分より弱い相手をすぐに見つけることができます。しかも、立場があるので攻撃しても自分が損をする可能性はありません。 悔しさは自己研鑽へ向かう感情ですが、この精神的に楽なパターンが固定すると、もはやその人には進歩がありません。有能な人間が出世して、腐った人間へと転落するケースです。 焦燥感、あせりは、テストで問題が解けないのに時間が減っていくとき、あるいはテスト勉強が進まないのに時間が減っていくときなどに感じます。悔しさの予測により生まれるわけです。 焦燥感の過剰な緊張状態は、反応を誤らせることが多く、その状況においての淘汰上の適応は少ないでしょう。特にテストのようなときは、筋肉の準備状態である緊張は無意味です。 状況による分岐。恐怖の状況でありながら、恐怖による行動ではなく諦念のようなものが生じたとき畏怖が生まれます。 恐怖は興味から状況による分岐をした感情です。怖いものはすべて興味の対象なのです。そのため、ライオンやチーターを草食動物がつかず離れずにいたり、チンパンジーやヒヒが大きなニシキヘビを見つけて取り囲んだりすることがあります。 人は、高い場所や不安定な場所、たとえば吊り橋を渡るときや、凶暴な動物の前や、暴走するトラックの前にいれば恐怖します。あるいは、ヘビのようにくねくねと動くヒモ状の物を見ると、恐怖します。 その場所で起こる苦痛が想像させられる場合に恐怖するといえます。そのため、怪談話でも対象がその場にあるように語られます。その場ですぐ反応すべきと感じなければならないのです。 恐怖を生むものには共通点がありません。一つ一つが自然淘汰で選択的に発達したと考えられます。すなわち、恐怖の遺伝子は一つではないということです。 高層マンションに育った子供は、高い所を怖がらないことがあります。恐怖も学習される必要があるのです。あらゆる感情同様に、遺伝なのは基礎だけなのです。 恐怖には独特の表情があります。眉を上げ、額の中央に深いしわをつくり、目を大きく見開き、上のまぶたを引き上げ、白目が大きく、口は少し開いてまっすぐ後ろにひきます。これらは服従の信号です。相手が人間の場合、攻撃を鈍らせる効果があることが確かめられています。 恐怖の行動は、泣く場合もあれば、走って逃げ出すこともあります。可能ならば逃走し、できなければ悲鳴をあげ泣き叫び、小さくうずくまります。逃走、救援、防衛、パニックなどが恐怖では用いられるのです。 不快とは、その行動の停止、その状況へ至らないよう防止すべきであることです。絶叫マシンでは、すべき行動はないし、防止する方法はわかりきっています。乗らないことです。そのため繰り返すと不快感がなくなります。絶叫マシンは不快感のない恐怖を作ることができるのです。そして、不快感のない恐怖は、興味深い強い緊張と興奮となるのです。 ただ、男性には好まれない傾向があります。男性は怒りのメカニズムが強く、恐怖による精神の拘束状態を嫌います。自由に行動したり考えたりできないことへの抵抗感は男性の方が強いのです。そのため、男性よりも女性の方が絶叫マシンやホラー映画を好むことになります。 なぜこんなことが起こるかというと、認知と量が別のメカニズムのためです。どれだけ興奮するかは、脳の化学物質の分泌量で決まるのですが、感情の種類──どんな行動をすべきかは、環境の認知で決まります。一見はげしい恐怖を生むようなものでも、認知を違うものにできると興奮だけが残るのです。量は質にはならないということです。 有名なのは吊り橋とアンケートの実験です。魅力的な異性にアンケートを受けるのですが、そのとき危険な吊り橋を渡ってからのアンケートと普通にアンケートするのとでは、相手に対する印象が異なるのです。吊り橋を渡ってからのアンケートでは、相手への恋愛感情が芽生える確率が高かったのです。これは、吊り橋による興奮がアンケートの異性への感情と混同されてしまうためなのです。 恋愛におけるロミオとジュリエット効果──障害が大きいほど燃え上がるのは、障害に対する反発の興奮が恋愛そのものの情熱として認知されるためでしょうし、マゾヒストが痛覚が快感なのも興奮が快感として認知されているためでしょう。 安心は、恐怖やその予測である不安が喪失することによります。恐怖から喪失による分岐をした感情です。たとえば、飛行機に乗っていて、激しい揺れがあり、その後おさまると安心します。危険、不安の解除により発生するわけです。 人は安心すると、「ほっ」と安堵のため息をつき笑顔を見せます。その後、警戒心が解け身体的に休息します。体内の緊張がなくなり身体的な回復を行うわけです。 不安は、恐怖から予測による分岐をした感情です。試験の前、暗闇、孤独などのとき生まれます。未知の世界へ入るとき、初めての外国旅行なども不安です。恐怖の予測が人を不安にするといえます。 それにより、行動をより慎重にさせ、警戒心を強化します。安全の確認などを厳重にします。また、いつでも反応できるように体は緊張しています。 不安は、恐怖が知性によって維持されたものです。恐怖における適応である緊張感が、不安においても発生してしまっているのです。暗闇や孤独の警戒は当然のことですが、安全な現代社会ではもはやあまり必要なく、不安における緊張や興奮は過剰でしょう。 不安というものは、その場にないものへの恐怖です。記憶力がなければ成立しません。人間が強い記憶力、想像力を獲得し、時間の中に生きるようになったために不安は発生したといえるのです。 畏怖は、恐怖から状況による分岐をした感情です。恐怖ですが、逃走、抵抗などがありません。むだな逃走、抵抗をしないことにより体力を温存し、恐怖の判定が誤りであったときにとっておくのです。 畏怖は、圧倒的な強さの相手と遭遇し、自己の運命が、自己の判断に関係なく決定されるという場合に発生します。畏怖は恐怖より相手が強大であるにもかかわらず、不快さが少ないのが特徴です。畏敬の対象というように、畏怖は愛ととも発生することがあります。 |
[ 199] 驚き
[引用サイト] http://www004.upp.so-net.ne.jp/kaysaka/draft/1e-odo-ika.htm
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Disney、Pixar、Touchstone、Miramaxの映画がiTunes Storeで購入可能に2006年9月13日、アップルは本日、世界で最も人気の高いミュージックジュークボックスであり、オンラインのミュージックおよびビデオストアである「iTunes(アイチューンズ)」の、2001年の開始以来最大の強化版となるiTunes® 7を発表しました。iTunes 7は、新しいアルバム・ビューおよびCover Flowビューなどのすばらしい新機能で、ユーザのライブラリから素早く目的の音楽・テレビ番組、ムービータイトルを見つけ出したり、アルバムジャケットをながめながら、すでにライブラリ内に持っているコンテンツから、新しい発見をすることもできます。さらに、iTunes Store (www.itunes.com) は、Walt Disney Pictures、Pixar、Touchstone PicturesそしてMiramax Filmsによる75タイトル以上の映画の提供を開始しました。お客様はこれらのムービーをダウンロード購入し、ご自身のコンピュータやiPodで見ることができるほか、近く発表を予定しているアップルのiTV*プレーヤーを使ってフラットスクリーンテレビでも楽しむことができるようになります。iTunes Storeでは映画がDVDで発売になると同時に購入可能となります。ムービーの新作タイトルは予約の場合、および発売後一週間は$12.99、それ以降は$14.99の価格が設定され、旧作については常に$9.99で購入できます。 「アップルから、最初は音楽、その次はテレビ、そして今度は、映画です。たった5本のテレビ番組で始めて1年も経たないうちに220本以上ものテレビ番組を提供できるようになりました。今度はそれを映画でも実現したいと思っています。iTunesは1週間で100万本以上のビデオを販売しています。1年以内には映画でも同じことを実現したいと考えています。」と、アップルのCEO(最高経営責任者)スティーブ・ジョブズは述べています。 「ABCとDisney ChannelはiTunesでテレビ番組を提供した最初のネットワークでした。そして今度も、The Walt Disney StudiosがiTunesで劇場公開向け映画をデビューさせる初めての映画会社として新境地を開拓します。Disneyは、お客様が好きな娯楽コンテンツを楽しむための革新的な方法を提供することに取り組んでいます。アップルとの協力は、お客様が時間や場所、デバイスにとらわれることなくコンテンツを楽しんでいただけるよう努力を続けていることを示すもう一つの好例です。」と、The Walt Disney Companyの社長兼CEO、ロバート・アイガー氏は述べています。 また、The Walt Disney Studiosの会長、ディック・クック氏は次のように述べています。「スティーブ・ジョブズとアップルは常に、今日の観客、視聴者が音楽やテレビ番組の合法的なダウンロードに関して何を欲しているかを的確に把握しています。そして私どもはiTunesに参加することにより、この人気の高い、便利なフォーマットでDisneyの映画を提供できるようになります。アップルとの関係を広げることは私どもの誇りであるだけでなく、この新しい事業が高まりつつある新しい映画鑑賞の需要に応え、私どもにとっても映画の市場拡大につながるものと期待しています。」 iTunes Storeは1週間に100万本以上のビデオを販売し、短期間で世界で最も人気の高いビデオダウンロードストアになりました。iTunes Storeは1年弱前の2005年10月にABC/Disneyの5本の番組でテレビ番組の販売を始め、その後短期間で提供番組数を増やし、今日では40以上のネットワークから220本以上のテレビ番組を提供しています。iTunes Storeはまた、350万曲からなる世界最大のオンラインミュージックカタログを持っており、これまでに15億曲を販売し、世界で最も人気の高いデジタルミュージックストアとなっています。 iTunes 7では、iTunes Storeで購入したビデオはすべて、DVD品質に近い640×480(アスペクト比により最大480p)の解像度でダウンロードされます。これはこれまでの4倍の解像度です。ダウンロードされたビデオはコンピュータやiPodで再生することができます。iTunes 7にはまた、デジタルミュージックやビデオをより簡単に整理し、楽しむことができる新機能が含まれています。例えば拡張されたペアレンタルコントロール、iTunesのビデオ再生ウィンドウでのオンスクリーンコントロール表示、自分が持っているビデオコレクション全体をカバーアートワークで視覚的にブラウズすることができる新しいCover Flow機能などです。 アップルの定評ある使いやすさ、ポッドキャスティング機能の統合、iMixプレイリスト共有、iPod®とのシームレスな連携、そして画期的な個人利用権などの先駆的な機能を持つiTunes Storeは、Mac®とWindows PCのユーザが音楽やビデオを合法的にオンラインで検索し、購入し、ダウンロードするための最良の方法です。 【価格と販売について】MacおよびWindows用のiTunes 7には、iTunes Storeが含まれており、本日よりwww.itunes.com/jp から無料でダウンロードすることができます。MacまたはWindows用のiTunes Storeからのコンテンツの購入およびダウンロードには、請求先の住所が購入国にある有効なクレジットカードが必要です。テレビ番組と映画は米国内でのみ提供されます。またビデオの提供状況は国により異なります。ゲームは、iTunesを展開している21か国で提供され、第5世代のiPodでプレイすることができます。新作映画は1本14.99ドル(米国内)、その他の長編映画は1本9.99ドル(同)です。テレビ番組は1エピソード1.99ドル(同)、ミュージックビデオおよびショートフィルムは1本1.99ドル(日本では300円から)、そしてゲームは1本4.99ドル(日本では600円)です。 アップルはApple IIで1970年代のパーソナルコンピュータ革命に火をつけ、80年代にはMacintoshによって、再び、全く新しいパーソナルコンピュータを創出しました。数々の賞に輝く革新的なデスクトップおよびノートブック型コンピュータ、Mac OS Xオペレーティングシステム、iLifeデジタルライフスタイル・アプリケーション、そしてプロ向けの各種アプリケーションで業界をリードし続けています。これに加えて、ポータブルミュージックプレーヤー市場をリードするiPodファミリーと、オンラインのiTunes Music Storeにより、アップルはデジタルミュージックの分野でも先頭に立ってその革命を推し進めています。 |
[ 200] アップル、驚きの新機能を加え、iTunes 7を発表
[引用サイト] http://www.apple.com/jp/news/2006/sep/13itunes7.html
