風貌とは?
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リメイクといえば真っ先に思い浮かぶのが「荒野の七人」。これはこれで面白いのだが、登場する七人に「七人の侍」ほどの魅力を私はあまり感じない。 「荒野の七人」には勝四郎や勘兵衛や久蔵はいるけれども、七郎次や五郎兵衛がいないからである。 もし、今の日本でリメイクしたとしても、七郎次や五郎兵衛のイメージに合う俳優がいるだろうか。 黒澤監督は脚本を執筆するにあたり、七人の人物像を大学ノートにまとめていたという。勘兵衛や菊千代についてはかなりのページが割かれているのだが、五郎兵衛に関しては記述も少なく、キャラクターを構築するのにかなり苦心したようである。 いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に、何か人をなだめるような力がある。 最初にそう言われた時、ちょっと睨んだが、それ以後「伯母上」と呼ばれると素直に返事をする。 不思議なことに五郎兵衛に関するメモは極端に少なくわずか1頁半である。もしかしたら黒澤さんの中で五郎兵衛なる人物は完成していなかったのかも知れない。とするならば、いささか思い当たる節もある。黒澤さんはキャスティングの段階で、この"茫莫たる風貌"に合う男を探していた。つまり輪郭、外見から決めてゆく方法をとったのである。 (野上照代著:『七人の侍』黒澤明の創作ノートより 「黒澤明 天才の苦悩と創造」キネマ旬報社) (キャスティングについて)みんなすんなり決まった中でなかなか人がいなかったのは五郎兵衛ですね。ああいう地味で丸くできた人物はなかなかいないんでね。だから稲葉を抜擢したんだけど、あの男は心臓が弱くてね。朝、撮影現場に来るときに、上がっちゃって、もう青くなっている。(中略)緊張して青くなっていたんじゃ、あの役柄からして困ってしまうんでね。 映画の中では泰然自若として何があってもニコニコ笑っているような五郎兵衛に風貌・声・セリフどれもピッタリはまっていた稲葉さんだが、実際には監督にかなりしごかれていたようなのだ。 俳優が役に取っ組むまでの時間をとってくれたのは貴重なことですよ。僕は今でも忘れないけど、稲ちゃん(注:稲葉義男氏)ね……。つまり軍師の役よ。それが役に入りそこなっちゃった。それを見て黒澤さんが「駄目だ駄目だ」と言い出しちゃった、セットでね、「今日は中止」ってきたわけだよ。稲ちゃん、頭を抱えちゃった。そしたら黒澤さんが「大ちゃんは稲ちゃんと帰りが一緒かい」って言うから、「一緒ですよ」って言ったら、「慰めといてくれよ」って言うんだよ。帰りに稲ちゃんが「僕はね、フィルム代を返して辞めさしてもらう」って言うから、「稲ちゃん、そんな弱い事言っちゃだめだよ」って言ったけど。つまり結局、稲ちゃんが自分の頭の中で創っていたものと違ったという事なんだよ。それで七人全部出ているところで、「ダメだ、今日は中止」って言うんで二日中止したんだよ。もう稲ちゃんの気持ちも嫌だったろうと思う。で、三日目にどうなることかと思っていると……、上にいる照明なんかが「いい加減にして貰いてえな」なんてぶうぶういうわけだよ。滔々と述べるところなんですけどね、「ダメだよ、それじゃ。炭坑節でも唄う位な気持ちでやれよ、炭坑節でも」って黒澤さんが言ったらね、突然「月が出た出た」って唄い出しちゃったのよ、侍の拵えをしたまんま。これは何とも言えない雰囲気ですよ。真青な顔をして唄い終ったら黒澤さんが「用意、スタート」。全然違いますよ。背水の陣を敷いたわけだからね、(中略)壁を突き破ったわけだ。「もう、どうとでもなれ」という気持で。俺たちが聞いても成程と思うような軍略を述べる軍師になったわけだよ。何か雰囲気的にも違うものを感じたですね。「変った!」と思った。黒澤さんも「大ちゃん、良かったよ」って言った。黒澤さんの笑顔っていうのは日本一だからね。(中略)そうしたら照明で一番うるさいのが下りて来て「加東さん、私は孫子の代まで役者にはしない、あの辛さを味わうのかと思うと」って言った(笑)。全部判るねえ。だから、そこまで追い詰められて演じた芝居というのは何かあるんだなあ。だから余り楽しちゃいけないんだろうね、役者っていうのは。 俳優課の人から聞いたのだが、稲葉さんは「朝の来るのが怖い」と言っていたそうである。余程辛かったのだろう。 七人の中では特に五郎兵衛が好きな私としては、裏話を知るにつれて五郎兵衛が更に魅力的な人物に見え、そして演じられた俳優・稲葉義男さんへの興味がふつふつと湧いてきたのである。 さて、その稲葉氏についてなのだが、今までは"貫禄の名脇役"として名前と顔が一致するくらいの知識しかなかった。そこで氏の名前を検索してみたところ、「七人〜」以外にも話題作や問題作に数多く出演されていることがわかったのだ。(ワン・シーンのみのチョイ役も多かったりするが・・・) 気になりだすと止まらないいつもの悪いクセで、出演作リストを見ているうちに頭の中はだんだん『二十四時間まるごと稲葉義男』状態になってしまったのだった。 マズい!完璧にハマった、こりゃ。私は有効期限が切れた会員証を握りしめて某大型レンタルビデオショップに再び通うことになったのである。 でも・・稲葉さん目当てに『ザ・ガードマン』を欠かさず見てるって、やっぱりオカシイ・・・・? |
[ 95] 茫莫たる風貌
[引用サイト] http://members3.jcom.home.ne.jp/gorobei/inaba/inaba.htm
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野方で発見した古い旋盤工場を自らの手で改築し占有劇場とした「風貌劇場」都内に自前の劇場を有し持続的公演を続けたのは、80年代以降に旗揚げされた小劇場ではおそらく唯一でしょう。 のどかな野方の街に突然立ち現れた”芝居小屋” 劇場とは名ばかりに見える廃屋同然の狭い空間に集まる若者集団・・・。当然、ご近所との関係に普請する日々でした。 客席は30人でほぼ満席、40人で一杯、50人だとギュウギュウ、そこに最高100人のお客さんが入ったこともあった一方、2人という時も…。それでも公演中止になったことは一度も無かった。 シェィクスピアのマクベスを大胆に構成した極めて実験性の高い劇。「人生は歩く影法師、哀れな役者だ!」 血の付いたドテラに太いクサリを首に巻いたマクベスと白塗りのマクベス婦人と言う、異形の者達が繰り広げる 夢のまた夢…。いかにもアングラの臭いのする舞台だった。 1983年の「パラダイスロード」鳴澤デビューまでは、古典戯曲をもとにした構成台本で上演することが多かった。 コンプレックスを抱える少年が、都会の雑踏の「夢見処」で、自らのルーツに向き合って行く…。間口わずか二間半の狭い劇場空間に、10を超える出入り口。都会の迷路から、浅間山の火口に昇華し消えて行く”ブス”と”デカ足”の二人…。終始”不思議”にあふれた芝居だった。 第7回公演「新宿パラダイス・ロード」より座付き作家になった鳴澤清一は、当時は酒も飲まず”風になる”ことを夢見るロマンチストであった。そんな彼の影響で一時は劇団であるのかツーリング集団であるのかさえ判らない程…。全員バイク免許所持の劇団なんて…。 今は都庁や高層ビルが立ち並ぶ西新宿副都心一帯。かつてそこには淀橋浄水場があり、その跡地を解放区とするようなエネルギーに満ち溢れた時代もあった。その情熱の墓場であるかようなコンクリートとガラスの街。時代と拮抗する、そのきっかけさえあらかじめ失われてしまった僕ら・・・。 現れぬ怪人二十面相を待ちつづけることで、平凡な日常を遊ぶ”少年探偵団”いつもの紙芝居から大人達の世界へ越境を試みる。しかしそこには・・・。幕開きに元気いっぱい歌われる”東京ラプソディー”は一気に時代を超え、古き良き昭和のノスタルジーへ、エネルギッシュな時代をバックに浮遊する現代を戯画的に描いた風貌劇場代表作。 1985年に初演された「かつて不幸せだった人に」を風貌劇場解体を前にした7連続公演の中で再演した、1992年時の写真。鏡を多様した美術は、虚像と実像を複雑に錯綜させ、2間半の舞台に不思議な森を出現させた.森の小人にピーターパン、ロビンソン小野田….平和、平凡に見える家族の内側で”空虚”を抱えた少年が、濃密なフィトンチットに見た夢は…。 |
[ 96] 風貌劇場
[引用サイト] http://www.ne.jp/asahi/u-stage/tokyo/fubo.htm
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文久3年(1863)京の地において新選組を組織した近藤勇の生家宮川家は、武州多摩郡上石原村(現、調布市野水1丁目)で大沢(現、三鷹市大沢)と境を接する辻と呼ばれた所にある。勇の幼名は勝五郎。勝五郎は末っ子であったため、父久次郎の愛を一身にうけて育った。この幼年時代の父からの感化が、のちの近藤勇に大きな影響を与えていると思われる。父親から「三国史」や「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、勝五郎はこれらを通して忠孝の思想的観念を幼い胸の中に芽生えさせていったのだろう。宮川勝五郎は、嘉永元年(1848)11月兄二人とともに近藤周助の門に入門した。時に勝五郎15才。一番年少にもかかわらず、稽古には人一倍熱心であった。嘉永2年6月、入門後8ヶ月で周助より天然理心流の目録が与えられ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに密かに目をつけていた。勝五郎が目録を受けて少したった頃のある夜、白刃を持った盗賊が数人、宮川家に押し入った。その際兄と率先して斬りつけ、賊の気を奪いこれを遁走させた。この話を久次郎から聞いた周助は、勝五郎の機智に富んだ勘の鋭さ、度胸の良さに感服して、近藤家の養子に迎え天然理心流四代目を継がせようと決心したといわれる。 嘉永2年当時、近藤周助の道場は、江戸の牛込甲良屋敷(俗に二十騎町と呼ばれた所。現、新宿区市ヶ谷柳町)にあり、養子に入った勝五郎改め勝太は、師匠の旧姓を名乗り島崎勝太となった。剣術一筋に力を注ぎ、武術が上達するとともに、神田昌平橋近くに住む溝口誠斎について漢学を修めた。 天然理心流四代目襲名披露の野試合は、文久元年(1861)8月27日、天然理心流の大扁額のかかっている府中六社宮「大国魂神社」の東の広場(現在の東京競馬場付近)にて行われた。この野試合は、本陣に島崎勇改め近藤勇昌宜が総大将、紅白二つに軍を分けて行われ、後に京洛の地で京都守護職会津肥後守御預「新選組」隊士として活躍する沖田総司、井上源三郎、土方歳三、山南敬助等もこの野試合に参加している。 近藤勇五郎は、勇の生家である宮川音五郎(勇の長兄)の次男として嘉永4年に生まれ、勇の娘瓊子(たまこ)の婿養子となった。慶応4年4月25日勇が板橋で斬首されたときは、勇五郎16才で、養母つねと瓊子の三人で牛込二十騎町の家を手放し中野村本郷(現中野区本町2丁目)の成願寺という寺に住んでいた。勇のかつての門人から「板橋の問屋場に捕らわれているらしい」との話を聞いて、何度も板橋まで勇の安否を気遣って訪ねている。わからないでいる所、「今日は立派な旗本が斬られるそうだ」という噂を耳にし、はからずも養父が斬首されるのを目撃してしまう。実父音五郎と勇の門人に相談した結果、翌々日の27日、「何とか遺体を持ってこよう」ということになり、勇五郎と音五郎、そして門人等7人で夜板橋に出かけ、刑場の番人に包金を握らせ、首のない遺体を三鷹の竜源寺まで運んで埋葬した。この時の遺体の確認は首がないので、証拠は京の伏見街道墨染で伊東甲子太郎の残党によって狙撃された鉄砲の傷跡であったと言われている。近藤の首は一旦板橋宿はずれの平尾一里塚刑場(現板橋駅東口付近)に晒された後、火酒(焼酎)に浸されて京都に送られ三条河原に晒された。慶応4年6月6日、ときの中外新聞(慶応4年2月創刊、慶応4年6月発刊禁止廃刊・福地源一郎)44号ではこれを次のように記している。 閏4月8日元新選組隊長近藤勇昌宜といふ者の首級、関東より来りて三条河原に梟されたり、其身既に誅戮を蒙りたる身なれば、行の是非は論ぜず。其勇に至りては惜む可き壮士なりと言はざる者なし。 近藤勇の墓は、三鷹市大沢6丁目の竜源寺。本堂裏手のうっそうと繁った竹やぶを抜けたところ、近藤家の墓所の中にある。この墓こそ首のない勇の胴体を葬った所で、段を上った所に近藤勇の墓、その左に近藤勇五郎之墓があり、墓地の左側に近藤勇辞世の碑がある。(K) 孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔靡他今日復何言 取義捨生吾所尊快受電光三尺剣 只将一死報君恩 孤軍たすけ絶えて俘囚となる。顧みて君恩を思えば涙さらに流る。一片の丹衷よく節に殉ず。雎陽千古これ吾がともがしら。他になびき今日また何をか言わん。義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。只まさに一死をもって君恩に報いん。 |
[ 97] 近藤勇 KONDO
[引用サイト] http://www.tamahito.com/isami.htm
