お世話とは?
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「最近、他人のことを心から考えた"大きなお世話"をしてくれる人がいない。私たちは君たちのために"大きなお世話"をやこうと思う。」 広告としての言葉の扱い方と考えるなら、なかなか面白いと思う。でも、これを読んだとき何となく腑に落ちなかった。 相手がどう思って接したのだとしても、自分自身がむっとしているのだったらそれは"大きなお世話"なのだ。相手に対して明らかに不快に思っている状態だ。これが円滑な人間関係だとはどうしても思えない。 人間は勝手なもので、人から何かして貰った時、それが自分にとって必要なものならば「親切」で不必要なら"大きなお世話"になってしまう。 例えば「何かしてあげよう」と思うとき、本当に相手はそれを必要としている時かどうか、思いやっているだろうか?この配慮不足でありがた迷惑になってしまうことがある。要は...結構難しいが...タイミングの問題である。 親切の衣をかぶって、人に自分の主張を押しつけていないだろうか。自分の日常持っている不満のはけ口を、忠告するようなふりして人をいじめて晴らそうとしていないだろうか。 それを自分自身の中で見極めるには、深く自分の心理を見つめなければならないだろう。やってみると、意外と知らず知らずのうちに人にしてしまっている事に気づく。 だから、もしも一方的に"大きなお世話"をされてしまった時、「この人はきっと心の中に不満を持っているのに気づいていないんだな」と思っていればいい。「気の毒だな」と思うことで、相手に対してほんの少しこちらが大きな気持ちをもてるのだから。 やや話はずれるが、えてして、忠告や親切は「社会の常識」が基盤となっているから出来るものだ。お年寄りは若者より体力がないのは常識だから席をゆずる。スカートのファスナーが開きかかっていたら、自分は恥ずかしいだろうし(みんなもそうだろう。だからこの人も...)そっと教えてあげる。 それが時として、自分に不快な感じを与えるときがある。例えば「あれしなさい」「これしたほうがいい」と、一方的に現在の「そうでない自分」を否定されたときにがそうだろう。何故そんなことを言われなければならないのか、とカチンとくる。したくてもできないことだったり、事情が許さない場合もあるだろう。他にしたいことがあってそれに手を付けられなかったのかも知れない。 だが、自分が相手の指摘した「社会的常識を逸脱している部分」に納得さえしていれば、のほほんとしていられることが多い。たとえ勉強しない学生だろうが、結婚していない若者だろうが、子どものいない夫婦であろうが... もしそれが不快ならば.... 相手が言っていることは、実は結構自分も気づかぬうちに気にしていることだったりするのだろう。 人が「怒り」を感じるときは、大抵そのことに関して負い目(無意識のことも多い)を持っているものだ。傷に近いかも知れない。 同じ人が同じことを言ったとしても、人によっては不快感は感じないで済む。自分のつけていた傷をつつかれてと痛いから不快なのだ。 なににせよ不快なだけでムカついて終わりというのは、かえって健康に悪い。そういう時は、自分への漠然とした不安感を「理解」してやると多少安心できるようだ。 ちょっと冷静に考えてみてはどうだろう。明らかに必要なのに見て見ぬふりをしている内容なら、自分に素直になろう。自分の意志で納得して行動しているのなら、他人や常識なんて知ったことはない、自信を持とう。時期が許さなくて出来ないこともたくさんある。それは、仕方がないのである。他人に言われる筋合いはないのだ! 本当はもっと深い部分が"大きなお世話"にはあると思う。不愉快な感情の根っこまで考察しなければならないだろう。 |
[ 87] 大きなお世話
[引用サイト] http://www.linkclub.or.jp/~keico/BN/osewa.html
