治らとは?

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明応6(1497)年4月19日、大内勢に晴気城を攻められた千葉肥前守胤資は、正室千葉氏(尼日光明胤)を城から落として自刃した。おそらく胤治もこの時ともに城から逃れたと思われるが、胤治と父・胤資はわずかに十二歳の年齢差であることから、胤治は胤資の実子ではなく養子だろう。
大内氏が大友氏討伐戦に失敗して、豊前から山口に引き揚げるのを見届けると、養母・尼日光、胤治らは小城晴気城の南東、小城郡甕調郷(三日月町)の高田城に入った。
しかし、翌明応7(1498)年2月24日、大内方の筑紫満門・東尚盛らが高田城に攻め寄せたため、城を捨てて佐嘉郡川副郷(諸富町太田)に逃れた。尼日光、胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに対して援を求めた。
これに応じた竜造寺豊前守胤家は、援兵に反対する弟の龍造寺家和を振り切り、夜陰に紛れて成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らを語らって高田城へ急行し、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、ここに牛頭山の千葉介興常が大内方の援軍として駆けつけてきたため、千葉・龍造寺勢は敗れ、尼日光、胤治らは龍造寺胤家とともに筑前へ逃亡。大内義興は千葉介興常を肥前国守護代とした。
筑前に逃れた龍造寺胤家は、外戚の小鳥居信元(太宰府官吏)のもとで肥前帰国を図っていたが、永正元(1504)年、三根郡西島(三養基郡三根町)城主・横岳資貞に養育されていた少弐政資遺児・資元が大友頼治の後援を得て大内氏に反旗を翻した。この騒動の中、胤家は肥前に戻り、弟・家和に迎えられて大財端城に入城した。胤治たちも高田城に帰ったのだろう。
永正元(1504)年、少弐資元は大内方の肥前国神埼郡の勢福寺(神埼町城原)城主・江上興種を追放して占領。さらに千葉氏と龍造寺氏の力を借りて九州探題・渋川尹繁を白虎山城に攻めて、尹繁を筑後へ放逐した。資元は白虎山城に重臣・馬場頼経を入れて守らせ、胤治、胤繁らは高田城へ戻った。
永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らに高田城を攻められると、胤繁らは再び城を捨てて龍造寺氏を頼った。
しかし、永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することになり、義興は義尹の名のもとで少弐資元と和睦した。資元を肥前守とし、尼日光、千葉胤治・胤繁らも晴気への帰還が許されたという。永正5(1508)年6月、大内義興は足利義尹を擁して上洛の途につき、九州からは横岳資誠、千葉介興常、龍造寺家和らが従ったという。この大内義興の上洛によって、将軍・足利義澄は近江国に逃れ、足利義尹は将軍に返り咲くことができた。のち、名を義稙と改める。
大内義興が領国を留守にすると、中国地方では尼子経久による侵略が起こるなど、留守を狙って各地で反乱の火が起こり始めた。おそらく肥前でも尼日光、胤治、胤繁らは高田城を取り戻すべく兵を挙げたと思われる。それがいつのことかは不明だが、永正7(1510)年3月13日、胤治は高田城で討死を遂げた。二十五歳。法名は妙春寺殿、日治。
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[ 112] 千葉胤治
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/kyushu24.htm



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