終わりとは?
|
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(せかいのおわりとハードボイルド・ワンダーランド)は、1985年(昭和60年)に新潮社から刊行された村上春樹の4本目の長編小説。後に新潮文庫にて上下巻で文庫化された。また『村上春樹作品集』に収録され、このとき若干の修正が加えられている。 村上にとっては最初の書き下ろし長編であり、以後、長編小説はすべて書きおろしの形で刊行されることとなる。 小説は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」に分かれており、世界観を異にする一人称視点からの叙述が、章ごとに交互に入れ替わりながら、パラレルに進行する。巻頭および巻末章はともに「世界の終り」があてられている。(文庫版では巻頭章が「ハードボイルド・ワンダーランド」、巻末章が「世界の終り」となっている。) 以前から指摘のあった独特の世界観が前面に押し出された内容であり、『ノルウェイの森』のあとがきの中で、作者はこれを「自伝的」な小説であると位置づけている。数ある村上作品の中でも最高傑作の一つと呼び声が高く、現在でもファンが多い。村上作品のなかでは初めて外国語訳された小説であり、『海辺のカフカ』、『ねじまき鳥クロニクル』に次いで評価の高い作品である。 なお「世界の終り」は1980年9月雑誌『文學界』に発表された中篇(『街と、その不確かな壁』、単行本未収録)に基づいているが、主人公の選択する結末はまったく逆のものとなっている。 なお漫画家の安倍吉俊はこの作品に非常に影響を受けたとされ、氏の手がけた作品『灰羽連盟』において非常に多くの類似点が見られる。 「世界の終り」は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街、「世界の終り」に入ることとなった「僕」が「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語。外界から隔絶され、「心」を持たないが故に安らかな日々を送る「街」の人々の中で、「影」を引き剥がされるとともに記憶のほとんどを失った「僕」は葛藤する。「僕」は図書館の夢読みとして働きつつ、影の依頼で街の地図を作り、図書館の女の子や発電所の管理人などと話をし、街の謎に迫っていく。管理人からもらった手風琴によって忘却していた「唄」を取り戻した僕は、街が自らの心の生み出したものであることを悟る。地図からみつけた脱出路をとおってともに「本来の世界」へ戻ろうと誘う影に対し、自ら生み出した街の人々に対する責任を引き受け、女の子とふたりで森に住むことを決意した「僕」は、別れを告げ、「世界の終り」にひとり残る。(時間軸的には『ハードボイルド・ワンダーランド』後と推測される。) 僕:「世界の終り」における主人公。「外の世界」から追われ、「街」に入った後、「図書館」で「夢読み」として働くことになる。「影」を引き剥がされた際、「外の世界」の記憶の殆どを失う。「街」で唯一「心」を有する。 影:主人公の影。「街」に入る際に「門番」によって「僕」から引き剥がされる。主人公の記憶の殆どを所持しているが、うまく使うことができない。 図書館の女の子:「図書館」の司書。「図書館」で「古い夢」を読む「僕」を補佐する。「街」の他の人々と同様、「心」を持たないが… 発電所の管理人:「街」で唯一の発電所を管理する。不完全ながら「心」を有しており、その所為で「街」には入れないが、森に追いやられることもない。 「ハードボイルド・ワンダーランド」は、近未来と思われる世界で暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。半官半民の「計算士」の組織「システム」とそれに敵対する「記号士」組織「ファクトリー」は、暗号の作成と解読の技術を交互に塀立て競争の様に争っている。「計算士」である「私」は、暗号処理の中でも最高度の「シャフリング」を使いこなせる存在であるが、その「シャフリング」システムを用いた仕事の依頼をある老博士から受け、状況は一変する。 私:「ハードボイルド・ワンダーランド」における主人公。人間の潜在意識を利用した数値変換術「シャフリング」を使用できる、限られた「計算士」の内の一人。古い映画や文学、音楽を愛好する。 老博士:人間の口蓋に関する研究を行っている。滝の裏に研究所を持ち、話し方が特徴的。計算士である「私」に「シャフリング」の依頼を行う。 太った娘:博士の孫娘。「私」曰く、理想的な太った体型。ピンク色の衣服を好む。射撃、乗馬、株など特技は多いが常識に疎い部分も多い。 リファレンス係の女の子:調べもののため「私」が訪れた図書館のリファレンス係の女の子。髪が長く、スレンダーであるが胃拡張であり、「私」曰く、「機関銃で納屋をなぎ倒すような」食欲の持ち主。夫と死別している。 ちび:「私」の家に訪れる謎の二人組みの内の一人。大男の面倒を見ている。二人は「システム」にも「ファクトリー」にも属さない第3の勢力に属すると主人公は予測するが、実際はファクトリー側の人間。 ハードボイルド・ワンダーランドの方の挿絵にはアメリカの代表的アーティストの一人ボブ・ディランが描かれている。またこの作品の重要な場面に何度かディランの歌が登場している。 風の歌を聴け | 1973年のピンボール | 羊をめぐる冒険 | 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド | ノルウェイの森 | ダンス・ダンス・ダンス | 国境の南、太陽の西 | ねじまき鳥クロニクル | スプートニクの恋人 | 海辺のカフカ | アフターダーク |
[ 74] 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
|
『歴史の終わり』(れきしのおわり, The End of History and the Last Man)は、アメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマの著作。1992年にFree Press社から出版された。三笠書房の翻訳版のタイトルは『歴史の終わり』だが「歴史の終焉」として言及されることも多い。翻訳は渡部昇一が行った。 「歴史の終わり」とは、国際社会においてリベラルな民主主義と資本主義が最終的な勝利をおさめ、それ以上の社会制度の発展が終わり、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという、将来における仮説である。歴史とは、戦争や内乱における国家興亡の歴史であり、世界史上永遠を誇った国家体制は存在しなかったが、歴史の終わった民主国家体制は例外であり、戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。それゆえ、この時代を「歴史の終わり」とよぶ。 ベルリンの壁崩壊を受けて冷戦が終了し、「悪の帝国」であったソ連の崩壊と自由主義の盟主であったアメリカの勝利という経験をうけた議論であり、アメリカ的な自由を流布することが歴史の目的であるとするアメリカ的な歴史観を端的に示した議論でもある。又、ベルリンの壁崩壊、冷戦の終了、ソ連崩壊という歴史と価値観の大転換を受けた歴史学の混乱も示している。 フクヤマはそれまで共産主義の正当化に使われてきたヘーゲル哲学をリベラルな民主主義、資本主義の正当化のために用いた。 また、よく「歴史の終わり」は、「社会主義体制にたいする資本主義体制の勝利宣言」といわれるが、厳密に言えば、経済体制というよりも政治支配体制について本質的に述べた論文であり、正確には「ソビエト的な前衛主義による一党独裁や、指導者原理によるカリスマ的支配にたいする、多数決原理によるリベラル民主主義体制の勝利」と呼ぶほうが本旨に合っている。 フクヤマの『歴史の終わり』は、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、カール・マルクス、フリードリヒ・ニーチェの歴史哲学と実存主義哲学について論じたものである。フクヤマはヘーゲルのコジェーブ解釈を利用し、マルクスの歴史哲学とニーチェの実存主義哲学を批判する。(しかし、フクヤマはニーチェの近代批判を高く評価しており、そのリベラル民主主義批判は、マルクスよりも本質的で根源的だと述べている。フクヤマはニーチェ哲学を論破したと言うよりも、政治体制領域に入ってこないように、個人レベルの領域に限定化したと読んだほうが正確である) フクヤマにとって、歴史とはさまざまなイデオロギーの闘争の過程であり、リベラル民主主義が自己の正当性を証明していく過程である。 よって、民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わる(歴史の弁証法的発展が完了する)。 世界史上に起こった戦争は、本質的にはみなイデオロギー闘争(階級闘争や経済的利害の衝突ではなく)であり、歴史には栄華を誇った大国は数あるが、非民主国家はみなその不合理性ゆえに崩壊した。真に安定性のある政治体制は、民主体制のみであると、フクヤマは考えている。(フクヤマ的な歴史解釈によれば、第二次世界大戦は、持てる国vs持たざる国の闘争というよりも、民主主義vs全体主義(ナチス的な民族至上主義)vs共産主義の戦いになる。) マルクスは、歴史の発展は経済的な階級対立にあると主張したが、フクヤマはむしろ精神的な優越願望・対等願望(これはそのままニーチェ哲学の貴族道徳・奴隷道徳に類比できるだろう)の対立によって生じると主張する。優越願望とは、他人よりも上に立ちたいという野心であり、向上心であり、勝利への執着心である。対等願望とは、差別はいけない、傲慢になってはいけないというような、キリスト教的な博愛主義、平等主義である。出身や人種、性別、宗教などによる差別がなくなれば(それは法制度的には男女普通選挙制など、各種の政治的権利の平等によって達成される)、もはや歴史を発展させる要素はなくなる。必ずしも、経済的な平等や、生産手段の共有化を達成する必要はない。人間が憤りを感じる不合理は、あくまで機会の平等、ルールの平等が破られた場合であり、公平な自由競争の結果としての不平等(スポーツの勝敗や成績、学歴、収入、企業内のでポストの差など)は、納得して受け入れる。政治的権利、機会、ルールの平等が達成されたら、もはや不合理は存在せず、大規模で組織的な内乱も反乱も起きなくなるので、歴史は終わる。 フクヤマは歴史を動かす原動力は、認知を求める奴隷の労働だと主張する。気概が、優越願望が、人間のモチベーションを駆り立て、歴史を発展させるのである。貧困そのものが問題なのではない。貧困であると言うコンプレックス、劣等感、ルサンチマン、認知の欠如が、階級闘争の原因になるのである。戦争や内乱が起きるのも、経済的利害ではなく、気概のぶつかり合いによって起こるのである。現実に第1、2次世界大戦は、戦勝国も敗戦国も、両方大損害をこうむって、両者得るところなく終わった。戦争はもともと経済的には不合理な行為であり、戦争原因は居丈高に盛り上がった民族主義やナショナリズムにある。命あっての物種である以上、単純に経済的利害のみで動く人間は、むしろ戦争を避けようとする。命がけで戦うのは、命よりも大事なものがあるからである。(これは、戦争の原因を経済的利害の対立に見ようとするマルクス主義的唯物史観、レーニン的な帝国主義論に対する批判である。) また、歴史の進歩という概念そのものが西洋的、キリスト教的であり、歴史はカオスであり、法則を見出すことは不可能であるという予定調和な運命論的歴史観批判(当時はマルクス主義的唯物史観の運命論的・決定論的歴史観の挫折から、『歴史の法則性』という概念そのものが懐疑的に見られていた)に対して、フクヤマは民主主義の普及は不可逆的な要素であり、じゅうぶん進歩と呼びうると主張する。歴史は弁証法的に発展するものであり、ただ繰り返されるものではない。紆余曲折を経ながらも、民主国家が増えていると言うのは否定できない歴史的事実であり、歴史には否定できない法則性が厳然と存在するとフクヤマは主張する。 フクヤマは、いまだ民主化を達成していない国や地域を歴史世界、民主化を達成した近代国家や地域を脱歴史世界と呼ぶ。いまだ歴史(イデオロギー闘争)を行っている世界と、それが終わった歴史以後の世界という意味である。これらの世界では、互いに行動原理が異なる。歴史世界では、マキャベリズム的陰謀術数や、パワーポリティックスや軍事主義が幅をきかせ、性懲りも無く他国を侵略したりするだろう。しかし、脱歴史世界では、トラブルは民主的な対話によって回避され、軍事的緊張も起きなくなる。事実として、以前は慢性的な交戦状態にあった欧州も、今ではまったくといっていいほど軍事的緊張感は存在しない。国家行動を考える上では、宗教や文明の違いよりも、民主国家か独裁国家かの違いで判断するほうが合理的かつ効果的だと考えている。 政治学における現実主義とは、国際情勢をパワーポリティックス、物理的な軍事バランスによって判断する考えである。国際関係論で大きな影響力を持つ考え方だが、フクヤマは脱歴史世界ではもはやこの考えは有効ではないと指摘している。たとえば、アメリカとカナダの国境線は、軍事的には真空地帯であるのにもかかわらず、どちらもその隙をついて侵攻を企てたりはしない。また、かつては世界大戦の震源地となった欧州だが、今ではその国境線沿いには、治安維持程度の警察力しか配置していない。民主国家間では、軍事的に強いから攻め込まれない、軍事的に弱いから攻め込まれる、などという現実主義的なパワーポリティックスは通用しない。民主国家は、トラブルは民主的な対話によって回避され、互いの主権や正当性を評価し合っているため、それに異議を唱える軍事行動などは起こらないのである。これは民主的平和論と呼ばれ、その論客であるマイケル・ドイルやブルース・ラセットをフクヤマは高く評価している。しかし、民主国家同士の大規模な戦争はもはや起こらないだろうが、今後も民主国家と独裁国の闘争は起こりうるだろうとフクヤマは主張し、そこではまだ現実主義が有効だろうと考えている。 タイトルの『歴史の終わりと最後の人間』の「最後の人間」は、ニーチェ哲学の概念である。 ニーチェは、民主主義的な価値相対主義の中に埋没し、平等を愛して、他人と争うことを嫌い、気概を失った人間を「最後の人間」と呼ぶ。(これはヘーゲルの哲学に出てくる、「最初の人間」に対比させて造った概念である。最初の人間たちは名誉のために命がけで戦い、勝った者は主人となり、負けたものは奴隷となった) フクヤマは歴史終焉論を単純な「アメリカ勝利論」、「資本主義万歳論」と言うよりも、むしろ寂寥感のあるイメージで語っている。歴史の終わりとは、壮大な歴史の動きの終焉であり、もはや大革命も大戦争もおき得ない。カエサルやチンギス・ハン、ナポレオンのような英雄も現れない。50、60年代の学生運動のような大きな政治的ムーブメントもおきず、人々はただ淡々と日常生活を過ごすだけ。しかし、それが果たして本当に人間を幸せにしていると言えるのか? 近代化を完成させ、すべてのプロセスを終えてしまった人間の寂しさ、ニヒリズムの到来もフクヤマは指摘しているのである。 フクヤマの説に対し、サミュエル・ハンチントンは著書『文明の衝突』の中で「支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしない」とし「歴史は終わらない」と主張した。 このように、「歴史の終わり」への批判として、ハンチントンの「文明の衝突」論が挙げられることが多いが、文明の衝突論と歴史終焉論はもともと思考軸が違うことに注意を払う必要がある。 ハンチントンが言うように、文明による価値観の違いが衝突を生むということは十分ありえる。しかし、その文明の衝突を回避する唯一の方法は、リベラルな民主主義の普及のみである。発展途上国の宗教戦争や民族紛争は、民主主義理念の普及が不十分だから起こるのである、というのがフクヤマの考えである。フクヤマは9・11同時多発テロ後も、「まだ歴史は終わったままだ」という見解を示している。フクヤマにとって、リベラル民主主義とは、文明圏や宗教圏よりも高次にある普遍的なイデオロギーであり、けしてキリスト教圏やアングロ・サクソン文化圏などに固有なものではない。日本や韓国、台湾、インドのようなアジア諸国にも民主主義は普及し、プーチンの強権主義が批判されるロシアも一党独裁に回帰するような動きは見られない。5大国の最後の独裁国である中国も段階的な民主化を進めている。反米的なイスラム教国であるイランも限定的だが民主体制は維持されており、フセイン体制崩壊後のイラクの国民議会選挙にも多くの有権者が参加した。「歴史の終わり」が発表されて10年以上たつが、その間、フクヤマの「歴史とは世界が民主化していく過程である」という主張は、揺らぐどころか、ますます精度を増しているとフクヤマは考えている。 フクヤマは、リベラル民主主義は、合理的で普遍的な正当性を持ったイデオロギーであると述べている。これは誤解を恐れずに言えば、『民主主義絶対正義論』である。価値相対主義を信条とするリベラル民主主義が絶対正義へと化し、不寛容な政策を採る。これは古くから言われていた民主主義の持つ危険性であり、矛盾である。アメリカのブッシュ大統領が、『中東の民主化』を掲げ、ありもしない大量破壊兵器をでっち上げて軍事侵攻を開始した。独裁者はそれだけで悪なので、武力に訴えて追放してもよいと言うアメリカの行動は、やはりフクヤマ的な歴史終焉論が大きな思想的背景になっているのは否定できない。 しかし、フクヤマの歴史終焉論は歴史哲学であり、現状論ではない。歴史段階が成熟していないところに、不用意に民主主義を持ち込んでも混乱するだけである。確かに今イラクを始め、中東は混乱している。それは石油と言う地下資源に恵まれすぎているので近代化、工業化する必要が他国よりもないという側面もあるだろうし、イスラム教の政教分離が現段階では不十分であるという側面もある。 イラクの混迷は文明や宗教の差と言うよりも、歴史段階の差であり、時間はかかるが必ず中東にも民主主義は根付くとフクヤマは考えている。 |
[ 75] 歴史の終わり - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A
|
背後で「……気をつけてね」という母さんの声。こわがるような、ためらうような、言いたい事を我慢しているような声。 言いたい事はわかってる。「ちゃんと学校にいきなさい」。いや猫なで声で「ほんとはできる子なんだから自信をもって」かもしれない。 本をずっと読むのも、ゲームをやるのもあきた。ぼくみたいな境遇のやつはたいてい家にこもってゲームとかインターネットやってるらしいけど、あんまり興味がもてなかった。 暑い。まだ蝉の声がする。なぜだか蝉の声をきいてるだけで腹が立ってきた。でも家の中にもどるのはもっと嫌だった。 曲り角の向こうから、自転車に乗ったおばさんがやってきた。近所の人だ。ぼくをちらっと見て、すぐに顔をそらす。急いで去っていった。 おばさんの今の視線は、「かわいそうな人」を見るものだった。ふざけないでほしい。ぼくはかわいそうなんじゃない。学校に行けないんじゃない、行かないんだ。ああいう下らない人たちにもう混ざっているのが嫌になったんだ。 ますますいらいらした。うつむいて早足で歩き出した。少しでもここから遠くへ逃げ出したかった。 ぼくが学校でどんなめに遭っているか知ろうともしなくて、助けてもくれなくて、ただ「がんばれ」「負けちゃ駄目だ」しか言わない人たちなんて。がんばれないから困っているのに。それもわからない人たち。 学校にいくことをやめた時、すごい解放感があった。もうあいつらと顔をあわせなくて良いんだとわかった時の喜び。ドアの外からがんがん叩く音も、ご飯のたびにきかされる説教も、少しわずらわしいだけで大した問題じゃなかった。学校行かない日が一週間二週間つづいて、一か月になると、説教はなくなった。かわりに父さん母さんは、少しおびえたような眼でぼくを見るようになった。そしてぼくのいないところで激しく喧嘩するようになった。寝たふりをして聴いていたからよく知っている。「あの子がああなったのはあんたがしっかりしてないからよ!」「お前が厳しく言わなかったからに決まってるだろうが!」 もちろん次の朝にぼくが顔を見せると、母さんはむりやり笑顔をつくっておはようって言う。喧嘩のことなんて隠したまま。 学校に行かないと、辛い事でも我慢しないと、ちゃんとした大人になれないってよく言う。世の中を渡っていけないとよく言う。 いつのまにやら、ぼくは坂道をのぼっていた。相変わらず同じような形の家が、坂の両側にならんでいる。 小さな公園だ。遊具がいくつか並んでいた。バネつきのやつ、いかにも古そうなブランコもあった。あとはツツジが適当に生えてるだけ。子供も、犬の散歩してる人も、誰もいない。でも眺めはよかった。住宅地をうまいぐあいに見下ろせた。 ちっぽけだ。ぼくが「ならなくちゃいけない」らしい「ちゃんとしたニンゲン」が、あの狭くてちっぽけな街の中にうじゃうじゃひしめいてる。 白と紺色の鮮やかなセーラー服が、まず眼に飛びこんできた。とてもスカートが長い不思議なセーラー服だ。肩に届くくらいの、金色に光る髪。ひかえめにベンチにこしかけて、分厚い本を読んでいた。 不思議だった。いつもならできない。知らない人だからぼくをいじめるはずはないけど、でも「きっとぼくのこと分かってくれないに決まってる」って思う。 ぼくは自分の口から出た声に驚いた。なんてことを言ったんだ。きっとばかにされる、いつもみたいにばかにされる。 「ほんと嬉しかった。ずっと本ばっかり読んでから、さすがに退屈しちゃって。ね、話し相手になってくれないかな?」 「大丈夫! どんな話でもきいてあげるから。っていうか、私に話しかけてくれる人ってほとんどいないんだ」 そう言われてみれば。いまはもう9月。学校は始まってるはずなのに、どうして公園なんかにいるんだ。授業はどうしたんだ。 このひと。認めてくれた。当たり前のことみたいに。怒らなかった。ふんと笑うことも、「この人かわいそう」っていう眼をすることもなかった。こんなひと今までいなかった。 ぼくはたぶん、もじもじしていたと思う。顔をまっすぐ見つめるのがやっとだったと思う。女の子はふと真顔になって、 「じゃあ私の事から話すね。私は……ほら、外国から来たから、日本の学校ではなじめなくって。口きいてもらえなかったり、机に落書きされたり、教科書とかお弁当をトイレに捨てられたり、いろいろあったの。……きみも同じ?」 どうしてこの人は、はっきり自分の事を話せるんだろう。ぼくは口に出せないのに。どうせ「どうして抵抗しない!」って怒られるに決まってるから何もいえないのに。 女の子は一瞬だけなにかをこらえるような表情になった。すぐに笑顔に戻る。今まで以上の。見ているだけで心が軽くなるような。ぼくがこんな風に笑えたのは一体どれだけ前のことだろう、と思えるような。 ぼくの一言は暗かったけど、彼女の笑顔は消えなかった。それどころか彼女はにっこり笑ったまま両手をぺたんとあわせて、その動作はとても無邪気で、 「もちろん本名じゃないわよ。私の国の言葉で、『幻影』という意味。だってほら、幻みたいなものでしょ。世の中から見て」 いつもと同じベンチにすわっていたイルジオンさんが立ち上がって、ぺこりとおじぎをする。 「う、うん。だってほら、昼くらいまでごろごろしてると、その、なんて言うか、話せる時間が短いじゃない? ……あ、ええと、迷惑だった?」 カバンから冷えた缶ジュースを取り出した途端、イルジオンさんの顔がくもった。嘘のように笑みが消えて、白いほっぺたをこわばらせた。 学校で、ぼくが教室に入った時の感覚。誰かが黙り、誰かが眼を背ける。空気全体が重くなる。ぼくをじっさいに殴るのはほんの一部だけど、「なんか関わりたくない」っていう空気だけは誰もが出してる。 とにかく、この人が悲しんだり困ったりするところを見たくなかった。どうしよう? ぼくは缶を空け、一気に二人ぶんのジュースを飲み干した。 ……ぼくは人の笑い顔を見るのに慣れてない。「こいつバカだ」という意味の笑い顔ばかり何年も見ていたから。だから細かい分析はできないけど。でもいまのイルジオンさんは、ちゃんと笑ってる。ほっとした感じだ。 「ううん。最初は恨み言ばっかりだったじゃない。あいつに殴られた、机に落書きされた、みんながぼくを笑ってるって。最近、ぜんぜんないよ?」 心のなかでドロドロしていた、誰にも話せないことをぶつけた。ぶつけても気味悪がられないとわかったら、とまらなかった。でも最初の三日くらいでやめた。 「言いたいこと言ってすっきりしたんじゃない? 解決なくても、気が楽になることってあるわよ。友達とか、家族とか、嫌なやつだと思ってても、ちゃんと話してみれば少しくらいは気が軽くなるかも。私はひとりぼっちだったから、ずっーっと明るくなれなかったけど」 変なの。イルジオンさんはぼくよりずっと明るいじゃないか? どうしたらこんな風になれるんだろうって思うのに。 イルジオンさんが本を持ち上げて、ぼくの前に広げてくれる。アルファベットがずらりと並んでる。知ってる単語は一つもない。 「この世界とは別の場所に、すばらしい夢の世界があって、自分はこの世界になじめなくて、居場所がなくて、だから夢の世界に行くんだ、みたいなお話よ」 不思議な人だ。同じ本を毎日ずっと読んでるなんて。きっとすごく大切な本なんだろう。あんまり詳しく訊いちゃいけない気がする。でも知りたいし…… 一瞬だけ「うん、買いにいくよ」と答えそうになって、あわてて言葉を切った。できないよ、本屋まで行くなんて。みんなが変な眼でぼくをみるんだ。 「いや……それがね、変なんだ。イルジオンさんとあってから……なんか自分が自分でなくなったみたいで……」 「え? ……そりゃ、楽しいけど。びっくりするし、何を話せば良いのかわからなくて困るけど、でも楽しい。話をきいてくれるし……」 ぼくはそこで口ごもった。ぜんぜん違う。話をきいてくれるってのは楽しさのごく一部だ。この人通りのない公園で、ベンチにすわって、イルジオンさんといっしょにいることじたいがとても楽しいんだ。理屈を超えた楽しい時間なんだ。そう伝えたかった。でもどうしても言葉がでなかった。 眼を覚ました。ふとんをはねのける。部屋の中は薄暗い。起きて窓をあけると、ざあざあという雨音が飛びこんできた。土砂降りだ。 まず思い浮かべたのはイルジオンさんのことだった。これだけの雨では、さすがに公園にはいないだろう。じゃあどこにいるのか。住所を知らない。電話番号を知らない。会う方法がない。……どうしてきいておかなかったんだろう。でも本名も教えてくれないくらいだしなあ…… ぼくはパジャマを着替えて部屋から出る。テーブルのある部屋では母さんが朝ご飯を支度していた。母さんはぼくをちらりと見て、いままでよりもっとひどい、化け物を見る感じで目をそむける。 「ねえ。辛いことがあるなら相談して。お願い。母さんね、あんたを苦しめたいわけじゃないの。そんなに、そんなに嫌なら、学校なんかいかなくていいから。ね、いまはゆっくり休んで。ちゃんと治そう、ね?」 ほんとうは夜も話を続けたいんだけど、夕方になったらイルジオンさんが「もう帰ったほうがいいわよ」って言うんだ。 「見た人がいるの。あんたがベンチに座って一人で喋ってたって。誰もいないのに。いない相手と楽しそうに喋っていたのよ!」 走った。靴を履いて飛び出した。傘やカッパを探すことも考えられなかった。たちまち全身がずぶ濡れになった。服が重い。まとわりついてうまく走れない。足がもつれて転んだ。顔面からアスファルトに突っ込んだ。立ち上がった。また走り出した。息があがった。口の中がネバネバして気持ち悪い。どうして運動してこなかったんだろう。どうしてこの程度の距離さえまともに走れないんだろう。鼻と口の中に雨水が流れ込んできた。 公園に飛び込んだ。砂の上をジャリジャリと走って、あちこちへこんで泥水だらけの地面を蹴って水をまき散らし、ベンチを探した。 毎日来てる公園だった。でも大雨が降ってるだけでまるで別の場所に見えた。黒い砂場が広がっている。バネのついた遊具が、ブランコが、残骸みたいにうずくまっている。 イルジオンさんの髪はぬれていなかった。セーラー服も、手も、足も、雨が当たっていなかった。 ふとイルジオンさんがこちらを見る。数メートルの距離。まず驚きの表情。あきらめを含んだ、弱々しい微笑みにかわった。白い顔には一滴の雨粒もなくて。すべての雨が体を通りぬけて。そこには何もないみたいに。 「い、イルジオンさん、母さんが、イルジオンさんのこ、ことを、い、いないって。誰もいないって」 イルジオンさんは本を抱えてたちあがった。一歩ずつちかづいて、ぼくのすぐ前までやってくる。たった2、3歩の距離でぼくたちはむかいあった。 「そうよ。わたしは、もういないの。……どう説明すればいいのかな。学校でいろいろあって、この世界がすごく嫌で。だから世界から出ちゃったの。そしたら別の世界に行けると思ったの。でも、行けなかった。世界から少しだけはみ出した場所に、ずっとしばりつけられたの。死んだこの公園から一歩も出られない。しかも、みんなに私は見えない。触れない」 「あなたは、世界のことを嫌いだったから。じっと眼をこらして、世界の外を見ていたから。だから見えたの」 ぼくは叫んだ。イルジオンさんの手を取ろうとした。できなかった。手と手がすりぬけた。ぼくがつかんだのは雨だけだった。手が、体の奥深くにもぐりこんでいった。ただ濡れるだけ、他の感触はなにもなかった。 「だってずいぶん心が軽くなったでしょ? 明るく話せるようになったでしょ? 前ほど、世界を憎んでないよね」 「ぜんぶ嘘。ぼくはイルジオンさんと一緒にいるのが好きなだけ。それだけが楽しくて、あとの人間は全部大嫌い」 そう言ってやるつもりだった。世の中の悪口なら何時間だって言えるはずだった。ひとりだったころ、ずっとそんなことばかり心の中で並べていたから。 そのはずだったのに。口を開いたその瞬間、いえなくなった。ぼくはただイルジオンさんをみつめた。 たった一歩の距離で、大きなぱっちりした眼をぼくに向けていた。祈るような表情。眼を合わせているだけで心がかきむしられた。胸の中で得体の知れない痛みがふくれあがった。 「……楽しかった。楽しかった! たのしかった! わかってくれて! いっしょに泣いて、笑って……そんなことをしてると、だんだんいやな気持ちが減っていって……こんなに、たのしいことが、このよにあって。しんじられなかった! でも、ほんとなんだ。もう、みんな死んじゃえって思えないんだ! ……ちょっとはいいかなって……そんなふうにおもってしまうんだ!」 ぼくの言葉が悲鳴にかわった。イルジオンさんの体が半分透けている。自分の気持ちを認めてしまったから? 「世界の外」が見えなくなってる? 「だいじょぶ。話ができないだけで、ずっとここにいるから。あなたのことも忘れない 。楽しみがひとつ増えたわ。……ね、一つだけお願いがあるの」 そのまま時間が過ぎた。イルジオンさんの表情はこわばっていた。ぼくも喋ることができなかった。風が頭上の樹を揺さぶる音、雨がベンチを叩く音だけが響いた。 たぶんせいぜい五秒くらいだったろう。でもぼくは耐えられなかった。何をいうのか、という恐怖が、イルジオンさんの表情がとても辛そうだという思いが、ぼくの胸を締め付けた。だめだ、何かいおう、そう思って口を開いた瞬間、イルジオンさんは言った。 「……私も楽しかったから。あなたと話せて、とても楽しかったから。だからあなたはそっちの世界を好きになって。私みたいにならないで」 ぼくはその手をにぎろうとした。今回もつかめない。指が手を通り抜けた。でもイルジオンさんも握り返してきた。これは確かに握手だった。 母さんが声を上げて泣き出した。まともに聞き取れない言葉を並べた。ぼくは母さんの手をとって、公園の外へと歩き出した。 激しい雨の音も、耳元で叫んでる母さんのことも気にならない。ぼくの心にあるのは違うこと。 公園を出て坂道に入った。家がずらりと並んで下まで続いてる。この先はぼくの家。嫌いだった家。一歩ずつ家へとおりていく。 ふと視界が歪んだ。頬を熱いものがつたっていった。雨に混じってすぐに消えた。でもあとからあとからあふれてきた。 むりやり顔を上げた。胸を張った。黒く立ちこめる雲に向かって、殴りつけてくる雨に向かって。 |
[ 76] 夏の終わりのイルジオン
[引用サイト] http://www.oaks-soft.co.jp/princess-soft/short/story012.html
