オールナイトとは?
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この項目・一覧は最新・正確な番組情報を提供するものではありません。録画・録音などの際には放送局の公式Webサイトなどで確認してください。免責事項もあわせてご覧ください。 オールナイトニッポン(All Night Nippon)はニッポン放送をキーステーションに全国で放送されているラジオ番組である。略称は「オールナイト」、「ANN」。 1967年10月1日(正式には10月2日未明)放送開始以来、40年に渡り放送され続けている長寿番組である。全国的な人気と歴史を誇り、若者をターゲットとした深夜放送の代名詞的存在であり、2007年現在放送中のニッポン放送制作番組の中で、放送期間は『テレフォン人生相談』に次ぐ第2位である(既に放送を終了した番組を含めると、『新日鉄コンサート』・『テレフォン人生相談』に次いで第3位)。数多くの人気パーソナリティがここから生まれた。 この記事は、記事が長くなったために、下記のページに内容を分割しています。このテーマに関する情報については、それぞれのページをご参照ください。 現在放送されている番組では「ナインティナインのオールナイトニッポン」(木曜25:00-27:00、パーソナリティはナインティナイン(岡村隆史・矢部浩之))が約13年半放送されており、「オールナイトニッポン」では一番の長寿番組である(それまでの長寿番組は11年9ヶ月の「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」であった)。 かつてのように1部・2部とは分割されておらず、旧1部枠(25:00-27:00)を「オールナイトニッポン」、旧2部枠(27:00-29:00)を「オールナイトニッポンエバーグリーン」もしくは「オールナイトニッポンR」と総称している。 提供クレジットの読みは各パーソナリティが読み上げているが、火曜日のくりぃむしちゅーは有田哲平が、木曜日のナインティナインは矢部浩之が読んでいる。 月曜日〜木曜日 27:00 - 29:00(フルネットは7局ネット、28:00までは3局ネット、ローカルセールス枠) 偶数月第2日曜日(4,6,8,10月はメジャーリーグ中継の場合がある)特別増刊号 25:30 - 28:30(ニッポン放送のみ) オールナイトニッポンのネット局はニッポン放送も加盟しているNRN系列局が多いが、NRN・JRN回線を使用する際にそれを表示している局の番組表をみれば分かるとおり、NRN回線は使用していない(単に「LF」と表示されている)。 愛知・岐阜・三重の3県ではJRN単独系列の中部日本放送(CBC)でネットしており、CBCラジオは千代田区九段のCBC東京支社経由の自社回線でネットしている。これはニッポン放送が番組開始当初、全国ネット拡大を試み、この地区はまずNRN系列の東海ラジオにネットの依頼をしたが、東海ラジオは自社制作の人気番組『ミッドナイト東海』(現・『東海ラジオミッドナイトスペシャル』)を放送中でネットを断られてしまった。このため、CBCラジオに依頼したところ、反対に『ミッドナイト東海』に劣勢であった事もあり、ネットを了承したという経緯があったためである(後に東海ラジオは「allnightnippon SUPER!」→「オールナイトニッポンいいネ!」をネットした。また、「魂のラジオ」枠はCBCラジオではなく東海ラジオでネットしている。)。しかし、平日は27:00までの放送であり、『オールナイトニッポンR』や『オールナイトニッポンエバーグリーン』まではネットしていない。CBCラジオのホームページにあるリスナーからの意見を紹介する欄では、しばしばこの事が投書されており、AMラジオ局が複数存在する地域の多くがオールナイトニッポンを29:00までネットしているにも関わらず、東海地区は途中で打ち切られる事にリスナーからも疑問の声が昔から挙がっている。この声は結果的にネットされないTBSラジオの『JUNK』リスナーからも挙がっている。 そのような経緯から、以前は、土曜日の深夜(日曜の朝3:00?5:00)の時間帯のみ、CBCはオールナイトニッポン、東海ラジオは走れ!歌謡曲とNRN系列の番組のみしか流れず、JRN系の番組が流れないと行った奇妙な(!?)現象も起っていた。走れ!歌謡曲の日曜打ち切りと、あなたへモーニングコール日曜朝の放送開始によって、一応、その現象は解決(!?)したが、その結果、オールナイトニッポンRが4:00で打ち切りとなり、その続きが聞けないといった苦情も発生している。それは他のオールナイトニッポンRのネット受け局もそのような対応(JRNとのクロスネット局。NRN単独のSTVラジオやKBS京都などは5:00迄放送)のため、同様の不満がおこっている(エバーグリーンをネット受けしている四国の一部の局も同様の対応で4:00打ち切り)。 また、AM KOBE(現・ラジオ関西)でも「SUPER!」→「いいネ!」が2001年4月から「いいネ!」の放送が終了した2004年3月までの3年間ネットされた。それまでは自社製作の深夜ワイド番組『神戸アコースティックストーリー』を放送していたが、AMK側の都合で打ち切られ、後番組を自社制作にはせず、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けした。なお、2004年4月以後もそのままの流れで「いいネ!」の後継番組を同時ネット受けし続けている。また、2007年4月からは変則的に「エバーグリーン」を28時からの飛び乗りネットを開始したが、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大した。 土曜日の福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオに関しては時間枠が特殊だということもあり、北海道では本来STVラジオがネットすべきところを、「魂のラジオ」だけは2003年10月より競合局のHBCラジオでネットしている。(もともとは魂のラジオも25時〜29時枠同様、STVが放送していたが、2002年3月に打ち切っていたのを競合局がネット再開した形となっている)また、福岡県でも同様にオールナイトの別番組は全てKBCラジオで流れているにもかかわらず「魂のラジオ」枠だけRKB毎日放送がネットしているといった腸捻転現象がおきている。特にRKBはNRNには加盟していないため、CBC同様特殊なケースとなっている。 2004年秋季編成から茨城放送、更に2005年秋季編成からはKBS京都でも同時ネットが行われることになったため、キー局のニッポン放送以外では上記2局がオールナイトニッポンをフルネットするようになった。 ニッポン放送では子会社の「株式会社深夜放送」の制作で、未明の放送休止時間帯に音楽のディスクジョッキー番組『オールナイトジョッキー』(DJ・糸居五郎)を1959年10月10日から放送していたが、それを発展解消させる形で1967年10月から放送を開始した。放送時間は日曜深夜を除く25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。番組開始当初は当時のニッポン放送アナウンサーである糸居五郎、斉藤安弘、今仁哲夫、高岡寮一郎、常木健夫、高崎一郎らが担当した。番組開始時は放送作家もおかず、また特にこれといったメインコーナーも設けることもなく、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流す低予算番組としての出発だった。放送開始当初は番組の冒頭に「君が踊り僕が歌うとき 新しい時代の夜が生まれる(生まれます、と言い換えていたパーソナリティもいた) 太陽の代わりに音楽を 青空の代わりに夢を フレッシュな夜(糸居五郎は、「新しい時代の夜」と言っていた)をリードする オールナイトニッポン」なる口上が放送され(この口上は現在でも初代パーソナリティの斉藤安弘がパーソナリティをつとめる「オールナイトニッポンエバーグリーン」で聴くことが出来る)、その後番組スポンサー(番組では「協賛スポンサー」としている)の紹介があって本編に入るスタイルだった。 「オールナイトニッポン」が放送開始した1960年代後半というのはちょうど東京オリンピックと大阪万博に挟まれた高度成長期真っ只中であり、いわゆる団塊の世代が大学生生活を送っていた時代であった(学生運動が激化していた時代でもある)。「オールナイトニッポン」はそのような大学生や、受験勉強に明け暮れている高校生・中学生にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかったビートルズやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスなど海外のロックミュージックからザ・フォーク・クルセダーズなど日本のフォークソングまで若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流し、音楽ファンからの絶大な人気を得た。さらに「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛に毎週2万枚ものリクエストやお便りが届くようになっていた。(ちなみに、音楽がメインであった当時は深夜番組であるとはいえ現在のようなあからさまな下ネタの話題は抑えられていたが、決して皆無であったわけではなかった。40周年となった2007年10月1日、「BEAT CRUSADERS ヒダカトオルのオールナイトニッポン」に特別出演した斉藤安弘は、「ニッポン放送の品位に関わることであって、それで他局に負けてはならないということで、下ネタはやらなかった。そのため、相手を置かずに一人でやった」と語った。その一方、「下ネタはやらない代わりに自分は26時になるとトイレの話を専門にしていた」とも言った。)開始当初は人知れずひっそりと始まった「オールナイトニッポン」は、1年もしないうちに当時の若者層(大学生・高校生)に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長し、TBS『パックインミュージック』・文化放送『セイヤング』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至った。 競合番組が乱立する中「オールナイトニッポン」は何よりもリスナーとの対話を重視し、サブタイトルに「ビバヤング」を採用。前述のオープニングのスタイルもサブタイトルを強調し「“ビバヤング”オールナイトニッポン、この番組は…」となる。会報「Viva young」も発行した。今仁哲夫と天井邦夫(元・ニッポン放送副社長、現・顧問)が日本全国を縦断してリスナーと交流する「ビバくりげ」も企画された。「ビバヤング」(=若者バンザイ!)は60年代から70年代にかけての「オールナイトニッポン」の合言葉となる。 1969年には木曜日に高嶋秀武が、土曜日に亀渕昭信が参入する。亀渕はアナウンサー出身ではなかった(製作担当)が、それを逆手に奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に「オールナイトニッポン」の看板パーソナリティとなる。同じパーソナリティ仲間の斉藤安弘とともに「カメ&アンコー」としてCBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)からレコードを出し、その中でも「水虫の唄」はオリコンチャートにランクインするほどのスマッシュヒットとなった。 最初は関東ローカルであり、提供もニッポン放送サービス(現・ポニーキャニオン、ポニーキャニオンは90年代まで番組の協賛スポンサーだったが後に降板)一社だけだったが、夜間はラジオの電波が広範囲に届くこともあり、関東のローカル番組であったにもかかわらず日本全国からはがきが届いていた。その後、1968年4月にSTVラジオ(当時の札幌テレビ放送)が、1970年にはKBCラジオや長崎放送などが番組受けを開始するようになるなどネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。まさにこの時代が「オールナイトニッポン」の第1次黄金期と言えるであろう。 深夜放送ブームは1970年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化(それまでの学生運動世代からシラケ世代への移行など)や時代の変化にあわせ、あえてニッポン放送は新たな放送スタイルを追求し始めることになる。 1972年6月からの1年間は亀渕昭信が『ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した。(注:1972年9月までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。1972年10月から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった。)次いで毎日27:00 - 29:00までは最初今仁哲夫が担当した『ビバテツショー』が、1973年からは池田健が担当する『ビバケンショー』が放送された。この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。 そして1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎えることになり、アナウンサーがメインだった従来の体制とはまったく違った番組に変質してしまう。このタレントパーソナリティ第1期の布陣は小林克也・泉谷しげる・あのねのね・カルメン・岸部シローである(木曜は斉藤安弘が一旦復活した。また、カルメンはオールナイト史上初の女性パーソナリティである)。しかし、土曜担当の岸部シローがわずか3ヶ月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌1974年夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続くことになる。(あのねのねも途中休止期間がある。)さらに追い討ちをかけるように、4時間のロングラン放送に耐えられない(体力的にも話力的にも)パーソナリティが増えてきたことから、1974年6月からは27:00を境にパーソナリティを入れ換える2部制が本格的に導入されることとなる。 2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにニッポン放送はタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった。一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフがオーディションをした上で決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、野坂昭如や稲川淳二など本来の「オールナイトニッポン」の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。この時点で番組本来のコンセプト(ニッポン放送アナウンサーによる音楽主体の若者向け4時間番組)は失われたが、それでも主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての機能はかろうじて引き継がれた格好となっている。また、一旦降板していた名DJ・糸居五郎は1975年に金曜2部、さらに水曜を経て1977年10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わってしまった「オールナイトニッポン」において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。糸居五郎の月曜2部は1981年、本人の定年退職による引退まで続いた。 迷走状態が続いていた1970年代中盤〜1980年にかけて最初に頭角を現したのがあのねのねや笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、つボイノリオなどの色物系・コミックソング歌手の担当番組であった。特に笑福亭鶴光は全て大阪弁で番組を通すという特異性から当初は抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタはがきコーナーを増設し、下ネタを含めた話術の高さも相成って次第に人気を集めるようになり、70年代末には番組に送られてくるはがきは毎週2万枚、ラジオ聴取占有率80%〜90%というオールナイトの看板パーソナリティに成長する。当時大人気のあのねのねは番組中、原田伸郎が当時せんだみつおが担当していたセイヤングの生放送中に文化放送のスタジオに電話をかけ、清水國明もセイヤングの生放送中のスタジオに乗り込んで電話を通して「あのねのねのオールナイトニッポン」と番組宣伝し、放送局ジャックならぬ番組ジャック(?)を敢行しファンの人気をさらに広めた。番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。タモリは鶴光が同じ話題として取り上げる「なんちゃっておじさん論争」で話題となった。また、他の曜日が2部制になった後も鶴光担当の土曜日だけは4時間の放送を継続した(一時期金曜のつボイノリオも4時間放送に挑戦するが1年でギブアップしてしまう)。 さらに当時全盛であったフォークソングやニューミュージック系シンガーの番組に火がつき、武田鉄矢・南こうせつ・イルカ・山田パンダ・加藤和彦・自切俳人〔ジキルハイド〕(北山修)・桑田佳祐・長渕剛・松山千春・吉田拓郎などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。これに加え従来からの流れであるくり万太郎やなすえりこなどのLFアナウンサーも番組を支え続けた。そして、中島みゆき(1979年- 月曜1部)やビートたけし(1981年- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。 また1977年以降『ハウス』、『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』、『幻魔大戦』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。 ちなみに現在のオールナイトニッポンの柱となっている「トーク主体」・「コーナー主体」・「ネタはがき主体」の番組構成はこの時代に確立したシステムであり、ハガキ職人が幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で「オールナイトニッポン」だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続けることになる。第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の「オールナイトニッポン」を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。 1986年10月1日には20年目突入を記念して「ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)」という特別番組が放送され、中島みゆき、とんねるず、小泉今日子、ビートたけし、サンプラザ中野、ABブラザーズの当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には1985年6月15日開催の国立霞ヶ丘陸上競技場での「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」のスピンオフ企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。 1985年に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズや圭修が土曜のお笑い枠を引き継いだが、1988年からはニューミュージックの大御所・松任谷由実が土曜1部を担当し1999年までの長期にわたる活躍をすることになる。1980年代末〜90年代初頭にかけてバンドブームが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。1部ではサンプラザ中野・デーモン小暮・大槻ケンヂ・木根尚登などが、2部では渡瀬マキ(LINDBERG)・寺田恵子(SHOW-YA)・AYA(PINK SAPPHIRE)・THE東南西北などどが活躍し、ブームの一端を担うことになる。続く1990年代前半も電気グルーヴ、中居正広(SMAP)、YUKI(JUDY AND MARY)、吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)、大江千里、小沢健二とスチャダラパー、EAST END×YURIなどの有名どころから、コアなファンが多い加藤いづみや石川よしひろまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。 お笑い系パーソナリティは1985年に水曜1部でとんねるずが登場、さらに1989年には金曜1部でウッチャンナンチャンが登場する。落語家の弟子であった伊集院光が水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。80年代を駆け抜けたビートたけしは途中代役を立てながら1990年まで番組を継続したが、その後はたけし軍団の浅草キッドなどもオールナイトを担当する。1992年に松村邦洋が、そして1994年には2007年現在でもパーソナリティを続けているナインティナインが登場する。 また、この時代には70年代の迷走期とは違った意味で別業種パーソナリティを投入した時代でもある。トップアイドルだった小泉今日子が水曜1部に登場したのは1985年。その後も女性アイドル担当番組は裕木奈江・穴井夕子など散発的に見受けられるようになる。他に劇団主宰の鴻上尚史、雑誌プレイボーイ編集者の小峯隆生、漫画家さくらももこなどをはじめ、極めつけは素人であった浪人生松永並子&北原ゆきが水曜2部を担当した(1992年)こともあった(前述の穴井夕子はこの2人が受験勉強の為に休んだ間の6週間限定での登板であった)。後に芥川賞作家となった辻仁成もこの時代にパーソナリティを務め上げている。1992年の番組開始当時、イケメン俳優・歌手扱いだった福山雅治がオールナイトで素性を見せたことも記憶に新しい。ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを探し、番組が育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。 1991年10月には25年目突入を記念して中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが一夜限りの復活放送を行った。また、1997年10月から1998年3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『オールナイトニッポンDX』という番組が19:00 - 21:00に放送された。 しかし1990年代になると若年層のラジオ離れが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れてくる。以前は深夜といえばラジオ放送を聴くくらいしかすることがなかったのだが、この時代になるとそれまで一家に1台だったテレビが一部屋に1台、さらには1人に1台というパーソナル化が進み、本来深夜ラジオの主な集客層であったはずの若年層は次第にテレビ視聴へと移行していった。テレビの若者向け深夜番組が充実し、さらには終夜放送も当たり前となってしまった。また、ビデオデッキ、ゲーム機、パソコン、携帯電話の普及がラジオの地位を相対的に低下させてしまった。同じラジオ業界内でも80年代末以降FM局が急増したことで全体のパイが分散したことや、さらにFM局が深夜帯にAMラジオ的な番組を制作するようになったり、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少等、AM深夜放送に対する逆風は強くなっていった。番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、ナインティナインのオールナイトニッポン宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、60〜70年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなくAMの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が立ち込めていた。そのような中でニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく「オールナイトニッポン」を含めた夜帯の大改編を行うことになる。 まず1998年春の改編では、2部枠(27:00〜29:00)がR(リラックスの略)がついたオールナイトニッポンRに改称。金曜日深夜を除き28:30終了と30分短縮された。なお、土曜日深夜はニッポン放送を除くネット局で、28:30 - 29:00の時間帯も継続して放送された。ここで従来からの2部の体制にメスが入れられることになる。 さらに1999年春の改編では、開始時間帯を大幅に前倒ししたうえで2部制から3部制になり、夜帯を「LF+R(Love & Friends + Radio)」と称した上で、下記のように改題した。 1990年代末にオールナイトのパーソナリティも経験した平野友康などの協力の下、メールやインターネット放送などに対応した公式サイト「www.allnightnippon.com」を開設するなど時代を先取りした画期的な大改編ではあったが、番組制作やコンセプトに対する問題がLF+R立ち上げ開始前より懸念されていた。実際、LF+R開始直後から各方面からの苦情や問題点が噴出することになる。 旧1部の人気パーソナリティを引き継いだsuper枠を、当初ニッポン放送1局だけしか放送しなかった(地方ネット局は切り捨て)。 当初、地方のリスナーはインターネット放送を聴くようにとアナウンスされていたが、1999年の時点ではインターネットの常時接続システムが現在ほど普及しておらず、インターネット放送への移行を勧めるには時期尚早であった。 1999年秋以降、super枠をネットする地方局が増えLF+R終了直前までにはある程度は問題解決した(それらの局の大半は文化放送系のLIPS_PARTY_21.jpもsuper枠とcom枠の間の隙間番組として同時にネットした。多くの地方局が現在でもこのような状態が続き,22時枠および23時枠のヤンピース→24時枠のレコメン!→オールナイトニッポンという流れの地方局が多い)。そのため、super枠を受け入れたNRN系のラジオ局に対して,一部のJRN局は裏番組としてTBS『BATTLE TALK RADIO アクセス』を受け入れることとなり、同時に『アクセス』の地方ネットも同時進行することとなる。事情としては,地方局の深夜帯のCM収入減少に伴う制作費圧縮のため,ネットを開始したという経済的事情もあるものの、これらの動きが、結果的に地方局製作の若者向けローカルワイド番組が全国的に壊滅するという事態に陥ったことは否めない。 r枠はもっと酷く、生放送や箱番組が入り乱れ、時間の尺も曜日によってばらばらであった。月曜は従来通り木村世治の1時間半生放送であったが、金曜は3時台の1時間だけいしのだなつよの生放送でその後は箱番組2本。火曜は「吉本あつい」など箱番組3本。水曜は週代わり枠、木曜はディレクターズカットの90分枠、土曜はLFクールK司会の箱番組やミニ番組の積み重ねであった。 1999年10月以降も番組によっては2時間だったり1時間だったりと時間尺がばらばらな状態が続いた。しかし箱番組は年を追うごとに減っていった。 本来、下ネタなども交えたざっくばらんなトークやコーナーで人気があった旧1部パーソナリティを時間の浅い22時台に移したことでトークやコーナー内容に規制がかかり、パーソナリティは番組をのびのびと自由に送ることができなくなった。番組自体も中学生など若い聴取者層に差しさわりのないようなぬるい内容に終始した。(ナインティナインもこの問題に言及し、旧1部最終回の際に「半年後には25時台に戻ってくる」というコメントをしていた)一方でcom枠はあくまで企画重視(「マーケティングの犬」や「ゲリラonナイト」など)で番組制作したため、トーク・コーナーを中軸に据えた所謂「深夜番組」的な放送がし難い作りとなっていた。このようにLF+Rは全体的に規制や制約が多い中で番組の制作が行われていた。 com枠しかネットしていなかった大半の系列局ではテーマソング『BITTERSWEET SAMBA(ビタースウィート・サンバ)』を聴くことができなかった。 ネタ番組「U-turnのネタMail職人」(火曜com)でもはがき受付は認めなかった。1999年の時点では携帯電話からのメール送受信サービスもそこまで普及しておらず(Iモードサービスも1999年2月に開始されたばかりであった)、FAXもしくはパソコンからのメール利用に頼るしかなかったため、こちらに関しても時期尚早であったことは否めない。 super枠等も含めて,各所に時間枠が拡大したため,地方によってはsuper枠とcom枠でネット局が変わるといった現象も起きていた(現在も土曜日に関してはその状態が続いている。詳しくは各番組ネット局一覧およびallnightnippon SUPER!にて) レコード会社やタレントの所属事務所の意向が番組制作やパーソナリティ選考に強く反映されるようになってしまった。 あまりのIT偏重やリスナー無視の放送体制に特に地方のリスナーを中心にかなりの批判を受けることになり、わずか半年後の1999年10月にナインティナインがsuper枠からcom枠にスライド(箱番組無し、トークやコーナーの規制無し、ビタースウィートサンバ復活、はがき募集復活)し、月曜com担当のココリコの番組がコンセプト重視から通常のトーク・コーナー重視に方針転換(ただしココリコのcomでは藤井隆の箱番組が最後まで残った)した時点でLF+R本来のコンセプトはあっさり崩れてしまう。1999年11月放送開始のaikoの水曜comもナインティナインと同様の2時間フルスタイルをとった。 このLF+Rへの大改編→その後の方針迷走状態は営業的にも致命的な大失敗となってしまい、大幅なスポンサー数減少を招いただけでなく、コアな深夜ラジオファンも大量に失う結果となり、ライバルであるTBSラジオに聴取率1位の座を奪われるダブルパンチを受けてしまった。その後、2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『福山雅治のallnightnippon saturday special・魂のラジオ』(通称「魂ラジ」。『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していた福山雅治を再起用したり、super枠にモーニング娘。メンバーを投入してみたり、「LF+Rロワイヤル」のような横のつながりを強調した共通コーナーを設けたりするなど試行錯誤を続けながらこの体制が続いたが、聴取率や営業スポンサー数が回復することもなく、最終的に2003年春の改編をもって「LF+R」ブランドそのものを廃止するという最悪の結末となるに至った。現在、LF+Rに関してはニッポン放送内においてもほとんど語られることがなくなっている。 この結果、22:00 - 24:00のSuper枠は『オールナイトニッポンいいネ!』に改題されパーソナリティを一新。com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年当時のタイトルに戻った。 若者層のラジオ離れが進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代〜70年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。LF+Rの大失敗に続き、深夜放送の新興勢力TBSラジオの『JUNK』との熾烈な競争に晒され、疲弊しつつあった「オールナイトニッポン」も目線を変え、年配層をターゲットとした番組を作るようになる。2003年以降、期間限定で長渕剛や坂崎幸之助をレギュラー枠で復活させたりしていたが、さらに一歩進めて2003年秋の改編では、深夜放送に参入したNHKの『ラジオ深夜便』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『オールナイトニッポンエバーグリーン』を放送開始した。パーソナリティは初代担当の1人である斉藤安弘を再起用した。 2004年春の改編では『オールナイトニッポンいいネ!』が終了し、22:00 - 24:00枠から「オールナイトニッポン」の文字が5年ぶりになくなり、全体枠としては放送開始時と同じ時間帯に戻った。(この時、22:00 - 24:00の枠のメールアドレスがallnightnippon.comから1242.comへ変更となり、実質上、昼の番組扱いとなっていた)。同年3月29日、公式サイト「www.allnightnippon.com」リニューアル(昼の番組の「1242.com」も同日からリニューアルスタート)。 2004年春に西日本放送、南海放送、高知放送が平日28時台のネットを打ち切り、TBSラジオ配給の『あなたへモーニングコール』のネットを開始した。さらに2005年春季改編から、土曜27:00からの『オールナイトニッポンR』のみをフルネットしていた放送局の大半が、土曜28:00(日曜早朝4:00)から『あなたへモーニングコール』のネット受け(これにより同番組は全曜日対応になる)を開始した関係で、土曜深夜の29:00までのフルネットはSTVラジオ、茨城放送、栃木放送、京都放送(KBS京都)、九州朝日放送の5局のみ(キー局・ニッポン放送は28:30終了)となった。この5局は、月曜から木曜の『オールナイトニッポンエバーグリーン』、金曜の『オールナイトニッポンR』もネット受けしている。 2006年5月14日には、前社長の亀渕昭信が35年ぶりにパーソナリティとして復帰し、「亀渕昭信のオールナイトニッポン 35年目のリクエスト 青春のかけら届けます」と題して放送された。 2006年7月よりオールナイトニッポンの一部番組でポッドキャストを開始(詳細はニッポン放送 ポッドキャスティングステーションを参照)。 2007年4月1日、3年ぶりに公式サイト「www.allnightnippon.com」リニューアル。同時に大所帯だった平日分のスポンサーも5社に縮小されてしまった。 日曜深夜にも1985年以前に『オールナイトニッポンサンデー電話リクエスト』という、糸居五郎や木藤隆雄、はたえ金次郎(波多江孝文)などが担当した電話リクエスト番組があった。また、 2007年現在はオールナイトニッポンを冠した番組として『上原隆のオールナイトニッポン サポーターズ』(25:00〜25:30)が放送されており、その後の放送休止時間帯に『オールナイトニッポンエバーグリーン増刊号』が放送されることがある(詳しくは「オールナイトニッポンエバーグリーン」の項を参照のこと)。これらはいずれも、ニッポン放送のみの放送であり、ネットはされていない。 また、オールナイトニッポンの日曜版的存在として、『ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない』が挙げられる。 ソル・レイク 作曲 『BITTERSWEET SAMBA(ビタースウィート・サンバ)』(演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス)原曲は演奏時間1分45秒 同曲の旋律は、現在まで各世代に親しまれている。実際はA面だった曲(ティファナ・タクシー)を使用していたのだが、高崎一郎の番組のスタッフが間違えてB面の曲(BITTERSWEET SAMBA)をかけてしまったところ、高崎が「この曲のほうがよいのでは」と言って、この曲に変更され、現在のテーマ曲に至ったとされている。このことについては他説があり、違う曲(レモン・ツリー)がテーマ曲候補に上げられていたが、この曲の収録されたレコードをかけようとしてたまたま同じ面に収録されていた BITTERSWEET SAMBA が誤ってかかってしまい、曲を聴いた高崎がテーマ曲として決定したとの説もある。しかし、斉藤安弘曰く、「もともとこの曲をテーマにする予定だったと聞いていた」と、自身の番組「オールナイトニッポンエバーグリーン」で発言している。また、オールナイトニッポン40周年記念!笑福亭鶴光と松本ひでおの深夜放送ヒット電話リクエスト(2007年2月19日放送分)の中で、松本ひでおがスタッフの間違いではなく高崎一郎が初めから決めていたことだと明らかにし、同時に「スタッフ間違え説」を否定した。ちなみに「タモリのオールナイトニッポン」においてハーブ・アルパートが特別ゲストしとて招かれたとき、その当時のテーマ曲のバージョン(1小節を1回繰り返す)をトーク無しのフル(演奏時間:2分15秒?)で流したことがある。 以前はネット局により午前3時(第1部終了)までの局(全ての局ではないが、中部日本放送やラジオ大阪など)はそれぞれの局において、第2部のオープニング(午前3時の時報)までにかかる繋ぎの曲の途中からフェードインしエンディングとして流し、各局のアナウンサーが番組協賛スポンサー及び番組終了のアナウンスを入れていたが現在は行われておらず、次番組が始まるまでに繋ぎの曲(つまり、第1部のエンディング曲)をフェードアウトしてからコマーシャルなどが入るようになった。 また、現在は木曜日の「ナインティナインのオールナイトニッポン」のみフルで聴くことができる。他の番組ではたとえオープニングトークが長くとも一部分を延々とリピートし、局紹介またはコーナー等告知まで流し続けることが多い。 第2部では番組設置の歴史上、オープニングでは流さず、エンディングに後半部分から流し始め、曲の終了と共に番組も終了するというスタイルが長らく続いていたが、オールナイトニッポンR開始以後はオープニングにもかけられることが多くなり(あくまで絶対ではない)、エンディングも単なるフェードアウトになる場合が多くなった。 スリー・グレイセス ※放送開始から70年代は「♪オールナーイトニーッポーン♪」や「♪ビバーヤング!パヤパヤ ビバヤーング♪」のジングルが主流、現在斉藤安弘が担当するオールナイトニッポンエバーグリーンでも流れている。 中西圭三(1992年) ※25周年記念バージョンのジングル。『25th Anniversary』というフレーズが入っている。 チャーミースマイル&グリーンヘッド(1997年)※30周年記念バージョンのジングル。『thirty Years』のフレーズが入っている。 サム41(2003年3月31日-現在)※海外のアーティストがこの番組のジングルを手がけるのはこれが初。毎日使用してたのは2005年までである。現在は木曜日のナイナイのANNのみ使用。 今、僕たちにできる事(ポニーキャニオン)- 歌:オールナイトニッポン・パーソナリティーズ(1992年10月期当時のパーソナリティ全員が参加) ビタースウィート・サンバ(ポリドール) - 演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス(1994年10月26日発売。当初テーマ曲の予定だったティファナ・タクシーも収録。廃盤) オールナイトニッポン(LP盤)(キャニオン・レコード : 1970年12月)- 最初のオールナイトニッポンのアルバム、当時のパーソナリティ全員参加 番組内容の一部とパーソナリティの持ち歌で構成した8cmCD付きのコーヒーキャンデー(食玩)。2004年発売。 オールナイトニッポン40周年記念カップ麺が日清食品,明星食品の制作でサークルK/サンクスにて2007年10月31日発売[1] オールナイトニッポンエバーグリーン(月〜木27:00〜29:00、※ニッポン放送のみ日28:00〜29:00にも放送、10局) オールナイトニッポンR(金・土27:00〜29:00、※ニッポン放送は土曜日のみ28:30まで、金9局、土21局) 山梨放送は1970年代後半頃にネット開始したが、1981年頃に一旦放送を打ち切った。その後1990年にネット再開した。 中国放送もかつては2部を放送していたが、1976年12月4日に走れ歌謡曲のネット局になったため放送打ち切りとなった。 現在のオールナイトニッポンにおける協賛スポンサーの中には日本音楽著作権協会(JASRAC)といった企業・団体も名を連ねている。 月曜〜土曜の6曜日通してのスポンサーは、1990年代後半にはトヨタ自動車が提供した時期があったが、現在6曜日通してスポンサーは明治製菓と創価大学だけで、かつてはDHCも6曜日通しのスポンサーだったが、現在は火曜と木曜のみのスポンサードになっている。 ラジオ大阪ではネットワークセールス枠のスポンサーを含めモノラル放送されている(ローカルCMはステレオ放送。理由は不明。ニッポン放送ではネットワークセールス枠のスポンサーを含めステレオ放送である)。 70年代の主なスポンサーとして、日本食堂、モーリス・ギター、ポッカなど。日本食堂はオープニングの協賛スポンサー紹介で必ず“旅のレストラン日本食堂(にっぽんしょくどう)”というキャッチコピーで紹介されていた。 20年近く設けていたレコード会社スポンサー枠はコム終了(無印名義復活)をもって事実上消滅している。(現在は不定期でスポットCMを流す) ※主にスポンサードしていた主なレコード会社(全てスポンサード当時社名)にはCBSソニー(→CBSソニー・グループ→ソニーミュージック(SonyMusic))、avex trax、TOSHIBA EMI、キャニオンレコード(→ポニーキャニオン)等がある。 土曜は松任谷由実時代はクボタ、UCC上島珈琲(のちにNTT、タイトー)が提供。松任谷由実終了後は冠スポンサーのスポンサード枠で、一旦藤井隆時代は前途のトヨタ自動車など土曜のみの複数社提供時代があったが、その後日総工産(当時はTEEN'S MUSIC WAVEの冠スポンサーでもあった)→nasic 学生情報センター→東芝の冠スポンサーとなり、現在の大塚製薬(放送上ではポカリスエット)が冠スポンサードしている。 オールナイトニッポン(無印)では長年の間、日本ヘラルド映画(現・角川ヘラルド映画)等といった風に、映画配給元や映像ビデオ発売元が協賛企業としてスポンサードするのが普通だったが、90年代後半頃からは映画『○○○(←映画タイトル)』やDVD『○○○(←映画タイトル)』等という風に、映画タイトル別にスポンサードすることに(どういう訳だか)なっているらしい。また、現在はラジオ大阪等の地方局にてスポットCMを流している男性下着ブランド『B.V.D.』でお馴染みの富士紡績アパレル部門(現・フジボウアパレル)が80年代頃を中心に『B.V.D.フジボウ』名義でスポンサードしていた時期があった。 ニッポン放送とBSフジ(フジテレビのBSデジタルテレビ局)共同制作の番組『お笑いネクストブレーカー』の番組内でお笑い芸人が出されたテーマに、オールナイトニッポンをベースにトークをするコーナー「オールナイトニッポンへの道」があった。 |
[ 146] オールナイトニッポン - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3
