最後とは?

「最後の授業」という文学作品がある。一八世紀フランスの作家ドーデによって書かれた短編で、明治時代に我が国に翻訳紹介されて以来、今日まで多くの読者に親しまれてきた。また、教科書教材としての支持も高く、とりわけ国語教科書の教材として広範に採用されてきた作品でもある。
フランスとプロシア(ドイツ)にはさまれたアルザス地方が、この作品の舞台である。時は、一八七二年。普仏戦争、つまりプロシアとフランスとの戦争の結果、フランスが破れ、それまでフランスの領土であったアルザス・ロレーヌ地方が、プロシアに割譲された時の話である。
その朝、フランツ少年は学校に遅刻しそうになるが、ようようのことで教室へ滑り込む。ところが教室はいつもとは雰囲気が違い、厳粛な空気が漂っている。あまつさえ教室の後ろには、元の村長や郵便配達夫までが座っている。
「私が授業をするのはこれがおしまいです。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました。今日は、フランス語の最後のおけいこです。」
このことばで、フランツ少年は初めて自分たちの置かれた占領という状況に気付き、アメル先生に対して愛惜の情を抱くのである。
アメル先生は、必死に授業を進める。田園の平安の中で、勉強を軽視しがちだった住民と、またそれを安易に許してしまった自分自身に対する悔恨を胸に、アメル先生は情熱を込めてフランス語の重要性を説く。
「フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎを握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならない」、と。
それから文法の本を読み、習字が済む。歴史の時間を終え、バブビボビュを歌うと、とつぜん正午の鐘が鳴り、プロシア兵のラッパが鳴り響いた。
と、こうして骨だけの「あらすじ」にしてしまうと身もふたもないが、原文に当たっていただければ、さすがに短編の名手といわれたドーデの作品だけあって、劇的な状況の中で歴史に翻弄される人物の姿が鮮やかに描き出されていることが、よく理解してもらえるだろう。この短編からは、戦争という大きな渦に巻き込まれ、押し流されていくアメル先生の悲劇がよく伝わってくる。
この作品については、「フランスとフランス語を愛する一老先生と生徒を通じて、プロシアに占領されたこの地方の悲哀を、いかにもあたたかくほほえましく、それだけまた一層痛切に描き出した」という、辻ひかる氏の発言(「アルザスの物語、『月曜物語』」『月曜物語』旺文社文庫 一九六八年 六五頁)があるが、確かにこの評言はきわめて簡潔、かつ的確に作品の基調を説明している。
この作品は、ドーデの短編集『月曜物語』の冒頭に収録されており、そのためもあってか日本の読者たちに強い印象を与え続けてきた。ほかならぬ国語の教科書の教材として採用されたということも、そうした作品支持の端的な証拠だったといえるだろう。実際、今この本をお読みいただいている方々の中にも、小学校ないしは中学校の国語教科書でこの作品を学習した覚えのある方がたくさんいるはずである。
ところが、そうした懐かしい作品「最後の授業」を再び読み返そうと考えた読者が、現在発行されているどの国語教科書をのぞいてみたとしても、それを見つけることはできない。すなわち、現在の国語の教科書には、この作品は収録されていないのだ。
作品が時代に合わず、古くなってしまったのだろうか。確かに、取り上げられた素材がその時代の風俗や世相から離れてしまい、詳しい解説や注釈を入れないと理解してもらえないという理由で、教科書から姿を消していく作品もないわけではない。しかし、この作品の場合はもともと、一九世紀のアルザスという時間・空間を大きく隔てた世界を舞台にしている。時代との間隙を埋めるための解説の必要性ということでいえば、最低限の注釈は採択当初から必要だったのであり、後で見るように、そのような配慮は教科書にも施されていた。もし、そうしたことがネックになるなら、初めから教材としては採用されていなかったともいえるだろう。とするなら、直接の原因は作品の古さにあるのではない、ということになる。
もちろん、外国文学だから国語の教科書には不適当だ、というような理由ではない。太平洋戦争遂行中ならいざ知らず、翻訳文学としてすぐれた作品ならば、たとえ外国の作品であっても、戦前から日本の国語教科書に載せられていたし、実際、現在でも多くの外国の作品が国語教科書に取り上げられている。本文中でも触れるが、この「最後の授業」が教材として初めて教科書に取り上げられたのは、一九二七(昭和二)年のことだった。そのとき教科書教材として登場して以来、途中に一五年ほど掲載がとぎれたことはあるものの、一九八六(昭和六一)年まで、この作品はおよそ五十年間も国語科の教材として機能し続けていたのである。さらに、戦後に限っていえば、国語教育の現場では、「最後の授業」は常に話題に取り上げられて論議される、代表的な教科書教材のひとつだったのである。
それが、一九八六(昭和六一)年度を限りとして、国語教科書からは完全に姿を消してしまった。それはどうしてなのか。
本書は最終的にはこの問題の答えに行き着くはずであるが、しかしそれを考えるためには、少々長い道のりを歩く必要がある。なぜなら、それは「最後の授業」が日本の読者たちにどのように受容されてきたかを探ることの中で、徐々に明らかになるからである。本書の意図は、そうした作業を通して、教材としての「最後の授業」をめぐる様々な問題を、広い場所に引き出して検討してみたい、というところにある。
そこでは、教材を読むという営みが、いかに歴史や社会の文脈と関係しあっているのかということや、教材というものがどのようにして教師や子どもたちとの間で新たな意味を生みだし、またそれを変容させていくのかが見えてくるはずである。
アメル先生の熱情と悲哀の源泉と、その日本での変転の様相を見届ける中で、言語・国家・教育について考えていこうとする、このささやかな旅に、しばらく御同道いただけるならば、筆者としての幸いこれに過ぎるものはない。

[ 161] 最後の授業
[引用サイト]  http://www001.upp.so-net.ne.jp/gen-chan/saigonojugyo.html

ここで多くの鷹匠が生まれ育った。その数45人。自給自足の農業を営みながら、伝統の鷹狩りを守り続けた最後の鷹匠が武田宇市郎さん(平成4年死去、77歳)である。雪深い秋田の奥地、その厳しい自然の中で生きてきた鷹匠の人生は、人間の心を打つ何かがある。
今村昌平監督の「楢山節考」(58年カンヌ映画祭グランプリ受賞)では、宇市郎さんの「高槻号」が、主人公の仕留めたウサギを奪い去るシーンに出演。小説では、動物作家・藤原審爾さんが宇市郎さんをモデルに書き上げた「熊鷹 青空の美しき狩人」(昭和56年、別冊文芸春秋)がある。
クマタカを使ってウサギ狩りを伝承する鷹匠は、近代化の波に呑まれ、戦後みるみる姿を消していった。伝統的な狩りの中でも鷹匠の場合は、後世に伝えるための条件が極端に悪かった。マタギの鉄砲に比べ、クマタカは年中養わなければならない生き物である。特殊な技能を要求される割に獲物は少なくなり、売り物にもならなくなったからである。
鷹匠・武田宇市郎氏。大正4年、秋田県羽後町仙道村に生まれる。弟3人、妹5人、それに祖父母を含めて13人家族の中に育つ。父松之助さんは、かつて村でも名人と言われた鷹匠、父に連れられ16歳の時から鷹を操り始めた。
クマタカ…ワシ科に属し、国内ではイヌワシと並ぶ最強の猛禽だ。昔の武士やレジャーとして行われているタカ狩りは、ハヤブサやオオタカを使って鳥類をとる。獲物を生活の糧にしてきた仙道の鷹匠は、それよりはるかに大型のクマタカを慣らし、野ウサギやテン、タヌキなど獣類の狩りをしてきた伝統猟法だ。
昭和52年2月、全国で一人しかいない伝統の鷹狩りを守ろうと「鷹匠を育てる会」が結成された。町の公民館で行われた発会式に臨んだ武田さんと高松号。
「郷土の伝統習俗を次代に残すために、クマタカを捕獲し育てたい」、昭和57年、武田宇市郎さん、土田一さん、育てる会事務局長の榎本勲さん、それに、町の人たちと環境庁で長官に鷹の捕獲申請を直訴したが・・・。
昭和51年2月、宇市郎さんの鷹匠仲間・土田力三さんが不慮の死を遂げる。鷹匠は、全国で宇市郎さんただ一人となってしまった。鷹匠の存続を願って「鷹匠を育てる会」が結成された。
昭和57年、武田宇市郎さんと「羽後町鷹匠を育てる会」が環境庁にクマタカの「捕獲許可願」を出し、伝統保存か自然保護かで注目されたが、結局環境庁から許可が出なかった。
昭和61年、最後の鷹匠と呼ばれた宇市郎さんは、鷹匠を廃業することを宣言。今では「熊鷹文学碑」のみが寂しく残るだけとなった。その碑にには、次のような一文が記されている。
ここに、秋田の山村の生活、文化、民俗をリアリティ豊かに表現した一冊の写真集がある。野沢博美写真集「鷹匠」(発行:童牛社 発売:影書房2,987円)である。
この作品は、秋田県羽後町に住むただ一人の農民鷹匠、武田宇市郎さんとクマタカを14年の歳月をかけてカメラで追った野沢博美さんの作品である。
秋田県雄勝郡羽後町上仙道に住む鷹匠武田さんが現存する唯一の鷹匠と知り、昭和52年2月に羽後町で開かれた「鷹匠を育てる会」へ出席したのが武田さんとの最初の出会いだった。昭和57年に秋田書房から「最後の鷹匠」を出版、当時の新聞には、次のように記されている。
「野沢さんは当時、県秩父県民センター勤務だったが、冬の猟期に休暇をとって片道700キロの奥羽山中へ列車、バスを乗り継いで撮影行をしてきた。最初はコンテストの出品作ができれば、という考えだったが、武田さんと「高松号」が獲物に向かうひたむきな姿に魅せられ、大きなテーマだと自覚したという。
武田さんの鷹狩りの一部始終はもとより、猟期外は農業で生活する武田さんを追い続け、年間3回は秋田へ。遠距離の上、公務もあって奥羽山中には3日から5日間ぐらいしか滞在できなかった。
しかし、そのハンディも秩父人のねばり強さを発揮、一日何十キロも雪の山中を獲物を求めて歩く武田さんに密着取材。この6年間に撮った35mm白黒ネガは1万8千コマに達した。」(東京新聞埼玉版 昭和57年4月28日付け)
「ワシタカ科の日本最大の猛禽・クマタカの「高槻号」を左腕にすえ入山する老鷹匠の勇姿。闘争本能を高めるため絶食状態に置かれた高槻号が鋭い目をむき飛び立つ瞬間。自宅でのタカとの睦み合い…。夏の畑仕事風景など狩りを中心に武田さんの生活を織り込んだ人とタカとの自然の語らいが聞こえてくるような写真集だ」(サンケイ新聞埼玉版 昭和57年4月30日付け)
「青い空を自らの世界とした、この孤高な猛禽は、あるとき地上の王者にとらえられ、人と倶に生きる道をも獲得したが、なにも人に征服されたのではない。人の愛と知とその威を、鷹たちが認めたのである。
この愛と知と威が、すなわち鷹匠の条件なのであり、これが人と鷹との交流の、微妙な通路である。鷹匠たちはかぎりなく鷹を愛し、知を働かせ、威によって、鷹との世界をつくりあげ、大自然の理にとけこんでいく。
鷹を飼う人はいなくはないが、わたしらは、武田宇市郎さんを、最後の鷹匠とよぶのは、愛と知と威を備えており、鷹と倶に生きることが出きるからであり、宇市郎さんが大自然の声を能く聞くことが出来る人であるからである。
野沢さんは、ある日、鷹と宇市郎さんに胸うたれ、数年をかけてこれらの写真をとり続けた。野沢さんは、人と大自然のあるべき姿を、とりつづけたのである。
この一冊の写真集には、たぐいまれな鷹匠と鷹との限りない深い仲が撮られているばかりでなく、大自然の声が撮られているのである。
野沢さんがライフワークとして撮り続けた写真集は、鷹匠文化の灯が消えた今日、誰一人記録することのできない貴重な民俗記録であり、偉大なる山村文化の証として次の世代に語り継ぐべき唯一の遺産でもある。自然とともに生きた孤高の暮らしと文化を野沢さんの写真集を中心に紹介したい。
1979(昭和54年) 日本農業新聞記者の写真コンテストニュース写真の部年間賞全国第1位。
「武田さんを鷹匠と呼称するのも、自給自足の農業を営みながら、伝統の鷹狩りを今日まで保存伝承してきた、この素晴らしい技術と功績に感服するからである。
私が鷹狩り撮影に執念を燃やしたのも、鷹狩りは、日本古来からの歴史的背景を含み、大型の猛禽熊鷹を調教し、雪深い大自然の中で獲物をとらえる、歴史と自然と人と鷹という、幾重にも重なった、まさにダイヤにも匹敵する、深いテーマ性こそがあったからである」(写真集「鷹匠」のあとがきより抜粋)

[ 162] 最後の鷹匠
[引用サイト]  http://www.pref.akita.jp/fpd/takasho/takasho01.htm



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