聖子とは?
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松田 聖子(まつだ せいこ、本名:神田 法子(かんだ のりこ)、旧姓:蒲池[かまち]、1962年3月10日 - )は日本の歌手、女優である。所属事務所はファンティック。福岡県出身。身長159cm。体重40kg。血液型A型。 松田聖子は1980年代を代表するアイドル歌手の一人であった。1970年代を代表するアイドルだった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、間もなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、様々な面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2007年2月)となっており、「雑誌にもっとも頻繁に登場した著名人」とされている。(参考:2位「長嶋茂雄」3位「田中角栄」4位「三浦百恵」5位「皇太子(浩宮)」12位「中森明菜」)。 歌手としては1980年の「風は秋色」から1988年の「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコンシングルチャート1位を獲得。 楽曲の制作に錚々たるメンバー(松本隆、財津和夫、呉田軽穂(松任谷由実)、大瀧詠一、大村雅朗、細野晴臣、南佳孝、尾崎亜美、矢野顕子、佐野元春、玉置浩二など)が関与していたのもさることながら、キャンディ・ボイスといわれる松田聖子ならではの歌声と表現力が多くの人を魅了してきた。 他に、大江千里、小室哲哉、土橋安騎夫、奥居香、いまみちともたか(チャックムートン名義)、米米クラブといった当時のソニー系若手ミュージシャンたちも作曲に起用されている。 アイドル時代の人気は圧倒的であり、様々な伝説を残した。当時の人気の高さを端的に示す言葉としては「聖子ちゃんカット」と「ぶりっ子」が挙げられる。聖子ちゃんカットとはその名の通り、彼女の髪型を真似た髪型であり、当時の女性の間で大流行した。そればかりか、当時の女性アイドルの写真を今見返すと、どれも多かれ少なかれ松田聖子の影響を受けた髪型やファッションとなっているのがわかる。「ぶりっ子」とは、当時の人気漫才コンビの春やすこ・けいこや山田邦子が松田聖子を揶揄して流行らせた言葉であるが、当時の松田聖子のキャラクターのある一面を的確に捉えた言葉でもあり、流行語にまでなった(ぶりっ子の語源等については当該項目を参照)。 ただし「ぶりっ子」イメージは彼女のある時期のある一面を誇張して戯画化したものであって、実際の松田聖子の人格や芸風の全てをこの概念で説明することは不可能である。 1985年に神田正輝と結婚し、一時休業するが、間もなく復帰。アイドルとしての活動を続けている(神田正輝との間にもうけた長女はSAYAKAとして歌手デビューしている)。 1990年代に入ると、作詞、作曲やアルバムのプロデュースにも自ら取り組むようになり、アイドル歌手ではなく、いわゆる「アーティスト」としての活動を展開してゆく。幼少時からピアノを習うなど、もともと音楽家としての基礎的な訓練を受けていたことが、彼女の1990年代以降の活動の下地となったと思われる。作詞、作曲に関してはアイドル時代から手がけており、アルバム「ユートピア」では「小さなラブソング」を作詞、アルバム「Canary」で同名曲を作曲したのをはじめ、「とんがり屋根の花屋さん」「時間旅行」などの佳曲をものにしている。 1990年代のアルバム『1992 ヌーベルバーグ』から『FOREVER』までの6枚はセルフ・プロデュース、全曲作詞作曲が基本となり、「大切なあなた」、「あなたに逢いたくて?Missing You?」を大ヒットさせた。この時期には長女への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表している。 作詞家としては、極めて個人的な感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは非常に前向きな歌詞を書くことが多い。 一方、作曲家としては明らかに長調を好んでいる。これは彼女の書く前向きな歌詞を考えれば当然の帰結であろう。また、最大のヒット曲「あなたに逢いたくて?Missing You?」が典型であるが、同主調や平行調、あるいは属調や下属調などの近親転調をアクセントに使うことが多い。 現在に至るまで芸能界の一角に確固たる地位を築いている。CDの売り上げ枚数で言えば、瞬間風速的に松田聖子を超える者はいくらでも存在する。しかし、25年以上に渡って第一線の歌手として活動を続け、未だに日本武道館、大阪城ホール、さいたまスーパーアリーナなどの大ホールでの毎年のコンサートツアーに10?15万人を動員し続けているという息の長さは特筆すべきだろう。 また松田聖子は『ディナーショーの女王』として知られ、そのチケットは女性歌手の中では最も値段が高い部類に入る。東京の新高輪プリンスホテルやニューオータニ大阪の48000円のチケットは即日完売で、名古屋会場では4人セットで22万円という価格のものも存在するほどである。 最初はアイドル歌手、そして音楽家として活動を続ける松田聖子であるが、デビューから四半世紀を過ぎ、結婚、出産、二度に渡る離婚を経てもなお、「アイドル」というスタンスを保ち続けている希有な存在である。 2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル「松田聖子 女性の時代の物語」が放送され(視聴率は9.3%:ビデオリサーチ調べ)、放送後も朝日新聞の天声人語(4月15日付)にも取り上げられるなど話題を呼んだ。同番組によれば、現在ファンの中心となっているのは「雇用機会均等法」世代の30代?40代の女性であり、女性ファンの多さは「松田聖子的生き方」に共感する者が増えたためであると考えられている。 1962年 - 3月10日、福岡県久留米市荒木町に、厚生事務官の父親と農家出身の母親の長女として生まれる。8歳年上の兄がいる。ちなみに実兄はかつてラリードライバーとして著名であった。 1978年 - 高校1年の時、『ミス・セブンティーンコンテスト』(CBSソニー主催)の九州地区大会に桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を吹き込んだテープを送り合格し、九州地区大会で優勝するが、全国大会に進もうとした際に両親に反対され辞退。しかし、九州地区で優勝した聖子の歌声を聴いて「この子は絶対に売れる」と確信したCBSソニー制作部・若松宗雄にスカウトされる。 1979年 - 高校3年の時にサンミュージックプロダクションに所属。歌手デビューのため上京し、堀越高校に転校。日本テレビ系ドラマ『おだいじに』に「松田聖子」役で出演し、この時の役名がその後の芸名となる。 1980年 - 1月からニッポン放送「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」にDJとしてレギュラー出演。3月堀越高校卒業。NHK「レッツゴーヤング」にサンデーズのメンバーとしてレギュラー出演。4月1日に「裸足の季節」で歌手デビュー。デビュー当時のキャッチフレーズ(※特に1980年代の女性アイドルには、必ずといっていいほどキャッチフレーズが付いていた)は、「抱きしめたいミスソニー」。女性アイドルとして、多数の新人賞を獲得。また「聖子ちゃんカット」と呼ばれる独特のヘアスタイルが全国の女の子の間で大流行した。「ブロマイド」の年間売上でトップに輝く。 1980年 - 4月28日、「裸足の季節」で、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」に初登場。この番組でデビュー1ヶ月以内に新人が初登場を果たしたケースは少なく新人にとりこの番組に出演することは「歌手としての第一のステータス」と見なされていたが、このデビュー曲が後述のように提供スポンサー・資生堂のCMソングであったこと、所属事務所が当時番組常連歌手(桜田淳子、都はるみら)を多く擁していたサン・ミュージックであったこと、また歌手として将来性の高さ(初登場時、山口百恵引退後のアイドル界を背負って立つ人材との期待の下に「ポスト百恵」という位置づけで紹介された)を総合勘案して、デビューから28日目という早さでの初登場となった。 1980年 - 7月3日、「裸足の季節」で、TBS「ザ・ベストテン」の「スポットライト」コーナーに初登場(11位)。 1981年 - 8月13日、「白いパラソル」が、TBS「ザ・ベストテン」で番組史上初となる「初登場第一位」を獲得(9072点)。 1984年 - 『ドレミファドン』のアンケートで、若い男性にとっては「結婚したい女性」のNo.1となる。 1985年 - 交際を公にしていた歌手・郷ひろみと破局(郷が聖子に専業主婦になる事を求めたが、聖子は歌手を続けたかったことが原因とされる)。その2ヶ月後、映画『カリブ・愛のシンフォニー』(メキシコロケ)で共演した神田正輝とサレジオ教会で結婚。二人の結婚は、世紀の結婚をもじって「聖輝の結婚」と呼ばれた。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間にわたりこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した。 1986年 - 後にSAYAKAとして歌手デビューする長女・沙也加を出産。結婚・出産を経てもアイドル人気は衰えず、“ママになったアイドル”という意味の「ママドル」と呼ばれる。 1990年 - 1985年頃から明らかにしていた米国進出のため、全米デビューアルバム『Seiko』を発売。米国での歌手活動のため、しばらくニューヨークに住む。元恋人を名乗る外国人による暴露本が出版され、便乗本や報道が相次ぐこととなる。スキャンダル報道を通じて、「永遠の少女」とは異なる「大人の女」のイメージも定着していく。 1996年 - 再び全米進出を目指すため、デビュー以来所属したソニーレコードを離れ、現ユニバーサルミュージックに移籍する。日本での移籍第1弾シングル「あなたに逢いたくて?Missing You?」が8年ぶりのオリコンシングルチャート1位、売り上げ130万枚とミリオンセラーを突破し、自身最大のヒットとなり、この頃が結婚後の人気の頂点であった。 1997年 - 1月に神田正輝と離婚。離婚のニュースは、芸能報道を越えて各局とも一般ニュース枠でも報じ、号外が出された。12月、父親が死去。 1998年 - 5月に6歳年下の歯科医と交際2か月で結婚。会った瞬間「ビビビッと来た」というコメントが流行語になる。 2000年 - 9月にかつての恋人で劇的な別れをした郷ひろみとのデュエット曲「True Love Story」の話があり受諾、発表し世間の度肝を抜く。12月に歯科医と離婚。 2002年 - この年から2003年まで、大阪城ホールにおいて年末のカウントダウン・ライブを行う。BS中継もされた。 2004年 - 約3年ぶりのオリジナルアルバム『Sunshine』が、7月21日付のオリコンアルバムチャートで初登場6位を獲得。アルバムトップテン入りは通算39作目となり、女性アーティストでは松任谷由実に並ぶ歴代1位に輝いた(その後松任谷由実が記録を更新したため現在は歴代2位)。 2004年 - 10年ぶりに出演(障害児童の母親役)したテレビ・ドラマ『たったひとつのたからもの』(日本テレビ)が関東地区で平均30.1%、関西地区で平均23.6%(ビデオリサーチ調べ)という高視聴率となる。 2005年 - 6月5日のさいたまスーパーアリーナを初日に、歌手活動25周年にあたる全国ツァー『fairy』を開始。台湾のファンからの強い要請に応えて、8月20日、最終公演を同国の新荘市で行う。5000人の観客から熱烈に歓迎され、中国語でも歌った。 2006年 - 7月31日付オリコン・アルバムチャートで10万円の74枚組CDボックス『Seiko Matsuda』を96位にランクインさせた。ちなみにこのボックス・セットは週間売り上げ金額で2億1500万円を記録し、2位の『Beautiful Song -ココロ デ キク ウタ-』(9300万円)を2倍以上引き離していた。また、これまで、アルバムでチャートイン(トップ300)した最高額作品は、1989年8月の美空ひばりの6万円の35枚組『今日の我に明日は勝つ』(9位)だったが、松田聖子はこの記録を16年11ヶ月ぶりに更新したのである。その後、当初の発売予定の1万セットを完売し、売り上げだけで約10億円となる。 2007年 - 松田聖子をとりあげたドキュメンタリー『松田聖子〜女性の時代の物語』(NHK総合)が放映された。視聴率は9.3%(ビデオリサーチ調べ)だった。3月、歌手活動について古巣のサンミュージックと業務提携契約を締結。 生家は九州柳川城の城主だった蒲池氏第十六代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の子孫に当たり、江戸時代は柳川藩家老格だった旧家。詳しくは「蒲池氏#子孫たち」を参照のこと。(福岡県立柳川古文書館。大下英治『魔性のシンデレラ。松田聖子ストーリー』角川書店、他)玉鶴姫の意地 本名の苗字が同じである坂井泉水(ZARD)とは、坂井本人あるいは父が久留米出身とされ、従姉妹ではないかと噂が立ったことがある。遠い先祖が同じだった可能性があるが、その場合でも江戸時代以前には分かれているとされ、現在の民法では親戚とは言えない。 1997年の神田正輝との離婚の際に蒲池姓に戻らず婚氏続称を選んでおり、民法上、離婚後も姓は神田である。理由は、娘神田沙也加の姓が学業の途中から変わることを避け、また娘と同じ苗字にしたいという親心から。しかし神田姓はそのような緊急避難的要因があり、現実には旧姓の蒲池法子との併用がなされているようである。 高校時代(久留米信愛女学院)は、明るく快活な横顔の女の子だったが、兄の母校でもある通学バスが同じの久留米大学附設高等学校の卒業者たちによれば、同校の男子生徒の間では、既に可愛さは伝説的なまでに有名だったとのこと。。 高校1年の時に雑誌で「歌の大会に優勝したら、アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」という記事を読み、大好きなミッキーマウスに会えることからその大会への出場を決める。 歌手志望を口にし両親を説得するにあたり、母親は最初は半信半疑ながらも仕方なく同意。しかし公務員で厳格な父親は娘の芸能界入りには猛反対であり、父親の説得に約1年半を要した。そのため松田聖子のデビューはアイドルとしてはやや遅い(女優デビューは高校3年時、歌手デビューは高校卒業後)。 デビュー曲『裸足の季節』は資生堂の若年層向け化粧品「エクボ」のCMソングとして起用されたが、聖子は頬にエクボができないため、CMの映像に出演したのは別のタレント(山田由起子)だった。聖子の歌声はCMで頻繁に流れたものの、顔と名前の浸透度が低く、映像に登場した山田と二人で行ったサイン会でも、自分の前には誰も並ばず「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから間もなくして聖子の人気が沸騰し、立場は完全に入れ替わった。 デビュー後の人気沸騰に伴う殺人的スケジュールの影響か、喉を痛めたと見る向きも多い。デビュー直後の数曲は声を張りパワフルに歌い上げているが、1981年あたりからややかすれた声質に変わり、可憐さを強調するようなしっとりとした歌唱になっている。 意識して可愛い子ぶる「ぶりっ子」と言う言葉は聖子の事を形容する為に産まれた言葉とされる。しかし聖子本人は、ラジオのDJなどでは正反対のサバサバしたくだけた横顔も見せていた。ただしラジオでのサバサバした態度と、テレビでの可愛らしい態度とのギャップが、さらに「ぶりっ子」扱いを呼んだ可能性もある。 現在では聖子の随一の代表作となっている『SWEET MEMORIES』であるが、シングル発売当時は、カップリングの『ガラスの林檎』のほうが注目され、どちらかと言えば影に埋もれた存在となっていた(サントリーのCM曲であったが、当初は歌手名表記なし)。しかし、発売から約2ヵ月後にフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』でテレビ番組では初めてこの曲をフルコーラスで披露したところ、この曲にもスポットライトが当たるようになり、現在では彼女のファン如何を問わず、「1980年代の邦楽界を代表する名曲」として広く支持されるに至っている。 1983年から1984年にかけて、ソニーが発売した独自規格のパソコン『SMC-777』『SMC-777C』及びMSXパソコン『HB-55』のイメージキャラクターとなり、CMにも登場。 近年ではかつてアイドルであった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されている「ママドル」という言葉だが、最初に使われ始めたのは聖子が出産して以降の事であり、元々は聖子の事を指し示す言葉であった。今日のママドルは「アイドルだったママ」であり、アイドルとしてのスタンスを保っている訳ではないが、松田聖子の場合は「ママであるアイドル」であり、母になってもアイドル歌手というスタンスを維持し続けた。この点は今日のママドルとは大きく異なる点であり、本当の意味でのママドルは未だに聖子ただ一人と言うこともできるだろう。 天使の持つ無垢性、純粋さを好み、コンサートなどでは天使の羽根のついたコスチュームをすることも多く、経営するブティックの店名の『フローレス・セイコ』のフローレスとは『純粋』『無垢』という意味。 1990年のアメリカでの歌手デビューのために徹底的に英語を学び、CNNのインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾におけるコンサートなどでは北京語も披露している。 90年代後半は全米デビュー以外にもハリウッドデビューも考えており積極的にオーディションを受け、幾つか端役も得ている。1999年に公開されたキルスティン・ダンスト主演の「わたしが美しくなった100の秘密」なる青春コメディーの怪作にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場。 愛知県で放送している質屋のCMに『松田聖子のそっくりさん(その名もまねだ聖子)』が出演している。本人がこのことを知っているかどうかは不明。 2003年11月、兄が卒業した久留米大学附設高等学校の同窓会東京支部の総会に私人としてノーギャラで、旧姓の蒲池法子でゲスト出演する。子供の頃から兄とは仲が良い。ちょっといい話 2006年5月19日放送の『ぐるぐるナインティナイン』の『ゴチになります!7』にVIPチャレンジャーとして登場し、レギュラー陣を抑えて第1位を獲得。しかもニアピン賞付きで5万円を獲得する快挙を達成。 アルバム「Supreme」の最後に収録された「瑠璃色の地球」はシングルカットされていないにも関わらず、非常に有名な曲となっている。特に日本国内における合唱の分野では既に定番中の定番の一曲となっていて、原曲を聴いたことは無くとも「瑠璃色の地球」を歌ったことはあるという者も多い。 このアルバムに収録されている『夏の幻影(シーン)』は尾崎亜美がアルバム『POINTS-2』(1986年)にてセルフカバーしている。 このアルバムに収録されている『Kimono Beat』は小室哲哉がアルバム『Hit Factory』(1992年)にてセルフカバーしている。 このアルバムに収録されている『抱いて』はシングルカットされなかったにも関わらずヒットした。CMにも使われた。 カテゴリ: 松田聖子 | 日本の歌手 | 日本のアイドル | 過去のサンミュージック所属者 | セブンティーンのモデル | 1962年生 | 蒲池氏 | 福岡県出身の人物 |
[ 67] 松田聖子 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E8%81%96%E5%AD%90
