この世とは?
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競馬は何故この世にあるのでしょう?この世にどれだけの、必要性や必然性があって、存在しているのでしょう? 故寺山修司氏の名言に「競馬は人生の比喩にはあらず、人生が競馬の比喩である」というのがあります。さらにそこから考えを進めれば、競馬というのは競馬だけが一般社会から独立しているものではありません。一般社会からの影響を多分に受けながら相互作用で成り立っています。ですから私は思います。競馬を寄り深く理解するには、競馬以外の社会を知り、他山の石とすべき事は取り入れていく事であろう。そうする事で競馬の世界はより豊かになり、競馬が一般社会に貢献し、有用性もより、増して行くものであると。 この世で起こるあらゆる事が競馬に類似しています。前進への指針となります。そして競馬の世界がまた一般社会に、頑張って生きる素晴らしさを教える生きた実例となります。懸命に働く馬達が、懸命に支えるホースパースンが、見届ける観客が。関わる人々すべての手で。 そして競馬と一口に言っても、実にいろんな切り口があります。馬を見るもよし、ストーリーを求めるもよし、推理のスリルを求めるもよし、芸事や歴史を求めるもよし、文化の何たるかを論じるのもよし。それらは競馬を愛する人の、普段の生活や趣味に、いろんな形で生かせ、接点を有するものです。競馬という奥深い世界を、私はいろんな形で、いつまでもいつまでも、楽しんでいけそうです。だから私はこれをモットーとします。「競馬は世界の比喩にはあらず、世界が競馬の比喩である」 競馬に魂のウン分の1かを突っ込んでしまい、加えて興味持ったあらゆる事にとことん首突っ込まずにはおかない田舎女のつぶやきを、どうぞ楽しんでくだされば、万歳100唱10万馬券炸裂の管理人でございます。 原則として毎日更新のblog。特にこれと決まった内容もありませんが、ジャンルを問わずに、即時性の話題、フォトエッセイ、韻文(散文詩)といった位置付けをしています。 blogに比してじっくりと書き込む散文。見る事感じる事を気の趣くままに書き綴り、時には「自分とのディベート」たるハードな考察も。 上山競馬は私の魂の拠り所でした。だからこそ、今こそ、感謝の思いを捧げます。私の知っているだけの上山競馬、語って付きない種々の光景。そして現場と、競馬場を失った自治体とはその後、どうなったのか。現身の代わりにせめてこのサイトに、上山競馬を再現したく願っています。 功成った馬、非なる馬、人間とともにあらゆる形で働いた馬。すべてのみ霊を等しく供養します。皆様より頂いたお写真も含めた馬頭観音参拝録、そして周年忌法要です。 このサイトのルーツと言えるコンテンツで、元は優駿誌「マジカル競馬者ツアー」の投稿でした。現在ではほぼ同じ趣向で、競馬のいろんな場面を笑って楽しむ面白ネタ発見コーナー、として継続しています 素人の見当違いも多い事を承知の上で、競馬の世界はこれでいいのかと疑問に思う事案じ入る事を、私案として愛する競馬社会に献じます。 競馬エンジョイにはアルコールが良き友。大好きな馬に応じレースに応じ、徹底的にオリジナルを求めた素人カクテルです。 歌はピュアな心を発現する手段。お馴染みの歌にちょっとアレンジを加えて、さあ謳いましょうの競馬替え歌。 外部メディアに投稿した文章を掲載します。自己満足に陥らずに、人の鑑賞と読解に耐え得る文章を書かなくてはと、絶えず身が引き締まります。 数多い馬が目の前に、現われ悦ばせ、消えていきました。懐かしい1頭1頭を振り返ります。私の馬の好みもおそらくここでわかります。 名場面名レースは錚々たる方が折りに触れ語り続けてきた事。末席を汚す形で、私にとってはこれこそが名場面と、印象深いレースを綴ります。 競馬を楽しむ為、学ぶ為、書く為に、いろんな方のお力添えや励ましが多々ございました。それらの方々に心より感謝申し上げます。 掲示板です。数多いwebサイトよりこちらを選んで下された事にお礼も申し上げ、深いえにしを思います。このサイトが貴方様にもたらした喜怒哀楽を、思うがままの置き土産として下さい。 コンテンツ「懐かしきみ霊に捧ぐ」の中で、上記の写真を掲載したいと思います。(撮影者がどなたかを明記致します)該当コンテンツ中の中で周年忌を掲載している馬達は、いわば功成り名を遂げた馬達。彼らの陰には、一緒に育ち、同じレースで一緒に走ったたくさんの馬達がいます。私は最近、功成った将より枯れた万骨に、もっと目を向けたいと思いました。 尚、山形県某N市から車で2時間以内程度であろうかと、思われるそれをご存知でしたら場所と名称をご連絡ください。管理人自らが、参詣及び撮影に伺います。 ※全国各地に「三十三観音」という札所があるようです。その中には必ず1つ、馬頭観音が含まれますので、そちらの情報もお寄せ頂ければ尚嬉しく思います。 単に「○○三十三観音」という名称だけをお知らせ下されれば、ネット検索にて該当する寺社を管理人自身が探して問い合わせます。 このページを作成した際Wordを使用した為、その機能の関係上、Macで見た場合にリンクができない可能性があります。対策は講じておりますが、不具合の際にはご一報ください また、これもWordの機能による物と思われますが、JPEG形式の画像であってもすべて「背景」としてGIF形式で表示されてしまっています。その為、画像表示がスムーズにいかない事を、あらかじめお詫びしておきます。 |
[ 72] この世はすべて競馬的
[引用サイト] http://www1.odn.ne.jp/takepage/
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ヒラメの縁側はとにかく旨い。刺身にしたときの、あのコリコリッとした食感。淡白だが引き締まった肉の旨み。酒のつまみにすると幸せです。 この場合、日本酒がぴったり。特に辛口が合うでしょう。大体、醤油の辛さには日本酒の辛さが合うのです。キリッと冷やしてあるとなお良い。立山、久保田、越の寒梅・・・。 酒の話をしているわけではありません。縁側もまた詩の話です。大体、食べる喜びは詩喜びに似ていると、確か誰かが言っていました。 現世と現代の違いは良く分かりませんが、この世、ってのは、とりあえず僕たちを取り囲んでいるもののようです。ではヒラメの縁側と詩のように、この世と詩には、何か関係があるのでしょうか? 僕は詩を書きますが、僕が生きているのは現代、つまり「この世」です。で、詩ってのは、とりあえず「この世」において読まれていくものなわけです。 なんとなく、違う気がします。詩と僕はイコールではないし。けれど詩もまた時間とともに歳を取るようです。それは多かれ少なかれ、詩には時代性が含まれているから。例えば恋愛の詩は多いけれど、恋愛の形が時代に沿って変わってきているように、一つの恋愛詩の受け取られ方も、時代によって少なからず異なってくるからです。だとしたら、詩もまた現代としての「この世」のものなのか? けれどここで一つ問題を思いつきます。大体僕自身、果たして「この世」のものなのか。生きてりゃどこでも「この世」とは限らない。「この世」ってのはあくまで僕の目から見た基準でのものであって、それ自体が絶対的なものとは言えないし。 この「絶対的でない」てのはどうにも、やっかいです。全体が相対的に見えてくると、取り付くモノに非常に困る。詩的にこの世の縁側を齧ろうにも、何をこの世にすえりゃあいいのか分からないんじゃ、どうしょうもない。僕はどこに取り付こう。それは生きてる実感か? 僕の書く詩か? 「この世」のどこ、って・・・。大体、「この世」には広さがあるんですかね? ここは真ん中、ここは西より、ここは北の方、ってな具合に? 地球にも宇宙にも果てはあるが、「この世」は随分抽象的だ。まぁこれも人の認識ですから、果てってのはある気がします。 世間。渡る世間は鬼ばかり、とよく言うけれど、いや、僕はあまり言わないけれど、世間ってのは、とりあえず人のいる範囲を指すようだ。でも人間全部をカバーはしてないな。はみ出し者、とかいうじゃない。アレって世間からはみ出してる、って意味でしょ。ということは、「世間」なら有限、ってことだ。 うーん。僕は詩を書いているが、それって世間の内側の話なんですかね、外側の話なんですかね。世間の境界って何だろ。誰が決めるんだろ、それは。なんとなく、決まってるものなんだろうか。前に全体は相対的、と言ったけれど、世間は相対的にはならないのだろうか。「世間」てのは不思議なもんだ。個人の中では、この世は相対的なものなのに、個人の集合である「世間」は、よっぽど位置の定まったもののようだ。じゃあ「世間」は、一般的なこの世の共通項の寄せ集めなのだろうか。いやいやそうは限らない。誰かがそれを決めのかもしれない。「誰か」ってのは、例えば社会でも良いし、政治家でも良い。マスコミでも構わない。 ・・・ややこしくなってきた。なんだかでっかい海の真ん中に、一人取り残された気分。いや、巨大なヒラメの縁側に、一人齧りついている気分かもしれない。ヒラメがあまりにでかいもんで、酒のつまみにもできなさそうです。 そしたら「この世」も、上手く消化できるかもしれない。飲むことに、よく似たもの。飲む喜びに、よく似たもの。 |
[ 73] この世の縁側
[引用サイト] http://poenique.jp/sinaps/haduki/haduki01.htm
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仏教でも「この世」と「あの世」などと言われますが、聖書で言う「この世」とは何でしょうか。英訳聖書では“world”という単語が使われておりますが、原語のギリシャ語ではいくつかの単語があります。一つは“oikoumene”であって、これは私たちが住んでいる地上を意味します。二つ目は“aion”であり、これは私たちが生きている「時代」を意味し、その時代時代における主義思想などを指します。それとほぼ同意義の“kosmos”もよく使われており、聖書では、神とその知恵に対抗するあらゆる主義・思想・価値観・宗教・哲学・社会システム・娯楽・享楽などを包括的に意味します。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など、現代社会ではあらゆるメディアを通して、神の言葉をかき消し信仰を無にすべく、ありとあらゆる情報や映像などが、騒がしいほどに私たちの五感に訴えてきます。また私たちはしばしば人の前でイエスを証しをすることをためらいます。これも「この世」が与える圧力のゆえです。「この世」はイエスが神の御子であることを認めたくないのです(1ヨハネ4:2、3)。なぜなら、サタンこそ「この世の君」と呼ばれ(ヨハネ14:30)、「この世」は悪しき者の支配化にあるです(1ヨハネ5:19)。「この世」とは、神に対立してサタンによって確立された一種の霊的体系を指します。例えば、宗教・哲学・科学などは一見人の目にとっては高貴なものであって、問題はないかのように見えますが、真の神である主の御言葉や価値観に対立しているとすれば、神の目から見れば良しとされません(例えば進化論を考えて下さい)。むしろそれらはもっともらしい装いによって真の神を見えなくすることにおいては、単なる罪の享楽よりも、狡猾なサタンの欺きと言えます。すなわち、「この世」とは、真の神である主と私たちの間に立ちふさがり、私たちの信仰を破壊し、神との交わりを絶ってしまうあらゆる要素を含んだサタンによって組織された一つの霊的体系と定義されます。したがって人間的価値判断による善か悪かということから切り離して考えないと、「この世」を霊的文脈において正しく評価し、それに適切に対処する際に、混乱や誤りを生じることになります。あくまでも神の目から神の御言葉に基準を置いて判断する必要があります。私たちの霊的経験における「この世」の位置付けは、したがって、それが私と神との交わりにどのような影響を及ぼすかという点から評価する必要があります(注)。サタンの意図はすべて信仰による私と神の交わりを阻止することにあります。サタンはそれを阻害するためにはあらゆるものを用いますが、一つは私たちの「肉」です(→「『肉』について」参照)。「肉」は私たちが神を知らない頃に自らの必要を満たし、この世で生存を担保するために獲得した、大脳に刷り込まれた価値判断や行動パターンですが、サタンは「この世」をこの私たちの「肉」を刺激するために用います。 (注)いわゆる教会の規則や戒律によって、一律にテレビや映画は禁止、新聞・雑誌も禁止などの形で、外部の誰かから規制されることではありません。よくカルトではこのようなことが行われますが、新約聖書で明確に禁止されていることは、(1)偶像礼拝、(2)血を飲むこと、(3)性的不品行です。「この世」を評価する際に大事な点は、あなたと神様の関係において、それらがどのような影響をもたらすか、と自分の心に問いかけ、自分と神様との間で決定することです。 例えば、「この世」の価値観は「金を増やすには、とにかく出費を抑えて金を得よ(Get to get)」ですが、神の価値観は「金を得たければ、まず捧げよ(Give to get)」です。あるいは「この世」では「人生を充実したければ、自己を啓発して個性を磨け(Live to live)」ですが、神の御言葉は「命を得たければ、まず自己にあって死ね(Dead to live)」と言います。傷つけられたら、「この世」では「報復せよ(revenge)」ですが、神の御言葉は「赦せ(forgive)」です。この価値観とは、私たちが「この世」に生まれて以来、それを観察し、感覚しまた経験し、分析した結果、採用するに至ったその「モデル」です。ですから人によってそれは異なります(注)。 (注)黒沢明の映画「羅生門」では一つの事件に対して、3人の異なる人物がそれぞれの立場から関って、その証言をしますが、すべて食い違います。個人の魂(思い・意志・感情)というフィルターを通りますと、一つの事件もさまざまな脚色がなされるのです。各個人の内に、その立場ごとに、利害関係のあり方などによって、歪曲された形の事件の「モデル」が構成されるからです。さらに、その構成されたモデルによって、その個人のその後の人生の歩みも特徴づけられるのです。 私たちの「肉」はこれまでの経験則から、どうしても「この世」の価値観(モデル)を取りたがるものです。一方、神の言葉は、モデルではなく、真理(リアリティ)です。一般的に言って、しばしば、私たちの悩みや葛藤は、自分の「内的モデル」と「外的事象」が食い違う時に生じます。また神の言葉に啓示されている真理(リアリティー)以外の、「この世」の価値観(モデル)を選択するならば、私たちは神の御言葉を否定し、よって信仰による歩みを絶たれ、同時に神の交わりから絶たれてしまいます。なぜなら「すべて信仰によらないものは罪である」とあり、信仰とは神の言葉に対する私たちの肯定的反応であるからです(→「誘惑の本質について」参照)。ここでこのような「この世」の価値観から受ける圧迫に対抗するために、私たちは「自己を否み」、「自己おける死」を経る必要が起きるのです。「内住の罪」と「律法」からの解放は、私たちがイエスと共に十字架にあって死ぬことによって成し遂げられました(→「罪とは?」と「律法と恵みについて」を参照)。私たちが十字架のイエスと同一視されることによって、私たちもイエスの死に与るのです。その死は私たちの体と「罪」の関係を絶ちます。その死は私たちを「律法」を守るべき債務から解放します。そして「この世」からの圧迫と圧力に対して神が用意された策は、「この十字架によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられた」(ガラテヤ6:14)とある通り、やはり「この世」に対する死です。十字架は私と「この世」の関係を絶ち切るのです。したがって、私たちはもはや「この世」の価値観によって、あるいは「この世」からの評価を気にして生きる必要はありません(ローマ12:2)。私たちは「この世」にあって(in the World)生きていますが、「この世」の者(of the World)ではありません(1ヨハネ4:6)。そしてすでに御子の王国に移された者です(コロサイ1:13)。イエスと共に「この世」に対して死に、イエスと共に復活することによって、「私たちは勝ち得てあまりある」のです(ローマ8:37)。なぜならイエスは宣言されました: ・あなたがたは世にあっては艱難がある。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのである」(ヨハネ16:33)。・子どもたちよ、あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです(1ヨハネ4:4)。・世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか(1ヨハネ5:5)。 私たちの霊的経験において、「この世」の圧迫と誘惑に処する鍵は、やはりイエスと共なる十字架における死と復活にあります。私たちはキリストのうちにおかれ、イエスと同一視されていますから、「この世」に対するイエスのスタンスと同じスタンスを取ることができるのです。それは「この世」に対する完全な勝利です! |
[ 74] この世
[引用サイト] http://www.kingdomfellowship.com/Topics/world.html
