ハイティーンとは?
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ドラムを買ってもらったのが16歳で、はっぴいえんどの詞を書き出したのが19歳だとすると、助走期間はたったの3年なんだね。 おそらくぼくの心は今よりずっと柔らかくて、時代の情報をものすごい勢いで吸収し、昇華し、ジャックの豆の木みたいに急成長したのだろう。 どんな高校生かというと、制服の襟の白いカラーは取り去っていたな。首にあたって痛いから。背はクラスで2番だった。髪は耳に触れると、切れと生徒係の先生に怒られた。 入学してすぐクラスメイトに誘われて、レスリング部に入った。ほとんどいやいやだったが。3ヶ月ほど基礎訓練して、ユニフォームを手渡され、退部届けを出した。そのユニフォームを着た自分を想像出来なかったからだ。 楽器をいじりはじめたばかりのど素人が、何を言うって感じだが、その自信が自分のどこから沸いて出てくるのか不思議だった。 日吉の丘の裏手に部室があった。その部屋から出ると、丘の下から新幹線の通り過ぎる轟音が聞こえた。木立の透き間に白い屋根が飛び去るのが見えた。 その年の夏に房総の館山の砂浜で友達とキャンプした。そのときに知り合ったバンドの人が、池袋のバンドのサークルに誘ってくれた。オーディションで階級が決まるのだが、ぼくのバンドはACEという最上級のクラスだった。 翌年、ドラムのコンテストを受けたら、全国大会で優勝してしまった。優勝者はテレ朝の「おはよう720」という番組で、ドラム・ソロを披露しなければいけないということで、初テレビ出演。 渋谷のヤマハが開店して、その祝いに演奏してくれと言われ、2階の狭いテラスから道玄坂に向かって演奏した。 あれは手痛い失恋だった。でもあのときに体験したディティールは、ラブソングを作るときの栄養になった。 恋人にロシアの血が混じっていたので、「ドクトル・ジバゴ」の主人公の詩人と自分が重なり、見終わったあと、渋谷のパンテオンから麻布の自宅までうつむきながら歩いて帰った。 はっぴいえんどの頃、渋谷ですれ違ったことがある。ぼくは肩まで届くくらい長髪になったし、ファッションもまるで違ってるんで、気づかれなかった。 青春とは無限の分岐点の連なりで、選び損ねても後には戻れない。しかも時が過ぎるたびに、その分岐は徐々に狭まっていく。 運がよかったのか悪かったのか、もうちょっとましな生き方もあったのかもしれないが、今、ぼくはぼくでここにこうして生きている。 高校に入りたてのある日、別のクラスの知らない男に呼び出された。「キミ、ボブ・ディランの『時代は変わる』っていうLPを持ってるでしょ。どうしても聴きたいんだ。貸してくれないかな(実際は、思い切り北海道弁だったけど)」と言う。まるで、チャック・ベリーのレコードを抱えて歩くキーズ・リチャーズに、声をかけ呼び止めたというミック・ジャガーではないか(逆だっけ?)。ふたりともただの詰め襟学生服を着たニキビ面の田舎高校生なわけだが、十代後半になったばかりだと、こんな恥ずかしいやりとりもぜんぜん平気なのである。その日からそいつと友だちになった。 そいつはURCレコードの会員だった。その流れで、誰よりも早く『はっぴいえんど』のファーストを持っていたのだと思う。だから「ゆでめん」は発売直後から仲間うちをぐるぐるとまわり(といっても、オレとそいつと、あと2人、合計4人だけだったはず)、それぞれが一夜にして感化された。そして、はっぴいえんどを全曲、カバーしようというとんでもないアイディアが、誰からともなく出されたのである。フォークギターが2本しかないのに、だ。すぐに美術部の部室に鍵をかけ簡易スタジオにした。家庭用のオープンリール・テープレコーダーと無指向性の安いマイクが1本。「春よ来い」も「敵 TANATOS を想起せよ!」もアコギ2本ですべて一発録り(それしか知らないから)。途中で、そいつが足でリズムをとる音が入ってしまうことに誰かが気づき、注意するよう言ったが、そう簡単には止められないのか、そいつは自らの足を椅子に縛り付けて動かないようにしていた。「続はっぴーいいえーんど」を演奏し終えた時、何か途轍もないことを成し遂げ、ここに大傑作が誕生したのだと、全員で涙を流さんばかりに喜んだ。敢えて言うまでもないことだが、出来が良いはずなどない。ハイティーンというのは、簡単にハイになりやすいティーンという意味なのだろう。 そいつは几帳面な男なので、たぶん、今でもあのテープを大事に取っておいているような気がする。もう何年も顔を見ていないが、いつか会う機会があったら、「頼むから捨ててくれ」と言おうと思う。 高校の体育祭の日は集合時間がいつもより甘く、電車の窓から斜線を描く柔らかな光が制服の肩に手をおいて子守歌を奏でていた。 「このまま眠ってしまえば体育祭に行かなくてもいいのかなぁ。」影ある天使がそっと囁いたとき、一人のご婦人が話しかけてきた。 逃避心を透視するようなやさしい視線。ジェリー・アンダーソンに糸を引かれた人形のように背筋の弦がみりりと鳴る。 「いやぁ、お会いできて光栄です。」とんちんかんに会釈しながら、ご婦人のニコニコした顔に釣られて岸辺に立っていた。 あの日、あのご婦人に会わなければ体育祭に行くこともなく、終点に行っては始点に折り返してくる電車の中で降りるべき駅を見失っていたと想う。 不器用で小さな舟は浅瀬で溺れそうになることもあるけれど、橋の上から川を振り返ると自然に蛇行しているように想う。 詩・文・絵・写真・デザインする人。/ 生きているから想うんだ、毎日に魔法をかけていこう。「恋の救命胴衣下さい!」「夜は鳴かない窓辺の小鳥たち。」真夜中の子供、ばたやんの宇宙への落書き。お寝しなにご賞味下さい。『毎日に魔法をかけていこう』 アルバイトしてまで買った銀の指輪。しかし誕生日は春休みでKさんに学校で会うことができない。家に電話したら父親に怒られたそうである。20年前は見ず知らずの若者の電話は父親が切ってよかったのだ。 電話がだめだとあとは手紙しかない。Oは郵便で指輪を贈ることにしたが、封筒に指輪のケースが入らない。当時はゆとり教育ではなかったが、恋に舞い上がった若者はそんなことにも気づかずに焦った。 そこで彼はケースを捨てて指輪だけを茶封筒にぽろんと入れて送ったそうである。嫌がらせみたいである。呪いの指輪か。なぜ小包で送ろうとしなかったのか。つくづく高校生ってばかだなあと思う。 別の友人Hは屋上に女子を呼び出して想いを歌で伝えたと言っていた。屋上、歌、ギター。どこでなにを見て影響されてしまったんだろう。たぶん彼は女の子のことが好きなんじゃなくてそんなことをする自分が好きだったんだと思う。 Hは帰国子女でドイツ帰りだった。ドイツの人には申し訳ないがそれ以来、僕はドイツと聞くとHを思い出すようになってしまった。屋上で歌。ダンケシェーン。 高校生はただでさえばかなのに、好きとか恋とか言い始めるとIQが半減する。そういえばHは遠足の鎌倉にも自転車で来ていた(高校の遠足はなぜか現地集合現地解散だったのだ)。 Oに至っては Kさんのどこが好きなのかを聞いたところ「口のまわりにうっすらヒゲが生えているところ」と言っていた。好きすぎるからそういうところも好きになってしまうのか。それともただのヒゲ専か。 かくいう僕もスポーツも勉強もできないという手詰まり状態のなか、なにが芸術的なことで一発逆転を狙って映画を撮りはじめた。 泉重千代さん(当時は泉重千代という世界最高齢のおじいさんが生きていたのだ)が若い頃にザビエルに会うという、時代考証どころか歴史の時間おまえ寝てたろというストーリーだった。 テレビゲームを作ったり本を作ったりという仕事を10年くらいやっている。そして、仕事をする上で自分がちょっと気になる人が、ハイティーンの頃バンドをやっていた、ということが多い。会社に入って初めて上司に会ったとき、オルタナっぽい風貌だな〜と思い、「どんなバンドやってたんですか?」といきなり聞いてみたら、驚かれた。自分も高校のころ熱心にバンドをやっていたから、同じ匂いのする人を妖怪レーダーのようなものでもって見つけてしまうのかもしれない。 僕の周りの、若い頃に音楽をやっていた人たちは、若い頃、自分の中からムクムクと沸き上がる衝動的で暴力的な自己表現の欲求のぶつけ先を、たまたま音楽に求めたのだろう。(そう思うと、若者にとっての音楽というのは、表現形態として底なしに懐が広いなと思ってしまう。)彼らはその後世の中にさらされる中で、より自分に適したフォームを求めて道を選択し、サラリーマンになったり、実家を継いだり、会社を作ったりしていく。そういう意味では、「ハイティーン・ブギ」の少年のように、ツッパリになっていてもおかしくないのかもしれない。もちろんツッパリとバンド、二足のわらじを履いていた人もいるだろうけど。 若い頃にバンドをやっていた人で、一瞬でもプロとして活躍することを夢見なかった人はいないと思う。僕が特に興味があるのは、どういう瞬間に別の道へ進んだかというところだ。昨年観てすごく好きだった、マイク・ミルズの『サム・サッカー』という映画がある。人や社会と距離がうまく取れず、指を舐めていないと情緒不安定になってしまう少年が、自分の道をみつけ、やがて社会にうまく溶け込んでいく。それは普通に観れば成長の物語だけれど、社会に適応する中で、その少年しか持っていなかった眩いきらめきを失ってしまう。 「ハイティーン・ブギ」の少年は、こう言った次の瞬間に確実に何かを失ってしまう予感を圧倒的に孕んでいるからこそ、魅力的なのだろう。抗うことはできない誰にでもある事象だけれど、曲を聴くたびにチクチク刺される思いがする。 エディター/ゲームデザイナー。最近、Nintendo DSで横山光輝の漫画、「三国志」を読んであまりのおもしろさに感動。孔明のキャラは完成されすぎていて、ゲームだとバランス崩壊寸前……でもそこがいいんだなと納得。 今日のテーマは「ハイティーン・ブギ」。近藤真彦の七枚目のシングル、同名の"たのきん映画"の第4作の主題歌として大ヒットした。82年6月30日発売。最高位1位。売上60.7万枚(オリコン調べ)。また、歌謡曲を書かない山下達郎が作曲、編曲に起用されたことでも話題になった。これは近藤・山下両氏のプロデューサーであった当時のRVCの小杉理宇造氏の手引きによるものである。 82年、もっともレコードをセルした男性アーティストが近藤真彦であった。リリースしたシングルの全てが50万枚を超える大ヒット、オリコン年間チャートベストテンには3曲がイン(「ハイティーン・ブギ」「ふられてBANZAI」「情熱・熱風・せれなーで」)、またTBS系『ザ・ベストテン』において、82年、近藤真彦の楽曲がベストテンにインしなかった週はわずか1週しかなかった。80年年末にデビューして早々男性アイドル勢の頂点に立った近藤真彦、その年、最もヒットした彼のシングルがこの「ハイティーン・ブギ」である。 当時、近藤の楽曲の詞は松本隆と伊達歩(伊集院静)の手によるものがほとんどであった。 アルバムでの比重はほとんど同じであったが、特にシングルに関しては松本隆の起用が目立っていた。松本隆はデビュー曲「スニーカーぶるーす」から91年「デスぺラード」まで12曲近藤真彦のシングルの作詞を担当し、そのうち9曲で1位を獲得している。松本隆にとってこの数字は、松田聖子に次ぐものである。ヒットという面で言えば、近藤真彦と松本隆はこと相性がよかった。これには、秘密がある。 ひとつは、都会的に洗練された、けれども本質は骨太で硬派な大人の男性。これは、寺尾聰や南佳孝、大瀧詠一、佐藤隆、桑名正博などで表現されている世界。 もうひとつは、繊細で傷つきやすい翳りのある美少年。原田真二やあるいは少年隊やKinki Kidsなど、男性アイドルで表現されるのは、主にここ。 そのふたつは、実にシリアスで品があって、気障すれすれなんだけれども、それが自嘲に転ずると、コミカルで愛嬌のある三枚目の男になる。これは二つの世界の裏面みたいなものだね。これらはC-C-Bやイモ欽トリオなどで表現されている部分。 つまり、松本隆の男歌ってのは、その全体が、線の細い美少年が、傷ついたりつまづいたり、時には道化を演じたりしながら、ロマンあふれる大人の男のダンディズムへと辿りつく、そんなひとりの男性の成長物語となっているといってもいいのだ。 松本隆が近藤真彦で表現したツッパリ路線といっていい数々の作品は、彼が男性アイドルで主に描く、線の細く傷つきやすい少年のあふれるパトスの世界を基調としながらも、そのどれもが骨太で硬派な大人の男性を予感させる。そして、ほんのちょっとだけコミカルで愛嬌があるのだ。 こんな男義あふれる啖呵を切りながら、どこかツメが甘い。マッチの歌は、カッコいいけれど、なぁんかスキがあるのだ。ここが肝。 思春期というのは、振り返ると、輝かしいと思う反面、どこか気恥ずかしいとも思うもの。その微笑ましさが、芥子粒のようにパラパラっと散っているのだ。 これが松本隆が描いた近藤真彦の世界の良さであり、また近藤真彦という歌手の良さでもあった。この時期の近藤真彦は、けっして上手い歌手とはいえなかったけれども、彼だからこそ、この若い時だけ許される暴走、傷つかずにはいられない青い傷みを十全に表現できたといえるんじゃないかな。 もちろん、その後の彼は当然のごとく大人への階段を猛スピードで駆けあがることになり、87年には「愚か者」でレコード大賞の栄誉に輝く。そして松本隆も大人の男の色香漂う歌手となった彼へ「Made というところで、紙数も尽きまくったところなので、今日の講義を終える。個々で近藤真彦の「ベスト」を聞いてしっかり復習するように。 「正社員になれず派遣社員やフリーターが多い僕らの世代を近頃はロストジェネレーションというのだとか。なんか語感だけはカッケぇな、おい。 願わくば本家アメリカの"失われた世代"のごとく、僕らの世代にとってのヘミングウェイやフィッツジェラルドが表れて欲しいものだが、どうやら僕らの世代は失語症のようだ。 なぜそう言い切れる? なぜならこの僕がそうだからだ。こんなにあちこちで好き勝手になことを書きちらして失語症などと不思議に思うかもしれない。でもそれとこれはまったくの別物なのだ。僕はまだ僕の絶望を表す言葉を手にしていない。これを手にしない限り僕は永遠に言葉を失いつづけているのだ。」 |
[ 72] 風待茶房
[引用サイト] http://www.kazemachi.com/cafe05/colum/colum_p_020.htm
