江夏とは?

江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、奈良県生まれ、兵庫県尼崎市園田出身のプロ野球選手(投手)、野球解説者。
大阪学院大学高等学校入学まで本格的な野球の経験はなく、中学時代は砲丸投げの選手として活躍していた(また江夏は生まれつき右利きながらも野球という競技上、圧倒的に左利きが優遇される為、長兄の命令で強制的にサウスポーに矯正)。1966年、夏の甲子園大阪府予選でベスト4の成績を残し、同年導入された第1次ドラフトで阪神タイガースから第1位指名され、プロ野球選手となる。入団当初は変化球の投げ方を全く知らず、また砲丸投げをしていた影響で所謂「担ぎ投げ」の癖を持っていたが、林義一コーチが矯正させ、変化球も教え込んだ(余談だが、江夏は温厚で真摯に教えてくれた林のことを「お師匠さん」と呼び慕っている)。
1年目から225奪三振で最多奪三振のタイトルに輝くと、2年目の1968年にはサンディー・コーファックスの記録をも上回るシーズン401奪三振の世界記録を作り上げた。この年の読売ジャイアンツ戦では、王貞治の打席で稲尾和久の日本記録に並ぶ353奪三振を記録した後、後続のバッターからは全てのアウトを意図的に三振以外の方法で奪い(投手の高橋一三をも低めの球でセカンドゴロに打ち取っている。江夏曰く「森(昌彦)さんとピッチャーは三振を取らないようにするのがむしろ大変だった」)、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた。またこの試合では、自らのバットでサヨナラヒットを放っている。王からの奪三振にこだわったのは、当時阪神のエースだった村山実が、節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたため、それを真似たものである(新人時代に村山がONを指さして「俺はこっち(長嶋)、お前はあっち(王)や」と、王をライバルとするよう命じられたともされる)。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球で勝負を挑んでいたために20本の本塁打も打たれた。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王である。また、江夏は王に対し一度も死球を与えていない。
頭角を現した以降の江夏は、血行障害に悩む村山に代わって阪神のエースの座に就き、最多勝利2度、最優秀防御率1回、沢村賞1回の他、20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振などの記録を作りあげ、名実共にセ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した。4年目の1970年には通算1000奪三振を記録するが、これは通算奪三振の日本記録保持者、金田正一を上回る最短記録であった。
1971年のオールスターゲームでは、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空に切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、これは振り逃げが起こらない限り可能な最高の成績である。この試合で、キャッチャーフライを追った田淵幸一に「捕るな!」と叫んだと言われているが、本人はこれを「(スタンドに入るだろうし、テンポ良く投げたかった為)追うな!」と叫んだものであると、著書の中で述べている。この9連続を挟む15者連続奪三振も、オールスター記録となっている。なお、この試合で江夏は自ら先制ホームランを放っているが、オールスターでの投手による本塁打は1960年の巽一に次ぐ2人目であり、江夏を最後に達成者はいない。
1973年8月30日の中日ドラゴンズ戦では、松本幸行投手と11回まで投げ合い、11回裏に同投手から自らサヨナラホームランを放つという劇的な形で、日本プロ野球史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成する。その際に残したとされるコメントが「野球は一人でも出来る」と歪曲されて論議を呼び、また自身の一切言い訳をしない性格がそれに拍車をかける形になった。また、この試合を実況した朝日放送のアナウンサーが興奮のあまり「バンザーイ!江夏大バンザイ!」と万歳を連呼、公平性を欠くと注意を受けるという後日談もあった。この試合の映像はサンテレビに保管されている(→サンテレビボックス席)。
このように華々しい活躍を見せていた江夏だが、当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。中でも9連覇を許した1973年は、あと1勝すれば優勝という129試合目の対中日ドラゴンズ最終戦に先発し打ち込まれて敗戦投手となったことから、優勝を逸した元凶であるとまで言われることとなった。1974年からは血行障害や心臓疾患が悪化し、肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増。同世代のライバルであった巨人・堀内恒夫に先んじて通算150勝を達成するも、成績は年々下降していた。同時期、金田正泰、吉田義男両監督との確執などから「一匹狼」「ローンウルフ」といった異名をつけられ、マスコミにフロントとの対立がクローズアップされる。1970年の黒い霧事件に続く騒動に不本意ながら巻き込まれた(本人の非はほとんどなく、竹中組の組長と三宮のクラブで出くわし、同組長から「大ファンや。三振記録のお祝いにこのパテックフィリップの時計を貰ってくれ」と頼まれ、渋々戴いた。)ことも、江夏へのマイナスイメージをファンに植え付けることとなってしまった。そして1976年1月、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで南海ホークスへ移籍。フロント主導で一方的に決められたトレードで、会見の場で江夏は涙ながらに無念を語っていた。
なおこのトレードの際、江夏は交換相手の江本に関し「なぜあんなレベルの選手と(俺が交換させられるのか)」とぼやき、それを聞いた江本が「言いたい放題言いやがって」と激怒、一触即発の状態に陥った。しかし後に和解して良い友人となり、後年江夏の刑事裁判において情状陳述をするまでの関係になった。
当初はホークスに移籍する気は全くなく、阪神在籍のまま現役を終えるつもりだったという。しかし、野村克也選手兼任監督と会った時に、1975年10月1日の広島東洋カープ戦で衣笠祥雄にカウント2-3から意図的に投じたボール球について「あれはわざと放ったんだろう?」と指摘され、その野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。
移籍一年目は先発として登録されたが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、思うような成績が残せなかった。その後、野村監督から「野球界に革命を起こそう」と説得され、1977年6月にリリーフ投手へと転向。この年19セーブで最優秀救援投手に輝き、日本野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとなる。
当時はリリーフ専門投手の調整法というものが日本には無く、ずっとベンチに座って待機していると腰痛持ちの江夏には辛かったことから、知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き、自己流の調整を始めた。試合が始まっても5回までベンチに入らず、ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取ったりする調整法は、当時チーム内や球界で非難を浴びたが、今日では全試合待機を義務付けられるリリーフ投手のコンディション維持方法として定着している。
この南海時代以降、阪神時代の豪腕は鳴りを潜めたが、打者の心理を読み取って変化球を巧みに使い分ける技巧派投手として開眼。その投球術は、金田正一をして「現役時代の自分を上回る」と言わしめた。
1977年オフ、野村監督の解任に際して「野村さんがやめる以上出してください」と発言し、金銭トレードで広島へ移籍。黄金期を迎えていた広島のリリーフエースとして活躍し、1979年、1980年の2年連続日本一に大きく貢献した。1979年には、自身初、そして日本のリリーフ投手でも初となるシーズンMVPに輝いている。同年の近鉄バファローズとの日本シリーズでは、最終第7戦にて1点リードの9回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からのスクイズを見抜くなどして反撃を断ち、広島を日本一に導いた。この時の様子は、後に作家の山際淳司が『江夏の21球』という短編ノンフィクションに記し、現在ではプロ野球史屈指の名場面として定着している。江夏本人も後年、「広島時代は楽しかった。特に1979年」と回想している。またこの時期、大野豊にフォーム改造などの熱心な個人指導も行い、後の大野の成長の礎を作り上げた。
この時のチームメイトだった衣笠祥雄とは無二の親友であり、現在でも交流が深い。著書によると「広島時代は、嫁さんといる時間よりサチ(衣笠)といる時間の方が長かった」という。
1980年オフ、高橋直樹とのトレードで大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズへ移籍。20勝エースとリリーフエースとの大型トレードで話題になる。移籍1年目の1981年には、チームを19年ぶりの優勝に導いてシーズンMVPを獲得。2006年現在、両リーグでMVPに輝いた選手は江夏ただ一人である。1982年、通算200勝を達成。また、広島時代の1979年から1983年まで5年連続で最多セーブ投手となり、12球団すべてからセーブを挙げる史上初の記録も作り上げた。
1983年オフ、日本ハムの大沢監督が勇退。「お前をとってきた俺がやめるんだから、お前も日ハムをやめろ!」という大沢の強引な説得により、移籍が決まる。この時点ではまだ移籍先が決まっていなかったが、球団常務となる大沢に希望球団を聞かれたところ、「行きたくないのは巨人、阪神、広島、西武。強い巨人、西武と対戦できるならどこでもいい」であった。しかし、柴田保光投手とのトレードで西武ライオンズへの移籍が決定。これは、巨人が江夏獲得に乗り出してくると見た西武が、巨人に取られる前に自分の所に引き入れようという意図によるものであった。
移籍後は広岡達朗監督との確執(※)により登板機会に恵まれず、史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振を目前にしながら、1984年限りで西武を退団し、現役引退を表明。特定球団主宰の引退試合は行われなかったが、多摩市一本杉公園野球場にて文芸春秋主催で名球会が協力し「たったひとりの引退式」を行った。
この引退式の引退挨拶で、メジャーリーグに挑戦する旨を述べる。この際江夏は「江夏豊36歳、本当にバカな男かも分かりません。ですが、日本に帰ってきたときには、たった一言、ご苦労、それだけ言ってやってください」と話している。
※自著によると、当時の西武は広岡の指導により肉食制限令が出されていたのだが、その後広岡が痛風にかかっていることがわかり、江夏はそれに対して「自分は制限を守ってないじゃないか」と面と向かって非難したと言われる。
翌1985年、公約通りミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加。「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、日本での野球生活を終えてメジャーに挑戦する36歳のルーキー」として地元マスコミからも注目された。キャンプから順調に結果を出し、オープン戦でも好調をキープ。開幕ロースター入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーリーグとはならなかった。この時、球団からはマイナー契約を打診されていたが、実質的には戦力構想外であったようである。当時のブルワーズの発表によると、やはり36歳という高齢がチーム編成においてネックであったとされており、本人も「そこまでやる気は無い」として、現役を完全に退いた。
余談だが、江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・イゲーラは、この年に15勝、翌年は20勝をあげた。イゲーラが日米野球で来日したとき、服はブランド物、腕には高級時計を身につけており、マイナー時代は普段着でもアンダーシャツを着ており、ビール1本を買う金すらロクになく江夏の部屋まで飲みに来ていた(江夏は日本球界の最高給投手だった)男の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いたという。ちなみにイゲーラ自身もマイナーで江夏と過ごしたことを忘れておらず、来日して、江夏の元に真っ先に駆けつけ握手を求めたという。
引退後は、日本テレビ解説者、東京中日スポーツ評論家を務める傍ら、映画、TVドラマ、バラエティ番組に出演するなど、タレント・俳優としても活動していた。
しかし1993年3月3日、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて懲役2年4ヶ月の実刑判決を受け静岡刑務所(静岡市葵区)に服役、名球会からも自主的に退会した。1995年4月27日、仮釈放。出所後は野球解説者・評論家に復帰し、判りやすく明晰な技術論で高い評判を得ている。
現在はテレビ大阪解説者、デイリースポーツ評論家。選手を「君」付けで呼ぶ野球解説者の走りで、これは野球選手という職業へのリスペクトからであると本人は語っている。また、週刊プレイボーイ(集英社)で『江夏豊のアウトロー野球論』、週刊ベースボール(ベースボール・マガジン社)で『江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」』を連載中。マスターズリーグ・東京ドリームスにも在籍し、モルツ球団にも所属している。
1960年代後半から1980年代前半にかけ、先発・リリーフとして最も高い評価を受けた左腕投手である。現在でも『20世紀最高の投手』との呼び声が高く、広島・日ハム時代に大車輪の活躍を見せてチームを優勝に導いたことから『優勝請負人』の異名も取った。Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門でも、沢村栄治、金田正一、稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。奪三振日本記録の更新時の伝説や9連続三振、「江夏の21球」など、江夏が残した武勇伝の多さは、投手では日本プロ野球史中随一といってもいいだろう。
一時の気の迷いで薬物に手を出し、自ら指導者の道を断ってしまったことを悔やむ声は多い。ただ、刑務所の規則に従っての生活で健康状態は劇的に改善し、本人も出所後、法廷での弁護に立った野村克也や江本孟紀、衣笠祥雄ら友人達への感謝の言葉と共に、「もし刑務所に行っていなかったら、僕はもう死んでいたかもしれない」と語っている。また作家の安部譲二は、「あの傲岸不遜だった男が、帰ってきたら物凄く気配りができるようになっていた」と語っており、服役生活は結果的に、その精神面にも良い影響を及ぼしたようである。出所して自宅に戻ってきた時に一からやり直す決意をするために現役時代の獲得した数々のトロフィーなどを全て捨ててしまったいう江夏らしいエピソードをテレビ番組で話している。
無類の阪神ファンである作家・小川洋子の『博士の愛した数式』(第1回本屋大賞受賞)では、その背番号(28、完全数)の持つ意味を題材に、著者から熱烈なオマージュを捧げられている。また江夏本人も、この作品が映画化された際にコメントを寄せている。
酒は飲まない。体質的に受け付けないわけではないのだが、阪神時代に主治医から「今の無茶な生活を続けていれば、間違いなく数年以内に命を落とす。酒、タバコ、女、麻雀、どれかを止めろ」と言われて酒を断つことを選び、そのまま現在に至っている。ただし、どうしてもタバコだけはやめられないことを、ニュースステーションのコーナー「最後の晩餐」内で話している。
MLBで2度のノーヒッターをマークしている野茂英雄が師匠として慕っている。ただ、江夏は鈴木啓示とも親しく、野茂と鈴木との間に溝が出来た事について、「トレーニングに関しては野茂の主張も分かるが、自らの経験から考えると鈴木の言う事も全部間違っているわけではないと感じる。だからこの件だけは野茂と同調できないのだ」と自著の中で述べていた。
リリーフエースの危機脱出術―ピンチのときこそ相手の得意コースをつけ!(1985/01 ゴマセレクト)ISBN 4341020641
江夏豊のくたばれ管理野球―ここまで言うたら言いすぎやろか(1988/07 学習研究社) ISBN 4051029476
江夏豊の超野球学−エースになるための条件(2004/05 ベースボール・マガジン社)ISBN 4583037937
カテゴリ: 日本の野球選手 | 阪神タイガース及びその前身球団の選手 | 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 | 広島東洋カープ及び広島カープの選手 | 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 | 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 | 兵庫県出身のスポーツ選手 | 野球解説者 | 1948年生

[ 15] 江夏豊 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A

1948年、大阪生まれ。投手。左投左打。背番号28(阪神)→17(南海)→26(広島・日本ハム)→18(西武)。大阪学院高から1967年、ドラフト1位で阪神に入団。1年目に奪三振王、入団2年目の1968年には401奪三振(1試合平均10・8個)の世界記録を樹立。25勝12敗で最多勝を獲得している。
1971年の球宴では9連続奪三振の離れ業を演じている。その後、南海、広島、日本ハム、西武と渡り歩いた。南海では野村監督の勧めでリリーフに転向。リリーフエース専任や全試合ベンチ入りは、野球革命といわれている。1977年に4勝2敗19セーブで初の最優秀救援投手に輝き、引退までに合計5度もこのタイトルを獲得している。
広島で日本一2度(1979・1980)と日本ハムでリーグ優勝1度(1981)に大きく貢献し、優勝請負人と呼ばれた。
さらに、最後は大リーグ挑戦を決意し、1985年に西武を辞めて渡米。しかし、最後の最後で大リーグ昇格は叶わず、そのまま引退。
150キロを超える直球と落差のある二種類のカーブとフォーク、卓越した投球術で三振を奪い、ONと名勝負を繰り広げ、20世紀最高の投手との呼び声も高い。入団後6年連続奪三振王を始め、5球団18年間で積み上げた三振数は2987に上る。
通算成績(実働18年):206勝158敗193セーブ210セーブポイント。防御率2.49。2987奪三振(歴代5位)。最多勝2回、最優秀防御率1回、最優秀救援投手5回、シーズンMVP2回、沢村賞1回。73年にはノーヒット・ノーランを達成。現在は野球評論家。
江夏は、王貞治を最大のライバルと見たてており、日本タイ記録の353奪三振を狙って王から奪っている。
しかも、その後、タイ記録だけでなく、新記録も王から奪うことを決めていた江夏は、わざと王以外の打者を打たせて取り、一回りして打順が回ってきた王の第3打席で、世界記録となる354奪三振目を奪っている。
驚くべきことはそれだけでない。その試合は緊迫した投手戦だった。江夏が日本タイ記録・日本新記録を達成したときのスコアは0−0。普通なら敢えて打たせることなど、できる状況ではなかったのだ。
さらに……。試合は、そのまま延長戦に入った。その延長の中でも江夏は、11回裏に自らサヨナラ打を放って勝ち星を手にしてしまったのである。
1971年、オールスター戦で先発した江夏は、全パの先頭打者有藤(ロッテ)から三振を奪うと、1回、2回を3者連続三振にきってとる。
そして、3回には3者連続空振り三振で、連続9人から三振を奪った。9人のうち、8人が空振り三振している。
9人目の打者の加藤がバックネット側に打ち上げたファールを追おうとした捕手の田淵に江夏は「追うな」と叫んだと言われている。
オールスターでは、規定で投手は3回を上限とされているため、9連続奪三振は、永久に破られることはない快記録である。
また、江夏はこの前年の1970年第2戦に先発したときも、2回一死から5連続三振を取って記録を継続しており、71年の9連続三振の後も、第3戦で6回から登板し、江藤(ロッテ)を三振にきってとっている。これを合計すると、オールスターで15連続奪三振を達成したことになる。この記録を止めたのは、野村克也(南海)で、初球をバットに当ててセカンドゴロにした。
これに次ぐ記録が1984年の江川(巨人)の8連続奪三振であるが、大リーグでは5連続奪三振が最高である。
1979年、11月4日、大阪球場で近鉄×広島の日本シリーズ第七戦。広島が1点リードのまま、九回裏の近鉄の攻撃になる。7回裏からマウンドに上がっていた広島のリリーフエースの江夏は、ヒットと盗塁、エラーで攻め立てられ、無死三塁ピンチを招く。そこから四球と敬遠で無死満塁という一打逆転サヨナラ日本一のピンチを招く。
次の打者の石渡のところで、江夏は石渡の1球目の見逃し方と一塁走者の眼の動きからスクイズを見抜き、2球目にカーブの握りでわざと投球動作を遅らせ、打者の動きを見ながらカーブを外角高めに大きく外す。これにより、石渡はスクイズを空振り、三塁走者は三本間でタッチアウトとなった。
その後、石渡は三振に倒れ、広島の日本一が決定。9回だけで21球を投げた江夏は、胴上げ投手となった。
1973年8月30日、阪神×中日戦。9回を終わったところで阪神の江夏は中日打線をノーヒットに抑えていた。
しかし、味方打線の援護もなく、試合は0×0のまま延長戦へ突入。10回表、11回表も江夏は、中日打線をノーヒットに抑える。
そして、11回裏、なんと江夏自らがサヨナラホームランを放ち、サヨナラ勝ちで江夏もノーヒットノーラン達成。
1976年1月、阪神のエースとして9年間で159勝を積み上げてきた江夏は、突如トレードを言い渡され、南海に移籍する。
そこで、南海の野村監督から「抑えの切り札として野球の革命児になってもらいたい」と言われ、リリーフエースに転向。そこから、江夏は優勝請負人として球団を渡り歩くことになる。
当時、リリーフエースという概念がなかった日本野球界では、江夏の8連投や全試合ベンチ入りなどは大きな革命であった。
しかし、現在では、江夏の残した功績がそのまま引き継がれ、抑えの切り札がしっかりしたチームが優勝する、という図式が定着している。
もちろん、通算200セーブポイントを達成したのも江夏が初めてであり、200勝200セーブポイントの記録は不滅と思われる。
江夏は、1979年、広島で9勝5敗22セーブ、防御率2.66の成績を残し、広島のリーグ優勝・日本一に貢献。
そして、日本ハムへ移籍後の1981年、3勝6敗25セーブの成績を残して日本ハムの優勝に貢献し、またもやMVPに選出。
セ・パの両リーグでMVPに選出されたのは江夏が初めてであり、現在のところ、まだ続く者は出てきていない。
江夏は、最優秀救援投手5回という記録を持っているが、その記録の陰に隠れてはいるが、76引き分けという日本記録も持っている。
現在ではリリーフエースは、大抵最後の1回、しかも勝っている場面での登板に限定されて使われることが多いが、江夏の場合は同点の場面はおろか、負けている試合でも投げていた。しかも、3イニングくらいは日常茶飯事であった。
そんな中で、負け試合に登板して抑えているうちに味方が追いつき、そのまま同点で延長の試合終了まで投げきる、もしくは同点で出てきて最後まで抑えきる、という引き分け試合に持ち込んだ試合が多かったのだ。確かに勝ち試合を引き分けにされたこともあっただろうが、長年かけて積み上げた引き分けは76。
江夏は、通算210セーブポイントだが、このセーブポイント制が採用されたのは江夏が当時在籍した南海では1977年からのため、それ以前のセーブポイント100を換算してみると、何と通算310セーブポイントという大記録になるという。
1984年暮れ、管理野球を進める広岡達朗監督との確執から西武を自由契約になった江夏は、他の日本球団からの誘いをすべて断り、大リーグ挑戦を決意する。1985年1月19日に日本球界引退を惜しんで行われた「たった一人の引退式」には山本浩二・落合博満・福本豊・大杉勝男・江藤慎一といったそうそうたるメンバーが駆けつけた。
日本を離れた江夏は、2月には大リーグのブリュワーズのキャンプに合流した。メジャー枠10人に入ることを目指して江夏は、力投した。それでも7人は既にメジャー枠当確であり、実質上19人で3つの枠を争うことになっていた。3月18日のオープン戦ではマリナーズを抑え、勝利投手となった。メジャー相手に好投を続けて実力を見せつけ、メジャー入りは確実かと思われた。
しかし、オープン戦後半でまさかの3試合連続救援失敗。メジャー入りの最後の枠を若いヒゲラ投手と争うことになったが、4月2日のエンゼルス戦で2回2失点により、その夢は絶たれた。江夏はマイナーでの再スタートを断り、引退の道を選んだ。

[ 16] 江夏 豊
[引用サイト]  http://www.webmie.or.jp/~m-yama/player/sportsenatu.htm

『江夏の21球』(えなつのにじゅういっきゅう)とは、山際淳司のノンフィクション小説である。また、この作品により、題材とされたプロ野球の試合の模様もこの表現で呼ばれるようになっている。
1980年に文藝春秋から発行された「Sports Graphic Number」創刊号に掲載された。読者の反響が大きく、山際淳司をスポーツノンフィクション作家として世に認めさせた作品として知られている。また、1982年にはNHKによって映像化され、『NHK特集・スポーツドキュメント「江夏の21球」』として1983年1月24日に放送された。この番組の解説を務めた野村克也は「江夏の21球こそ野球の醍醐味」と語った。この番組は2003年にも再放送された。
また、プロ野球1979年の日本シリーズ第7戦において、投手の江夏豊が9回裏に1点リードで無死満塁と言うピンチを背負いながらも(「自ら招くも」ともいえる)0点に抑え、チームの日本一を決めたことを表現することがある。
題材とされたのは、1979年11月4日、大阪球場で行われたプロ野球日本シリーズ第7戦、近鉄バファローズ(以下近鉄)対広島東洋カープ(以下広島)の9回裏の場面である。
両チーム3勝3敗で迎えた第7戦は、小雨が降る中試合が進み、7回表を終了した時点で4対3と広島がリードしていた。広島・古葉竹識監督は万全を期すため、絶対的なリリーフエース、江夏豊を7回裏からマウンドへ送っていた。迎えた9回裏、近鉄の攻撃。この回を抑えれば広島は優勝、球団史上初の日本一となる。ところが、同じく初の日本一を目指す近鉄もただでは終わらなかった。先頭の6番打者・羽田耕一が初球にヒットを放ち、にわかに場面は緊迫する。以下は、この回に江夏が投じた全21球とそれに伴う試合の様子である。
羽田、初球をセンター前にヒット。無死一塁。近鉄・西本幸雄監督は羽田に代え、シーズン代走盗塁記録を持つ切り札・藤瀬史朗を代走に送る。
藤瀬がスタート。投球はボール。捕手・水沼四郎が二塁へ送球するがこれが悪送球となり、藤瀬は一挙に三塁へ達する。無死三塁。ボールカウントも1ストライク3ボールとなった。
事実上敬遠となるボール。アーノルドは四球となり、一塁へ。無死一・三塁。西本はアーノルドに代え代走にこれも俊足の吹石徳一を送る。
一塁走者・吹石がスタート。投球はボール。藤瀬の本塁突入を警戒して、水沼は二塁へ送球せず。吹石盗塁成功。無死二・三塁、すなわち一打サヨナラの場面となる。
9番には投手・山口哲治が入っていたが、西本は前年首位打者でこの年も打率.320を記録していた「左殺し」の異名を持つ切り札・佐々木恭介を代打に送る。その右打者佐々木への初球は内角に大きく外れるカーブでボール。
2球目は見逃しのストライク。ド真中のシュート。この投球の後、広島ベンチから池谷と北別府がブルペンへ。リリーフエース江夏の心理に微妙な変化が生じる。
3球目、内角ギリギリ、ベルト付近のストレート。佐々木が強振し、バウンドした打球は三塁線へ。三塁手・三村敏之がジャンプするも届かず、ヒットかと思われたが、結果はファウルボール。
捕手とのサイン交換の前に一塁手衣笠がマウンドの江夏のもとへ駆け寄る。衣笠に励まされた江夏はリリーフエースとしてのプライドのことはふっ切れ、開き直ることができた。投球は内角高めのストレートで、またもやファウルボール。
3走者がスタート。石渡がスクイズの構えをする。水沼が立ち上がる。江夏は外した球を投げる。石渡は飛び付くようにバットを出してスクイズを試みるが、ボールは水沼のミットの中へ。スクイズは失敗。藤瀬は三塁に戻ろうとするが、既に二塁走者の吹石が三塁に達しており、戻り得ず、水沼にタッチされ、アウト。このスクイズ失敗によって二死二・三塁、カウントも2ストライク0ボールとなる。
表面的な事実としては以上の通りだが、山際淳司は江夏本人に対して長時間インタビューをするなどして、単なる投打のやり取り以外に発生していた駆け引きなどを取材。それらを総合して一つの作品にまとめたのが『江夏の21球』である。具体的には、以下のような場面が描かれる。
この点差、場面、状況を考えれば9回裏先頭バッターの初球は100%ウェイティング、江夏は初球ストライクを取りにいったが、羽田は初球から打ってきた。このヒットでペースが狂ったと江夏は述べている。
藤瀬の「盗塁」は、実はヒットエンドランのサインだったが、アーノルドが見落としていた。結果オーライとなったが、近鉄の西本監督は苦笑いした。
緊張が走る近鉄ベンチが映るが、現在解説者として活躍している有田修三が、ベンチの隣に座る西本監督の前にツバを吐きかける。近鉄の自由なチームカラーが伺える。
江夏がアーノルドに四球を与えた時に、広島の古葉監督はブルペンに北別府学を派遣した。この時ブルペンでは既に池谷公二郎も投球練習をしていた。これを見て江夏は「自分のことを信用しないのか」と憤り、マウンドに内野手が集まった時に、「自分を信用しないのならば辞めてやる」と言い放った。
後で一塁を守っていた衣笠祥雄が一人で江夏のもとに向かい、「(信用されなければ辞めるという)おまえの気持ちと自分も一緒だ、気にするな」と声を掛けた。これで江夏は吹っ切れた。
古葉がブルペンに投手を送った理由は、後日語ったことによると同点延長の可能性を考慮したためである。随分あとになって江夏は「あの時の古葉さんの行動は理解できた」と語っている。
13球目に江夏が投じたボールは佐々木ならば「楽に外野フライにできる」ボールだった。それを見逃した。あるいは見逃さざるを得なかったことは佐々木にとって、また近鉄にとって痛恨であった。
14球目だが、江夏は「あのコースなら打ってもファウルだ」と確信していた(内野でバウンドした打球のフェア・ファウル判定は、打球の着地点で判定するのではなく、ベース上の空間を通過していたか否かで判定するので実際はかなり際どい判定だった)。
しかし、9回裏に衣笠は三塁から一塁に回り二塁手の三村敏之が三塁に回っていたこともあり、背の低い三村がジャンプして届かずファウルボールだったので、もし三村より少し背が高く、跳躍力のある衣笠がそのまま三塁手だったならば、衣笠はボールを弾いてフェアとなり近鉄が同点またはサヨナラ勝ち、捕れたとしてもホームへの送球は不可能だったのではないかとも言われる。
この14球目の判定に関して、近鉄ベンチは抗議を行っていない。三塁コーチである仰木彬が判定に異議を唱えるような行動を示さず、そして西本は仰木に絶大な信頼を寄せていたからである。
クライマックスである石渡への19球目を巡る、投手江夏・打者石渡・監督古葉の3人の証言の食い違いが白眉である。この時江夏はカーブの握りをしたままボールをウエストし、スクイズを外している。投球動作に入った後、三塁走者藤瀬の本塁突入に気付いた江夏の、もはや握りを変える間もない咄嗟の判断であったが、暴投する危険の極めて高いこの行為につき、石渡はその事実を頑として認めていない。また、古葉は「シーズン途中からこの様な事態を想定して投手には変化球でウエストを投げさせることを練習させていた」と語っているが、江夏によれば「その様な事実は一切無かった」と言う。なお、江夏は指が短く、しっかりとしたカーブが投げられなかったが、そのカーブがウエストを可能にしたと言われる。但し、投球動作に入ってからカーブの握りでウエストすると暴投になるので、絶対不可能と言う意見もある。では、何故カーブの握りでウエストできたか?は謎と言える。
スクイズ失敗の直後、近鉄監督西本幸雄の脳裏には大毎監督時代、大喧嘩の末オーナーの永田雅一に解任された1960年の対大洋第2戦でのスクイズ失敗が過ぎり、「俺はスクイズの神様に見放されているのかなあ…」とつぶやいた、と言う。
水沼の証言によると、バッターボックスでの石渡は明らかに緊張しており、スクイズで来るのは見え見えだった、しかも大学の後輩に当たる石渡に対して、「おい!、スクイズやろ!、いつしてくるんや?」と、言葉でプレッシャーを与えてたらしい。石渡にスクイズのサインを伝えた仰木は、石渡の背後で食い入るように自分を見つめる水沼の姿を見て、失敗を予感したと言う。
この第7戦の球審が、現パシフィック・リーグ審判部長の前川芳男、二塁塁審が元パ・リーグ審判部長の藤本典征だった(一塁塁審には岡田和也(現在は功と改名。)外野右翼線審に福井宏とセントラル・リーグからは名物と呼ばれていた審判が務めていた)。布陣としては、(球)パ前川(塁)セ岡田和 パ藤本 セ山本文(外)パ岡田哲 セ福井
この試合は当日午後1時(JST)から毎日放送をキーステーションに1959年の南海日本一のエース・杉浦忠(故人)と巨人9連覇の名参謀・牧野茂(故人)の解説、毎日放送アナ(当時)・城野昭の実況でJNN系列全国ネットで生中継された(MBSラジオでは実況・三宅定雄、解説・宅和本司、米田哲也)。ちなみに毎日放送にとっては、この試合が腸捻転解消後、初の日本シリーズ中継となった。
2006年8月3日発売の週刊ヤングサンデーに、かわぐちかいじの描いた本作の読み切り漫画が掲載された。
カテゴリ: プロ野球の試合 | 1979年の野球 | 日本の小説 | 広島東洋カープ | 大阪近鉄バファローズ | 野球を題材とした作品

[ 17] 江夏の21球 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E3%81%AE21%E7%90%83

1975年12月26日、日刊スポーツに「江夏豊 放出」の見出しが躍る。江夏は不信感を抱くが、球団はデマだと否定する。しかし・・・。
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江夏豊は1966年ドラフト1位で入団。1972年まで6年間連続最多奪三振、1968年、1973年に最多勝利投手、1969年に最優秀防御率、1975年までで完封44試合を含む159勝を記録していた。
1975年、そんなチームの功労者に対する契約更改交渉がもめていた。すると12月26日の日刊スポーツに「江夏放出」の見出しが躍る。南海・江本孟紀とのトレード話が進行しているとの内容だった。
当然のことながら江夏は不信感を抱くが、球団はこれをデマだとして全面否定。しかし、契約の話になると、25%ダウンを提示、飲めないならトレードだと通告。
結局、1976年1月28日に阪神、南海による2対4のトレード(阪神:江夏豊、望月充、南海:江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫)が成立した。
僕は心機一転という言葉は使いたくない。精一杯やるだけです。今日はちょうど28日(江夏の背番号は28)。この日で阪神の江夏はすべて終わった。
世間知らずの野球馬鹿を、あんな惨いかたちで追い出すなんて。江夏は10年に1人のピッチャーです。大投手になれたのは、あのわがままで、ひねくれた性格があったからこそなんですよ。昨年、一昨年と成績が悪かったのは使い方が悪いからです。私が監督のころは、片親がいない貧乏な家庭に育った者には父親代わり、兄代わりになってやったものです。江夏もそうで、父親のいない貧しい家庭環境で育っています。そこのところを知ってやらねばいけません。それを会社や監督は理解してやらなかった。配慮が足らなかった。私は今年の吉田内閣は、そうとういけると踏んで、楽しみにしていたんです。しかし、これで終わりです。残っている計算の立たない10勝クラスでは、とても優勝なんかできるものではありません。
当時の吉田義男監督は「フロントが決めたことで、私は知らなかった」と弁明したが、実は1975年オフに江夏のトレードを決断、当時の長田睦夫球団社長に「君は、江夏のトレード話は知らないことにしておこうや」との意向に従って、しらばっくれたと言われている。
また、江夏豊自伝「左腕の誇り」によると、1975年夏に吉田監督のほうから南海・野村克也監督に江夏のトレード話の打診があったと記されている。
ちなみに、阪神は江夏を放出したあと、1976年こそ2位という成績だが、1984年まで9シーズン中6度のBクラス、そのうち1978年には球団初の屈辱となる最下位を味わった。

[ 18] トラライフ - 江夏豊、南海へ放出
[引用サイト]  http://www.tora-life.net/memories/memories4_16.html



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