祖父とは?
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私の母方の祖父高岡 勇は、戦前から阪急に勤め、六甲登山ロープウエイの駅長、戦後復員してからは六甲山ホテルの支配人をしていました。 しかも、堅物だった祖父を、母などは疎んじていたこともあり、生前に話しをしたことすらほとんどなく、私は祖父の人ざまを肌で感じることができずじまいでした。 しかし、当時としては珍しく大学出であった祖父は、文章を書いたり、絵(鳥や植物の細密図)を描くのが好きで、ロープウエイ・ホテルに勤務中も六甲山の地理や自然をまめに記録しており、そんな遺してくれた物を見るにつけ、その人となりをうかがい知ることができるのです。 六甲登山ロープウエイは、昭和6年から不要不急の転用のため昭和19年撤去されるまで、阪急(の傍系会社)が経営していたもので、阪神と競争するかのようにケーブルに並行する位置にありました。 神戸測候所が山上駅のすぐ近くにある阪急食堂に百葉箱を設置して気象観測をしていたのを受けて、その仕事の一部を手伝っていたようです(2)。 この時代の祖父には単に山上駅に勤務するだけではなく、職場である六甲山を極めようという意志が感じられます。 それが、戦後、ホテルの支配人をしつつ、六甲山そのものの開発を取り仕切ることになったことへつながっていったように思われます。 戦後の六甲山と祖父の関係について述べるに避けて通れないのが、阪急・東宝グループの創業者である 逸 翁 − 小林 一三 氏 のことです。 小林一三氏は戦前・戦後にかけて毎年、六甲山ホテルに 40〜50日にわたって避暑のため逗留されました。 いえ、それどころか、当時の祖父の様子を知る方の証言によると、祖父は、氏がホテルにいる間は、常にそばに侍り、一種 崇拝 の念を抱いていたようですから、自ら弟子にでもならんとする気持ちであったのでしょう。 実は、私自身は恥ずかしながら、小林一三という人物については名前だけは知っていましたが、具体的にどの程度偉大な人物であったか知りませんでした。 ここでは、まず、祖父の憧れた小林一三氏が、戦後の六甲山をどのように復興しようと考えたのかを紹介します (1)。 戦後の祖父は、六甲山経営株式会社の事業のひとつである六甲山ホテルの支配人をしながら、各種の事業 (表六甲ドライブウェー・診療所の開設・六甲山小学校の開校など)に深く関与したようです。 測量図としての精度は定かではありませんが、単なる案内図ではなく、細かく記入された地物によって、当時の六甲山頂の文字通りの明細を知ることができます。 地図は一冊のパンフレットをなしており、おそらくホテルの泊り客に配布(定価があるので販売?)したものと思われますが、表が地図、裏面が六甲山の案内文(写真付き)になっています。 |
[ 261] 祖父の見た六甲山
[引用サイト] http://www2.osk.3web.ne.jp/~morichi/rk/
