イビチャとは?
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副業的にユーゴ代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。 1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。 1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。 1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。 1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。 3月27日 - ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。オシムは直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなった。 5月21日 - サラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴ代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。 1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。 1993年 - オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。 この項目は現在進行中の事象を扱っておりますが、Wikipediaはニュース速報ではありません。性急な編集は控え事実を確認し、正確な記述を心がけてください。 2007年11月16日 - 千葉県内の自宅で急性脳梗塞で倒れ、千葉県内にある順天堂大学附属病院に緊急入院した[1]。 ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴ構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。 彼が代表監督に就任する直前のユーゴ代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。こうした民族的な配慮を排除した上で、「必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃える」と言って憚らなかった。完成したチームはドラガン・ストイコビッチ、のちにスレチコ・カタネッツ、デヤン・サビチェビッチらがいた。 1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりを集めた選手起用を求めるメディアに対する当てつけとして、初戦ドイツ戦で敢えてその要求通りの起用で敗戦してみせ、次の試合では本来考えるチーム編成で勝利し[2]、最終的には、準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン相手に1人欠きながら120分間無失点のドローの末、PK戦で敗れた。 作り上げた最後のユーゴ代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかったが、やがて国の解体に合わせてユーゴ代表も崩壊した。 パナシナイコス退団を表明すると、レアル・マドリー、バイエルン・ミュンヘン、代表監督としてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ等への就任要請があったが、オシムはその全てを断わり、グラーツへ赴いた。グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っていた。 オシム就任以前はオーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじ、かつ財政難の状況にあったSKシュトゥルム・グラーツだったが、オシムはこのクラブに規律と戦術を持ち込み、無名の若手を起用して当時オーストリアリーグでは一般的でなかった走るサッカーを実践した。クラブは徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。就任2年目となる1995-96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997-98年シーズンにはリーグ優勝を果たした。この時のメンバーには後にジェフ千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリアリーグを代表する選手となった。 グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000-01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過。2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組となる。この組ではバレンシアとマンチェスターユナイテッドに敗れたものの(特にホームで迎えたバレンシア戦は5-0の大敗であった)、パナシナイコスには2戦とも勝利した。決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は評価に値するものであった。 しかし、主力を放出していくうちに年々成績を下げ、2001-02年シーズン終了後、二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハネス・カルトニックと対立した形となり、マスコミを通じて卑劣な批判を受けた翌日に辞任を発表した。オシムは退任の理由を「クラブオーナーからの名誉毀損」としており、実際カルトニックとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰となり、2004年12月最高裁より全面勝訴を得た。」 グラーツを去った後、オシムは新しい挑戦として日本にやってきた。肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチ、「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードとした指導で、降格危機・低迷から脱したジェフ市原をさらに改革した。 2003年、当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。そのサッカーは多くのサポーター、サッカーファンを魅了し、彼の名声を高めることになった。 2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。又、この年は主力選手の怪我も重なった。しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、オシムの監督手腕の高さによるものと評価されている。 2005年、かつての主力選手でもあった村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチなどを放出した。しかし、技術に優れ攻守に貢献するマリオ・ハースや、DFながらも攻撃の組み立てに多大な貢献をするイリアン・ストヤノフの補強によって、その穴を埋めた。また、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど若手も成長し、戦力低下は招かなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝で強豪浦和レッズを倒して決勝戦に進出。決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。 2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用しているが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用しているにすぎない。対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていない。シーズン途中の7月に代表監督への就任が決まり、監督を辞職。 自身のテーマである「考えて走るサッカー」に合う運動量が豊富で守備能力の高い献身的なプレイスタイルや、複数のポジションをこなせる多様性のあるユーティリティープレイヤーが多く、これらの選手を上手く使うパスやドリブルなどの技術が高い選手が少数いる。 多色のビブスを使いプレーに複雑な制限を課すメニューが多く、慣れるまではルールや目的の理解が難しいとされている。特に就任当初は、選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まない様子がしばしば目撃され、クラブで既に「オシム流」に慣れていたジェフ千葉の選手が指導役になった時期もあった[3]。 前日本代表監督のジーコとの一番の相違点として上げられることで(ジーコは練習から控えはビブスを着用)[4]で先発メンバーは試合前のロッカールームでコーチが直接選手に伝えている。また控えの選手の振る舞いにも目を配り、就任当初から正GKの川口能活をモンテネグロ戦で楢崎正剛変えたことへの質問に対し「楢崎が好調なのもあるが、川口が(メンバーから外されて)どんな振る舞いをするのか見たかった」とコメントしている。 質問者が不用意に「走るサッカー」について質問すると、オシムは「サッカーで走るのは当たり前です」と切り返す。そうした場面が多々見られるように、試合後のオシムの記者会見や雑誌、新聞等に語られる彼の言葉は非常にウィットに富んでおり、サッカーが哲学的に語られる。ジェフ千葉時代に、それがサポーター間やサッカー界ばかりでなく、一般紙や教育の現場などでも評判を呼んだ。これが「オシム語録」と呼ばれるようになり、クラブの新しい名物として定着した。 試合後の会見では、単に質問者がからかわれている場面もまま見受けられ、オシムのコメントをストレートに紙面に掲載してしまうと、その真意を伝え切れないことになる。また、(練習場のある)市原まで取材に出かけた記者が半泣きで帰ってきた、という逸話が時々紙面に掲載されることがあったように、オシムは一部マスコミにとっては「インタビュアー泣かせ」の取材相手である。しかし、真摯な質問者に対するオシムの対応は、往々にして丁寧である。 なお、スポーツジャーナリスト以外への受け答えは温厚でありながら、非常に慎重である。これはオシムが各所で語っているとおり、かつて経験したユーゴ内戦の時期に「マスコミが戦争を始めさせる」という様を見せ付けられてきたことに起因するものである。 オシムの日本代表監督就任以降、その動向とともに「オシム語録」もさらに大きな注目を集めるようになった。 「大きく成長を遂げていると思う。だが問題は、君たちマスコミだ。40年間、まったく成長していないのでは?」[7] 1964年、ユーゴ代表の一員として東京オリンピック出場のため初来日。生まれて初めて見るカラーテレビや近代的な大都会・東京に感激した。ある日合宿地近くの農村をサイクリングしていた時、見ず知らずの老婆からいきなり梨を振舞われた。当時の日本では外国人はまだ珍しかったが、190センチもの大男を怖がりもせずもてなす日本人のホスピタリティに触れ、親日家になった[10]。帰国後友人のカタリンスキーに、「日本人は親切で誠実だ。とても歓迎されて、すぐに好きな街になった」と興奮気味に語っている。 1991年7月20日、キリンチャレンジカップに招かれたパルチザンの監督として、27年ぶりに来日。日本代表を相手に勝利を収めるが、東京オリンピック当時と比べ、日本のサッカーレベルの向上に驚く。 2002年6月、FIFA技術委員会メンバーとして日韓ワールドカップのため3度目の来日。札幌ドームでのドイツ対サウジアラビア、宮城スタジアムでのメキシコ対エクアドルとスウェーデン対アルゼンチンの3試合を観戦・分析した。この時の技術委員会メンバーには、当時ジェフ千葉監督であったベングロシュもいた。 オシムの影響で日本に興味を持った欧州の選手やサッカー関係者もいる。前述のカタリンスキーは、ボスニアで知日家として知られるまでになり、一時は在日大使就任の要請もあったと語っている。 一般的によく紹介されるイビチャの名称は短縮型で、正式名は Ivan (キリル文字で Иван)、日本語読みでは「イヴァン」である。ジェフ千葉での登録名は「イビチャ・オシム」。(なお「イビチャ」の原語により近い日本語表記は「イヴィツァ」) 選手時代には「シュトラウス」の異名をとった。テクニックとその独特のリズム、ボール捌きがまるでヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツを踊っているかのように華麗であったことを由来とする(ちなみにドイツ語の「ヨハン」は、オシムの名前である東スラヴ・南スラヴ諸語の「イヴァン」に当たる)。190cmの長身ながら繊細なボールタッチを持つパスの名手として知られ、ボールを持ったら離さないとも言われた。 愛称の1つに「シュワーボ」(「ドイツ野郎」の意)がある。オシムによればこれは少年時代からのもので、当時の自身のブロンドの髪、更に父方の祖父母がドイツ系で、家族がドイツ語を使いこなしていたことなどが由来だという。プロになってからも彼のルーツへの敬意を表する意味で、そして親しい間柄の人からは今でも呼ばれることがある。なお、オシムがパルチザンの監督を辞任した際、選手をはじめ多くの関係者が「シュワーボ!オスタニ(残れ)!」と叫んで別れを惜しんだというエピソードがある。 ※祖父はスロベニアのマリボル近郊出身で、そのルーツはドイツのシュワーベン地方。祖母はミュンヘン出身のドイツ人。 もしサッカー選手、監督になっていなかったら数学の教授になっていたかもしれない、ただ、その場合はユーゴ内戦の時期を無事に過ごせなかったかもしれない、と語っている。 自身について「今で言うマルチカルチャーな環境で育った」という。父方の祖父母はドイツ系で、母方は祖父がポーランド人、祖母はチェコ人である。少年時代から所属したジェリェズニチャルも、ボスニアに住む諸民族が一緒くたにプレーしている環境であった。なお、オシムはユーゴ分裂後の民族分類では「クロアチア人」であるが、本人はそういう区分を嫌っている。 母国語のセルビア・クロアチア語(旧ユーゴ人に言わせると「ややボスニアなまりがある」という)のほか、ドイツ語、フランス語、更に英語も話せる。記者会見は母国語だが、それ以外では英語などを使うこともある。 祖母井秀隆によると、記者会見前にファンデーションみたいな物で肌を整えているところを見た、という[11]。 PK戦が嫌い。ユーゴ監督時代、1990年ワールドカップのアルゼンチン戦、PKでは監督の力も及ばない、運命を偶然にゆだねるものであるとしてPK戦を見ずしてロッカーに引き下がってしまったが、結果は5人中3人が外し敗戦。ジェフ千葉時代、2005年のナビスコカップ決勝でPK戦を見ないでロッカーに引き下がってしまったのも同じ理由。勝利に終わった試合後のインタビューで、PK戦にいい思い出が無い、と語っている。 2007年アジアカップ決勝トーナメント準々決勝はPK戦に突入、彼はキッカーを決めた後やはりロッカールームに戻ってしまった。そのロッカールームにテレビカメラが入り、心配そうな表情を浮かべたたずむ様子を映し出した。 日本での親友はユーゴ代表監督時代から親交がある祖母井秀(ジェフ千葉在籍時のゼネラルマネージャー)で、視察などの際に送迎してもらうほどであった。 日本に来てから魚好きになり、自宅付近には行きつけの魚屋もある。魚にはこだわりがあり、必ずスーパーではなく魚屋で買ってくる。日本酒も嗜む[10]。 祖母井秀隆によると、サッカーを離れて一番楽しんでいたのは料理。ジェフ千葉時代、練習が終わるとチームのジャージを着たまま浦安に食材を買い出しに行っていた。腕前はなかなかのもので、トマトソースを使ったイタリアンなどが得意[12]。 お金にはこだわりが無い。買い物にはお札しか使わず、日本に来たばかりの頃は、「お釣りは取っておいてくれ」と言っていた。日本にはチップの習慣が無く、この行為が失礼になる事もある、と知ってからは、小銭を貯金箱に集め始め、貯まると母国ボスニアの子供達に寄付していた。また、自分の契約書に目を通した事が無く、ある日、祖母井秀隆がオシムの家を訪れると、契約書が自宅のテレビの上に封を切らずに置きっ放しだった。困った祖母井がオシムの息子のアマルに頼んで開封してもらい、二人で「今期はナビスコ杯を取ったからこれぐらいにしないと失礼になるかな」などと話し合い、苦労して金額を決めて契約書に書き込み手渡すと、当の本人は金額を見ずにサインをしていた[13]。 ドラガン・ストイコビッチ - 旧ユーゴスラビア代表時代指揮の元、内戦に揺れるチームを牽引し活躍した。現在でも師弟関係にあり、彼自身も同様に親日家である。 ゲラルト・エンツィンガー/トム・ホーファー著、平陽子訳、エンターブレイン、ISBN 4757731043 ※上記 Das Spiel des Lebens(2002年刊)の翻訳に、オシム自身の語りによるジェフ千葉〜日本代表監督就任までを追加したもの。巻末の解説は木村元彦。 木村元彦監修、シュテファン・シェンナッハ/エルンスト・ドラクスル著、小松淳子訳、集英社インターナショナル/集英社、ISBN 4797671548 ^ 木村元彦 『オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える』 集英社インターナショナル、東京都、2005年。ISBN 4-797-67108-4。 ^ a b “オシム監督の手腕と評判と私生活” 2007年6月18日閲覧. ゲンダイネット/日刊現代、2006年7月-8月 カテゴリ: 現在進行 | 編集保護中の記事 | 出典を必要とする記事 | サッカー日本代表監督 | ユーゴスラビアのサッカー選手 | ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー指導者 | サッカーのオリンピック選手 | 1941年生 | ジェフユナイテッド市原・千葉 | ストラスブールの選手 | 在日外国人の人物 |
[ 154] イビチャ・オシム - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A0
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ストラスブールを最後に現役を引退。選手生活12年間で85得点。その間イエローカードを提示されることは一度もなかった。 1982年 - 副業的にユーゴ代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。 1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。 1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。 1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。 1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。 3月27日 - ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。オシムは直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなった。 5月21日 - サラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴ代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。 1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。 1993年 - オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。 オシムは、ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴ構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。 彼が代表監督に就任する直前のユーゴ代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。オシムはこうした民族的な配慮を排除した上で、必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃えると言って憚らなかった。完成したチームは日本でも有名なドラガン・ストイコビッチ、のちにACミランで10番を背負うデヤン・サビチェビッチ、スレチコ・カタネッツらを擁したスター軍団であった。 1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりの、チームとしてのバランスや総和を無視した起用を強いようとするマスコミに対して、オシムは初戦ドイツ戦で敢えてその通りの起用で敗戦を見せ、次の試合ではオシムの考える本来のチーム編成で勝利した。これによりマスコミが大人しくなっただけでなく、ユーゴスラビア国民も民族エゴ丸出しでは良くないと知ったのである。以降は勝利を重ね、準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン相手に1人欠きながらも120分間無失点のドローに持ち込み、PK戦で敗れた。 オシムが作り上げた最後のユーゴ代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかったが、やがて国の解体に合わせてユーゴ代表も崩壊した。1992年の欧州選手権にユーゴが出場できていれば優勝していたであろう、と言う者は現在も多い。 パナシナイコス退団を表明すると、レアル・マドリー、バイエルン・ミュンヘン、代表監督としてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ等への就任要請があったが、オシムはその全てを断わり、グラーツへ赴いた。グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っていた。 オシム就任以前はオーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじ、かつ財政難の状況にあったSKシュトゥルム・グラーツだったが、オシムはこのクラブに規律と戦術を持ち込み、無名の若手を起用して当時オーストリアリーグでは一般的でなかった走るサッカーを実践した。クラブは徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。就任2年目となる1995-96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997-98年シーズンにはリーグ優勝を果たした。この時のメンバーには後にジェフ千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリアリーグを代表する選手となった。 グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000-01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過。2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組で3位となり決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は評価に値するものであった。 しかし、主力を放出していくうちに年々成績を下げ、最後は二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハネス・カルトニッヒと対立した状態となり、2000-01年シーズン終了後、クラブから追われるように辞任して去った。カルトニッヒとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰となり係争中である。(給料不払いについてはオシムが勝訴[要出典]) グラーツを去った後、オシムは新しい挑戦として日本にやってきた。肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチ、「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードとした指導で、降格危機・低迷から脱したジェフ市原をさらに改革した。 2003年、当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。そのサッカーは多くのサポーター、サッカーファンを魅了し、彼の名声を高めることになった。 2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。又、この年は主力選手の怪我も重なった。しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、オシムの監督手腕の高さによるものと評価されている。 2005年、村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチを放出したが、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど、頼もしい存在に成長した事で戦力低下を感じさせなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝で浦和レッズを倒して決勝戦に進出。決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。 戦術的には「古い」「時代遅れ」と言われる3バック、スイーパーシステム、マンツーマンディフェンスを用いるが、日本の事情に合わせて採用しているという説もある。 2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用しているが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用しているにすぎない。対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていない。シーズン途中の7月に代表監督への就任が決まり、監督を辞職。 1次リーグ敗退という結果でワールドカップドイツ大会から選手達が帰国した2006年6月24日、帰国報告会見の中で、日本サッカー協会(JFA)会長川淵三郎が、ジーコの後任候補の一人としてオシムと交渉中であることを発言。ジェフ千葉側は交渉の事実を否定したが、翌日になってジェフ千葉社長淀川隆博が交渉の事実を認めた。このとき、オシム本人は休暇中のためオーストリアの自宅に戻っていたが、川淵発言後、オシムの自宅前にマスコミや日本人サポーターが連日押しかけ、コメントを聞いたり贈り物を渡す姿が日本でも報道された。 6月29日に再来日したオシムは、「代表監督に興味はあるが、今はジェフ千葉との契約が残っている」とコメント。7月1日夜にJFA技術委員長の田嶋幸三、淀川、オシムの三者会談が行われた。その席で、JFAの強い要請とオシム本人の希望により、ジェフ千葉監督退任と代表監督就任が決まった。7月21日、正式に就任。 代表戦の度に積極的に新戦力を召集しており、前監督ジーコが在任後半に、決まったメンバーを重視していたのとは対照的である。アテネ五輪予選・本選に出場したいわゆる「谷間の世代」の選手ではオシム政権になってから田中マルクス闘莉王、鈴木啓太が抜擢され、中軸選手として重用されている。またそれ以下の世代の若手(北京五輪を目指す世代)も相次いで召集されている。ただし、オシム自身は「代表は試合ごとにコロコロとメンバーを変えるものではない」と考えており[1]、現在はさまざまな選手をテストしている時期だとも考えられる。実際に、ユーゴ代表時代はかなり固定化されたメンバーで戦っていたのである。 FWの人選においては所属クラブでの調子・実績を重視しており、この点も代表チームでの実績・序列を重視したジーコと大きく異なる。FWには我那覇和樹、播戸竜二など好調な選手が相次いで召集されており、逆にジーコ政権時代に重用された柳沢敦・玉田圭司などは所属チームでの得点が伸びないこともあって[要出典]外されている。 中村俊輔、松井大輔などヨーロッパのリーグでプレーする選手(いわゆる海外組)については、所属クラブでのプレーを優先させ成長を促す意味で、2006年は一度も召集することはなかった。もっとも、ヨーロッパ遠征など、海外組のコンディションに影響の少ない試合での召集の可能性をオシムは示唆しており、Jリーグでプレーする選手(いわゆる国内組)と海外組との融合によってどのようなチームが出来上がるのか、注目されている。 ジーコ政権下では一般にも知名度のあるスター選手が数多く召集されたが、南アフリカW杯を担う若手中心のオシム政権になってからは知名度の高い選手が少なく、代表戦中継のテレビ視聴率が下がっている。そのためか、「オシムになってから代表の人気が低下した」と、一部メディアにはオシムの人選に批判的なものもある。しかし、ヨーロッパ組の中村俊輔・高原直泰が出場した2007年3月のペルー戦の視聴率は13.7%に終わった(ジーコ政権時代のヨーロッパ組参加試合に比べても低い数字)。但し、これは同時間帯にプロボクシングの亀田戦や平均視聴率を40%近く獲得したフィギュアスケート世界選手権といった、人気スポーツプログラムが放送されていたことを考慮に入れる必要がある。 ジェフ千葉時代と同様、「賢く走る」ことをテーマに掲げている。そのため、走力・スタミナはもちろんのこと、戦術理解力も重要視される。そのため、就任1年目の召集選手にはジーコ時代から召集されていた阿部勇樹、巻誠一郎のほかに山岸智、羽生直剛というかつての教え子も多く含まれている。これについては「教え子に対する贔屓」という批判の声もある[2]。 代表監督が特定クラブから多くの選手を招集し、クラブでの連携をチーム作りに生かす手法は各国で取り入れられているが、国内トップレベルの強豪と言われるチームで行われるケースが多く、比較してジェフ千葉のように中堅〜上位クラスのクラブから多くの選手が選ばれているケースは少ない。 もう一つ特徴的な事項として、「ディフェンスの選手にもビルドアップの能力、攻撃力を要求する」というものがある。闘莉王はDFとしては攻撃を好む選手であり、また阿部、今野といった、本来はボランチの選手をDFとして起用することもある。 ただし、この二人、特に今野はレギュラーDFであった坪井等が離脱した際にDFとして使われる程度であった。 彼らが攻撃参加をするためにポジションチェンジすることによって、相手のディフェンスの的が絞りにくくなるという利点がある。こうした場合、後方の選手が攻め上がった後に中盤の選手がカバーに入ることが重要であり、その能力に長けている鈴木啓太は全試合で起用されている。 オシムの練習には、多色のビブスを使いプレーに複雑な制限を課すメニューが多く、慣れるまではルールや目的の理解が難しいとされている。特に就任当初は、選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まない様子がしばしば目撃され、クラブで既に「オシム流」に慣れていたジェフ千葉の選手が指導役になった時期もあった[3]。 質問者が不用意に「走るサッカー」について質問すると、オシムは「サッカーで走るのは当たり前です」と切り返す。そうした場面が多々見られるように、試合後のオシムの記者会見や雑誌、新聞等に語られる彼の言葉は非常にウィットに富んでおり、サッカーが哲学的に語られる。ジェフ千葉時代に、それがサポーター間やサッカー界ばかりでなく、一般紙や教育の現場などでも評判を呼んだ。これが「オシム語録」と呼ばれるようになり、クラブの新しい名物として定着した。 試合後の会見では、単に質問者がからかわれている場面もまま見受けられ、オシムのコメントをストレートに紙面に掲載してしまうと、その真意を伝え切れないことになる。また、(練習場のある)市原まで取材に出かけた記者が半泣きで帰ってきた、という逸話が時々紙面に掲載されることがあったように、オシムは一部マスコミにとっては「インタビュアー泣かせ」の取材相手である。 このようなオシムとのやりとりによって、最初は面食らうばかりだった記者たちもまた「成長」する糧を得てきたのであり、また、原語を理解できる数少ないライター達の中には、質問の途中でおちょくるコメントをしたオシムに「最後まで聞いてから答えて頂きたい」と逆襲した者もいる。そのような真摯な質問者に対するオシムの対応は、往々にして丁寧である。 なお、スポーツジャーナリスト以外への受け答えは温厚でありながら、非常に慎重である。これはオシムが各所で語っているとおり、かつて経験したユーゴ内戦の時期に「マスコミが戦争を始めさせる」という様を見せ付けられてきたことに起因するものである。 オシムの日本代表監督就任以降、その動向とともに「オシム語録」もさらに大きな注目を集めるようになった。 「大きく成長を遂げていると思う。だが問題は、君たちマスコミだ。40年間、まったく成長していないのでは?」[5] 代表監督就任会見で、「2006ワールドカップでの失望[6]をどのように払拭するのか?」という質問に対して 1964年、ユーゴ代表の一員として東京オリンピック出場のため初来日。生まれて初めて見るカラーテレビや近代的な大都会・東京に感激した。ある日合宿地近くの農村をサイクリングしていた時、見ず知らずの老婆からいきなり梨を振舞われた。当時の日本では外国人はまだ珍しかったが、190センチもの大男を怖がりもせずもてなす日本人のホスピタリティに触れ、親日家になった。[8]帰国後友人のカタリンスキーに、「人は親切で誠実だ。とても歓迎されて、すぐに好きな街になった」と興奮気味に語っている。 1991年7月20日、キリンチャレンジカップに招かれたパルチザンの監督として、27年ぶりに来日。日本代表を相手に勝利を収めるが、東京オリンピック当時と比べ、日本のサッカーレベルの向上に驚く。 2002年6月、FIFA技術委員会メンバーとして日韓ワールドカップのため3度目の来日。札幌ドームでのドイツ対サウジアラビア、宮城スタジアムでのメキシコ対エクアドルとスウェーデン対アルゼンチンの3試合を観戦・分析した。この時の技術委員会メンバーには、当時ジェフ千葉監督であったベングロシュもいた。 オシムの影響で日本に興味を持った欧州の選手やサッカー関係者もいる。前述のカタリンスキーは、ボスニアで知日家として知られるまでになり、一時は在日大使就任の要請もあったと語っている。 一般的によく紹介されるイビチャの名称は短縮型で、正式名は Ivan (キリル文字で Иван)、日本語読みでは「イヴァン」である。ジェフ千葉での登録名は「イビチャ・オシム」。(なお「イビチャ」の原語により近い日本語表記は「イヴィツァ」) 選手時代には「シュトラウス」の異名をとった。テクニックとその独特のリズム、ボール捌きがまるでヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツを踊っているかのように華麗であったことを由来とする(ちなみにドイツ語の「ヨハン」は、オシムの名前である東スラヴ・南スラヴ諸語の「イヴァン」に当たる)。190cmの長身ながら繊細なボールタッチを持つパスの名手として知られ、ボールを持ったら離さないとも言われた。 愛称の1つに「シュワーボ」(「ドイツ野郎」の意)がある。オシムによればこれは少年時代からのもので、当時の自身のブロンドの髪、更に父方の祖父母がドイツ系で、家族がドイツ語を使いこなしていたことなどが由来だという。プロになってからも彼のルーツへの敬意を表する意味で、そして親しい間柄の人からは今でも呼ばれることがある。なお、オシムがパルチザンの監督を辞任した際、選手をはじめ多くの関係者が「シュワーボ!オスタニ(残れ)!」と叫んで別れを惜しんだというエピソードがある。 ※祖父はスロベニアのマリボル近郊出身で、そのルーツはドイツのシュワーベン地方。祖母はミュンヘン出身のドイツ人。 もしサッカー選手、監督になっていなかったら数学の教授になっていたかもしれない、ただ、その場合はユーゴ内戦の時期を無事に過ごせなかったかもしれない、と語っている。 自身について「今で言うマルチカルチャーな環境で育った」という。父方の祖父母はドイツ系で、母方は祖父がポーランド人、祖母はチェコ人である。少年時代から所属したジェリェズニチャルも、ボスニアに住む諸民族が一緒くたにプレーしている環境であった。なお、オシムはユーゴ分裂後の人種分類では「クロアチア人」であるが、本人はそういう区分を嫌っている。 母国語のセルビア・クロアチア語(旧ユーゴ人に言わせると「ややボスニアなまりがある」という)のほか、ドイツ語、フランス語、更に英語も話せる。記者会見は母国語だが、それ以外では英語などを使うこともある。 PK戦が嫌い。ユーゴ監督時代、1990年ワールドカップのアルゼンチン戦、PKでは監督の力も及ばない、運命を偶然にゆだねるものであるとしてPK戦を見ずしてロッカーに引き下がってしまったが、結果は5人中3人が外し敗戦。ジェフ千葉時代、2005年のナビスコカップ決勝でPK戦を見ないでロッカーに引き下がってしまったのも同じ理由。勝利に終わった試合後のインタビューで、PK戦にいい思い出が無い、と語っている。 日本での親友はユーゴ代表監督時代から親交がある祖母井秀隆(ジェフ千葉在籍時のゼネラルマネージャー)で、視察などの際に送迎してもらうほどであった。 ゲラルト・エンツィンガー/トム・ホーファー著、平陽子訳、エンターブレイン、ISBN 4757731043 ※上記 Das Spiel des Lebens(2002年刊)の翻訳に、オシム自身の語りによるジェフ千葉〜日本代表監督就任までを追加したもの。 木村元彦監修、シュテファン・シェンナッハ/エルンスト・ドラクスル著、小松淳子訳、集英社インターナショナル/集英社、ISBN 4797671548 ^ a b 出典:『トリニダード・トバゴ戦メンバー発表 オシム監督会見(2/2)』、スポーツナビ、2006年8月4日付 ^ 出典:『千葉ジャパン限界、ガーナに完敗…キリン・チャレンジ杯』、スポーツ報知/報知新聞社、2006年10月5日付 ^ 出典:『オシム監督マスコミも鍛える?』、日刊スポーツ/日刊スポーツ新聞社、2006年8月15日付 ^ 参考:『日本の戦いを振り返る』、2006FIFAワールドカップ オフィシャルサイト、2006年6月23日付 ^ a b 出典:『オシム監督の手腕と評判と私生活』、ゲンダイネット/日刊現代、2006年7月-8月 スポンサーリンク イビチャ・オシム ネットで購入Amazonポイントスタート!1500円以上国内配送料無料Amazon.co.jpオシム監督の本を購入するセブンアンドワイならコンビニで24時間受取れて送料0円。宅配も可www.7andy.jpこのページの上へ'); |
[ 155] イビチャ・オシム とは
[引用サイト] http://www.weblio.jp/content/%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A0
