クロアチアとは?

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(2)外務・欧州統合相 コリンダ・グラバル=キタロビッチ(1968年生、2005年2月就任、HDZ)
(1)1990年より約10年間大統領の座にあった故トゥジマン前大統領は、国内では独立に反対するセルビア系住民(約60万人)の掃討、国外では隣国ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争に介入を行うなど、その民族主義的・非民主的政策により、国際的に孤立していたが、同大統領の死去(1999年12月)後、2000年に入って行われた下院選挙及び大統領選挙では、社会民主党と社会自由党を中心とする6野党連合(その後、イストリア民主会議及び社会自由党が脱退し、4党連立となった)が勝利し、メシッチ大統領、ラチャン首相率いる民主的連立政権が誕生した。
(2)ラチャン政権は、国内の民主化を推進するとともに、ボスニア和平履行上重要なセルビア系難民のクロアチアへの帰還や旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)との協力に取り組むなど、国際協調路線を図るとともに、マクロ経済の安定化にも成功したが、失業問題をはじめ具体的な生活水準の向上を実感できないなど国民の不満が募ることとなった。
(3)2003年11月に行われた議会選挙では、ラチャン政権への不満を背景に、故トゥジマン時代の与党であったクロアチア民主同盟(HDZ)が152議席中最大の66議席を獲得し、小規模政党や少数民族議員を中心に閣外協力を得て、サナデル政権を発足させた。
(4)1991年〜1995年の民族紛争の結果、国内の民族構成が大きく変化した(クロアチア人 75%→90%、セルビア人 12%→4.5%)。セルビア人等難民帰還に関しては、特に財産の返還、住宅復旧、居住権、東スラボニアにおける警察官の民族配分等の問題に進捗がないため、プロセスが遅延している(クロアチア政府資料によれば、紛争中にクロアチアから流出した30万人以上のセルビア系住民のうち、帰還したのは約8.6万人)。
(5)欧米諸国から強く求められていた旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)との協力に関しては、ICTYに戦犯として起訴され、これまで逃亡していたゴトビナ元南部ダルマチア司令官がスペイン領カナリア諸島においてスペイン当局に逮捕された際、ICTYは、右逮捕がクロアチア当局からICTYへの情報提供の結果実現したものであり、クロアチアはICTYに完全に協力していると評価した。
(1)クロアチア外交の最大の目標はEU及びNATOへの加盟である。1992年5月に国連加盟、同年7月に現在の欧州安全保障協力機構(OSCE)に加盟を果たし、欧州評議会については国内人権保障措置が不十分との理由で遅れたが1996年11月に加盟した。
(2)2000年1月に成立したラチャン政権の国内改革と国際協調への取組が評価され、2000年5月にNATO平和のためのパートナーシップ(PFP)参加、同年7月に世界貿易機関(WTO)加盟、2001年10月にEUとの安定化・連合協定(SAA)署名、2002年5月にNATO加盟のためのアクション・プラン(MAP)参加を果たした。更に、2003年2月にEU加盟申請を行い、2004年6月に正式加盟候補国となった。
(3)ラチャン政権では、前政権のボスニア内クロアチア系住民への不透明な資金的・軍事的支援を通じた干渉的政策を転換し、ボスニアの主権尊重と国際社会との協調を通じた和平履行にコミットしている他、南東欧安定協定等の地域協力にも積極的に参加した。
(4)セルビア・モンテネグロとの間では、2003年に入りセルビア国民がクロアチアに入国する際の査証取得義務が一時撤廃されたほか、同年9月にはメシッチ大統領がクロアチア大統領として初めてベオグラードを公式訪問し、両国間で謝罪の表明が行われるなど、関係の正常化が進んでいる。
(5)2003年12月に発足した現サナデル政権は、外交問題に関し、前政権の基本姿勢を継続し、EU加盟及びNATO加入を目指している。EUとの加盟交渉については、本来であれば2005年3月から開始される予定であったが、ICTYとの協力が不十分であるとして延期されていた。しかしながら、2005年10月3日、EUは、クロアチアがICTYに完全な協力を行っているとして、クロアチアとの加盟交渉開始を決定し、加盟交渉は開始された。
(1)クロアチア軍は1991年9月20日発布の「国防法」に基づき編成。兵役義務は6ヶ月(民間役務を選択した場合は10ヶ月)。国防組織は、陸軍5万人、海軍3千人及び空軍5千人の総兵力約5万8千人を基幹に、予備14万人を有するほか、警察と海上保安から成る準軍組織により編成される。軍の最高司令官は大統領であり、その権限の一部を国防相に委任している。NATO加盟のため、人員削減、組織・装備の近代化を柱とした改革を実施している。
(1)クロアチアは、旧ユーゴスラビア内の経済先進地域であり、独立後に中央銀行の設立、民営化法、外国投資法の制定等を行ったが、紛争及びそれに伴う難民・避難民の流入により経済は大幅に落ち込んだ。1993年10月、当時のバレンティッチ内閣がインフレ及び財政赤字の抑制のための経済安定化政策を実施し、1994年以降マクロ経済は比較的安定しているが、失業率の増加、軍事費、難民・避難民保護費等の負担、経営収支赤字の増大等の問題を抱え、また、低賃金、低年金、1998年から導入された一律22%の付加価値税による物価上昇等により国民の不満は高まった。外国資本の導入も、国内民族問題、高税率、民営化の不完全性等により、急速な伸びは示していない。1998年後半からは非流動性(illiquidity)による不良債権問題が表面化し、主要企業・銀行の倒産が相次ぐとともに、企業従業員、農民等の労働者デモが頻発した。
(2)2000年1月に発足したラチャン政権は、前政権の大きな負債を引き継いだため、選挙公約とした大幅な予算削減及び付加価値税削減は実現できなかったものの、予算の増加に歯止めをかけ、非流動性解消のための政府の対民間債務の返済に目処をつけ、安易な不良企業救済の拒否、汚職摘発等に積極的に取り組んだ。また、輸出促進の観点から関税の引き下げを進め、外国直接投資の積極的導入のための優遇策(新規雇用を含む大規模投資に対する法人税の減免)を盛り込んだ外資導入促進法も採択された。しかし、期待されたほど輸出は伸びず、外国からの直接投資も進まなかった。また、財政赤字の削減のために国家公務員の削減、社会福祉の縮小等、国民に節約を強いざるを得なかったため、マクロ経済の安定は維持されたものの、失業問題等、国民が肌で感じるような生活改善は実現しなかった。
(3)なお、長年の懸案であったWTOへの加盟も2000年11月に果たした。また、近隣諸国、EU諸国(安定化・連合協定を通じて)、EFTA諸国との間で自由貿易協定の署名が行われ、2003年3月よりCEFTA(中欧自由貿易協定)に正式加盟した。
(4)2003年12月に発足したサナデル政権は、付加価値税削減、社会福祉の回復、グレー経済撲滅を経済政策の柱に掲げ樹立された。国際的には、IMFとの新規スタンドバイ合意の締結にほぼ至ったが、付加価値税減税や社会保障の充実など当初の公約を反故にし、現実的かつ堅実な路線へ方向修正している。又、近隣諸国との関係では、前ラチャン政権が2003年10月にアドリア海に導入を決定した漁業・環境水域を2004年6月、事実上撤回した。
1998年2月1日 我が国が在クロアチア大使館を開設(それまでは、在オーストリア大使館がクロアチアを兼轄)
(4)1992年3月及び1996年7月に我が国の民間経済ミッションが、また2003年9月日本経団連ミッションがクロアチアを訪問
コソル副首相兼家族問題・退役軍人・世代間連帯相、グラバル=キタロビッチ外相、シュケル財務相、ビシュクピッチ文化相

[ 109] 外務省: クロアチア共和国
[引用サイト]  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/croatia/data.html

クロアチア共和国(Republika Hrvatska、通称クロアチア)は、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和国。首都はザグレブ。
1991年、旧ユーゴスラヴィアから独立した。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南側はアドリア海に面し、ドブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。
正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska。通称 Hrvatska(フルヴァツカ)。 ネクタイはもともとクロアチア人の風習であったことから、クロアチアに由来する名称でネクタイを指す言語もある(フランス語:cravateやスペイン語:corbataなど)。
9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方からビザンツ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチアはカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴ王のもとで発展をとげるが、彼の死後しばらくして後継者争いから内乱へ突入した。
このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーンが、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。
この後15世紀にはオスマン帝国に征服されその領域に組み込まれるが、18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている。1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチアに対して認めていた自治権も併せて実態的には「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。
一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になるまでヴェネツィアの支配が続く。なおオーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。
1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したクロアチアは、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラヴィアに改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定したが不完全な対応であった。
クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パベリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラヴィアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。以降、セルビア人勢力のチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。以降1945年に戦闘が終結するまでの4年の間セルビア人が強制収容所などで70万人が虐殺されたとセルビアは主張している。一方でクロアチアはその数はおおげさだとしており、ほぼ同数のクロアチア人がセルビア人によって虐殺されたと主張している。この論争は後のクロアチア紛争の火種となり、クロアチア紛争でも同じような論争が繰り返されることになった。
ユーゴスラヴィアの混乱状態は、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラヴィアが自力開放されることにによって収束された。戦後、以前のユーゴスラヴィアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラヴィアは維持されたが、1980年にチトーが死去するとそれまで押さえ込まれていた各民族の不満が噴出しはじめた。クロアチアでは歴史的な経緯も含めてセルビアに対する反発が強く、特に1980年代半ばからセルビア民族主義を掲げるソロボダン・ミロシェビッチが登場するとその不満はピークに達した。
東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラヴィアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された。クロアチアではユーゴスラヴィアからの分離独立を掲げるスティエパン・メシッチが政権を掌握。以降ユーゴスラヴィア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。
1991年3月2日には、西スラヴォニアの帰属をめぐってユーゴスラヴィア連邦軍とクロアチア警察の間で睨み合う事態となり、3月31日にはプリトビツァで両者が衝突。死者を出す事態となった。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%の賛成。これを受けて6月25日、スロベニアと同日に独立を宣言した。
一方で、ユーゴスラヴィア連邦軍は、クロアチア領内でもセルビア人が多く、クロアチアの独立に反対していたクライナ・セルビア人自治区のセルビア人保護を目的にクロアチアに侵入。クロアチア軍は9月半ばにはユーゴスラヴィア軍との全面衝突となりクロアチア紛争の激化に繋がった。1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者と難民を生み出した。
クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉の開始は、既にEUからの承認を得ており、2005年中に加盟交渉が開始されるスケジュールが組み立てられていた。EUへの加盟時期は未定であるが、次期EU拡大が予定されている2007年の加盟には間に合わないとの見方が一般的である。クロアチアのEU加盟がなれば旧ユーゴスラヴィア構成国家での中ではスロヴェニアに続く2例目となる。
ただしクロアチアの加盟交渉の開始に当たってはハーグに設置されている旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトビナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされない事を理由に見送られる事になった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議においてトルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。
当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトビナは同年12月初頭にスペインのカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷に移送された。
ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのネウムによって分離され、飛び地となっている。他国を通過せずに移動できるようにするため、ドゥブロヴニク側から伸びるペルジェサク半島とクロアチア本土との間に、長大橋「ペルジェサク橋」の建設が進められている。
クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎないからだ。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。
住民は、クロアチア人が89.6%である。その他、セルビア人が4.5%、ボシュニャク人が0.5%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くがクロアチア国外に退去したものと見られている。
言語は、クロアチア語が公用語であり、広く使われている(96%)。一部セルビア語を使うものもいる(1%)。
宗教は、大部分がローマ・カトリックである(87.8%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。
クロアチアの民俗音楽は、地域によって大きく異なる。北部では旋律やリズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン・ツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。
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イタリア | ギリシャ | サンマリノ | スペイン | バチカン | ポルトガル | マルタ | モナコ

[ 110] クロアチア - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%A2



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