ユーゴとは?

キシニョフ・夏(写真:吉田正則氏、以下このページでは特記のない写真は全て同氏の撮影・提供による)   ベオグラード在住のフリージャーナリストで、この「(旧)ユーゴ便り」でも何度か写真を借用させて頂いている吉田正則さんと、同じくコメントを引用させて頂いているベオグラード大学大学院の宮崎泰徳さんは、普段から仲良くさせてもらっている私の在留邦人仲間です。二人からこんな打診を受けたのは6月上旬ごろでした。
   大塚:「いやバルトも含めて旧ソ連はまだどこも行ったことないけど。」
   吉田:「実はセルビア語の学校が夏休みになったら、宮崎さんと一緒に行ってみようか、って言ってるんですよ。ただあんまり情報がないもんだから・・・。」
   大塚:「少なくとも統計上はすごく貧しい国で、ルーマニア系とスラヴ系が民族紛争やり合ってるだか、やり合ってただか、くらいしか知識がないなあ。」
   吉田:「私もそのくらいです。でも情報がないからかえって面白そうじゃないですか。宮崎さんも南東欧を広く研究してるからとても興味ある、って言うし、私はキナ臭い所で写真撮るのがナリワイみたいなもんですから。」
   大塚:「確かに僕にしても民族問題とか経済問題とか、旧ユーゴと似ている点があれば面白いし、違えばまたそれも興味があるし。あ、今思い出したけどベオグラードのR誌にはこの前何かモルドヴァの記事が出てたな。これ書いた記者にでも聞けば情報が入るかも知れないし、当たってみようか。」
   私も6月はサッカーW杯のTV観戦以外はヒマにしていました。そこでR誌編集部に電話して「あの記事書いた記者と連絡取らせろ」と報道の仕事で培った図々しさで(?)掛け合うことから始まり、吉田さん、宮崎さんの情報収集のお手伝いをしていましたが、意外に話がトントン進み、7月上旬には二人の壮行会。送り出す私の方から「非商用サイトだから原稿料は出せないけど、面白い話があったら『(旧)ユーゴ便り』にもネタ譲ってよ。『夏休み』ネタではあるけど、旧ユーゴと比較考察でも出来ればHPに出す意味もあるんじゃないか」などと言い出すことになったのでした。
   というわけで今回は、旧ユーゴ圏については恐縮ながら「一回休み」を頂き、宮崎泰徳さんがモルドヴァの首都キシニョフの、吉田正則さんが同国の旧内戦地帯のレポートをお伝えします。
灰色で示した地域が沿ドニエストル共和国。1−ティラスポリ、2−ベンデル、3−ドゥバサル 歴史的にモルドヴァとして知られるのは現ルーマニア北東部のヤシ市を中心とするモルドヴァ州で、現在のモルドヴァ共和国はベッサラビアと言った方が、近代史に詳しい方には通りが良いでしょう。ドニエストル川西岸は特にルーマニア系住民がもともと多かったところです。
この地域は19世紀に入りルーマニアとロシア、後にソ連との激しい領土争いの舞台となりましたが、第二次大戦中の1940年にソ連が占領、47年にはルーマニアとの平和条約によりこの現状が承認されました。国旗はルーマニアと同じ三色で紋章の有無だけが異なる。国歌も以前は同じだったペレストロイカ末期に高まった民族主義の動きの中でルーマニア語公用語化が定められると、スラヴ系住民の多いドニエストル川東岸地域で緊張が高まります。91年ソ連崩壊、モルドヴァ独立宣言に伴い「沿ドニエストル共和国」を宣言していた同地域は内戦に突入。ロシア軍の支援により一時は泥沼化、数百人の犠牲者を出しました。94年ロシア軍撤退合意、97年領土保全協定が成立し紛争は沈静化します。しかし沿ドニエストルは依然としてキシニョフ政府の実効支配が及ばない「国家内国家」として機能し続けています。
全人口の3分の1が農業に従事している典型的な農業国ですが、94年の大洪水や沿ドニエストル紛争の影響、一時行われたロシアとの通商断絶などで経済は打撃を受け、インフレとマイナス成長が続きました。現在は国際機関の支援を受けて緊縮財政と民営化が進められていますが、99年時点での国民所得を見る限りアルバニアを下回る欧州最貧国レベルです。
   一国の経済力を示す重要指標である国民所得(一人当たりGNP)を見るとモルドヴァは410ドルで、旧ソ連以外では欧州最貧国として知られるアルバニアの870ドルの半分以下。
7月上旬キシニョフ入りした吉田さん(左)と宮崎さん(写真提供=宮崎泰徳氏)「ああいう貧しい国では人身売買や臓器売買があるかも知れないからな。睡眠薬で眠らされて気が付いたら肝臓がなくなってた、なんてことないように気を付けろよ」。現地入りする前にある知人からもおどかされました。しかし「とんでもない後進国」という先入観は、キシニョフに入った途端に裏切られることになります。首都を縦横に貫く道路は幅が広く街路樹の緑で満たされ、マクドナルド、ベネトン、ナイキなどの看板が彩りを沿え、カフェが賑わいを見せています。建物は如何にもソ連時代を想起させるような社会主義スタイルが多いものの堅固で立派です。ここが旧ソ連最南西部の主要都市だったことはすぐに分かります。確かに裏通りでは下水の排水状態が悪いところがあったり、西側商品の店舗は実際に買う客は少なく大抵がウインドーショッピングだったりする、というところはあるのですが、市内交通はバス、ミニバス(大型ワゴン)が発達、今回の滞在中に会うことを約束した人々はみな時間にも正確で、勤勉な国民性を感じます。
   モルドヴァの首都の名は国際的にはロシア語のキシニョフで通っています。ルーマニア系モルドヴァ人(以下ルーマニア人)のモルドヴァ/ルーマニア語(以下ルーマニア語)ではキシナウ。既にここから民族問題を考えさせられてしまうわけですが、実際に現地に入ってみるとさらに気に掛かる名前に出会いました。キシニョフの大通りの一つに「1989年8月30日通り」というものがあります。首都の中心部に誇らしげにある通りの名ですから、旧ソ連崩壊を前に独立を宣言した日付か何かだろう、と思ったのですが、実はそうではなくて「公用語がルーマニア語に定められた日」なのです。しかしこの日を契機に当時のソ連邦モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国ではルーマニア人とウクライナ人、ロシア人などスラヴ系住民の間で緊張が高まり、91年のソ連邦崩壊、独立宣言とともに沿ドニエストル地域が内戦状態に入っていくことになります。
幅の広い大通りに街路樹の緑。最貧国というレッテルから抱きがちな先入観はキシニョフに入った途端に覆される   モルドヴァ全体の民族比はルーマニア人67%、ウクライナ人・ロシア人が24%です。人口約70万のキシニョフではルーマニア人の比率がやや低いこともありますが、ルーマニア語が圧倒的とは言えません。キリル文字のロシア語が併記された看板が多いし、買い物をしてもルーマニア語の「ムルツネスク(有難う)」よりむしろロシア語「スパシーヴァ」を耳にすることが多かったのは、私たちが外国人だからルーマニア語よりロシア語が通じるだろうと思われたわけでもなさそうです。
   90年代後半を支配した中道政権が昨年崩壊。大統領選、議会選では共産党が圧勝し、党首ヴォローニンが大統領に就任、親ロシア色の強い政権がスタートしました。またキシニョフではロシア・ウクライナ系マフィアが経済を牛耳り、大きな店を構えているのはスラヴ系住民ばかりだとも聞いています。そんな話を聞くと旧ユーゴに住んでいる私たちはどうしても「民族対立」だけで図式的に考えてしまいますが、首都のルーマニア人は、少なくとも現在は独立直後にあったようにルーマニア化をのみ志向しているのでもなく、かと言ってスラヴ系住民の(アパルトヘイト的な)支配にあえいでいるというわけでもない、ということがだんだん分かってきました。
   政治的な選択肢は大きく分けて3つ。共産党=現政権=親モスクワ路線。中道野党=ルーマニアと一線を画しながら独立モルドヴァを推進する路線。右派=ルーマニアとの併合を望む路線。今や欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)加盟へ前進するルーマニアは現在のロシア、ウクライナと比較すれば相当「格上」ですから、モルドヴァでもこの兄弟国にくっ付いてしまえ、という考え方がもっと強いかと思っていたのですが、右派の声は少数派です。
ピロシキなどを売っている店でルーマニア語とロシア語が併記されている。因みにコーヒーが2レイ(約17円)と食料品の物価はかなり安いブカレストから見ればやはり遠いキシニョフですから、ルーマニアに入ってその辺境になるよりは独立国の首都として歩みを進めて行く方がいい、という考え方が多数を占めています。沿ドニエストル地域の内戦が一段落した94年、モルドヴァ議会は新憲法を採択しこの国の中立を宣言しています。旧東欧はどこでもそうですが、経済状況が危機的なモルドヴァでは、国際通貨基金(IMF)や欧米先進国の意向に従わないと経済援助も入って来ないのが実情。たとえロシア語公用語化、ロシア・ベラルーシ連合への加盟などを選挙公約で掲げていた共産党と言えども、いざ政権に就くと単純なモスクワ接近や共産主義復活を唱えられず、現在の政策は欧州左翼のような穏健なものにとどまっています。
   野党支持者は「現政権を支持しているのはスラヴ系住民だけではない。若者が生活苦で外国へ行ったきりになり、残った高年層は旧ソ連時代の『豊かとは言えないけれどもそれなりに安定していた時代』に郷愁を感じている。そのために去年の選挙で共産党が圧勝してしまったんだ」と言います。いかんせん経済状態が良くない中、青年層の流出が後を絶たないのが問題となっています。もちろん彼らの魅力はロシアではなく英仏などの西欧諸国です。もう少し若い人々に質問をぶつけてみました。
   ある若者は「モルドヴァに民族問題はない」と断言さえします。ルーマニアが「兄弟国」であることは、この国のルーマニア人は誰も否定しません。隣国のモルドヴァ州ヤシ市の大学で学ぶ学生も多く、彼らは「自国学生」の待遇を受けているとのことです。ロシア語を学ぶことが義務だった旧ソ連時代は既に遠く、若者たちの間ではルーマニア語と同じラテン系の仏語か英語が人気言語です。
洪水や内戦の影響で受けた打撃からモルドヴァ経済はまだ立ち直っていない中、若者層の人口流出が問題になっているしかし一方、テレビではウクライナ語、ロシア語の放送が受信できますし、新聞にしても同様。親ロシア系新聞の他に中立系でロシア語の日刊紙もあります。映画、音楽でもモスクワやキエフの影響が大きいなど、親スラヴ感情はことのほか強いようです。モルドヴァ国民はルーマニアはもちろん、ロシアにもウクライナにもヴィザなしで旅が出来ます。
   「私が住んでいる旧ユーゴ圏では、ついこの間まで民族が違うというだけで殺し合いになっていたが、現在のモルドヴァは違う考え方なのか」という問いに、非政府系人権団体に勤めるG・スロボデニエクさんは言います。「この国では民族の差異を言い出しても仕方がないと思う。それよりも多文化共存を推進していくことが大事なんだ」。地理的な関係に明らかなように、モルドヴァは旧ソ連から見ても西欧から見ても端の方に位置します。しかも関東一都六県を併せた程度の面積です。ある程度大きな国で多民族多文化共存を唱えてうまく行くのなら分かりますが、この「東」「西」の周縁と言うべき小国にあってスロボデニエクさんのような柔軟さで「開かれた国」の理想を耳にすることが多いのは驚きでした。
両替屋の看板では米ドル、ユーロの下に露ルーブル、ルーマニア(レイ)、ウクライナ(グリヴナ)と続くのがこの国らしい大塚:なるほど混乱もあった国ではあるけれど、現在は「民族対立」では単純にくくれない状況になっているわけですね。
宮崎:そうなんです。経済面ではこの数年、民営化がかなり進められていて、ソ連経済の負の遺産が急速に処理されつつある印象です。ユーゴがティトー時代には「先を行く社会主義国」だったのがミロシェヴィッチの90年代で大きく後退したのとはちょうど逆という感がありますね。
大塚:それに吉田さんの撮影した写真を見ても最貧国というイメージからは遠いですね。統計の数字や先入観だけで物事を図ってはいけないという教訓ですかね。
宮崎:共産党とは言っても、強圧的な共産政権への先祖返りではありません。IMFや欧米先進国の方針に追随しないと破産してしまうから、ではあるのですが。
大塚:左派が民族主義とくっ付いてしまったミロシェヴィッチ(セルビア)型とも違うし、ティトーやスターリンのように無理やり社会主義多民族国家を国民の意識に押し付けるというのでもない、というのでしょうか。
宮崎:民族意識は先鋭化されているとは思います。しかし政治でも経済でも、むしろ単一民族国家ではないことを逆手にとってルーマニア=西にもウクライナ・ロシア=東にも開かれた国で行くんだ、というスタンスを取っています。これからもちょっと成り行きを見守って行きたい、面白い国ですね。ただ今回は沿ドニエストルを除くと、首都以外の町を見ていませんから、首都とどのくらい格差があるのかは気になります。
大塚:かつて「東西のはざま」は旧ユーゴの看板だったわけですが、冷戦が終わって「はざま」も少し東にズレたと言えるのかも知れませんね。では後半は沿ドニエストル地域の旅行記を吉田さんに語って頂きましょう。
   7月20日、私たちはティラスポリまで行くことが出来ました。首都キシニョフからバスで南下して約2時間ほどの町で、人口ではキシニョフに次ぐモルドヴァ第二の都市、そして沿ドニエストルの「首都」になっています。
ドニエストル川が国境だとばかり思っていたが、実際は西岸のベンデルが既に沿ドニエストル共和国の入り口だった   キシニョフから向かうと、ドニエストル川にかかる橋の手前にベンデルという町があるのですが、川の西岸であるはずのこの町に入る手前に、既に沿ドニエストル共和国の検問がありました。最初はロシア軍の警備塹壕、その先に警察のチェックがあります。キシニョフから
同行してくれたモルドヴァ人女性によると「ここの警官はロシア警察だ」とのことです。ロシアから派遣されている正規の警察官ではなく地元のロシア・ウクライナ人警官なのでしょう。
私たち外国人はバスから降ろされ、詰所でパスポートのチェックを受けました。特に警官からの質問はなく、一枚の入国許可証の紙をくれて無事通過、です。しかし後から分かったのですが、外国人は基本的に沿ドニエストル共和国に3時間しか滞在出来ないのです。外国人に対してはかなり厳しい対応をしていると伺われます。
   検問所からバスで走ること約20分、川の手前の町ベンデルのバスターミナルに到着。ここで数人の客が乗り降りしてすぐ出発、ドニエストル川にかかる橋の手前にはロシア軍らしき銃を持った数人の兵士と、周りから見えないようにしているのか、カムフラージュ用偽装網で囲った一台の戦闘装甲車が配備されていました。橋を渡るとすぐに沿ドニエストルの首都ティラスポリに入ります。旧社会主義独特の共同集合住宅、幅の広い道路、至る所で目にするキリル文字。町の様子全体がロシアの地方都市に来たような錯覚を覚えさせます。
ティラスポリでスイカを売る女性同行のモルドヴァ人女性の職場の計らいで、こちら側に住む地元新聞社の編集員と知り合うことが出来、彼に車で町を案内してもらいました。最初に行きついた所は沿ドニエストル共和国議会。屋上には赤緑赤の独自の「国旗」が掲げられています。写真を撮ろうとしましたが、中から関係者らしき人物が出てきて撮影は断られました。そのすぐ近くには、アフガニスタン戦争で戦死した兵士たちの記念慰霊碑がありました。旧ソ連時代にはこの地域からも大勢の若者たちが徴兵で連れて行かれたのだろうと思います。
   編集員氏が「紛争があった場所を案内する」と言うので行ってみることにしました。場所は北へ北上して約1時間ほどの町ドゥバサル方面です。幹線道路を進む途中、ところどころに戦争の跡があるのが分かります。ただこの辺には大して「見ごたえ」あるものはなく、むしろ印象を強く残すのは、幹線道路の両側に延々と広がる広大な平原、ヒマワリとトウモロコシ畑ばかりという風景です。ドゥバサルに入る手前には何ヶ所か警察の検問があり、その一ヶ所を撮影出来ました。警察官はあまり撮影をしてもらいたくなかったようで、案内の編集員氏に「ちょっと困るんだよな」というような対応をしていました。そこを過ぎしばらく行くと、紛争で戦った兵士がいた塹壕があり、ここに戦車を配置していたのが分かりました。その先は広大な平原が続いているだけ。当然、遮蔽物は何もなく、戦車のあるロシア軍側が優勢だったことは間違いありません。モルドヴァ政府軍側には過酷な条件の負け戦だったのではないでしょうか。「この幹線道路を挟んで激戦が展開されたんだよ」とのことです。
   そうこうしているうちに制限時間の3時間がとっくに過ぎてしまい、ドゥバサルのバス
(左)国際的には全く知られていない沿ドニエストルの三色旗を掲げる検問所 (右)旧コルホーズ(集団農場)入口の看板に残る激しい銃撃戦の痕(いずれもドゥバサル近郊)うまく言いくるめて
もらいました。少し後で私たちが通る時、検問の警官は怪しんでいたように見えましたが、しばらく待たされただけで
大塚:この辺はクロアチアの東スラヴォニア地方に似た平坦な土地ですよね。そうすると遮蔽物がない分、接近戦が出来ずに遠くから砲撃し合うことが多いように思うのですが、写真を見ると近くから銃撃し合っていますね。
吉田:もちろん最初から歩兵を投入するのは無茶ですから、戦車を多く持っていた方が絶対有利になります。ロシア軍の重火器の応援があったスラヴ系住民側が押して接近戦に持ち込む形だったと思います。モルドヴァ政府軍側はかなり苦しい戦いを強いられたことでしょう。
吉田:もう至るところ沿ドニエストルの三色旗ばかりで、完全に「国家内国家」として機能していますね。ユーゴ連邦のコソヴォと同じです。ただコソヴォの場合は今でもセルビア人が怖くて通れない、ということがあるわけですが、キシニョフの人々はヴァカンスでウクライナのオデッサ方面へ行くといいます。そうするとどうしても沿ドニエストルを通らなくてはいけませんよね。沿ドニエストルの「入国」検問はモルドヴァの人々は身分証明書チェックだけでしたし、「あそこに行くと殺される」というようなアレルギーはなくなっています。その点では(旧敵住民どうしの行き来も増えた)ボスニア並みに落ち着いています。
   1970年代の多民族ユーゴを小さくしたようなキシニョフ。現在のボスニアにどこか似ている沿ドニエストル。旧ユーゴと同じように民族対立と紛争があった土地はたくさんありますが、キシニョフと沿ドニエストルの話を聞いてみるとその「落とし所」と言うか、「その後の落ち着き方」はまた様々なようです。しかし過去の流血、現在の経済苦況への屈折した思い、多くの問題を抱えながらも前に進もうとしている点は旧ユーゴもモルドヴァも同じなのだと思います。宮崎さん、吉田さんに謝意を表します。
このページに関する権利は宮崎泰徳、吉田正則両氏及び大塚真彦に存します。画像・本文とも無断転載はかたくお断りいたします。なお両氏はモルドヴァに関して近く日本の雑誌に寄稿する可能性がありますが、このページの本文内容、画像はこれと重複しないよう出来るだけ留意しました。
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[ 120] (旧)ユーゴ便り
[引用サイト]  http://www.pluto.dti.ne.jp/~katu-jun/yugo/backnumb/yugo0060/

ドイツ占領下におかれていた、あるいは親独政権の統治下にあった大戦中のバルカン半島では、国々はおおむね次のような事情にあった。
ルーマニア(注1)……領土問題で多くの土地を失い、親独アントネスク軍事政権が打ちたてられる。この政権は失った領土、ことにソ連に奪われたベッサラビアの回復を目論み、バルカンでも屈指の反ソ政権となった。しかし戦争の東への拡大とともに野党から停戦が叫ばれるようになり、スターリングラードでドイツがてこずってる間に与党も停戦へと進んだ。しかし英仏ソはこれをそれぞれの思惑から無視。対独宣戦にこぎつけることで「敗戦国」としての扱いだけは免れることとなる。
ブルガリア(注2)……対独協力も経済的なもののみに限定され、恵まれた環境にあったが、早くから共産系を中心とする祖国戦線によるパルチザンが行われた。この祖国戦線はのちのち政権の受け皿となっていく。
ユーゴ、ギリシャ、アルバニア……共産系・旧体制系両派のパルチザンが活動したが、両派は戦後の政権樹立をにらみ次第に内戦に突入して行く。内戦の結果は両派の力バランスよりも諸外国の態度の影響が大きかった。
諸外国の態度、というのはつまり、1944年10月にチャーチルとスターリンとの間で交わされたバルカン勢力圏分割協定のこと。
これはイギリスにとって、地中海に大きくせりだし、インドへの航路に大きな意味を持つギリシャを勢力下に置いておきたいという意図の表れである。
ともかく、このことがその後のギリシャとユーゴの情勢を大きく異なるものとした。どちらも、連合国としてドイツの占領を受け、傀儡政権を樹立させられ、旧政権はロンドンに亡命し、国内では左右両派のパルチザンが抵抗を続ける、という良く似た状況にあったにもかかわらずである。
ソ連は、ユーゴに対してはむしろ自重を促しさえした。亡命政権およびユーゴスラヴィア王の排除を標榜するチトーに対し、ソ連は右派パルチザンとの祖国統一戦線の結成と対独協力体制樹立を促したのだ。
一方、ドイツへの攻撃という戦略的観点からチトーを積極的に支援したのがイギリスだった。イギリスは、ギリシャに対しては先の勢力圏分割協定などに見られるように、自陣営に取り込むという政治的観点から共産党勢力の駆逐に努め(ソ連の了解のもとで)、亡命政府を中心とする政権を樹立させるのだが、ユーゴに対しては共産主義勢力の実行支配をほぼ追認する形をとった。ユーゴ共産党は亡命政権との連立を形式上取りはしたが、実際上はほぼ共産党政権といっていい政権を打ちたてることとなる。
有名な「鉄のカーテン」演説でチャーチルは「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンがひかれている」と言ったが、引かれたこと自体はともかく、引かれた位置を決めたのはほかでもないイギリスだったのである。
最近、ソ連崩壊後の研究で、第2次大戦後ソ連の占領下に置かれた諸国――のち、「東欧」と呼ばれる地域――は、占領後すぐにソ連によって共産化を推し進められたわけではないことが明らかになっている。
戦後すぐの時期のソ連は非常に弱腰である。アメリカのみが核兵器を持っているというこの時代の状況において、強く出ることは出来なかったのだろう。(注3)
このため、この時期の東欧では共産党を含む穏健的な連立政権や、共産党が実質的に政権を掌握している名目的な連立政権などがたてられた。そのなかでも最も急進的に共産化を進めたのはユーゴスラヴィアだった。
ユーゴスラヴィアはイギリスの協力を得たとはいえ自力でドイツ軍を追い出し、政権を打ちたてた。この点で他の東欧諸国とは一線を画す存在である。1945年11月の選挙では共産党率いる人民戦線が、連邦院で90.5%、民族院で88.7%を占めるという結果になり、同月共和国宣言を発したユーゴは、1946年1月にソ連を範とする憲法を採択、早くも社会主義国家を建設したのだった。
基幹産業の国有化は1945年8月にほぼ済ませており、1947年からは5ヵ年計画も開始。ユーゴはさながらバルカンの優等生だった。
しかし、ユーゴは実は優等生ではなかった。1948年までは、ソ連とユーゴとの対立は見えなかった。見えなかっただけで、存在はしたのだが。
ユーゴが望んだのは、ソ連の従属国という地位ではなかった。バルカン半島の盟主という地位だった。その結果、2つの大きな問題が両国の間に噴出することとなる。
ひとつめは、バルカン連邦構想問題だった。ユーゴはハンガリー、アルバニア、ギリシャ、ブルガリア、ルーマニアを含む連邦を打ち立てるという構想を掲げたが、スターリンはこれに対しユーゴとブルガリアとの連邦という案を提示した。ブルガリアはバルカンきっての親ソ国であり、ブルガリアを通じてソ連のバルカンへの影響力が拡大することを嫌ったユーゴ政治局会議はこのスターリン案を否決した。
ふたつめはアルバニア問題だった。ユーゴはアルバニアから専門家を引き上げさせるようにソ連に要求した。そしてアルバニアにユーゴ軍の駐留を受け入れるように要求し、さらに1948年にはスターリンの忠告にもかかわらずアルバニアをユーゴの第七の共和国にしようと画策した。
1948年3月、ユーゴの共産党拡大政治局会議は、ソ連が自国の利益の為にユーゴへの武器供与や経済支援を意図的に遅らせていることを指摘、自力での国防力強化・経済発展を行う方針を打ち出した。この内容は同政治局員で親ソ派のジューヨヴィチによってソ連に伝えられた。またユーゴはこれに伴いソ連顧問団への経済情報の提供を拒否。ソ連はこの一連の動きに対し、軍事顧問団および民間専門家の引き上げの通告で応えた。ソ連はユーゴ批判を強め、ユーゴ内の親ソ派を使って政権転覆を目論んだ。ユーゴは親ソ派の粛清に乗り出した。そして、6月、コミンフォルム大会においてユーゴは激しく非難され、コミンフォルムから除名されるという破局を迎えた。
東欧ではチトー狩りの嵐が吹き荒れた。親ソ的でない政治家は排除・逮捕・粛清された。このことは東欧に一枚板の結束をもたらしたと同時に、ユーゴに孤立をもたらした。それまで親ユーゴ的でユーゴに吸収されつつあったアルバニアは、ソ連にくみすることで独立を保持しえたのだった。
さて、共産主義陣営からはじき出されたユーゴは、当然のように西側に歩み寄りを見せていくこととなる。1949年にはアメリカから経済・軍事援助を取りつけ、1953年にはギリシャ・トルコと友好協力条約を締結。このように外交的な歩み寄りと同時に、社会主義に対する見直しも試みられることとなった。1950年、ユーゴは国家ではなく労働者集団による自主管理を中核に据えた社会主義体制を整え、「真のマルクス・レーニン主義」にのっとった社会主義体制を樹立したとして、自らの正当性をアピールするようになる。
その後有名なスターリン批判によってソ連とユーゴの関係は修復されるのであるが、ユーゴの目指したのはあくまで分権化・自由化・民主化への道であった。1958年には共産主義者同盟(注4)の積極的な役割が否定された。1963年、憲法の改正によって国名を「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」から「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」に改めた。1965年には市場原理が導入された。外交面では東西両陣営に属さない、いわゆる「非同盟諸国」の一方の旗手として活躍することになる。
しかしこのような民主化・分権化は、ユーゴ伝統の問題を噴出させることにもなった。1968年、コソヴォのアルバニア人が権利拡大と共和国への昇格を要求し、暴動。1970〜71年、クロアチア人がセルビア人の経済的搾取を受けていると主張し蜂起、連邦からの離脱とクロアチア主権国家の樹立を要求した。
チトーはこのような危機に対し、民族主義者の一掃を行うとともに、1974年の新憲法で各共和国に実質的には拒否権と言っていいほどの権限を与え、ユーゴの国家連合色を強めるという対処を行った。いわば、飴と鞭、ということになるが、この1974年憲法がその後のユーゴ解体に大きく関わってくることになる。
この穏健的な体制は、前章で見たように、分権化という動きの中で浮上した民族問題を押さえつける為に登場した。しかしこの体制は、結局、民族問題を沈静化するどころか増幅することとなってしまう。
各共和国には、平等の権利が与えられた。このことはすなわち、人口では36%を占めるセルビアが、5共和国の一つ、単純計算で20%の権利しか持たないということでもあった。
セルビア共和国内の2つの自治州には共和国とほぼ同等の権限が与えられた。このことは、コソヴォ自治州での勢力バランスをひっくり返した。それまでセルビア共和国内の「少数民族」であったアルバニア人が、コソヴォ自治州での「多数派」となったのである。コソヴォのセルビア人の権利保護問題が浮上した。
そして、なにより問題だったのは、いくら権利を与えたからといって経済格差が解消されたわけではないという事実である。1970年代は国際的にも経済が落ちこんだ時期だった。ニクソン・ショック、石油危機などによる世界的経済不安の煽りを食らい、ユーゴの経済格差はむしろ増大する一方だった。
(注1)ベッサラビアを巡りソ連と激しく対立。ベッサラビアは独ソ不可侵条約でソ連のものと約束されたが、ソ連は当初ルーマニアを支援する英仏との関係を考慮しその占領を控えていた。フランスの降伏後、ソ連はベッサラビアを占領。これに及び、他の国もルーマニアに領土を要求した。バルカンの一円的な従属状態の瓦解を嫌ったドイツが仲裁し、ルーマニアは多大な損失を蒙った。
(注2)ドイツ占領下の東欧で、最も平和を謳歌した国。その歴史的な親ソ感情から対ソ戦を免除され、マケドニアや西トラキア、南ドブルジャなどの「悲願の土地」を手に入れたためである。

[ 121] チトーのユーゴ
[引用サイト]  http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/tito.htm



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