内戦とは?
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今日は「内戦」についてです。 1960年から1999年までの間に、世界では主に52もの内戦がありました。 コンゴ、アンゴラ、コロンビアの内戦なんて、なんとなくニュースで聞いたことありますよね? アフガニスタンも長い間内戦に苦しんできました。 多くの歴史学者は、何百年も前の歴史に焦点を当てます。何世紀も続いてきた民族、部族、宗教の確執が、内戦の原因なんだと言います。 記憶に新しいアフガニスタンの内戦でも、○○人とか△△人、とか今まで聞いたこともない横文字の民族の名前がたくさん出てきましたよね。コンゴでは、同じ民族でも、さらに小さい単位の部族間で争いあっています。 しかし実は、民族や宗教によって「色分け」されているだけであって、民族・宗教の対立が直接の「原因」となっているとは限らないんです。 軍を率いるリーダーは、自分たちのメンバーを団結させなければなりません。 または豊かな国に移住、または避難したお金持ちの同朋から資金を集めたいと思っています。 そんなときに、何百年も前の歴史を持ちだして、自らの民族、宗教の優位性、正当性を訴え、団結をはかるんです。 民族的には、インド系が中心ですが、アフリカ系、中国系、さらには、ヨーロッパ系の人々がモーリシャス人として生活しています。 ただひとつ重要な例外は、あるひとつの民族が圧倒的な人口を占めていて、その一方で、少数民族がいるとき。 こういう状況では、マジョリティーの民族が少数民族を迫害、または少数民族が反乱を起こしたりと、紛争の確率が2倍になるといいます。 それよりも、注意すべきは、民主国家と独裁国家の中間点にある国。新しく民主的な国家になったばかりの国が、危険な状態にあるということです。 たとえば2000年にようやく民主的な大統領選挙を行うことになったコートジボアールは、選挙をめぐって争いが起きて、現在も続いています。 元気がみなぎる若者たちの未来は、働くことによってあるのに、経済が悪ければ、戦いさえすれば飯が食える内戦に再び傾いてしまうかもしれません。 前回は内戦の原因が、何百年もの歴史に根付く民族や宗教の対立じゃないんだよっていう話をしました。 それに太古の歴史よりは、「最近の歴史」に注目しましょうとも、書きましたね。つまり、最近内戦を経験した国ほど、再び内戦に陥りやすい、ということでした。 それでは、今回は、「じゃ 本当は何が原因なの?」ということをみなさんといっしょに考えていきたいと思います。 世界の人口は60億人。そのうち、まず先進国の人口、9億人はお金持ちですね。日本やアメリカやイギリス、フランス、カナダ……。 次にこれに加えて、グローバル経済の波に乗って発展してきている、比較的豊かな途上国というのも、内戦にはあまり縁がありません。このグループに属する人口は、約40億人。 どうですか みなさん? 内戦やってる国って、なんだか貧困にも苦しんでいるような気がしませんか? コロンビア、アンゴラ、コンゴ……。 ある統計によると、経済成長率が1%上がるごとに、紛争の起こる確率は1%下がるそうです。また、個人の所得が2倍になると、紛争の起こる確率は半分になります。 言葉を変えれば、紛争は、経済が危機状態のときに起こりやすいということです。たとえば、インドネシアでは、90年代後半のアジア経済危機に呼応したかのように、内戦が発生しました。 はっきりとした理由はわかりません。しかし、貧しい国ほど、内戦に直面する確率が高いのは間違いなさそうです。 紛争を続ける多くグループは、そういった自然資源から、武器、そのほか、戦いに必要な資金を手に入れます。 もっと間接的な方法としては、そうした鉱物資源で商売をしている先進国企業の現地従業員を誘拐して、「身代金」を手に入れるっていう手もあります! (余談ですが、こうした被害を受ける企業の中には、この「身代金」を「地域社会貢献費」として、あらかじめ会社経費に組み込んでいるところもあります^^;) また、ひとたび、ある鉱物資源がある地域に発見されると、その地域の人々は経済的に自立できるくらい裕福になる可能性があるから、ついでに政治的にも自立したくなります。 でも、ほとんどの国って、いろんな民族が住んでいますよね。そこで、鉱物が発見された地域が、少数民族の地域だったりすると、民族主義を唱える中央政府は、力ずくでも、その富を奪おうとします。 だからインドネシア政府は、東チモールは国際的な圧力もあって手放しても、アチェは絶対に手放さないといわれています。 インドネシア政府は今まで、アチェでの資源を搾取して、アチェの地域社会にはほとんど還元してきませんでした。これが、アチェの人々の長い間の不満となっていました。これが分離運動のエネルギーです。 見事に独立を果たした東チモールについても、その資源の利害関係から見ることによって、「独立」ってどういうものか、もう一度考えてみたいですね。 オーストラリアは世界の先頭になって、東チモールの独立を支援しましたが、独立のわずか数時間後、両国の首相は協定を交わしました。そこで、オーストラリアは、東チモールの海洋油田発掘の権利を手に入れました。 つまり、オーストラリアは、東チモールの石油目当てに、独立を支援したといえなくもないということです。 大切なのは、これまで述べてきたことから、私たちは何を教訓として学び、今後内戦を無くすために何をすべきかということです。 今日は「内戦」シリーズの最終回です。 前回は、内戦っていうものが、経済や資源といった「お金」にからんでいるんだよ、ということを話しましたね。 豊かな国では内戦は起きない。内戦は途上国に集中している。 ダイヤモンドといった鉱物資源、木材や麻薬なんてのも、反政府組織の資金源になっているということでした。 大切なのは、これまで述べてきたことから、私たちは何を教訓として学び、今後内戦を無くすために何がすべきかということです。 まず、教訓とは、何が原因で内戦が起きたかより、金銭的に内戦を続けられるかということのほうが重要だということ。 だから、国際社会は、こうした(主に)反政府組織に対し、道義的に間違っていると非難するよりも、まずは軍事力の持続性を経済的に削ぐことに力を注がなくてはならないでしょう。 アンゴラのUNITAやシエラレオネのRUFは、最近壊滅しましたが、これには国際的なダイヤモンド取引監視による経済制裁がある程度功を奏したといわれています。 これは、ダイヤモンド原石に原産地証明をつけましょうというもの。 紛争地域から産出されたものは取引を禁止しようという動きです。 それに、他国の政府が、内戦中の反政府組織に資金援助しているなんてこともあります。こういった援助も、しっかり罰せられなくてはなりません。 一方、反政府組織は麻薬を栽培、密輸して、武器の資金源としているのですが、その麻薬の多くはアメリカ市民によって消費されているのです。 だから、アメリカ政府は、コロンビア政府に軍事援助するお金があったら、コロンビアの貧しい人々に、麻薬以外の商品作物を栽培できるように援助をすればいいんです。 貧しい人々は、貧しいがゆえに、仕方なくお金になる麻薬を栽培しているんです。だから、貧しい人を救わずに、コロンビアの内戦を止めることはできないのです。 そもそもコロンビアの内戦は、貧しい農民たちが立ち上がって、政府に抵抗運動を始めたことに端を発しているのですから、反政府組織が悪いと決めること自体が間違っているんですけど。 市場を育てる手伝いをし、借金を帳消しにして、資金援助もしましょう。 この辺は今日は深くは書きません。 この時期の政府は貧弱で、財政機関もしっかりしていないから、せっかくもらった援助資金を有効に生かすことができません。 平和が訪れ、メディアでも注目されている最初の1年くらいは、世界的な援助が集中します。けれど、そのときは、ちょうどお金を運用できるほど、政治の仕組みがきちんとしていないとき。 そして、ある程度国が安定してきたときには、すでに関心が薄れ援助が去ってしまっているのです。一番必要なときに、お金がないのです。 これはもちろん軍事的な意味もあるけれど、内戦から回復したての国にとって、自分たちで治安を守るための軍事費を捻出するのは、大変な負担になるからです。だから、「外部からの」というのがポイントです。 しかし、外部の軍隊は、いつまでも滞在することはできません。ある程度、治安が回復して、政府機関がしっかりしてきたら、撤退します。 インラインフレーム上で右クリック→属性の変更で、高さを調整してお使いください。500〜1000ピクセル程度を推奨します。 必要ないかたやインラインフレームのことが、まだよくわからないかたは、削除してください。(インラインフレームを選択後、Delteキーで削除) |
[ 126] 内戦 宗教や民族の歴史的対立が原因じゃない
[引用サイト] http://www.ochanoma.info/sc_civilwar.html
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スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Espanola、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。 第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベラ将軍(ファランヘ党創設者の同名のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リべーラ侯爵は彼の息子である)による軍事独裁政権も成立した。1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャが率いる人民戦線政府が成立した。人民戦線勢力はさらに進んで、警察を使ってスペイン保守派の中心人物の一人であったカルボ・ソテロを暗殺するなど、暴力による右派の物理的排除に乗り出す。これに対して、フランコがスペイン本土と植民地モロッコで軍隊が反乱を起こすと、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、地主、資本家、軍部などの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。 反乱を起こしたフランコ将軍は、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリアから支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。ポルトガルに成立していたサラザール独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられず、しかもメキシコからの軍事的な援助はごくわずかであった。しかし、国際旅団 (en) が各国から駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。 内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マンチャ、アンダルシアなど国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。 反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はバレンシアへ移転、さらにバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の一番最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。 反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコが独伊の支援をとりつけていたこと、フランコと並ぶファシスト側の指導者であったエミリオ・モラ・ビダルの事故死(1937年6月)などが重なり権力の集中が進み、ファランヘ党(創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リべーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。 反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の1937年4月26日にはバスク地方のゲルニカがドイツの義勇軍航空部隊コンドル軍団とイタリア空軍によって爆撃され、多くのバスク人が犠牲になったと言われている(爆撃の真相は不明だが、パブロ・ピカソの絵画の題材になったことで有名になった)。 さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。 一方、共和国軍(反ファシズム)側の足並みはそろわなかった。急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党 (POUM) と協力し統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。しかし、これらの組織はコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らをトロツキストと批判し、内部対立を深めた。ついに1937年5月、バルセロナでは両勢力が軍事衝突へと至り、500名近くの死者を出す惨事となった。地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。 スペイン共産党は内戦以前は極少数党派にすぎず、左翼は圧倒的にバクーニン派アナキストのCNT・FAIによって占められていたが、最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに次第に勢力を拡大していった。 国際的情勢は、さらにフランコ将軍に有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことで、ローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。 1938年7月、人民戦線側は南北に分断された支配地域を回復しようと、エプロ川で攻勢に出る(エブロ川の戦い)。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したことにより、戦闘の当初は人民戦線側が大きく前進するが、反乱軍が増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて人民戦線側はずるずると後退していった。両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国側はフランコ側の約2倍の死者をだし、もはやカタルーニャ側の人民戦線政府は勢力を消耗し尽くしてしまった。 1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌年1月末にバルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリス・フランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャ大統領は辞任を余儀なくされた。フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。4月1日にフランコによって勝利宣言が出された。 多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が1937年7月にブルネテの戦いで戦死している。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員の大多数は知識人ではなく労働者であり、また、全構成員の85パーセントは共産党員だった。また、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる。戦争終結直前に国際旅団は、有力な支援元であるソビエト連邦がナチス・ドイツと取り引きをするため、撤退を指示された。 内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して、激しい弾圧を加えた。特に自治権を求めて人民戦線側についたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがナチスドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者がメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きかったと言われる。人民戦線政府も亡命政府としてメキシコに1976年まで存続した。 『誰が為に鐘は鳴る』 - スペイン内戦に政府側として参加した、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイの小説。 ドリュ・ラ・ロシェルの小説『ジル』や、ロペール・ブラジャックの小説『七彩』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコ側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。 『命あるかぎり』 - 西ドイツ映画。ゲルニカを爆撃したとされるドイツ義勇軍「コンドル軍団」の若者たちの青春群像を描いた。 『大地と自由』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。左翼勢力間の争いが、共産党に批判的でアナーキスト陣営には同情的な視線から描かれている。 ロバート・キャパは『崩れ落ちる兵士』など、前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築く。 ゴードン・トーマス/マックス・モーガン=ウィッツ(著)、古藤晃(訳)、『ゲルニカ;ドキュメント ヒトラーに魅入られた町』、TBSブリタニカ、1981年 ジョージ・オーウェル(著)、『カタロニア讃歌』、スペイン内戦においてイギリス左翼の人脈から、反スターリン主義マルクス主義政党マルクス主義統一労働者党(POUM)の民兵組織に参加したジョージ・オーウェルによるルポルタージュ。 ジャック白井 - 記録されているただ一人の日本人義勇兵。北海道出身。アメリカで募兵に参加。青山の無名戦士の墓に銘がある。 オリバー・ロー-第15国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」(アメリカ合衆国人により編成)の指揮官で、黒人だった。 この「スペイン内戦」は、戦争に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる執筆協力者を求めています(PJ軍事史)。 カテゴリ: 内戦 | スペインの戦争 | 20世紀のヨーロッパ史 | 反共主義 | 戦争スタブ |
[ 127] スペイン内戦 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%86%85%E6%88%A6
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このとき海岸付近にはテムネ人が住んでいた。ポルトガル人はこの地域から象牙、木材などをヨロッパに輸出した。また奴隷貿易も行われた。 50年間で約5万人の解放奴隷が移住してくると、英国はシエラレオネの統治を強め、フランスの植民地拡大を意識して内陸部を保護領化した。 16世紀後半にはイギリスの奴隷商人がシエラレオネに来る。しかし18世紀末にイギリスの奴隷解放論者が奴隷解放を開始し、1787年に解放奴隷をシエラレオネに入植させた。大西洋で開放された奴隷はクレオールと呼ばれた。 イギリスはこの地を西アフリカ植民地政策の拠点とした。1827年にイギリスは後に国立シエラレオネ大学となる学校を創立。ここでクレオールは学び、官吏や企業家などとしてアフリカ各地のリーダーとなった。またクレオールはキリスト教に改宗した。 第一次大戦後クレオールを主導者として民族独立運動が起こり、1961年に独立を勝ち取ったが、その後40年間、国内の民族間の紛争という悲劇が続くことになる。 第一次大戦後 クレオールが主導者となり民族独立運動が起き、シエラレオネ植民地国民会議(NCCSL)を結成。 1998年 2月 ECOMOGがフリータウンを急襲、コロマ少将の軍事政権を追放。コロマ少将率いるAFRCは、野に潜伏した。 2000年 2月 RUFの市民に対する残虐行為が国連軍により報道され、人権侵害問題が国際世論を起こす。 カバ政権―国民投票で選ばれた民主政権で、シエラレオネの国家政府として国連、アフリカ統一機構も承認。ナイジェリアやギニアが支援。支配地域はフリータウン周辺のみで地方に勢力が及ばない。支持層は首都のエリート階級。しかし地方の貧困層の支持を得られないため、内戦の終結と国の民主化は難しい。 Kamajorは南東部の狩猟民の部族の私兵 1998年にはAFRCと戦うなど終始親政府 隣国のリベリア内戦時に、テイラー氏(現リベリア大統領)率いるリベリア国民愛国戦線と同盟し、以後密接な関係にある RUFはダイヤモンドをリベリアを経由してベルギーのダイヤモンド市場に流しているといわれる。その代わりリベリア国民愛国戦線からは武器提供を受ける。豊富なダイヤモンドの売却代金により、自動小銃、地対空ミサイルや対戦車ロケットなどを含む装備が進んでいる。 シエラレオネはもともと鉱物資源が豊富で豊かになりうる国。しかし政府は国民の生活向上のために資源を利用する政策を取ってこなかった。今、シエラレオネ国民の生活水準は世界最低レヴェル。ダイヤモンドの利益はすべて戦争にまわされ、恩恵は国民に全くない。貧困にあえぐ国民、特に将来に希望をもてない若者は反政府勢力を支持し、内戦は泥沼化。しかし内戦の長引く原因はダイヤモンドの利益が戦争に使われていることにある。その意味でシエラレオネ内戦はダイヤモンドの大消費地先進国、そして日本と密接に関係しているといえる。 シエラレオネのダイヤ産出量は世界第10位であるが、その品質は非常によくまた、採掘も容易である。そのため伝統的に非合法な採掘と密輸が横行し、現在ほぼ百%が密輸されている。 シエラレオネ国内の治安状態がよくないため、UNHCRは首都フリータウン近くの難民キャンプ周辺で暮らす4700人だけしか援助できていない。それ以外の難民は、戦闘地帯で暮らしている。 1985年から、国内の内戦のため約75万人が国外へ流出 (ギニアに41万人、コートジボワールに30万5000人) シエラレオネからの難民は、国境付近か首都モロンビアで暮らす。しかしリベリア西部は治安が悪いため3万人は外部から隔絶している。 反政府勢力の兵士は、人々を恐怖に陥れ政府を脅すために、何千人もの罪のない一般市民の手足を無差別に切り落とした・・・ 1991年1月に反政府勢力が首都フリータウンを攻撃し、市街地がほぼ制圧されると彼は森へ逃げ込んだが、数日後にマンゴーを探している時に捕らえられた。食料運搬係をすると申し出たが、見覚えのあるゲリラ兵に、教師で裏切り者だと糾弾された。ゲリラは村を焼き払い、彼を告発したゲリラ兵がサンコーの家から斧を持ち出して彼を地面にねじ伏せ、右手を切り落とした。次に左手を切断し、意識を失って倒れておる間に口の周辺を切り、耳の一部を切り取った。そして他の多くの犠牲者に言い捨てたように「(カバー)大統領のところへ行け。大統領がおまえの手を取り返してくれるぞ。」と嘲り笑った。 出欠がひどかったが、サンコーは安全な場所を求めて歩きつづけた。シエラレオネ文民政府と周辺諸国のために反政府勢力と戦っている西アフリカ平和維持軍(ECOMOG)の兵士に撃たれて殺されそうになったりもしたが、最後には妻と子ども二人とともにフリータウンにたどり着き、キャンプにいる何百人のも子どもたちのための学校設立に力を貸した。 1998年5月、セレコリア村が反政府勢力ゲリラに襲撃され、ゲリラは村中の家を焼き払った。アリーは隣村の少年と一緒に鎖でつながれて、森の中へ連れて行かれた。ほどなくゲリラはアリーの左手を切り落とす。「三人がかりだった。一人が銃を突きつけ、後の婦たちが切った。」切り株の上にすえつけられたアリーの左手に四回もなたが振り下ろされ、手はわずかしな肉片と皮だけでつながるまでになった。その後右手も一回切りつけられ、友人といっしょにむちで追い払われた。そのとき文民政府を支えるナイジェリア軍宛の闘争の理由が書かれているであろう手紙を渡された。 森の中を必死で逃げる間、傷口の出血は止まらなかった。包帯などあるはずがない。最後にはちぎれかけた左手をもぎ取り、林の中へ捨てた。「逃げながら(落ちそうな手を)押さえていられなかった。」その後ようやく家族と再会し、庇護を求めて隣国のギニアまで歩いていった。傷の手当てができたのは、そこの病院にたどり着いてからだった。 ロンドンの環境・人権保護団体「グローバル・ウィットネス」のアレックス・ヤースリー氏は、「手足を切断された市民たちは、米の収穫作業ができなくなり、食糧をRUFに頼るようになる。シエラレオネ国軍も食糧の道を絶たれ、国全体が飢餓のために不安定化する。RUFはそれを狙っているのです。」と説明する。 フリータウンの郊外の村、カサブランカに「手足を切断された人と戦争負傷者のキャンプ」という施設がある。ここでは1800人を超える犠牲者と家族が暮らしている。ここのある家のベランダでは片腕の男たちが床屋になる訓練を受けている。また国内で唯一という義手や義足を生産する小さな工場もある。少なくとも2000人が義手・義足を持っている。(アブドル・サンコーはこのキャンプにある学校の校長) 「この国の女性たちに、目に見えない残虐行為が計画されました。それは女性や少女を拉致してレイプ、集団レイプを行い、一部を殺人マシーンに仕立て上げることで、シエラレオネの女性を服従させるという周到な作戦でした。犯罪行為を裁くときは、この隠された苦しみを絶対に忘れてはなりません。」 ロメで平和協定が結ばれた後、UNHCRは平和回復に伴い2000年末にギニア、リベリア、ガンビアにいる難民約17万人が帰国すると予測し、難民の帰還と再定着を支援する計画を立てた。 恐怖心を抱かないようにするため、ゲリラは子どもの兵士に麻薬を与えた。そのため元子ども兵は、多くが麻薬中毒者である。 元少年兵は難民キャンプでも隠れて住まなければならないことがある。過去に殺した人の友人や家族がキャンプで暮らしているからだ。そんな人に出会うようなことがあれば、彼らの身は危険にさらされる。 ギニアはアフリカで最も不安定な地域の中心に位置する。長年の内戦で荒廃した隣国、シエラレオネとリベリアから、何十万という人が安全な場所を求めてやってきた。 現在、ギニアは最貧国のひとつであるが、アフリカ最大の難民受入国である。シエラレオネとリベリアを中心とした国から、48万9000人の難民を受け入れている。 ギニアの事業は、多くの資金拠出国から「魅力的」だとみなされないために、他の地域に比べ援助の手が差し伸べられない。そのため常に活動資金の調達は困難で、経費の削減を迫られる。 多くの難民のために国内の限られた資源・財源が圧迫され、環境は悪化、国の安全は脅かされる。700万人のギニア国民は、自分たちには援助金が割り振られず、滞在者ばかりに割り振られることに不満。 難民帰還のための資金が、攻撃を受けやすい国境付近の難民キャンプを安全な場所に移動させるのに消えてしまう。しかしキャンプの移動は難民を疲れさせてしまう。 |
[ 128] 活動報告「シエラレオネ〜忘れられた内戦」
[引用サイト] http://www.jca.apc.org/unicefclub/unitopia/2002/Sierra.htm
