知らとは?

転換点は2015年ごろだそうな。そこで日本がどういう役割でいるかは、予想というよりも「エール」に近い。梅田望夫は胡散臭いが安易な悲観論も御免だね、という方に。
グローバルスタンダード(死語)のお題目で、米国型経営や成果主義が日本に広がっているなか、著者は以下の切り口で問題点を挙げている。
切り口1。資金調達の方法として、以下のルートがある。イノベーションを起こすための研究開発資金なら、1と2はあまりにもチャレンジングなので、普通3だろう。過去の蓄えでもって未来の食い扶持を創出するわけ。
米国のベンチャーキャピタルは肥大化しているという。リスクを取って新しい技術を育てるのではなく、「買う」わけだ。そのため、調達ルートは銀行か株主で、内部留保は軽視される。
切り口2。「企業は株主のもの」とばかりにROE(株主資本利益率)に固執し、企業としての目的が「数字」になってしまう。短期の「結果」を出すために、研究開発費を削り、新しいものがうみ出せなくなる。
シリコンバレーは新しい基幹産業をうみ出す力を失っているという。ベンチャーキャピタルは大きくなりすぎており、2つの切り口から覗くと、合従連衡ゲームのようだ。
わたしは既に「オールドタイプ」なんだろう。たとえば、マイクロソフトやgoogleの時価総額を聞かされる度に、ぱんぱんにふくらんだビーチボールをイメージする。「ただの広告屋に賭けるにしては、身の丈あっていないよ」、と言うが早いが「googleの価値が分かっていない奴」というレッテルが貼られる。
巨大企業を腐したいわけじゃない。IT屋の端くれであるにもかかわらず、「パソコン」に違和感を感じているから。
もちろん、わたしにとってパソコンやネットは不可欠なものだし、現代社会にとってもそうだろう。電話や自動車のように、なくてはならないものだ。
しかし、電話や自動車は「フリーズ」したりしない。かつて、Windows搭載のBMWやイージス艦があった(乗るかい?)。また、電話も自動車も、ほぼ直感的に習得することができた。なによりも「さいしょからある」ものとして付き合ってきた。
パソコンは急速に普及したので、これから洗練される―― と聞かされても信じない。メモリの単位がK→M→Gになっても、起動時間は1/1000にすらならない。
それでも、パソコンは便利だ。命を託すほどではないが、本を注文してもいいぐらい信用できるようになった。そこで、違和感がでてくる。
その程度の「信頼」や「実績」の上に、過大な期待が乗っかっていないか? という違和感。いそいで付け加えると、「期待するな」「信用ならねぇ」と言っているのではない。大きすぎやしないか? と心配しているんだ。
いやいや、PCとかネットといったディメンジョン自体、小せぇ小せぇと嘲笑(わら)ってくれ。あるいは、「メシの種にケチつけんじゃねぇこのバチあたりがッ」と罵るなら、もっと安心だ。
―― そういう違和感、わたしだけかと思っていたら、著者がズバリ「これからは、機械が人間に合わせる時代がくる」と斬っている。「計算機」としてつくられたコンピュータは、もっと人間に合わせて作り変えられる(定義しなおされる)と説く。
それ―― パソコンの次のもの―― は、計算機能中心からコミュニケーション中心の発想へシフトする。早ければ、5、6年の間に情報端末としてのパソコンの優位性は失われ、2015年頃にはオフィスからパソコンが消えるかもしれない、という。
じゃぁその、「パソコンの次のもの」の正体はというと、NetPC/NCだから涙が出てくる。いやいや、かつてオラクルやマイクロソフトがぶち上げてたのとかなり違うらしい。もっとユビキタスで、使っていることを感じさせない(パーベイシブ/pervasive)なやつで、PUC(Pervasive Ubiquitous Communications)と名付けている。ハードとソフトが一体化しており、今までのOSやデータベースとは、まるで違う発想の元に作られている。
この道はいつかきた道、ああ、そうだね… 泣けてくる。おそらく、そのガジェットは、いま、目の前にあるモノだろう。「最初は、iPodやケータイと呼ばれていたもの」が、それ―― パソコンの次のものになるんじゃぁないかと。
IT産業への違和感や、イノベーションの価値感覚と、かなりの部分で著者とシンクロできるのに、PUCの話題に移ると、マユツバになる。オールドタイプになったもんだ。ただ、「いつかきた道」だろうと、説得論理はじゅうぶんある。大前研一「新・資本論」の読後感とそっくりだ。賭けはしないが、見とどけたい未来が書いてある。まだ誰も信じない未来のビジョンに投資するコンピュータ全盛の今、「コンピュータの時代はもうすぐ終わる」といっても、普通は誰も信用しないでしょう。しかし、世の中は変わるという本質をつかみ、新しいビジネスモデルを提唱するのがベンチャー企業創業者です。新しい技術が生まれ、世の中の枠組みが変化すれば、すべてが変化することを忘れてはいけません。西部開拓の時代からアメリカ各地で発達し、重要な交通機関となった幌馬車のことを知っている人が今、どれだけいるでしょうか。各地の幌馬車会社をつぎつぎと買収し、一握りの大企業がようやく独占的な支配を確立した頃、現れたのが鉄道です。そして巨大化した幌馬車会社は、あっけなく消えてしまったのです。歴史が教えてくれるこういう事実は、今から振り返ればごく当り前のことでしょう。しかし当時、長距離を移動する乗り物といえば幌馬車しか知らなかった大多数の人々にとっては、いつか幌馬車会社がなくなるなどということは想像すらできなかったのです。 見えていないのは、わたしなのだろうか? こないだ読んだ「イノベーションの神話」で知った、ウィリアム・ギブスンの言葉を思い出そう。
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あんたなんかともお口きいてあげないんだからああ〜もぉ〜イライラするわぁーバカバカバカ人でなしー役立たず死んじゃえキモキモ信じられなーいフンフンフン!変態変態ど変態the変態de変態der変態el変態ど変態へんたいたーれんへんたーいへんたーいへんたーいウルサイもうサイテー鬼、悪魔、人でなしーどこ見てんのよ信じられなーいウルサイししし死んじゃえー惨殺するわよ惨殺するわよ惨殺するわよキモキモ別にアンタのことなんかこれっぽっちも考えちゃいないわよ彼女なんか一生できないんでしょうけど全部アンタのせいだからねバカ!バカ!バカ!信じられなーいなに公私混同してんのよ化けて出てやるんだからやれるもんなら、やってごらんなさいよハッキリしなさいよねウルサイほんっとダメダメなんだからキライキライ大キラーイ早くいいなさいよへんたいー!(閣下)へんたい!(あずさ)へんたいー!(美希)へんたいー(とかち)へんたいー(真)へんたいー(千早)へんたいー(雪歩)WA!へんたいー(全員)へんたい(伊織)変態!大変態ヘンタイ変態ヘンタイ変態ヘンタイ変態ヘンタイ変態ヘンタイ変態
変態変態ど変態the変態、de変態、der変態、el変態、ど変態、穴掘って埋まっておきますぅ〜へんたいたーれんっ
1日100回聞くとなると、7時間以上になる。せめて脳内再生の一助としてご利用くださいませ。そして、これ聴くためだけにiPod買ったわたしは…伊織組。
11/25追記 : この神MADのプロデューサー、ベホイミさんに捕捉されてますた。「うっうー」のご指摘、ありがとうございます。
[田村隆一の人生相談]のコメントで教えていただいて、読む。こんにゃくでペチン、ペチンと心臓を叩かれるように効いた。zemukuripu さん、よい本を教えていただき、ありがとうございます。
生きてるかぎり必ずぶつかる問題や、どーでもいい(でも本人は切実な)悩みごとが盛りだくさん。そうした悩みを"谷川俊太郎"でフィルタリングすると、一編の詩に変化する。質問と回答がカチッと合わさる瞬間が気持ちいい、詩人一流の「おかしみ」が心地よい。そして、質問者の背後をじぃっと見つめる目が怖くない(なぜだろう)。
谷川さんの答すぐ機嫌を直してもらおうとせずに、あせらずゆっくり構えて怒らせた原因が何か考える。その原因が自分にあると思ったら、相手の目を見て、マジであやまる。言葉は少ないほうがいい、何か具体的な行動で謝罪の気持ちを伝えるほうがいい。指つめたり、腹切ったりすると嫌がられると思うから、好きな酒を断つとか、頭を剃るとか、針金やビーズでアクセサリーを自作して贈るとか、毎朝彼女の部屋のドアの前に、自分で摘んできた野花を置くとか、メールに毎日一行ずつ誰かさんの詩を引用するとか、いくらでもアイデアあるだろ、あとは自分で考えろ、自分で! 以下、質問だけ引用しておく、言葉の達人が何て回答するかは、ご自分の目でお確かめあれ。
居所がないというより、そもそもコトバが通じない。「私は日本語をしゃべれているのか?」と真剣に考えた。「問題児」というレッテルのおかげで学校からは放っておかれた。いじめには暴力で決着をつけた。それでも、図書室や剣道といった「逃げ場」のおかげで息つぎができた。
うまく生きのびたものだと思う。死ぬこともなく、壊れもせず、子どもを終わらせることができた。ほとんど運みたいなものだ。だから、いま、生きにくさを感じている子どもには、何のアドバイスもできない、何の役にも立たない。
ところが、いい本を教えてもらった。「氷の海のガレオン」(木地雅映子)だ。どういう内容かというより、どういう子どもなのかは、次を読めばわかる。「なんで? 友達じゃないの?」「むこうはそう思いたがってるけどね」あのトイレでの会話――会話以下のものだけど――を思い出しながらわたしは言った。「友達って言葉の定義が違うのよ、ママだって言ってたじゃない、本当の友達なんて、家族を別にすれば同性にひとり、異性にひとりいれば御の字だって。あの子はぜんぜんその器じゃないよ。だけどあっちは孤独がこわくてしがみつきあってる関係でも"友達"だと思ってる。あたしにそれをやってくれってんだから、参るわよ」 こんなところに俺ガイル、と同時に呼吸が苦しくなる。ぜんぶ「過ぎ去った」として見ることができる今になって、どうすればよかったか、が分かる。
ただし、この「どうすれば」は、わたし限定。この短編小説には、何の解決も書いていない。何かを求めてページを開くなら、ラストにいたっても何も得られないことに気づく。それでも、同じ気持ちを(もういちど)通り抜けることは、できる。うまく言葉にできなかった口惜しい思いを、今の自分で追体験できる(ここがスゴい)。
続いて「オルタ」。これは、親こそ読むべきですな。どうしてこれがヤングアダルトなのか分からん。「星の王子さま」は大人こそ読むべきであるように、「オルタ」は親が読んでおくべき。ここにいたら、あぶない。ここにいたら、じぶんをとられる。そんな警報があたまの中で鳴り響いているのに、それ以上、どうすることもできない。 あー、でも、これも「解決策」は書いていない。小学校一年生の「オルタ」の母親が語りべとなって、つむぎだされる苦しい話。この短編の本質は、次に凝縮されている。「貴大くんはね、ほんとうはやさしい子なんだよって、先生ゆってた……」会話としては何の脈絡もないところで、突然ぽつんと、オルタが呟いたことがありました。学校はこどものだいじなところ。先生は熱心ないい先生。そして貴大くんも、ほんとうはやさしい、いいこども……それじゃまるで、オルタの胸のなかにある、この苦しみだけが、よぶんなものだということになってしまう。だから、たぶん、行かせれば、オルタは行ったでしょう。そして次第に、先生に告げ口もしなくなり、わたしにもなにも言わなくなり、「ほんとうはいい子」な貴大くんからの仕打ちにもできるだけ耐えて、一番いいことは、もう自分がこれ以上、なにも言わないことだと。みんないい人なんだから、後はわたしががまんするだけなんだと。それがクラスのみんなのためなんだと、自分に言い聞かせながら、きっと最後まで、先生みたいな人たちの期待どおりに、がんばりぬいただろうと思います。最後まで……つまり、壊れるまで。 壊れてしまった話なら、「わたしのいもうと」、そして「ぼくはお城の王様だ」が浮かぶ。最悪の最後ならずとも、幼い子どもが善意の地獄の中で身動き取れなくなるさまが非常にリアル。親ならきっと、「あるある」と頷くこと請合う。
オススメいただいた金さん、ありがとうございます。わたしが知らないスゴ本は、金さんが読んでいたのですね。それから、この「言葉にできないもどかしさ・くやしさ」は、ぜひ、柊ちほさんに読んでもらって…と思っていたら、読了済み(流石)。
革新的なアイディアは、どこからか「ふってくる」と考えている人は、けっこういる。わたしもその一人で、アイディア出しの手法・ツールを準備すれば、あとはインスピレーションの女神が降りてくるのを待つだけと考えていた…そして、今も待ちつづけている。
あるいは、天才肌のカリスマが全く新しいアイディアで世界を変えてしまうことを、「イノベーション」だと考えている人は、かなりいる。わたしもそう思ってた、iPod の「新しさは」ジョブズだから生まれたんだと、ね。
本書を読んで、わたしの思い込みは粉砕された。もちろん、エジソンが電球を発明したわけじゃないことや、Google の最初のアイディアはYahooで却下されてたことは知っていた。が、知っていたにもかかわらず、わかっていなかった。著者はそれを、イノベーションの神話と呼ぶ。そして、イノベーションにまつわる神話を洗い出す
真実という観点からそれらを探求し、教訓とする 既にネタは挙がっている神話もあるし、聞いたことのない(が、教訓として知っている)神話もある。以下、わたしが落ちていた穴をまとめる。なお、本書の方は興味深い事例が盛りだくさんであることを、予め断っておく。ある種の厳しさを求めている「アート・オブ・プロジェクトマネジメント」[レビュー]と異なって、本書はユーモアと教訓に満ちている。ちなみに、amzon.com のベストオブ2007のビジネス書部門で4位だそうな(著者Berkunさんのブログ[参照])。
もちろん最後の「ひらめき」はあるかもしれないが、そこばかりに目を向けていると、イノベーションをもたらす本質について見誤る。イノベーションがもたらした「結果」があまりにも速やかだと、イノベーションそのものを breakthrough と取り違える。
本気でブレインストーミングをすると、疲れる。さらに、出たアイディアを整理して蒸留させるとチーム全員ヘトヘトだろう(整理のプロセスでアイディアの組み合わせは指数的に膨れ上がる)。このスプリントを繰り返し、最終的に革新的なヤツに至ったとしても、それは決してひらめきからくるものではない。膨大な取捨選択とブラッシュアップの賜物だろう。
これは、やったことがあるヤツなら分かる。やりもせず能書きだけ垂れているなら、棚ボタを期待するほうがまし。著者はイノベーションに至るまでの地道な積み重ねに着目し、「ひらめき」を追い求めることは、「はっきりいって無意味」と断ずる。「アイディアのつくり方」[レビュー]でも同じコト言ってたっけ。
自明なのに忘れがちなこと。ケータイであれiPodであれ、いま目の前の「結果」に至る道が、たった一本であるという思い込み。あるいは、イノベーションは可及的速やかに世界を変えているという思い込み。電話やヒコーキの例が顕著だが、ゲーム機器の例で考えてみると面白い。
著者は、「なぜ、歴史は完璧に見えるのか?」という問いを立て、ローマの例から暴いている。ローマの場合、集合住宅の生活について記述された文献や、ローマの精鋭集団が犯したエンジニアリング上の失敗が記録された資料はほとんど残されていません。ほとんどの人々には何かを書き残すという手段が与えられていなかったため、反対意見が歴史に残されることはほとんどありませんでした。歴史が完璧に見えるのは、人々の生活が潤っていたからではなく、起こったこととその理由が隠蔽されていたからである場合が多いのです。■神話3 イノベーションを生み出す方法が存在する
あらためて考えると笑止千万なんだが、ほにゃららHackが典型だね。たとえば、プログラミングの生産性を上げる普遍的で革新的で確実な方法を追い求めることと一緒。もしも「ある」と大マジメに考えているなら、本書は読まないほうが吉。ほにゃららHackで遊んでる方が精神衛生上いい。
アイディアが製品・サービスという形に結実し、それが世界を変えてしまうぐらいのインパクトを持つ場合、「イノベーション」として認知される。だから、認められる直前までのプロセスは、フツーの事業と一緒。ショートカットは存在しない。
ただ、イノベーションに至る無限の道を歩く際、地図は無くても役に立つ「心構え」はあるという。サバイバルでの心構えと一緒。陳腐だが真実。自らを知る
以下の図が強烈。これを見るまでは、心の底からナットクできなかった…たとえ、アタマで分かっていたにしても。
過去のイノベーションを現代から見る場合、それらはすべて世の中に受け入れられた後の観点から見ることになる。そのため、イノベーターは自分のイノベーションが過去の事例とは異なった受け止め方をされることに愕然とするはず。たとえば…そんなことなどうまくいくはずがない
私のオフィス/洞窟から今すぐ出ていけ(原文ママ)そして、ひとたび「成功」すると、今度はイノベーターのジレンマ(≠イノベーションのジレンマ)が待っている。くじけそうなときには、ウィリアム・ギブスンの次の言葉を思いだそう。
ああ、これは思いつかなかった…が、事実だろう。イノベーションの象徴として、カリスマやらヒーローを祭りたがるクセがある。もちろん功労者として、スポークスマンとして「一人」が前面に立つことはあるが、彼/彼女が成し遂げたわけではない。
「たった一人の発案者」にしておくと便利だ。ややこしい真実や状況を考慮せず、ヒーローを一人仕立て上げれば済むのだから。著者は、ガリレオやアインシュタイン、アポロ計画とiPodを縦横に駆使して、この神話を解体していく。
優れたアイディアはデッサンから導きだす一本の線のようだ。最初からその一本が引かれることはなく、沢山の線を引いたあとに、「この一本」が選びとられ、いったん見つかったならそれ以外のどの線もふさわしくなくなる。
アイディアを得るときの「こころのありかた」について、面白いヒントが書いてある。心というものを、一種のフィルターだと考えてみるそうな。アイディアの取捨選択をするとき、「あれかこれか」といったON/OFFスイッチのようにはしない。仕事/遊びといった二値的なものではなく、自分の心のオープンさをコントロールできるボリュームスイッチをイメージせよという。
このボリュームの目盛り幅を広げるにあたって、素晴らしいゲームが紹介されている。「これは何?」ゲーム : あなたの周りにあるものであれば何でもよいので一つ選んでください。ペンでも、マグカップでも、何でも構いません。そして、それが本来の用途以外で、何に使えるかを自問するのです。 (中略) どんなものでも、本来の用途以外の使い道を考えることができるというのが、ここでのポイントなのです。 さらに、アイディアを殺すセリフを引用しておこう。アイディアを刺激するための「質問」を握りつぶすときや、アイディアを持っている人をやりこめて黙らせたりするときに、とても有効だ。
この神話については、著者やわたしなんかよりも、あなたの方がよく知っている。それでも、イノベーションを阻む要素は、「分かっちゃいるけど、見ていない」ことから始まる。スティーブ・ジョブズの次の言葉を引いておこう。Macintosh を製品として発売するための、長く・困難で・地道な作業を行わせるため、彼が語った言葉。
…この出典のURLは注にあるが、URL先にソレっぽい一文は見つからなかった。お題の「Real Artists Ship」からの意訳? (本当の芸術家魂、と取れるし)
これも、わたしが落ち込んでいた穴。神話の反例がいちいち的を射ていて面白い。何度聞いても笑えるのは、NASAの火星探索プロジェクトの失敗例(笑っちゃダメなんだが)。
3億ドルと10年かけた火星探索船オービターは、1999年9月23日に周回軌道を離れ、火星表面に突っ込んでお陀仏となった。なぜか? 軌道への進入角度が誤っていたから。なぜか? メートル法で設計された仕様に、ヤード・ポンド法から換算するのを忘れていたから。
ヤード・ポンド法に限らず、QWERTY配列、HTMLから、「優秀さ」のパラドックスを読みといている。
目からウロコ。言われてみれば「あたりまえ」に気づいていなかった。チカラを込めるのは、解決策の探求ではなく、問題の定義だ。「ハンマーを握ると全てが釘に見える」のと一緒に、次の警句を覚えておかないと。
電球、スプレッドシート、Palm といった身近な事例を挙げて、「いかに問題をとらえるか」の重要性を強調する。確かに。間違った問題の正しい解答は、正しい問題の誤った解答よりも、たちが悪い。
原爆だろうなー、と読み進めたらビンゴ!だった。ただしもっと遡って、「飛行機」というイノベーションから斬り込んでいる。ライト兄弟はドレスデンの爆撃なぞ思いも及ばないだろう。いわんや、2001.9.11にニューヨークで行われた、極めてイノベーショナルな飛行機の使い方をや。
プロメテウスの火をはじめとし、DDT、自動車、パーソナルコンピュータ、携帯電話の「光と影」のそれぞれの側面を採りあげている。テクノロジーは、すべてのものを例外なく加速していく。良いことと悪いことの評価を置きざりにして。
巻末に参考文献として、イノベーション関連の書籍リストが山のようにある。嬉しいことに、著者独自のやり方で採点づけられている。最高得点は82ポイント「イノベーションと企業家精神」(P.F.ドラッカー)だそうな。ドラッカー本は取り憑かれているトコなので、読むベ。
そうそう、オライリーでハードカバーなのは珍しい。サンプルは[ここ]で読める。また、青木靖さんとこで、「イノベーションの神話」の著者Scott Berkunが10の疑問に答えるが翻訳されているので、あわせて読みたい。
サイアクの読後感といっても、人によりけり。あまりのXXX描写に、読みながら吐いたのもそうだし、予想外の鬱展開に「読まなきゃよかった」と激しく後悔するのもあり。もう大人なのに、怖くてオシッコちびっちゃったなんて、サイコーですな。
「トラウマになった」「しばらく何も手につかなくなった」「価値観が変わった」という形容詞が適当だが、ポイントは、「読まなければよかった」という後悔。
知らなければよかった、トラウマになった、何も手につかなくなった、価値観が破壊されたといった、読んだという記憶ごと抹消したくなるようなものこそ、極上の劇薬小説といえる。
そう、読書は毒書。あらゆる小説には、多かれ少なかれ「毒」を含んでる。だから、クスリのように効く人もいるし、微量でも猛毒にもなる人もいる。
毒なのか薬なのか、要は量。小説に「癒し」だの「感動」だの「泣ける」なんて、くだらねぇ。そんなうんこは捨て置いて、猛毒を有している「これはきけん」という劇薬小説を、喰らおう。
「はてな」にも質問を立てておいたので、そちらから回答するとポイントをお渡しすることができる。はてなidがない人は、コメント欄で教えてくださいませ。
ただし、読んだらハズレだった、は該当しないので御注意を。いわゆる「壁投げ本」のこと。あまりのくだらなさに「読んだことを後悔した小説」は、対象外とします。
ちなみに、これまでの経緯は、劇薬小説を探せ【まとめ】をどうぞ。はてなでオススメいただいたものを読んで→フィードバックを繰り返してきた。現在の劇薬小説ランキングは、以下のとおり。ぬる臭いイマドキ小説に飽きたら、どうぞ。いい毒書になるだろうが、ジコセキニンで、どうぞ。
読む地獄。人間なんて、糞袋。エロくてグロくて血みどろで、腐肉とウジ虫たっぷりの、酸っぱい胃液と激しい勃起に悩まされる。
いろいろ読んできたつもりだけれど、これほど鬼畜劣情な小説は、ない。スプラッター小説なら、クライヴ・バーカー「血の本」シリーズや、綾辻行人「殺人鬼」でおなかいっぱいだよー、と思っていたが、本書はゆうゆうとK点を超えて臓腑に刺さる…
「これはひどい」と「これはすごい」の両方の賛辞を贈る。さらに、これ読んで女陰を直視できなくなった。この強迫観念は、既視感覚を伴いながらトラウマ化する
なまぐさい臭いが漂ってくる。文体と描写と(脳にうかぶ)ビジュアル映像が濃密に絡み合っていて、呼吸を忘れて読みふける。血しぶくシーンや、兄妹の近親相姦だけがなまぐさいのではない。男を求めて濡れて白くひかっている女陰の臭いがハッキリと嗅ぎ取れるんだ。そして、黒々とした茂みの中に鼻を近づけると、びっしりと詰まって蠢いている蛆虫が見えてくる寸法だ。
ペドフィリアの実態。エログロは無し。残虐シーンも無し。にもかかわらず、読みながら嘔吐するトコもあった。ラストは絶望感でいっぱいに。
「小さな子どもと仲良くなること」を生涯の目標にしている男たちがいる。小さな体を自由にしたい欲望を抱いている。バレると糾弾されることを承知しているが故に、ひた隠しにし、表面上は普通の生活を送っている。男たちは、これは「嗜好」の一つだと考えている…
読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験レベルまで沁み渡った。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。
陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。
「エロスは黒い神なのです」。たとえば、生きのいいタコがうじゃうじゃ蠢く水槽に少女(13歳処女)を投げ込んで、体中に貼り付かせる。タコとスミまみれの彼女(顔にもタコべったり)を犯す→鮮血とスミと白い肌のコントラスト。その後、ブルドックに獣姦。終わったらカニの餌。
食糞飲尿あたりまえ、悪趣味、倒錯、陵辱、苦痛、加虐性欲の極限。大切なものをいちばん残忍なやり方で破壊する、性の饗宴というよりも、むしろ性の狂宴。
愛し合う男女はセックスの際、尿をかけあうという誤った刷りこみのおかげで、変態あつかいされますた。余談だが、かわいい女の子が顔まっかにしておもらしするエロマンガの最高峰はぢたま某「聖なる行水」。「目玉」に辟易したらどうぞ。
こわい本とはこういうもの。小説読んでて、久しぶりに「もうヤメテ」体験をした。ラストに説明を求める人は、その禍禍しい終わり方に読後感サイアク気分をたっぷりと味わえるだろう。
グロや残虐シーンはあるけどたかが知れてる(これは1978年の作品だぜ!)。グロや残虐だから怖いのではない。人は「分からない」ものに恐怖する。しかも、生きている人間が一番恐ろしい。「分からない」ものへの説明が無いまま、読者は本能的に理解する、「これに違いない」と。そして、それが正しいことを知りつつ、そうならないことを祈るような気持ちで読み進める、真ッ黒なラストに向かって。
ストレートな劇薬、究極的にエログロバイオレンス、かつ下品。二人の外科医で交わされるブラックトークは黒い笑いを、後半加わる外科部長のスプラッターな性的倒錯っぷりは紅い笑いを誘う。おっぱい揉むのに、乳房を切開して、表皮の下から直接モミモミするところが素敵だッ。洗練された下品さをあじわうべし。
小説仕立てのギャルゲ、ただし最後は「バッド・エンド」しかない…いいえ、これはいまあなたの頭に浮かんだ「よくある意外な結末」ではない、本当の意味でのBAD END。
均衡がゆらいでいる「壊れた世界」のほうがまだマシ。それでもお話が進むから。このラストは「動かない」ところが着地点。よくある話なら死や狂気をもってくるが、ちがう。どこにも進まないし、何かが流れ出ることもない日常。常に1つしかない選択肢を選び続びとり、世界はそこで完結する。出口なし。
つよい憎しみは口いっぱいに広がる。人を真剣に憎んだとき、自分の感情のあまりにも強烈さに慄くことだろう。キングショーは追い詰められながら「人を憎む」という自身感情に苛まれる。どうすることもできないところへ追い込まれる(追い込む?)プロセスを、複眼的に追いかける。もちろん読み手は、なんにもできない、なぁんにも。
さて、「こんだけぇ?」という声が聞こえるので、以下に選外となった作品を挙げる。どれも「はてな : 劇薬小説を教えてください」で教えていただいた良作ばかり。
グロは皆無。血糊や臓物の代わりに人の心のグロさを存分に味わえる。収録作の一つ「疫病船」は口の中がムズムズする一方で、人の厭らしさが滲み出るダブルのエグさ。「水底の祭り」の屍蝋のエピソードは、水底をぐるぐる回る白い女体が脳に焼き付いて離れなくなだろう。
嫁さんに「後味の悪い読後感の小説って何かある?」と訊いたら返ってきた一冊。さすが俺嫁、読後感はでんぐり返ったイヤな気分。
まず設定がナイス。昔は炭田の採掘基地で、今は廃墟化した孤島が舞台。そこに修道会のつくった矯正施設がある。売春、盗み、恐喝の非行を重ね、幼くして性の悦楽を知った少女たちが集められる。
事故で何人か死んだはずなのに全員いる、少女たちの不気味な儀式、食い違う発言、姉の記憶…イヤな仕掛けがたくさんあり、読み手の疑問と不安がどんどんふくらんでくる。悪夢に引き込まれるように先へ先へと進んでいって、ラスト。こいつはまいった。
鬼畜ポイントは3つある。小説なのに妙にリアルで、フィクションなのに憤りを感じる。8歳で売られた少女→売春宿→HIV感染→AIDS発症→ゴミ捨場に棄てられる→故郷へ→両親困惑&村八分→監禁&放置プレイ→蟻にたかられる(まだ生きている)→父親がガソリンかけて焼殺
ドイツ夫婦が少年を買いにくる→お目当ての子はホルモン剤の打ちすぎ→全身から血を噴出して死亡→男衒「仕方ない、他の奴をあてがっておけ」→ドイツ夫婦「いやぁ、この子もカワイイね」とお持ち帰り
日本人母「息子の心臓病のドナーを待ってられない」→ブローカー「4,000万でいかがっすか」→とあるNGO「生きた子から心臓を移植することになるッ」→日本人母「ウチの息子に死ねというのですかッ」
セックスとバイオレンスを徹底的に書き尽くしているにも関わらず、テーマは「家族」。血と骨という言葉は、コリアンにとって特別な意味がある。朝鮮の巫女の歌の中に、「血は母より受け継ぎ、骨は父より受け継ぐ」という一節がある。朝鮮の父親は息子に対し、「おまえはわしの骨(クワン)だ」という。それは、血もまた骨によって創られることを前提にしているからだ。土葬された死者の血肉は腐り果てようとも骨だけは残るという意味がこめられている。血は水よりも濃いというが、骨は血より濃いのだ。
ハルヒで入った人は、本書で絶望する。「谷川+のいぢ」でハルヒのつもりで読むと地雷なので要注意。ハルヒが壮大なトートロジーなら、本書は絶望というシステムの話。
ラノベ読者は「物語の消費者」。キャラやストーリーを効率よく吸収するためにページをめくる。けど、これ、ラノベか? 表紙や序盤の「不思議ちゃん+萌エロ」を期待して読むと、ラノベというフォーマットを突き破って唐突に残虐化する鬱展開に仰天する。感情移入してると心が痛い痛い。
ラノベ続き。ラノベって「ライトノベル」なんだよなー、と読み始めると強烈なボディブローを叩き込まれるのがある。これはその一つで、ヘヴィノベルやね。
友達がバラバラにされて積まれているのを、女の子が見つけるまでの話。ラストでどうなるかは最初のページに書いてある。理不尽なセカイに無力なワタシ。オトナになるためには、子どもを生きのびなければならない。
着地点が分かっていて、そこへの過程を綿密にたどるかと思いきや、そうではない。なぜそんなことになってしまったのかは説明されていない。「百合小説の傑作」という誰かの誉め言葉と表紙の萌え絵に吸い寄せられたのが運の尽き。予備知識ゼロで読むと酷いショックを受けるかもしれない。
「もう一つの十五少年漂流記」との評で読むと撃たれる。少年達が島に漂着するところ、自活を余儀なくされるところまでは一緒だが、そこから先は、「さもありなん」という本能が支配する展開。ニンゲンなんて、ララ〜ラ、ラララ、ラ〜ラ〜ってやつ。極限状態の中での秩序と破壊の話。壊れプロセスが読みどころ。
この小説ほどネタバレを心配せずに紹介できる。なぜなら、冒頭で全てを明かしているから。最初の2ページで殺人の動機、殺害方法、犠牲者、共犯者を記している。一行目は、こうだ。
じゃぁ、なぜ「読み書きが出来なかった」から、一家皆殺しにしたのか、というのがこの話なんだ。納得できる異常性に肝っ玉を震え上がらせながら読むべし。
少女のふるまいって、奇矯な一端もあるので、そのコが本当に狂っているのか正気なのか分からなくなる。狂っているほうがよかったのかも? と思えるが、正気/狂気は読み人次第ってぇやつ。
由緒ある屋敷で暮らす姉妹の話。叔父さんやいとこも出てくるが、中心は美少女姉妹。姉ちゃんはハタチ超えているから少女というにはアレかもしれないが、2年前の惨劇の後、引きこもりになってしまったので、深窓の美女として脳内補完しよう。
読了(=着火)してからどこを向いてもこの構図に見えてくる。ポイントは「自分で選んだ」こと。選んだ結果がいかなるものであれ、選んだことには変わりはない。選ぶ方法や前提に文句を言っても、すでに「選んだ」事実は動かせない。ラストの一行は分かっていたが、その直前の叫びが他人事じゃない。
プロット一発勝負なら大傑作。ただし、書いてる途中に行き倒れてしまっているもったいない作品。名は体、「国家が自殺ほう助する世界」の話。リアルな日本が描かれている。ネットよくあるセリフ「死ねば?」を執拗に拡大解釈し、「使えない国民を自殺まで誘導する」国家プロジェクトまで昇華させている。そのクセ内情は一切明かさない。ここまでは三重マル。
この小説をどういう風に読むのが効果的か考え込んでしまう。「歪んだ純愛の形」も「狂気に燃える情炎」もマチガイではないのだが、話者の狂気まで想像が閃いてしまうのは気のせい? 裏読みすぎ?
ハタチの娘が拉致され、調教され、肉奴隷となった7年間の話。これが「小説」ではなくノンフィクションであるところがスゴい。誘拐した男が自作した箱に「監禁」される。
「もう誰とも干渉したりされたりしたくない」とダンボール箱を被る「箱男」(安部公房)は、さしずめポータブルな引きこもりだろうが、こっちの「箱」は、洗脳のための道具。外界の情報を徹底的に遮断することで容易に精神を壊すことができる。
優れた(≠良い)小説は読む人に強い力を与える。それがポジティブなら問題ないが、ネガティブにドライブされるときが恐ろしい。ほとんどの人はネガティブな小説なんて無いと思っていて、ほとんどの人は劇薬小説なんて知らずに生きていく。ときに深淵を覗き込むために劇薬を「少量」手にするのもよいが、読みすぎ注意。我が家に猟銃を持った殺人犯が立てこもり、妻・友貴子が人質にされた。警察とワイドショーのカメラに包囲され、「公然の密室」と化したマイホーム!末永純一は妻を無事に救出するため、警察を出し抜き犯人と交渉を始める。はたして純一は犯人に王手(チェックメイト)をかけることができるのか?この入口で「あっと驚くファイナルストライク」を目指す。「まえがき」あたりで叙述系であることは判明するが、劇薬なトコはソコではないことに留意して。
密室消失トリックとしては陳腐かもしれないが、それはこれをパクった小説のせい。伏線の秀逸さ、設定の巧妙さ、展開の旨さ、全てこれらは、読み終えてから気づく。ああ、そういうことだったのね、と。大きなナゾの傍らにある小さなトリックは気づかれにくい。犯人は、「意外な」人物でなければならない。ナゾは、全てが終わった後に明かされなければならない。
ずばり変態小説。「ヘンタイがでてきて読後感サイアク」との触れ込みで読んだが、勧めてくれた方は団鬼六を読んでないな。「溝鼠」をヘンタイというならば「花と蛇」をどうぞ。ヘンタイ萌えできますぞ。グロを抜いたらフランス書院にすら負ける。ただし、「そういうの」を身構えずに読んだ方はかわいそうかも。肛虐や飲尿が普通にあるし。
暗黒青春小説。読みながら幾度も「それなんてエロゲ?」という質問を独りごつ。しかし、(当然のことながら)濡れ場がないので期待して読んで壁投げしないように。
文体がイヤらしい。まとい付くような書き方で、描写文が沢山あるにもかかわらず、実感がわかない。例えば、「激痛が走った」とあっても、まるで現実感がない。著者はどう痛いのかを想像して書くよりも、キャラを痛めつけるシーンだからそう書いているだけ。そうした意味でもテキスト系アドベンチャーゲームを彷彿とさせられる。
まずハードコア。強姦、獣姦、近親相姦。死姦、幼姦、阿鼻叫喚。嫐(女男女)も嬲(男女男)もある。まんぐり、八艘渡、緊縄、ロリペドなんでもござれ。ハードSM、食糞や飲尿まであれば百花繚乱だが、さすがにそこまではいかんかった。
スプラッタも負けてない。一撃で顔の半分がエグりとられたり、食い散らかされ脊髄と下半身しか残っていなかったり、血まみれの親の前で娘(10歳ぐらい?)を○○したり、交合中に首チョンパだったり。ナイフ、銃、斧、チョーキング…と殺人手段もなんでもござれ(爆殺と薬殺がなかった)。
じゃぁただのエログロバイオレンスかというとそうでもない。めちゃめちゃなストーリーだがこれがオモシロー。目を閉じアクセル踏みっぱなしの一本道だとアタリをつけていると、ラストでとんでもないオチが待っている。
常態から異常事態へ。このお話を「狂気」の一言で片付けられたらどんなに嬉しいことか。しかし、どこも狂ってないのがおそろしい。だいたいヒトを「正気」と「狂気」の2色で塗り分けようとすること自体がおかしい。正気の中にも狂気を宿し、狂っていても一貫性を見出そうとするのが、ヒトだ。
これは、その変移を味わう小説。「狂う」ということはどういうことかを、一冊かかって知ることができるカモ。
【ネコ好き厳禁】子猫を素手で解体する場面が出てくる。扼殺した後、両手で裂くようにバラしているが、子どもの力ではムリ。さらに血抜きもせずに一晩放っておいて、翌日食べている。凝結した血がカチンカチンになって齧りとれなくなるのに。【ネコ好き厳禁】
少年のひと夏の冒険譚なのかと思いきや、予想外どころか場外を越えてトンでもないところまで連れて行かれる。妙にリアルな「いじめ」とその結末が恐ろしい…メインストリームよりも、ね。
怨念にまで発展する執拗な自意識へのこだわりは、あっぱれかも。自意識が「過剰」を超えるとどうなるか、この実験は面白い。「地下室」とは自意識のメタファーなんだなー、こんな奴いた(いる)よなー、ネットに多いよなー、と呟きながら読む。
自意識の重さに悩んだことは、誰でもあるだろう(特に思春期)。屈託なく振舞う友人を羨んだり、根に持つ自分を恥じたかもしれない。そんなヒリヒリ感覚を思い出す一冊。
タイトルからして不吉。書影も陰陰と拒絶オーラを発散している、という第一印象を裏切らない。劇薬小説として紹介されて読んだが、こいつは「厭本」ですな。つまり、読んでイヤ〜な気にさせる短編集。新聞の三面記事に並ぶ変死、横死、一家心中、夫婦心中が「結」ならば、そいつを起承転結と読まされている感じ。それが、本書。
そうした思惑を粉砕してくれるのがこれ。突然世界が崩壊して、生き残ったのは男だけ(女は全滅、原因不明)。ウホッ、男だらけのジ・エンド・オブ・ザ・ワールドというやつ。「世界が終わる」はネタに困ったときの常套手法かもしれんが、だからといって女を殺すな、女を!(←この時点で、潜在読者の半分を作者自ら抹消している)。
例えば、国語の教科書にある「夏の葬列」(山川方夫)。「戦争の悲惨さ」を伝えるため教科書に採録されたらしいが、激しく勘違いしてる。これは"ミステリ"として読まないと危険。これをノーガードで読んでしまい、強烈なラストで琴線が焼き切れてしまった中学生は少なくないだろう。
中学んときに読んだらトラウマ本になってたかも。罪深いのは、この作品の紹介→「だれかを好きになった日に読む本」(小学中級から)であること。初恋の回想で始まるこの作品、たしかに恋愛譚かもしれないが、そのつもりで読んだら酷い目に遭う。紹介者は"大人"なんだろうがデリカシーなさすぎ…というか悪意すら感じられる。小中学生は"当事者"だろうがッ。
「セブン・ルーム」が劇薬と訊いたが…うーん、ふつうの短編やね。乙一がスキ!な方は面白い本が沢山あって幸せですねっ ← 乙一ファンにかなり失礼なことを書いてしまいました、ごめんなさい。
夢野といえば「ドグラ・マグラ」を劇薬扱いしたくなるが、いかんせんあれは○○○イの世界。ラストの手紙をどう読むかで戦慄できる。初読のときは、(作者の意図どおり)1回目の手紙だと読んだが、あれを「最後の手紙」と故意に誤読すると、もっと恐ろしい妄想が広がるひろがる…
推理小説の形を取っている、悪夢のような作品。けどこれを面白く読んでしまったわたしは既に狂っているのかも。
帯のコピー「完全無欠、逃げ場無し」に偽りのない、恐ろしい小説なり。この小説の底本であるS.キング「呪われた町」よりも面白し。読後感は「怖かった!面白かった!ボリュームありすぎで人に勧められねぇ」。
日本国辱もののSM小説、というかSFなのか? 日本人をトコトン貶めているから話題になったのか、その内容のぶっ飛び加減に当時の読者がのけぞったのかは分からないが、奇書中の奇書と呼ばれる。
即効性は低いかもしれませんが、読後のヘビー感がだらだらと長引く(凹む)作品だと思います。叙事詩という形態と、緻密な伏線が生み出す最悪な読後感です──との評だが、確かにそうかも。ミステリとして夢中になって読んだあと、エア・ポケットに落ち込んだような喪失感に浸れる。
欲望をストレートに行動にうつす「彼女」をある意味うらやましく思ったり。映画も秀逸で、大竹しのぶの台詞「乳しゃぶれ?」は絶品っす。「黒い家」にハマるのなら、ジャック・ケッチャムやジム・トンプスンをオススメ。
「トム・ソーヤー」でしかトウェインを読んだことがない人は、幸せかも。少年(たぶん中身は○○)の素朴な疑問と行動には絶句するはず。
これは、怖い。お話のデキが非常にいい+怖い+「あれ」が生理的にイヤ、と3連発。怖い話の基本はラヴクラフトだと真顔で言える。
オーウェルは「1984」「動物農場」「カタロニア讃歌」を読みました。「1984」は映画も良い。全体主義なら、同時期に公開された「未来世紀ブラジル」と比較してみると面白いかも(「1984」が陰で「ブラジル」が陽)。ラストはどちらも鬱になることを請合う。小説「1984」を最悪というならば、ハックスリー「すばらしい新世界」なんぞはいかが?
「1984」の救いのないラストの代わりに、今、この国に起こっていることと酷似していることに気がついてガクゼンとして、いやああぁぁぁぁって思うかもしれませんな。
「慟哭」はダメ。いかに読ませる筆力があり、心理描写も的確で、展開もツボをおさえていても、「 絶 対 に や っ て は い け な い こ と 」を堂々とメインに持っていった時点で、彼の作品は一切読まない(いや、面白かったんだけどね)。読者を裏切るような作家は、いずれ、読者が裏切るようになるから。あ、でも読後感サイアクは合ってるね。
プロレタリア文学の劇薬小説。一呼吸で読める短さが、そのまま肺腑をえぐる衝撃と化す。DS文学全集で読んだ。
猟奇シーンが売り物だが、ラストで本当に驚かされた。「かまいたち」で入った人は例外なくビビる or/and 最初から読み始めるだろう。
サブタイトルは”アイルランドの貧家の子女たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会的に有用ならしめんとする方法についての私案”。当時、アイルランドで起こっていた食料不足、貧困、人口過剰を一挙に解決する提案が詳細に書かれてる。
これが元祖かもしれないけれど、その亜流・コピーをさんざん読んできたので、笑いどころを探しながら読んでしまった。このオチが始めての人には、衝撃的な劇薬となるだろう。
「劇薬小説」として話題になった奴は、だいたい網羅したつもりだが、まだまだ沢山あるだろう。「これは!」というのがあれば、いつでもオススメしてほしい。リミッター解除の劇薬本ランキング+レビュ → [参照]
「ローマ人の物語」は、ムラがある『小説』だが、さすがはプロの想像力、戦術と戦闘は見てきたように書いてある。同様に、本書は見てきたように描いてある。さらに史跡・遺跡の写真も盛りだくさんで、あわせてよむと効果絶大。
既に「ローマ人の物語ガイドブック」が出ているが、美術品と遺跡をめぐる観光ガイドに過ぎない。いっぽう本書は、戦史に特化したビジュアルブックとして使える。戦略・戦術・戦闘の全てにおいて、ローマ兵がどうやって戦ったのかが「見える化」されている。
前列にずらり並んだ象部隊を、スキピオがどうあしらったのか、ヤマアラシのような長槍のマケドニア兵とどうやって闘ったのか、塩野氏の文の冴えもあるが、絵を見たほうが早い。
また、「ローマ人」には史跡の現場での印象も述べられているが、不思議なことに「サイズ」の描写がない。本書を見れば一発で分かる。戦いの舞台がいかに広大なものであるか、写真を見たほうが早い。これから「ローマ人」を読む方は、ぜひ傍らに置いておきたい。既読の方は「ああ、あれがこれなのかッ」と何度も頷くだろう。
たとえば、ファランクス(マケドニア式の長槍密集方式)を、どうやって打ち破るかのプロセスが非常に興味深い。それこそハリネズミさながらの長槍が穂先をそろえて突っ込んできたら勝ち目がない。だから、ローマ兵は短槍を使って切り崩すわけなんだが… これは文で説明するよりは、Wikipediaのファランクスの画像[マケドニア式のファランクス]を見たほうがいい。まともにぶつかり合ったら文字通り串刺しになるのを、ローマ兵は投槍を使ってスキ間をつくり、さらに地面のうねりによる戦列の乱れを突く。お見事としかいいようのないプロセスは、本書の本書のp.51の図でハッキリと分かる。
次に興味深いのは、ガリア戦記の時代。カエサルvsヴェルチンゲトリクスの最終決戦の舞台、アレシア攻囲戦(BC52)が紹介されている。現在のアレシアの写真がスゴい。フランスのアリーズ・サント・レーヌを上空から撮影した写真だ。平野部に出現した台地の船のようだ。これを完全包囲したカエサルはスゴいというより、アホかといいたいぐらいの、巨大な台地なり。このデカさは、文や略図で見ても分からん。写真だと一発で見える。
いちばん驚いたのが、ユダヤvsローマの決戦地、マサダの要塞(AD73)。「難攻不落」と形容されているが、写真を見ればすぐ分かる、「これはムリ」だと。茫茫たる岩砂漠に、ニョキッと戦艦大和の艦橋が突き出ているような場所が聖地。これを攻略するためにローマ兵が作った土手がまたスゴい。ローマ兵はつるはしで戦う。当時の工兵技術の粋が「見える」。2000年前の激戦をヘリコプターで上空から見ているようだ。
閻魔あいの手引きで、二つ目の穴、つまり自分の墓穴を覗きこむのが「地獄少女」。ひるがえって「少女地獄」は、一つ目の穴に自らを投ずる少女たちのオムニバス。怖いというより、哀しい。
三編の独立した物語だが、いちばん哀しいのは「火星の女」だな。名門女子高で見つかった黒焦少女の屍体が、発端であり終端であったという話。
つかみからして驚愕の事件なんだが、裏側にはもっとおぞましい真実が。そいつを読み手に知らせる仕掛けがいちいち上手い。手紙文ってこうやって使えるんだーという見本のようなもの。でもって、手紙だからいちばん知りたい肝心なトコは書いてない。推して知るべしってやつなんだが考えたくねぇぇぇ!
最初の作品「何んでも無い」は、はじめの不協和音がだんだん大きくなる様子がイヤらしい。可憐な少女の虚言癖をめぐる話といえば聞こえはいいが、緊張感のある描写が映画的。特に、ウソがホントになるさまと、ウソが暴かれるシーンは、ヒッチコックお得意のクローズアップ・カメラで「読む」カンジ(「鳥」とか「北北西」のアレ。こないだの「バイオハザード」にもあった)。
嘘をリアルの一部として取り込み、嘘を支えるために嘘をつく。虚構+現実の世界に生きた少女の果ては… わたしが明かさなくても知れよう。
次の「殺人リレー」は、もどかしさのあまり掻きむしりたくなる「方法」で読まされる。つまり、殺人鬼(かもしれない)男にとり憑かれた娘の話を「手紙で」読まされるわけだ。なんせ手紙だから、どんなに切羽つまったことがあっても何もできない。しかも、その手紙を手にする娘の背後から読むような立場なので、輪をかけてもどかしくなる。「志村ーうしろー」とVTRに向かって言う感覚。
三作品ともカタルシスはあれど、分かった後は苦い読後感。「火星の女」がちょっとだけ「ふたりは百合きゅあ」なのが救いか。読むと発狂する「ドグラ・マグラ」のウォーミングアップにちょうどいい。文庫版は上の通りおどろおどろしいが、DS文学全集で読んだ。
最近、シレン専用機としてクリムゾンブラックを新調したんだが、今じゃ文学全集専用マッスィーンと化している。デジカメ越しに読むような、にじんだ文字にも慣れた。手にした感覚が文庫本と一緒というのが所有欲望を充足させる。DS文学全集そのもののレビューは、[ここ]。
「鬼たちが冥土から溢れてこの世界に出現して以来、はや一ヶ月になる」から始まる、読む地獄。人間なんて、糞袋。まさに劇物。まさに毒書。バカバカしさを暴力エロスでねじ伏せる、奇書というより狂書。
こんなにエロくてグロくて血みどろで、腐肉とウジ虫たっぷりの、酸っぱい胃液と激しい勃起に悩まされたやつは、初めて。オススメいただいたantipopさん、nananasuさん、ありがとうございます。
いろいろ読んできたつもりだけれど、これほど鬼畜劣情な小説は、ない。スプラッター小説なら、クライヴ・バーカー「血の本」シリーズや、綾辻行人「殺人鬼」でおなかいっぱいだよー、と思っていたが、本書はゆうゆうとK点を超えて臓腑に刺さる。
じゃぁどんな話なのかというと―― かいつまむより次を読んでくれ。あ、苦手な人は読まないほうが吉。怪鳥めいた叫びが、口から洩れた。だが洋子の耳には、自分の悲鳴も聞こえなかった。激痛に、意識が遠のいていた。徒労にも全身を踏んばってしまう。そのせいで顔が上向いた。口と目が、大きく開いた。腰が杭を飲み込む動きを見せた。猟鬼が両足首をひっぱり、その動きを加速する。洋子は反射的に括約筋を絞めていた。それがいっそうの激痛をもたらした。括約筋もすぐに裂け、使い物にならなくなった。体重のせいで杭が突き入る自然な動きに、身をゆだねるのみ。杭の侵入に合わせて鈍痛が体内を揺する。ブツン、ブツンという異様な震動がこみあげてくる。「あは、あはは」痙攣的な笑いだった。内臓の破れる反動で笑いの声質が微妙に変化する。杭を飲みこむようすを、洋子は全身でばかりなく、声でまで表現しているのだ。
ええと、何されてるのかというと、地面から突きでた、とがった杭の上に、洋子さんが肛門から串刺しにされているのだ。もちろん若い女の体重じゃちゃんと入らないから、鬼が、彼女の両足をつかんで引き下ろす。洋子さんは既に発狂しているので、「肛門ではなく膣口に刺して」と腰をグラインドさせるが叶わず、残念無念。
んで、うまい具合に、肛門→直腸→横隔膜→咽喉、と順々につき破って、最後は口から先端が出てくる。「ブツン、ブツン」は、横隔膜の破れる音なんだって(ちと古いが、映画「食人族」のアレね)。「食人族」と違うのは、一本に一人ではなく、先端が出てきたら、その上に次の人を肛門から… を繰り返しているところ。
さらに、さっきまで洋子さんとヤりまくっていた彼を通り抜けた杭の上に彼女がまたがっている。だから、彼の死に際は壮烈な眺めだよ。なんせ自分の口から突き出た杭に彼女の肛門が迫ってくるわけなんだから。そして、彼女の内臓液を口いっぱい頬張りながら絶命していくわけだから。もちろん彼の「下の人」もいるにはいるが、ずいぶん前なので、ぐじゃぐじゃのデロデロに腐った人塊てんこもりになっている。
乱歩、澁澤、サド、筒井と、ジョージ・ロメロとダリオ・アルジェントの作品をこねくり回し・突き混ぜて、出てきた赤黒い何かを煮込んだものを飲み込む感覚。世界設定と不条理さは、筒井「死にかた」そっくり。しかし、本書のほうが読者を気分悪くさせようとするサービス精神(?)旺盛なので、よりオエッて気分を口一杯に味わえるよ!(筒井のような"サゲ"を求めるなかれ)
というわけで、劇薬小説No.1は「獣儀式」の「狂鬼降臨」にけってーい(voice:夢原のぞみ)。ランキングに変動あり、精神的にヤヴァいものから、胃の腑にグッとくるものまで揃ってきた。狂鬼降臨(友成純一) 所収:「獣儀式」
きみとぼくの壊れた世界(西尾維新) このランキングは[劇薬小説を探せ]が元ネタ。「はてな」で質問して、教えていただいたオススメを次々と毒書する企画。最初のわたしのワーストランキングが、みなさんのおかげでどんどん塗り変えられていくのが嬉しい。はてなの住民は、なんつー恐ろしい本を読んでいるんだ…
「感動する」「爽やかな」「泣ける」小説なんて、クソくらえ。ヌルさに飽いたら、毒成分の高いやつを摂取しよう、ただし、ジコセキニンでね。このランキングは猛毒の類なので、避け本リストとして利用するのもいいかも。
耳に痛い、目にしみる。「本はゆっくり読め、速読なんて読書じゃない」、おっしゃる通りでございます。でもね、速く読める人はゆっくりでも読めるんだけど。そんなツッコミ入れながらイッキ読み。
このごろハヤリの速読に、真ッ向勝負をかけてくる。立花隆や福田和也のような人が、毎日めまぐるしく本を読んでいるが、そんなものは「読書」じゃないとタンカを切る。情報を摂取して排泄しているだけだ、人生の無駄遣いだと言い張る。
だね。字面を追っかけ拾ってるだけで、そんなものは読書じゃない。そういう風に読まなければならないときもあるが、それは本にとっても読み手にとっても不幸なことだ―― と言いたかったのだろう。
ここで終わればナットクなのに、古今東西の「遅読派」を探し出しては「ホレ見たことか」と騒ぐのが煩い。
たとえば、エミール・ファゲの「読書術」に、「ゆっくりした読書に耐えられない書物は、そもそも読むべきではない」という一文を見つけ、立花と真逆だと狂喜する。あるいは、遠藤隆吉の「読書法」に、「濫読する人の目玉は乱れている」を傑作だと手を叩く。
なんだかなぁ、五十過ぎたオッサンが、西田幾太郎やアンドレ・ジイド、川上弘美まで出してきて、遅読を奨励するというよりは、速読・多読に反発する。オトナゲないっす。
さらに、「小説は速読に不向き」と立花自身が言っているにもかかわらず、小説を引き合いにしては速読をケナす。うっかり本書をゆっくり読むと、そんな論理破綻がよく見えて仕方がない。
そんな矛先が狂ったのか、立花隆を「書生の読みで社会に通用しない」としたり、遅読と速読を「ゾウの時間とネズミの時間」に喩えてみたりする。気持ちは分かるがヒガみに聞こえる。
恨み節をヤセ我慢に昇華させず、「勤め人になって、好きなだけ読めなくなって残念」とか、「立花や福田がやうらやましい」と素直になればいいのに。可愛くないッす。ゆっくり読みは、読了の山脈をいくつも築いてきた人が成せるワザ。さらに、速読ができる人は遅読もできるが、逆は不可であることに気づくべき。
むしろ、透けて見える著者の怨言はうっちゃって、反面教師としたい。つまり、本に合わせて読むスピードを意図的にコントロールするんだ。わたしの場合、小説は息せき切ってイッキ読みする癖がある、先が知りたいからね。用心用心。古典なんざゆっくり読みの極地だろうし、論文はまとまった時間を作って読むべきだろうな。
残人生で読める本が限られていることを意識すると、目の前の一冊とは、まさに一期一会であることが分かる。この秋は、アクセルベタ踏みの読書ではなく、セーフティ・リーディングを心がけてみるか。
安らかな心を得たいという方には、このお話は不向きです──と。 (clown-crown(仮)の虹色工房)

[ 170] わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
[引用サイト]  http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/



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