称さとは?

以下、栗原朋信氏の「日本から隋へ贈った国書」(『上代日本対外関係の研究』吉川弘文館 所収)に挙げられた、匈奴・蠕蠕・突厥の例を引きます。
これは、漢初の匈奴が強勢で、漢と匈奴が対等の礼で交渉していた頃の国書です。匈奴大単于も名を称さず、皇帝もまた匈奴大単于の名をよんでいないことがわかります。ところが、匈奴の勢いが衰えると、
【客礼を以って之を待し、単于の位をして諸侯王の上に在らしめ、賛謁するに臣と称して名のらしめず。】
つまり、臣と称するけれども、名は名乗らないという待遇に変るわけです。それでも諸侯王の上だというのですから、諸侯王は臣と称し、名も名乗るわけです。
この時の大突厥可汗の名は摂図で、「伊利倶廬設莫何始波羅(沙鉢略)」というのは称号です。大突厥可汗は名をいわず、大隋皇帝も大突厥可汗の名をよんでいません。この後、大突厥可汗は、自ら臣と称し、名(摂図)を名乗った上表文を贈るのですが、大隋皇帝は次のように扱います。
これは、臣と称するけれども名は名乗らない、つまり、匈奴の勢いが衰えた頃の漢・匈奴関係に当るわけです。このように、対等の場合はもちろん、たとえ格下でも、一般の臣下と区別する場合には、名を用いなかったのです。逆に言えば、名を名乗ったり、よばれたりするというのは、文字どおりの家臣並のあつかいなのです。
【倭王世子興、奕世に忠を載し、藩を外海に作し、化を稟し境を寧じ、恭く貢職を修め、新に邊業を嗣ぐ。】
「封國偏遠、作藩于外。...臣雖下愚、忝胤先緒...臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路...若以帝徳覆載、摧此彊敵...」(宋書倭国伝)
【封國は遠きに偏し、藩を外に作す。...臣は下愚と雖ども、忝くも先緒を胤ぎ...臣の亡考の濟、實に寇讎が、天路を壅塞するを忿り...若し帝徳を覆載するを以って、此の彊敵を摧き...】
これは、倭王武の上表文ですが、武は臣と称しています。そして、宋書に載った部分には武の名はありませんが、父の名(濟)を記しているところから見て、武自身も名を称していたとみていいでしょう。つまり、この頃までの倭王は、臣と称し、名前を名乗る態度(一般外臣)をとっているわけです。ところが、隋にいたってこの態度が一変します。
匈奴と漢の初期や、突厥と隋の初期の国書に酷似しております。これは、臣とも称さず名も名乗らない態度(対等国ないし不臣の朝貢国)です。そのため、
【帝は之を覧て悦ず、鴻臚卿に謂いて曰く『蠻夷の書の禮なき者あらば、復た以って聞する勿かれ。』】

[ 71] 東アジアの外交儀礼
[引用サイト]  http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/neko_1_higasiajia_gaikougirei.htm



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