観点とは?

この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針あるいはガイドラインの草案です。現時点ではまだ拘束力はありません。現在、内容に関してノートページで議論を行なっています。
日本中心にならないようには、ウィキペディア日本語版の執筆者や閲覧者の大部分が日本人であることによって、日本という局地に限られる事象が説明不足によって他の国でも一般の事象として扱われてしまう事態を避ける事を目的としています。
ウィキペディアは基本的方針として「中立的な観点」 (Neutral Point Of View、NPOV) を掲げており、その為中立性を保持した説明や言葉を置き換え又は付加する事で過誤を極力減らす事が可能だと考えています。
ウィキペディア日本語版の編纂に携わる執筆者及び閲覧者は、日本語話者とりわけ日本語が母語である日本人が大部分を占めており、収載される記事は日本文化を基調においた視点の記述になりがちです。利用者も日本語の記述には日本の事象を期待する場合が多いことが予測されますが、必ずしも日本国内のことだけを検索しているわけではありません。そのため記述内容が日本以外の国でも採用されている事象についてであるならば、日本での事柄に限らず他の国についても平等に配慮することが望ましく、その為に同じ記事の中に他の国や他の文化での例を広く併記する事が必要と言えます。 地域的、文化的に日本限定の事柄が世界での一般的な事柄として誤解されることは望ましくありません。しかし逆の事も言え、他の国では一般的であっても日本や局地でも一般的ではない事があり、それらが日本国内や該当しない局地でも一般的である様な記載は避けなければなりません。
また日本の文化と日本語は緊密な関係にあり、日本人によって書かれた小説、日本独特の言い回し、エッセイ、日本料理、日本開発物、サブカルチャー、伝記、解説等に併記される観察、日本の法規など、主に日本のものである事象については日本を中心とした記述をすることは必要なことです。それらに強制的に中立的な視点を与える事はこのガイドラインの目的とする所ではありません。対象とするものは一般的事象、時事的なものやニュース、各国に共通して用いられる用語、基盤分野などとし、それらの執筆に当たっては中立性を心掛けてください。
一つの事柄の既述を、一つの文化的観点から全てを網羅する事は現在の労力では不可能とも言えるため、現時点のウィキペディアでは言語間リンクを貼る事で日本国外の内容について補っているという側面があります。多言語間リンクは他の文化観の提供に役立ちますが、閲覧者には不親切であるといえます。他国での取り扱いについても述べる為に、他言語のウィキペディアからの翻訳に努めたり、様々な文献を当たる等を行い、出来る限り広い視点を提供することが望ましいでしょう。
執筆者は様々な閲覧者の立場に立つ様に心掛けたり、自分以外の方に協力や観察を頼むなど、広い視野や情報を出来る限り提供するように心掛けてください。
世界的にみられる事象をその事に触れず局地の事象のみを描写している場合、また局地の観点からのみ説明されている場合は、観点の偏りや誤解を生みやすい表現である為修正や加筆を行う事が望ましいといえます。また国際的な行事や褒章であっても全体の功績を表記せず、一部の功績をリストアップする事は刹那的であっても誤解を与える場合があります。全体項を作成し、一部の情報を理由を明確に付してピックアップする事が望ましいでしょう。
しかし、最初から全てを網羅する事は不可能であり、できるところから加筆していくことが望ましい為、一時的に日本のことに偏るのは仕方ないといえます。またスタブ一般にも言える事ですが、不完全な状態を長く放置しておくことはあまり好ましいとは言えません。解決策としては、他に誘導を図る、編纂をより詳しい者に依頼する、確証が取れないものは書き込まない、噂や流言、流説、浮言などは(否定はせずとも)そうである事を明確にする、等が挙げられるでしょう。
日本人によって書かれた小説、エッセイ、日本の法規など日本文化の産物は日本を中心とした記述は避けられません。しかし一般事象について述べるとき、出来る限り平易で公平な観点で描写するのが望ましいといえるでしょう。
以下の表現は、時として日本の視点のみで描写されている場合に見られます。問題になりやすい表現と、その代替案を以下に示します。
世間では、一般的に → どの社会での情報かを明確にする。また学術内容に関する一般的と言う表現にも、分野によって変わる常識がある事に留意する必要がある。
以上の表現は、以降に続く接続詞によっては日本を排除した意味になってしまう恐れがあるため、変更する場合においては、元の文の意味を変えないよう気を付けてください。
「外国人」という言葉はどの国や視点からみた外国人なのか明確に記述するように努めてください。また「外国人」という語の指し示す範囲/定義は国や言語によって異なる場合があります。分かる範囲で明記してください。
「日本では〜が採用されている。また○の国では…が採用されており、×の国では…が採用されている。一方で−の方法を模索し検討する国も出てきている。」
世界的と言う表現は曖昧であり、誤解を招くものになりうる。また提供する情報を減らし意図した誘導を行う恐れがあるため使用は避けるのが望ましく、具体的な地域名や数字や例を挙げるのが良い。
また、徒列挙するだけでは紙面を消費するばかりで情報の検索がしにくくなる為、条項号を分けるなどの工夫を行ってください。
発祥の地はその事に触れ、出来る限り具体的に微に入り細に入り描写する事が望ましいのですが、労力的に不可能な場合があります。それを補うのが該当地以外の住民の執筆者が多い言語のウィキペディアであり、またそうあるべきです。ですから出来る限り原文内容を踏まえ、不足するところは補遺し、また自国の観点を兼ね備えた描写が望まれます。労力が割けるのならば、保持する者からのみでなく外から観測した同事象を併記すると、読者により一層広い視点を提供する事が出来るでしょう。
国際的なスポーツや賞などの功績を取り扱う際、全体の表記をすること無く一つの国だけに対して、明確な理由無く違う扱いをすることは好ましくありません。なるべく全体を列挙し、日本人の受賞者だけを列挙するようなことは避けるべきですが、日本人以外の場合に対する知識が不足していたり、すでにそのような項目が存在する場合は、体裁、項目だけでも他国の場合を設けるなどし、削除ではなく加筆で対応してください。情報は可能な限り偏向無く提供する事が第一優先ですが、加えて閲覧者の便宜を図り、情報を取捨した項を設けるなど価値の持つ編集をする事は歓迎されます。独立記事として「○○賞の日本人受賞者」のような項目を立ち上げ、更に詳細に記述するのも良いでしょう(Wikiepdiaの公式な基本方針、中立的な観点)。その場合、元記事の記述を削除したい場合は、以下の分割に関するガイドラインに従ってください。
バレンタインデーに女性が男性に義理チョコを送る習慣は現代日本社会特有のものであるが、日本特有のものであることに言及しないもの。
日本史を前提にしてしまう。例えば、「武田信玄は戦国時代の武将」としか記述されておらず、日本の戦国時代なのか中国の戦国時代なのかが分からないもの。
日本政府の主張を当然正しいと前提してしまう。例えば、「国後島は日本の北方領土」という主張は、この島を実効支配するロシア連邦が受け入れておらず、世界各国が承認していないないのに、「北方領土」と記述する。

[ 79] Wikipedia:日本中心にならないように - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB

この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。必要に応じて編集することは可能ですが、その変更はコミュニティーの合意を反映している必要があります。大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。
中立的な観点 (NPOV, Neutral Point Of View) はウィキペディアの根本的な方針のひとつです。これは、すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない、というものです。この方針は記事以外のテンプレート、ポータルなどにも適用されます。ウィキペディアの創始者ジミー・ウェールズ (Jimmy Wales) の言葉によれば、中立的な観点は「絶対的で交渉の余地のないもの」“absolute and non-negotiable” です。[1]
Wikipedia:中立的な観点はウィキペディアの記事における方針の三つのうちのひとつです。ほかの二つは検証可能性 (Verifiability) と独自の研究を含めない、です。ウィキペディアではこれらの方針を合わせて記事名前空間に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互補完的、議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。これらの方針はほかの二つと切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。
2.1.1 中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?
一般利用のための百科事典は、中立的な観点から編纂、収集された知識を集めたものです。百科事典の記事を書く際には、中立的な観点以外のどのような特定の立場をとることも、可能な限り明確に避けるべきです。
中立的な観点からは、意見や事実について、それを支持する者と批判する者とが共に合意できるように記述することを目指します。もちろん、両者の完全な合意は不可能です。この世界には、自分の見方を押し付けるための記述以外のどのような記述に対しても譲歩することのない人々もいます。我々にできることは、個別の点については見解が分かれていても、本質的に合理的な点で共通している人々の間での合意を目指すことだけです。
百科事典の記事では、執筆者にそういう確信があったとしても、営利企業は犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません。そのかわり、一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明し、それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。
百科事典の記事は、自由放任型の資本主義が最良の社会システムである、といった議論を展開するべきではありません。(ちなみにこれは私の信念なのですが。)そのかわり、記事ではそのような見方を持つ人々の議論を、それに賛同しない人々の議論と併せて紹介するべきです。
おそらく、ある記述を百科事典向きにあつらえる簡単な方法は、ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くことでしょう。
もし上の声明を読んで私の考えが主観主義か集団主義か帝国主義だと思うとしたら、たぶんそれは誤解だと思います。私に尋ねてみて下さい。人々が何を信じているかは、客観的な事実の問題であり、中立的な観点からたやすく記述することができるものです。――ジンボ・ウェールズ (Jimbo Wales)
訳注:Jimbo Wales はウィキペディアの創設メンバーの一人で、ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団の終身理事長である。
ウィキペディアには大切な方針があります:大まかにいえば、全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くべきだ、というものです。これは、記事は偏りのない「客観的な」観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません。
ウィキペディアの中立性についての方針は、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない、というものなのです。
記事を中立的なものにするためには、我々の共同作業が不可欠です。それはウィキペディア成功の秘訣のひとつでもあります。
以下のエッセイでは、このポリシーについて踏み込んで説明しますが、このエッセイ自体、多くの議論の賜物です。我々はあなたもこのエッセイを読み、それについてコメントし、大筋において理解するように強くお勧めします。
はじめに:中立性という基本的な概念と、何故ウィキペディアが中立的であるべきかについて。中立的な見方とは何なのか? 「偏りのない」、「中立的な」と言う時、我々は何が言いたいのか?
中立性のポリシーの言い換え:事実を記述し、様々な意見についての事実も記述せよ、だが、意見の表明は避けよ。
ウィキペディア成功のカギともいえる方針は、記事が「偏っていない」あるいは「中立的な観点」から書かれているべきだ、というものです。これらの用語は一般とはやや異なった意味で使われています。私たちがどのように中立性を捉えているのかを知ることは、とても重要なことです。このページを丁寧に読めば理解する助けとなるでしょう。
基本的には、偏りのない(中立的な観点から)記事を執筆するということは、特定の観点からの意見を主張するかわりに、論争における様々な立場を公正に説明することです。これはやや単純な定義で、もっと細かな点に配慮した定義は後に書きます。今の時点では、偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明することだ、と言っておくことにします。
ウィキペディアは一般用の百科事典です。これは、様々なレベルでの一般的な知識を集めたものと言えます。しかし、私たち(人類)は全ての物事について同じ見方をしているわけではありません。複数の異なる論理に基づいた意見同士が競合するときや、他の視点から見ると矛盾が生ずる意見があるとき、一つの意見を固守する人は他の意見を間違いと信じ込み、知識と思わなくなってしまいます。なにが真実であるか意見が食い違う時は、何が知識であるかについての見解が異なっていると言えます。ウィキペディアは共同作業だからこそうまくいく試みです。ですが、このような見解の相違から、ある人が p であると書き、次に編集する人が p ではないと書き直すような、終わりのない「編集戦争」をどうしたら避けられるでしょうか?
ウィキペディアの作業をする上で私たちが受け入れている解決策は、「人類の知識」は(意義のある、出版されている)全ての異なる観点を含む、というものです。私たちはそのような意味での人類の知識を提供することに最大限の注意を払っています。これは「知識」という語の意味としては、一般に広く受け入れられているものとそう変わらないでしょう。この意味で「知られていること」は時間と共に変化しますし、このように「知っている」という言葉を使うときには、引用符を使って表現することがあります。中世では、私たちは魔神が病をおこしたことを「知っていた」。今日では、そうではないことを「知っている」。(訳注:直接誰かの発言や文章を引用するわけではなく、それらの記述が自分の考えではないことを強調するべく、引用符を使うわけです。scare quotes参照)
私たちはこういう意味での人類の知識を、偏った形で編纂することもできるでしょう。あるトピック T について、様々な理論を説明し、その後で T についての真実はこれこれである、と主張します。ですが、ご存知のように、ウィキペディアは国際的な共同作業のプロジェクトです。おそらく、プロジェクトが成長するに従って、ほとんど全ての事柄についての全ての観点が(いずれは)編集・執筆にする人や記事を読む人の中の誰かに支持されることになるでしょう。終わりのない編集戦争を避けるためには、様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべきです。そしてそれが、このページで言う記事を「偏りのない」「中立的な」ものにする方法です。中立的な観点から記事を書くことは、論争の種になっているトピックについて主張を含めずに書くことです。そのためには、競合する観点についてそれぞれの支持者にとって多かれ少なかれ納得がいくような形で記述すれば事足りることがほとんどです。
このポリシーの基本的な根拠を今一度まとめると:ウィキペディアは百科事典であり、人類の知識を編纂するものです。しかしウィキペディアは国際的な利用のために共同編集されるものです。編集に携わる人々全ての間で全ての事柄について(あるいは多くの事柄について、であっても)、人類が手にしている知識にどのようなものがあるかについて特定の観点を共有することは望めません。そこで、人類の知識についてやや緩やかな見方をして、互いに競合する様々な理論がどれも人類の知識の一部である、と考えることにします。私たちは、ひとりひとりが、そして全体としても、競合する諸理論が公正に提示されるように、特定の立場が主張されないように、努力するべきです。
中立性の方針を掲げることにはもうひとつの理由があります。それは、私たちが特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります。もしもわれわれが中立性のポリシーを維持することに成功したら、世界中の全体主義的な政府や独断的な組織はウィキペディアに反対することになるでしょう:広範な問題について、競合する様々な理論を提示することは、ウィキペディアのクリエイターが、読者が各自で意見を形成する能力を信頼する、ということを示します。複数の観点について、それらの利点を公正に示し、どれか特定の観点を採用するように要求したりしない記事は、読者を解放する効果があります。中立性は独断主義を倒すのです。これはウィキペディアで作業しているほとんど全ての人がよいことだと認めていることです。
中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?
「偏りのない」「中立的な」という言葉についてはいろいろな妥当な解釈がありえます。ですが、ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というものです。これにはもう少し説明が必要でしょう。以下にそれを示します。
まず、最も重要なことは、論争の種になるような立場を、主張することなく単に記述する、ということがどのようなことかを考えてみることです。偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。全ての観点を提示するということは、p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というようなの記述をすることです。全ての観点を提示するにあたって、誰がどのような理由で p や q を信じており、どちらがより広く支持されているか、といった背景の説明を大量に供給できることが理想です。(広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。)詳細に書かれた記事であれば、p 主義者と q 主義者がお互いをどのように評価しているか、それぞれの立場が、相手に対して持っている強みなどを説明しつつ、どちらが優れた立場であるかについては確固として言及を避けることになるでしょう。
この点について、もう少し詳しく説明すべきでしょう。中立的な観点は、論争となっている点をめぐる多くの立場の中の、比較的「中立的」な、あるいは「中間的」なひとつの観点ではない、と上に書きました。これは「中立的な観点」という語についての特殊な理解に基づくものです。ウィキペディアにおいて多くの支持を得つつある理解では、「中立的な観点」とは実際にはひとつの観点なのではなく、「中立的に記事を書くことは、どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが正しい、ということになります。
もうひとつ説明しておくべきがあります。偏りのない記述をするということは、ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである、と考えることもできます。ここでの偏りのない記述とは、論争について冷静で、公正で、分析的な描写だと考えていいでしょう。当然ながら、いずれの立場も正しいと暗示することなく、複数の観点を記述することなど可能だろうか、という疑いがあります。ですが、経験を積んだ学者、論争好きな著述家、レトリックの研究家などはみな、自分や他人の記述の偏りについてよくわきまえていて、論争の説明にどちらか一方の側をひいきするような偏りがあれば、それを見つけることもできるものです。もし望むなら、彼らは、多少の創造性を発揮し、その偏りを取り除くこともできます。
重要な制限事項がひとつあります。複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。論争を説明する際には、少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません。それは論争の形について誤解を与えかねません。公正に論争を記述するためには、競合する様々な観点を、その主題についての専門化や関係者の勢力に合わせて提示すべきです。しかし、これは少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありません。ウィキペディアにはサイズの制限はありません。そのようなページにおいて、その観点が詳細に説明されているかも知れませんが、その観点が真実であるといった形で表現されるべきではありません。
観点の偏りは、特に意識されていたり、熱狂的に支持されているとは限りません。例えば、ある分野の入門者は、論争の余地のない常識に聞こえることが実は特定の、論争の種になるような見方に結びついている、というようなことをしばしば見落とします。(そこで、記事を偏った見方を完全に取り除くためには専門家が必要になることも稀ではないわけです。)別の例を挙げれば、執筆者は、意図せずして「地理的」な見方の偏りを記事に反映させてしまい、ある論争がある国でどのようであるかについて、他の地域ではその論争が違う様相を呈していることを知らず、地域を明記しないままに書いてしまったりします。
この方針はしばしば別の言い方で表現されます:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな。ここでまず、「事実」という言葉は、特に深刻な論争の種になっていない情報を意味します。この意味で、「ある調査が特定の調査結果を出版したこと」は事実です。火星が惑星であることも事実です。2+2 = 4 も。ソクラテスが哲学者であるということも。これらについて真剣に反論するような人はいません。ウィキペディアンはこうした事実を思う存分記述します。その一方、「意見」という言葉は、何か深刻な論争の種になっている情報を意味します。特定の論争を「深刻」と見なすかについて確信が持てないような、判断の難しいケースも当然あります――ですが、意見を表明する記述も多くあります。神は存在する、というのは意見です。直観論理は日常論理より優れている、というのは意見です。
何かが事実であるか意見であるかを判断するには、実際に物事がどうであるかは関係がありません。理論上は、誤った「事実」(全ての人が合意するが実際には誤っている観点)がありえますし、真実に照らして正しい「意見」は数多く存在します。数の上では誤った意見の方が多いようではありますが。
ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。つまり、「神は存在する」と意見を書く代わりに、「アメリカ人のほとんどが神が存在すると信じている」という事実や、「トマス・アキナスは神が存在すると信じた」という事実を書けばいいわけです。最初の例では意見を表明していますが、次の 2 つの例では意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えています。もうひとつ重要なことは、意見を提示する際に、意見がどのように提示されるべきかについて意見が衝突することもあるということを忘れないことです。場合によっては、主題についての主要な意見全てを公正に記述し、全般的な特徴を説明するために、ある意見の説明を限定したり、いくつかの定式化された記述を提示するにとどめたりすることが必要になることもあります。
ですが、ウィキペディアの中立性のポリシーについて、それは事実だけを記述し意見は控えるというものだと言うだけでは不十分です。ある意見についての事実を述べる時には、その意見に対立する意見についての事実を述べ、かつ、それらの意見のどれか一つが正しいと示唆せずにおくことも重要です。一般的に、それら対立する意見の背後にある考え方や、誰がそうした意見を支持しているかについての事実を提供することも重要です。(その意見を代表するような人物を引用することが、しばしば最適の方法です。)
もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。多くの記事は、対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになってしまっています。これは失敗です。ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。それはどのような事実をとりあげて説明するか、(どのような事実をとりあげないか)、それらをどのように配列し、まとめるか、といったことを通じて行われます。例えば、ある立場に対立する意見を紹介しながらそれを否定する説明を行うと、そうした対立意見を「対立意見」のセクションにまとめて紹介する場合と比べて、ずっと説得力がなくなります。
こうしたことをするかわりに、記事を書く時には、説明されている全ての立場は、少なくとも賛成できそうに思えるものだというトーンで書くべきです。全ての競合する立場を好意的に説明しましょう。例えば、○○の考え方はよいアイディアだ、但し、一部の反対意見によれば、そうしたアイディアは××を見落としていると言われている、という書き方ができます。もしこういう書き方ができなければ、記事の内容にはいろいろ問題が残り、後に他の人の編集の際にそれを中和するような変更がなされることになるでしょう。
特別なケースがひとつ考えられます。審美的な判断にかかわるものです。ウィキペディアの記事の一部はアート、アーティスト、その他クリエイティブな話題(例えばミュージシャン、役者、本、テレビゲーム、など)を扱うもので、執筆者が感じたことを表現する傾向にあります。これは、百科事典にそぐわない記述だと言えるでしょう。だれそれが歴史上最も偉大なベーシストである、といったことについてはわれわれは意見の一致を見ることができないでしょう。ですが、あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。ある作品についての一般的な解釈の概説をすること、それもできればその解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて、はよいことです。例えば、シェイクスピアが英語による著述家の中で最も偉大な人の一人だということは、どこかの生徒が百科事典から学ぶべき重要な知識でしょう。ただし、注意して下さい――作家や作品が大衆や批評家にどのように受け止められたかを判断するためには、下調べが必要でしょう。ですが、そのような情報は百科事典にとっては非常に重要で、ウィキペディアの執筆者の独自の見解は重要ではありません。
例えば政治的に論争の的になっているような事柄について常に自分の観点を主張しようとして、他の観点がフェアに提示されているかどうかについては気にしない人は、この中立性のポリシーに違反しています。中立性の方針は、執筆者が自分の立場だけでなく、自分と反対の立場についてもきちんと説明するように求めています。このポリシーを守るように努力しなければ、ウィキペディアはいまよりもずっと頼りない情報源になってしまうでしょう。われわれは皆、各人の観点をできるだけ好意的に説明するように努力すべきです。
これは、一部の人にとっては既に明らかな事を明文化しただけのものです。もしもわれわれ各人が完全に偏った文章を投稿してもよいとしたら、そもそも中立性のポリシーに誰かが違反するなどという可能性がどこにあるでしょうか? このポリシーの命じるところは、「中立的な観点から書け」というものです。もしも、このポリシーが「同意できない立場についても、フェアに説明を行うように各人が努力べきだ」ということを意味しないとしたら、何を意味するでしょうか? あるいは、こう考える人もいるかも知れません「自分の立場をフェアに提示すべきだ、そして他の人がそれを編集するのを受け入れるべきだ」これは解釈としては少しは意味が通るかもしれません、でも少しだけです。もしも「ページを保存」するボタンを押す時、そのユーザーが記事の全文に責任を負っているのだとしたら、そのユーザーが自分の賛同する立場だけを説明したり、対立する立場をフェアに説明しなかったり、不完全な形で説明したりしているような場合には、その人はウィキペディアに偏った見方を付け加えていることになります。このように記事の全文に責任を負うと考えることは意味が通るでしょうか? それとも、文章の一部だけに限定して、「この部分は自分の文責だ」と考えることの方が意味が通るでしょうか? あるいはそう言うこともあるかも知れません。ですが、中立性の追及を強く、明白に掲げるこのウィキペディアのプロジェクトには、そういう態度はふさわしくないように見えます。
あるユーザーが自分と反対の立場についてのフェアな説明を試みたところで、当の反対の立場に立つ人は、その説明が不十分なものだと考えるかも知れません。ですが、重要なのは説明が成功するか失敗するかではなく、フェアな説明を試みるべきだという考え方です。中立性をめぐる論争がある時に、全ての立場がフェアに説明されていなければならないし、誠意を持って自分の立場以外の立場をフェアに説明しようと試みなければならないという考え方をわれわれが共有していれば、その論争の解決はずっとうまく行きます。そしてそのような態度は、何も試みないことよりもずっと相手方の理解や謝意を得ることになります。
「敵のために書く」と言えば、あたかもわれわれが欠陥のある議論をわざわざウィキペディアに追加するという奇妙なことをしているかのように思われるかも知れません。ですが、ともすれば不可解なこの行動について、(出版されている中で)最良の反論を、できるだけ賛同するような立場から追加しているのだ、できればその反論を、記事中で紹介しているのと同じ形で提唱している著名な人物を引用しようともしているのだ、と考えるのがいいと思います。学者、例えば哲学者は常にこういうことをします。
偏った見方から書かれた文章の例と、ウィキペディアの参加者がそれをどんな風に比較的偏りのない記事にして行ったかを考えてみることは、この問題についての理解の助けになるかも知れません。
2001年初頭に、妊娠中絶の記事は、自分の意見を声高に唱えようという何人かの参加者によって、レトリックの応酬のようなものに使われました。どのような議論が紹介され、それら対立する立場がどのように提示されるべきかについての合意に達することもできない状態でした。その記事に必要だったのは、――そして実際にもたらされたのは――様々な時代における妊娠中絶の道徳的、法的な正当性についての様々な立場を扱う踏み込んだ議論でした。そのような諸立場の議論は慎重にデザインされ、どのような特定の立場もひいきされないように工夫されました。これにより、妊娠中絶をとりまく様々な立場が、好意的な視点から強みと弱みと共に紹介されることになり、それらの諸立場を整理し、理解することを容易にしました。
他にも、事実上特定の立場の推進のために書かれる形で始まり、その後、全ての立場を明確に、好意的に提示するように心がけている人々によってきれいに仕上げられることになった記事のサクセスストーリーはたくさんあります。
客観性などというものは存在しない。少しでも哲学的に洗練された人なら誰でも知っていることだ。それなのにどうして「中立性」のポリシーを真剣に受け止めることができるのか? 中立性、つまり偏りのない見方、というのは端的に不可能だ。
これはおそらく中立性の方針に対する最もよくある批判です。これはこのポリシーについての最もよくある誤解をも反映しています。(ちなみにこのポリシーは、もともとはある哲学者によってヌーペディアのために作成されたものです。)誤解があるのは、このポリシーが客観性の可能性について何か議論の余地があるような主張をしているという点です。客観性についての主張はこのポリシーには含まれていません。特に、このポリシーは客観性なるものがある、(トーマス・ネーゲルの言葉を借りれば「どこでもない場所に立った観点」)そしてその観点から書かれた記事は客観的に真である、 という主張すらもしていません。このポリシーはそういうものではないし、われわれの目的もそういうものではないのです! むしろ、われわれは「中立」「偏りのない」といった概念についてある独特の理解をします。これはわれわれの多くが慣れ親しんでいる解釈とは異なっているものです。このポリシーの主張するところは、単に、論争に参加するのではなく、論争を描写するべくベストを尽くすべきだ、というものです。これは、哲学的に反論可能であるようなことは何も書くな、という意味ではありません。これは、哲学者であれば非常に相対主義的な立場の者でも、いつもやっていることです。(哲学者がある議論を立てる時には、対立する意見を過小評価して、それを反駁するだけに終始している、という批判を逃れるために、事実上まず対立する意見をフェアに紹介できることが必要です。)洗練された相対主義者は、このポリシーが彼らの相対主義と完全に一致するものであると即座に見て取るでしょう。
この路線のポリシーにとって何か問題含みな点があるとしたら、それは論争をフェアに描写することができる、だから全ての主要な参加者が結果として生み出された文章を見て全ての観点が好意的に、できるだけ完全な形で紹介されている(少なくとも議論の文脈に関係がある範囲内で完全である)と合意できるだろう、という含意でしょう。これは実証的な問題であり、このような文章を書くことがそもそも可能なのか、という哲学的な問題ではありません。そして、実際にそのようなことが可能だということは、もっとも有能な学者、百科事典執筆者、教科書の著者、ジャーナリストなどによってそのような文章が日々書かれているということを考えれば明白です。
疑似科学のトピックについての記事はどのように書くべきでしょう――科学者の大部分がその疑似科学の意見は信用できないもので、真剣にとりあげる値打ちもない、と考えている場合には?
もしわれわれが「人類の知識」の総体を提供するつもりなら――つまりわれわれが知っていると信じていることの全てを提供するつもりなら――われわれは、不快感を催すような見方であっても、それが誤りであると主張することなく説明しなければならないことに同意しするべきでしょう。しかしながら、これは必ずしもそうひどいことではありません。われわれに課せられた任務は、その疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介するという何かインチキな「フェア」の概念に基づいて論争をフェアに描写することではありません。むしろわれわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。
しかしながら、一部のウィキペディアンはこの点について非常に強い思いを抱いており、「中立的な観点」の代わりに「科学的な観点」が採用されるべきだと信じています。ですが、これらの人々がうまく示せなかったのは、そのようなポリシーをわざわざ設ける必要があるという点です。疑似科学に惑わされるかも知れない人に対して、疑似科学についての科学者の見方が明確に、完全に、フェアに説明されるべきだというポリシーが既に存在しているわけですから。
ほとんどの西洋人にとって感情を害するような見方――人種差別、性差別、ホロコーストの否定などはどうでしょうか。これらの見方を実際に持っている人はいるわけですが。もちろんわれわれはこれらの見方について「中立」であるべきではないですよね?
もちろん、われわれが持っている道徳的な嫌悪感について長い議論を含めることができます。そうしつつも、そのような意見を特定の著名な代表的人物、集団などのものであると説明することで、中立的な観点に対する健全で一貫したサポートを維持することができます。他の人々はそれらの問題について各自で判断を下し、もし理性的であれば、われわれの見方に賛同することになるでしょう。人種差別な見方や性差別的な見方などを持っている人は、偏った観点から書かれた記事を読んでも説得されることはないでしょう。そうした記事は彼らを防御的にするだけです。それに対して、もしもわれわれが中立性のポリシーを適用するように一致協力すれば、そのような嫌悪を催すような信念を持っている人がそのような考え方を改めるような洞察を与えることになるかも知れません。
ちょっと待った。科学対疑似科学についてのその楽観的な見方は、きちんとした考えがあってのものだろうか。疑似科学を支持する人は嘘をついたり、敵を口汚く罵ったり、何かをほのめかしたりして事実を追い払ってしまうことは歴史が示している。疑似科学を信じる人の多くはその見方を他の人に対してすぐ押し付けようとすることも。もしこのプロジェクトが地球が平らだと主張する人やホロコーストはなかったと主張する人にも平等な妥当性を認めるとしたら、(そういうつもりではないとしても)結果としてそうした人たちに正統性を与えてしまい、害悪としかいいようのないものが普及するのを助けることになってしまうことになる。
ひとつ注意してほしいことがあります:ウィキペディアの中立性のポリシーは、われわれが平等な妥当性をそうした観点について認めなければならない、とは明言していませんし、そういうことを暗に示唆してもいません。そのポリシーが明言するのは、百科事典の執筆者として、特定の立場をとってはならないということです。ですがこれは、主流派の見方を主流派の見方だと紹介することを禁止するわけではありません。嫌悪感をひきおこすような見方に対する強力な反論をフェアに説明することも禁止されていません。そのような問題のある見方について多くのまっとうな人々が感じる激しい道徳的嫌悪感について説明することも禁止されていません。その他、いろいろなことが禁止されていないわけです。
以上から、一方でウィキペディアはこのような、とるべき立場が明らかな問題についても公式な立場などは持たないことになります。その一方で、われわれウィキペディアの執筆者が、道徳的に嫌悪感を催させるような見方についてもあたかも他の見方と平等な信憑性を見出しているかのように見える、ということにもならないわけです。ウィキペディアの執筆者は、教育を受けた様々な人々をおおまかに反映していることを考えれば、われわれの読者も過激な観点について、多くの人々に共通した見方を期待できるでしょう――われわれの大半はそのような観点を嫌悪します。
ウィキペディア英語版はアメリカ中心主義的な観点をとっているように見えます。これは中立的な観点のポリシーと矛盾しませんか?
そうです。確かに矛盾しています。そしてウィキペディアにはその点を擁護する人はいません。英語版においてアメリカ合衆国の観点からのみ書かれた記事があることは、単に多くのアメリカ人がプロジェクトに参加していることの反映です。それはひいては、英語版のプロジェクトが英語を使って進められており、英語を使うアメリカ人のインターネットユーザーが非常に多いことの反映でしかありません。
これは継続的な問題で、多くのアメリカ人以外の人々(多くの人々がいます)の積極的な参加によって修正されうるものです。
中立性の観点のポリシーは、偏った見方から書かれた文章を削除する理由として持ち出されます。これは問題ではないでしょうか?
多くの場合、問題です。われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。
時折、特にほんの少数の人しか知らないトピックについて、ある主張が真実なのか、あるいは有用な情報なのか、を判断するのが難しい場合があります。このような場合、ノートのページで疑問を提起するといいでしょう。もし偏った記述を投稿した人が今後その記述を変更することがないだろうと考えられるのであれば、その記述を本文からは消してノートのページにコピーするという方法をとってきました。(ですが、完全に削除するという方法はとりません。)しかし、この方法は、多かれ少なかれ最後の手段として用いられるべきであって、決して、偏った記述をした人への罰のように行われるべきではありません。
中立性の観点のポリシーには賛成しますが、完全に、手の施しようのないくらい見方が偏った人がいます。彼らの投稿を編集しなければなりません。どうしたらいいんでしょうか。
本当にひどいケースでない限りは、その問題を公然と指摘し、この(中立的な観点の)ページを示し、他の人の助力を求めるのがいいでしょう。但し、礼儀正しく指摘することです。大抵の場合、その方が効果的です。もしも問題が非常に重大なら、ジンボ・ウェールズを呼び出してげんこつを食らわしてもらうのもいいでしょう(文字どおりの意味ではありませんよ)。それでも非常に強い抵抗にあった場合には、プロジェクトを離れるように頼むことになるでしょう。このプロジェクトを完全にオープンなものにしておこうというわれわれの強い関心も、圧倒的多数の執筆者が持っている別の関心によって制限される場合が確かにあります――執筆者は、われわれのポリシーを尊敬しない人々による妨害を常に直し続けるようなことなく執筆活動を行いたいという願いがあります。
みんながもっとこの質問をしてくれればいいのですが。われわれはウィキペディアがどんな偏った見方を提供すべきかについては論争すべきではありません。ウィキペディアはどんな風にも偏っているべきではないのです。
偏った見方をめぐる論争を終わらせる最良の方法は、われわれがみな、それなりに聡明で、能弁であり、そうでなければそもそもこのプロジェクトに携わり、それについてあれこれ考えたりもしていないはずだ、という点を思い出すことです。われわれはお互いの観点を理解し、それぞれの観点がフェアーに提示されるように努力することを目標にしなければなりません。もしもある記事について、特定の主張がなされなければならないか、何が真実であるか、などについて論争が持ち上がった時には、個々の主張に反対する立場などをとるべきではありません。一歩身を引いて、「この論争はどんな風にしたらフェアーに説明できるだろうか?」と考えるように全力を尽くすべきです。これは新しい論争の種が登場する毎に行われるべきです。ウィキペディアが何かわれわれの独自の観点を反映するように編集し、それを他の人の改変から守るなどということは、われわれのなすべき仕事ではありません。われわれの仕事は、協力し、主に新しいコンテンツを付け加え、必要とあれば論争がどんな風に説明されるべきかについて妥協し、全ての陣営にとってフェアーな扱いができるようにすることです。
こんな場合はどうでしょうか? ――ある事柄について、複数の、長い記事を書く場合には、反論の余地のある前提を受け入れて書かなければ記事が書けないのではないでしょうか? 例えば進化論について書く時には、進化説と創造説(人間も他の動物も神が創造したとする説)の論争を全てのページで展開しなければならないわけではないですよね?
もちろんそんな必要はありません。どんな主題について書くのであれ、誰かが反論の余地があると考えるような前提が必ず入ってしまうものです。これは進化生物学に限らず、哲学、歴史、物理学などについてもあてはまることです。
個別のケースについて判断を下すための一般則を提供することは難しいですが、以下のような考え方は助けになるかも知れません:もしもある前提について他のページで踏み込んだ議論を行うのであれば、その前提について別のページで議論する優れた理由は、たぶん存在しないでしょう。ですが、手短で、他の記述の妨げにならない程度の言及はよいと思います。例えば、馬の進化について扱った記事で、創造説をとる人々の一部は馬の(そして他のいかなる生物の)進化があったことを一切認めないということを手短に一文書き、関連する記事にリンクを張るのはよいでしょう。もしもより具体的な点についての具体的な議論があるのなら、それについて説明する専用の記事があるのもいいでしょう。
「敵のために書く」という話には納得が行きません。敵のためには書きたくないです。敵に当たる人のほとんどは、誤りだと証明できるようなことを事実として主張するという手段に頼って議論しています。中立的な観点のためには、同意できないような観点を善意を持って説明するために、私も彼らと同じような嘘をつかなければならないというのでしょうか?
それは中立性のポリシーについての誤解です。あなたは敵にあたる人の主張を「これこれの人はかくかくの理由によりしかじかである、証明終わり、と主張する」と説明するだけで、あなた自身が何かを主張するわけではありません。これは、道徳的なやましさを感じることなく、真顔で行うことができるものです。何故なら、その主張はあなたの主張ではなく、誰か他の人が主張しているものとして説明されるからです。それが重要な点なのです! もしもわれわれが上に定義したような形で人間の知識を編纂しているのであれば、敵にあたる人の主張について説明を省略することは、重要な情報を収録しないことになってしまいます。
人文諸学などにおいて研究者がうけているトレーニングは注目に値します。彼らは、ある点についての証明をしようとする際に、その主張に対する反証となるような反論をとりあげなければならず、それらの反論が何故間違っているのかについて説明しなければならない、ということになっています。このような学術的なトレーニングは、学者に、原典資料や、過去にどのような説が否定されてきたかについてのより優れた知識をもたらすことにもなります。中立的な観点のポリシーとよく似た何かが、学者達にとっては多かれ少なかれ暗黙の前提のようなものなのです――もしもその前提が守られなかったり、あるいは特定の論点を指示する事実だけが用いられて反証となるようなものが無視されたりすると、そのような振る舞いをした学者は地位や評判を失うこともありえます。
反論を書く前に、以下のリンクを参照して下さい。中立性の観点をめぐる多くの物事は、非常に多く議論されてきました。もしもその議論に貢献できるようであれば、ノートのページが利用できます。

[ 80] Wikipedia:中立的な観点 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9

メンタルヘルス上の問題や障害が後を絶たないという。実際、精神科や心療内科領域における受診者数は増加の一途を辿っている(→参考)。統合失調症・典型的躁鬱病・psychotic depressionのような、生物学的にも深刻な障害が想定される疾患群に関しては増加がみられないものの、比較的軽い病像の抑鬱状態やB群人格障害、摂食障害などの増加は著しい。このテキストでは、現代社会の有り様が個人のメンタルヘルス全般にどのような負荷を与えてるのかについて考えてみる。日本の津々浦々においてここまで精神科を受診する個人が増えている以上、これを個人の素養(特に生物学的/遺伝的素養)に由来した現象と考えるのは妥当ではなかろう。もっとマクロで統計的な、微弱にせよ広範囲なメンタルヘルス上の負荷が日本全体にかかっていて統計的増加に繋がっていると考えるのが妥当ではないだろうか。
このテキストを通して私は、「“社会構造の変化によって、数十年前よりもメンタルヘルス上の問題が増加しやすくなっている」と指摘したいわけだが、その前に、社会構造の変化というよりも精神科界隈における変化が受信者数増大に繋がっているっぽい部分を、予め紹介しておこうと思う。
まず、精神医学にアクセスする敷居が下がった事を挙げなければならない。一昔前の精神病院は、色んな意味で敷居の高い存在だった。ところが、メディアによる啓蒙や心療内科の立て看板の普及などによって、精神医学や精神科薬物療法などへの距離感はグッと縮まった。このため、比較的軽症で以前だったら精神科にアクセスしなかったであろう一群も精神科の門をノックするようになった、ということが例数増加に繋がっている点に留意しなければならない。
また、折からの心理学ブームや「アクセサリーやサプリメントとしての心療内科通院」も例数増加に拍車をかけている点も見逃せない。様々な文化シーンで心理学的解釈を用いた描写が1990年代やたらと流行したが、こうした文化シーンにおける流行が心療内科にある種の“ファッション性”を与えてしまった可能性を私は否定することが出来ない。まるで流行のドラッグか煙草のようにリストカット・OD・向精神薬・“カウンセリング”を消費し、時にはaddiction(依存)にすら至る人達の存在もまた、精神科受診者の増加に一役買っているかもしれない。最終的には、“ファッショナブルな心療内科的”作品がやんやの喝采を浴びた原因もまた社会構造に由来するところが大きいわけだけれど、本テキストではこれ以上踏み込まない。
加えて、精神疾患の概念の拡大、とりわけICD-10やDSM-IVに登場したSADやGADなどの幾つかの疾患概念の普及によって、精神科/心療内科が治療の対象とする状態のレンジが広がった可能性にも注目しておこう。操作的診断技法とSSRI等による治療法の宣伝によって、これまでは見過ごされてきた(または疾患として取り扱われてこなかった)傾向の人達が精神科の門をノックするようになった事も、症例数の増加に繋がっているだろう。例えば、かつては絶対に精神科受診に繋がっていないであろう、比較的社会適応の疎外されていないSADや割と軽度のパニック障害の症例は、最近の臨床現場ではごくありふれた存在といえる。
このように、精神医学側からの働きかけによっても症例数はしていることだろう。この事を差し引いて考えていかなければならない。
これから、私達がかつてないほどの負荷をメンタルに被っているのかを紹介していく。ここから挙げる各要素は、どれも単一では個人のメンタルヘルスを躓かせることは少なかろう。だが、複数重なった場合、無視しえない負荷となって個人の“自律神経系や中枢神経系”を侵すに違いない。幾つかの負荷がかかった程度でメンタル上のホメオスタシスがひっくり返るほど、人間の神経はヤワではない※1が、引っ越し・親しい人との離別・昇進などのように地に足がついていない状況下ではそうはいかない。もし、数十年前よりも現代都市空間が“広く薄く”負荷の大きい状況だとすれば、引っ越しや昇進に伴って任意の個人がメンタルヘルスの面で躓く確率は、数十年前よりも高いものになるに違いない。それに伴い、マクロのレベルでは統計的に例数が増大することだろう。そして、私の考える限り、現在の日本型ポストモダン社会はメンタルヘルス上、きわめて負荷の大きな社会に思えてならないのである。
社会学的な論説において真っ先に挙げられがちなのは、『労働時間の増大』『労働環境の苛烈化』『失業やニートの増大』『終身雇用制が崩壊したのにやり直しの利かない社会』などといった労働環境を巡る問題であり、事実それらは十分に着眼に値すると思う。だが、このファクターについては既に語られ尽くした感があるので、本テキストには言及しない。他サイト等の優れた総説をご参照いただきたい。(ここで色々拾えます)
個人の消費欲を煽る沢山のコマーシャル・溢れんばかりの商品の山・セレブだのプレミアムだのと煽る金銭や文化の消費は、二つの意味で個人のメンタルヘルスにダメージを強いるものだと思う。
まず第一に、レジャーや文化コンテンツの消費は実はそれなりに疲れることだという事を指摘しておきたい。消費する事は楽しいことかもしれないが、実は肉体なり神経なりを使って消耗している、少なくとも休息していないという点には注目しておかなければならない。例えば海水浴場や避暑地に向かう高速道路はひどい渋滞を呈するし、行った先でも神経を遣う機会は数多いわけだが、こういう部分はしばしば忘れられがちである。たとい温泉に行く場合でも、近くて馴染みの宿ならともかく、遠くて見知らぬ宿で果たしてどこまで“心身をひとやすみさせているのか”は怪しい。とりわけ渋滞やハードスケジュールが伴う時は尚更である。だが、現代の消費資本主義社会は強烈な消費願望を惹起してやまず、欲望を抑制する事のメリットなり抑制する為の方法論なりがテレビの主流を占めることは無い。レジャーや各種活動(スポーツすら!)において消費されるのは、金銭だけじゃない。体力・精神力も失われることも忘れるわけにはいかない。時には気分転換が必要なのはわかるとしても、家でゴロゴロしているほうが体力と精神力を温存しやすい事を誰もが忘れてレジャーに狂奔しているのだから恐ろしい。家にいても、インターネットやらテレビやらで消耗するチャンスは幾らでもある。レジャーと消費がメンタルを追い剥ぎしているが如しである。
第二に、(各個人が)消費熱を煽られた結果として、金銭を稼ぎ消費しなければならないという強迫性が増大している点も私は懸念する。“セレブ”だの“プレミアム”だのといった売り文句は、身の丈以上の消費に死にものぐるいになる個人を増大させていることと思う。そもそも、身の丈そのものがわかりにくい。しかし、個人の可処分所得には限界があるため、消費熱に煽られれば煽られるほど、財政的に個人は圧迫され、生活に余裕がなくなったり、働ける限界まで働いて金銭をかき集めて吐き出さざるを得なくなるのが定め。
高利貸の存在やクレジットカードの利便性もまた、こうした事態に拍車をかけており、気の毒な人達の金銭的余裕を磨りつぶし、(連鎖的帰結として)生活そのものの余裕をも奪っている。消費資本主義社会の誘惑に耐性の無い個人は、コマーシャリズムに踊らされるまま消費しまくり、本来被らなくても良かったかもしれない窮乏に立たされやすい。また窮乏とまではいかないにしても、広告をみていなければ不要だった筈の労働やポジションに心身をすり減らす人で街は溢れかえっている。キーワードは、“もっと欲しい”“もっと消費したい”。消費資本主義的煽りによって欲深になればなるほど背負わなければならない対価も上昇していくのだが、メディアは、消費に伴うメリット(心地よさ。その中にはアイデンティティの補強すら含む)ばかり喧伝するものの、それに伴う対価を喧伝することを好まない。
消費資本主義が現在のように回転する状況が続く限り、“必死に稼いで必死に吐き出す”ことに心身をすり減らす個人はなかなか減少しない、と私は懸念する。だが、これはもう社会構造上不可避のものとして、お付き合いしていくほか無い娑婆苦と考えざるを得ない。「強迫的な消費が金銭のみならず心身の余裕をも奪いかねない」と主張してみたところで、欲望や執着に拐かされた人の蒙を啓く事は容易ではないだろうし、スローライフすらといった概念すら欲望の対象としてパッケージングされている昨今、出口を抜けたつもりがやっぱり強迫的に消費していたなんて事態も想定されるので厄介である。
狩猟採集社会や農耕社会に比べると、現在の日本、とりわけ都市部の生活においては、単位時間あたりに個人が取り扱う有意味な情報・判断を要する情報が著しく増大している。立て看板、見知らぬ人間、メディアetcは、関わるか関わらないか程度とはいえ脳に判断を迫る有意味な情報として負荷をかけている。網膜から飛び込んでくる映像バイト数自体は、動きの無い農村社会でも現代都市空間でもあまり変わらないが、判断を迫る情報か否かや、慣れ親しんだ情報か否かという点では農村と現代都市空間には雲泥の差がある点に着目していただきたい。目に飛び込むどぎつい看板(とりわけ体の良い文句を書いてある奴)・初対面の人との度重なる会合・大群衆、などは、実はどれもこれも情報負荷を脳にかけているが、都会ではあまりにも当たり前のものになっているせいか、現代人はこうした情報負荷のリスクとストレスに意外なほど鈍感なことが多い。猥雑な都市空間や初対面のコミュニケーションといったものが、いかに脳に負荷をかけるものなのかに気付いた頃には、心療内科や精神科を受診せざるを得ない状況になっているという人は枚挙に暇が無い。というか、脳が機能障害を起こしてはじめて、それらが微弱なりとも負荷であった事に気付く人は少なくない。
いつも似たような景色で顔見知りの限られた人間・情報にしか出会わない田舎世界に比べて、現代都市空間で現代人然とした生活をとっている人は、大量の情報を否応なく演算処理せざるを得ない点に私は注目する。現代都市空間と言う名のヒト・情報の大河は、脳に負荷をかけずにはいられない。とりわけ、初対面の他人と交渉する機会の多い人・職場を転々とする人・新規の情報を大量に取り扱う人、などは、どれほどそつない対人適応を達成していたとしても(否、そつない対人適応をしている場合にはなお一層!)大量の情報負荷を脳にかけていることだろう。今日日、情報・ヒト・都市空間に背を向けるという選択は、そこそこ以上の社会適応を達成する場合にはまず許されないし、一定以上のステータスを保とうと思ったらむしろ積極的にそれらと向き合わなければならない。が、脳の情報処理にはハードウェア上の限界が個人個人に明確に存在している。野心や社会的要請のままに、己の脳のスペックを超えた情報量を取り扱おうとした個人は、メンタルヘルス上、大きなリスクを負うことになるだろう。
C.を補足する要素として、地域社会の崩壊や文化細切れ化に伴う、個々の対人場面の新規性・不確定性の増加と、それらに伴う不安の増大も指摘しておこう。
初対面の人間や勝手を知らない人間とのコミュニケーションは、推測の難しさや共通理解の乏しさもあって、脳をめまぐるしく回転させる傾向にある。付き合いの枠付けも定まらない不確定な関係性の場合、その傾向はとりわけ顕著であろう。近くに住む人達との距離が遠のき、文化ニッチが細切れ化した現代都市空間においては、隣近所の人達との遭遇すら気安いものではない。昭和時代の下町のような、相互の価値観や文化に共通点が多い状況下のコミュニケーションと比べた時、現代都市空間におけるコミュニケーションは相手の振るまいや意図が明らかに読みにくい(けれども読まざるを得ない)。“隣りにどんな奴が住んでいるかわかったものではない”という状況では、近隣住民が危機に際してサポートしてくれる可能性は失われやすく、見知らぬ人への不安も増大しやすい。そのうえ地域社会の崩壊によってpublic spaceにおける自己中心的振る舞いが増大する可能性がある事も考慮した時、街で遭遇する他人はストレスや負荷の源になる事こそあれ、ストレスバッファやサポートの源泉としては期待できなくなりつつある、と考えざるを得ないだろう。地域社会の崩壊や文化的細切れは、人的流動性と様々な便利さの代償として仕方の無いもの※3だが、隣近所の人達とのコミュニケーションがしんどいものとなり、しかもsupportiveなネットワークも無くなってしまっている点には十分意識的であっても良いのではないだろうか。
なお、地域社会の崩壊は近所付き合いに由来する手間暇・ストレスを減弱させる事には成功しており、これによって救われている人は決して少なくない点にも留意しなければならないだろう。とはいえ、前述のとおり地域内コミュニケーションの負荷は大きくなり、地域のサポートも失われた事を差し引きすると、地域社会がある状況に比べると致命的状況に至る確率は高くなっているのではないだろうか。また、セキュリティの点でも、地域社会の崩壊によって個人にかかる物的心的コストが増大している点も見逃せない。
価値観や文化の細切れにも関わらずコミュニケーションを維持し、個人の適応を守るためリソースとして非言語コミュニケーションスキル/スペックが脚光を浴びる時代が到来したわけだが、この非言語コミュニケーション――とりわけ自分自身の情動操作など――は言語レベルのコミュニケーションに比べて自律神経をすり減らしやすい。文化ニッチ細切れの状況下において文化越境を果たすには、言語レベルのコミュニケーションでは心許なく、どうしても非言語レベルの情動送受信も要請されるが、非言語レベルの情動操作を意図的かつ頻繁に行えば、神経の摩耗は避けられない。とりわけ、相手から良い評価を得ることに汲々としている場合には尚更である。
非言語レベルのコミュニケーションを多用することは、その場その場の個人的適応を有利に導きやすいが、脳や自律神経に過大な負担をかける。が、この点に自覚的な人は意外と少なく、巧みな非言語コミュニケーションスキル/スペックを持ちながらも神経を摩耗させて“燃料切れ”に至る人は少なくない。こうした適応スタイルのプレイヤーは以前から存在してはいたが、非言語コミュニケーションの有用性と必要性の高まった現況ではさらに増大してきていると私は推定している。
また逆に、生来的に非言語コミュニケーションが苦手な人は、現代都市空間の流れの速さのなかで取り残されて、不適応に至る可能性を増大させていると思われる。文化も価値観もまちまちな現代都市空間においては、それらを越境してコミュニケーションする為のプリミティブなコミュニケーションスキルの獲得が非常に重要になってくるが、それらが乏しい人の為のトレーニングの場や苦手な人付き合いを学ぶ場は、かつてないほど少なく狭くなっており、コミュニケーションスキル/スペックを後天的学習によってカバーするのは今まで以上に容易ではない(→参考)。現代都市空間で要請されるコミュニケーションスキル/スペックのなかでも、基軸通貨として有用性の高い非言語コミュニケーション能力が不十分な人は、コミュニティのなかで後天的にそれらを学習する機会も乏しいまま現代都市空間に放り出され、人の間で生きていくのが辛い状態を経験することになりがちと思われる。
この結果、生来的に非言語コミュニケーションが得意ではない人やコミュニケーション上のフレキシビリティが遅い人(これらはいずれも、女性よりも男性に多い傾向と思われる)は、現代都市空間のコミュニケーションシーンに氾濫する非言語シグナルやフレキシビリティの要請に追随しきれず、社会的ステータスを維持できなくなったり適応を疎外されてしまうリスクを負いやすくなっている。過剰適応者がメンタルを酷使しすぎて墜落するリスクを抱える一方で、非言語コミュニケーションが元々苦手で後天的学習も不十分だった人達は、コミュニティや社会のなかで望ましいポジションや関係を構築しにくい状態に追いつめられて潰れてしまうリスクを負っている。不適応・社会的活動範囲の狭小化は、それ自体は“disorder”ではないが、葛藤やらストレスやらを生み出しやすく自己実現を妨害しやすいという点ではメンタルヘルスによからぬ影響を与える因子として考慮しなければならないと思われる。
[そういう人達が不適応に至らない為に実際に取っている適応形式]:能動過小傾向が該当する、彼らの適応形式について
脳みそを休める時間として、睡眠時間は非常に重要にも関わらず、現代人の生活においては軽視されやすい。仕事・レジャーなどによる圧迫によって睡眠時間が脇に追いやられるという事は、脳を酷使する時間を増大させ、脳を休ませる時間を減少させる事に他ならないのに、誰もが睡眠時間を削って平然としている。睡眠不足がメンタルヘルスにどのような影響を与えているのかは、実は定かではない部分も多かったりするが、一定以上の睡眠不足や不眠の持続が殆どの人の中枢神経機能を低下させること疑問の余地は無い。睡眠時間低下はもっと着目されても良い筈なのだが…。
宗教は色々と面倒くさい副作用を持つ一方、価値観の共有・ストレスバッファ※4・過度の執着に対する節制・互助性を提供してくれる一面を持っている。しかし、ご存じの通り、日本における仏教・神道・土着の宗教的風習・祭りの類は衰退と形骸化の一途を辿っており、厄介な副作用だけでなく便利な作用も失われつつある。
宗教は、その宗教の内側と外側を峻別してしまう傾向を持つものが少なくないし、種々の判断に制約を課す傾向も否定できないが、内側のメンバーに対しては一定のストレスバッファ作用をはじめとするメンタルヘルス上の様々な恩恵を与える点に注目したい(少なくともまっとうに機能している宗教はそうだ、と思う)。だが、そうした機能は現代日本のとりわけ都市空間では非常に少ない。苦境に立たされた人のストレスを減弱し、理不尽でどうしようもない現状の受容を容易にしてくれるような宗教的恩恵は失われてしまった。
家族機能のひとつとしてのストレスバッファ機能は、家族内の軋轢の増大とともに機能しなくなり、むしろストレスを溜める場になってしまう。家族がギスギスする要因は様々(地域社会崩壊、核家族化、労働時間や通勤時間増大、恋愛結婚への幻想執着、他多数)には違いないにせよ、“家に帰って家族と会ってホッとする”機能が失われれば失われるほど、個人のメンタルヘルスを改善させることは難しくなるだろう。離婚率増大は必ずしも家族機能の後退を意味するとは限らない(なぜなら、離婚は、ストレスフルな家族状況から個人が離脱するプロセスとしての意味合いも持つからだ)し、核家族化によって嫁−姑の衝突などが減少したのも事実だが、家族を構成する人員の減少・家にいる時間の減少などは、家庭内のディスコミュニケーションを促しやすく、家族のストレスバッファ機能を脆弱にしやすいと私は考える。
また、祖父母や近所の人に子育てや家事を手伝って貰う頻度が低い家庭では、両親/子どもの双方にとって心的/物的負担が大きいと予測される。平時はそれでも何とかなるだろうが、余裕のない状況下に厄介なインシデントが重なった場合には、家族機能の大幅な後退と、ひいては家族成員のメンタルヘルスへのダメージ蓄積が進行する可能性が懸念される。
(以下の話は、ホモ・サピエンスの精神機能に関する遺伝的/生物学的脆弱性は数代程度の淘汰では大きくは揺るがないであろう、という前提に基づいて書かれています。)
こちらに散々書いたが、現在の子どもには、様々な形の人間関係を学習する場があまり与えられていない。少なくとも、数十年前以前の田舎に住んでいた子ども達に比べた時、都会暮らしをしている子ども達に与えられている人間関係練習の場・ストレス耐性学習のバリエーションetcは限定されていると言える。大人になるまでの日々において、人間関係に揉まれるトレーニングが質的・量的に減少し、少ないトレーニング機会と少ないトレーニングバリエーションで大学や社会に出ちゃった人は、複雑化する一方の状況や人間関係に右往左往する確率が高くなろう。
ただでさえ非言語コミュニケーションを中心としたコミュニケーションスキル/スペックが求められる時代が到来したにも関わらず、それを幼児期〜思春期のあいだに学ぶ機会が減少しているんだから、上手く立ち回る力もストレスに堪えるための立ち回りも不得手な人が増加するのは当たり前といえる。とりわけ、そういった方面の素養が乏しい子が、コミュニケーションやストレス対処を後天的学習によって補わずに塾通いなど続けていた場合、悲劇はほとんど不可避ではないだろうか。巷に溢れる、対人ストレス耐性が低くコミュニケーションシーンへの追随性の乏しい若年男性達をみていると、後天的学習によってもうちょっと何とかなった可能性はなかったものかと、ついつい考えてしまう。
以上、個人メンタルヘルスの観点からみて、いかに現代社会が限界に近づいているのかを挙げてみた。現代社会に生きている私達のメンタルヘルスがいかに侵されやすく、やばい事になっているのかを、
今回挙げた要素の多くは、日本特有のポストモダン化・都市空間化とパラレルに進行するであろう致し方のないものばかりであり、利便性・高度情報化・文化的爛熟の代償としてほぼ不可避のものだったと私は考えている。都市空間のさらなる発達は人間の脳に一層高負荷をかけつづける傾向にあり、文化的断絶と価値観の多様化はコミュニケーションの頻度とコストを益々上昇させつつある(そして適応すればするほど負荷を与え、適応出来なかった者には不適応相応の負荷を与えるのだ!)。残念ながら、この傾向は消費資本主義・文化的爛熟・価値観の多様化・高度情報化が加速する限りにおいて根本的には回避不可能なはずで、私達の神経系(メンタル)はますます悲鳴をあげ続けるに違いない。もっともっとひどくなって、メンタルの弱い者・過剰適応しちゃった者・適応から落伍した者達の中枢神経を機能障害に陥れ続けることだろう。人間の心身は意外と頑健に出来ているのでぎりぎりのラインで適応を維持出来る人が大半にせよ、人生上のトラブルや困難に瀕した際にも平均台から転げ落ちずにいる事が果たして可能だろうか?今、発病していない人も決して他人事ではない。
過剰なまでにメンタルに負荷をかける現代社会は、個人メンタルヘルスの観点からみて非常に過酷なものに思えるし、今後メンタルディスオーダーは高血圧や糖尿病などと同じく成人病の一つとして数えられるcommon disiaseになっていくことだろう…というか、もう既になっていると言いきって良いかもしれない。古典的なメランコリー親和型鬱病の症例はともかく、不眠・食欲低下・過緊張の持続といったレベルの中枢神経機能のこじらせならば割と誰でも陥りかねない。現代社会の現代的発展が、脳の個人的スペックを徐々に圧迫し、既にかなり限界に近いところまで来ている事を、私は強く懸念する。高度情報化も文化的細分化も結構なことだし今後も進行するに違いないけれど、さて、何%の人がメンタルを生涯こじらせずに生きていけるのか?
まぁ、私達が欲望や執着のままに追い求めてきた代償がメンタルヘルスの逼迫とすれば、致し方ない帰結として受けいれるべきなのかもしれない。諸々の恩恵と引き替えに糖尿病や高血圧を被ってしまったが如く、私達は高度情報化やポストモダンな現代社会と引き替えに中枢神経をすり減らし続ける、と理解するのが筋か。人間の望むままに文化とテクノロジーを発展させた結果がこれだとすれば、私達は甘んじて受けるしかないのだろう。メンタルヘルスを犠牲にしてでも手に入れた現代都市空間。それを人々が手放せないというのなら、神経の機能障害をときに経験しつつもそこで生きていくしかあるまい。
しかし、(軽症ではない)統合失調症に罹患しているなどの生物学的脆弱性があれば、比較的少ないストレッサーにも転覆してしまう場合は、ある。このヤワさ加減については当然個人差があるので、極めてヤワな人から極めて頑健な人まで様々である。また、得意なストレスや苦手なストレスのバリエーションも個人によってまちまちである事は指摘しておく。
なお、精神科医は普通「どんな質・量のストレッサーでその人のホメオスタシスが障害されるのか」を気にするものだと思う。というかそれを知らなければ病状が改善した後にどの程度の活動がリスキーなのかを見立ることが出来ないので、ストレッサーへの脆弱さ加減に関しては出来るだけ把握しようと努める、はずだ。
消費に伴うメリットは様々に存在しており、私達を惹きつけてやまない。旨い物を喰えばそりゃ旨かろうし、面白いゲームなり落語なりは、そりゃ楽しかろうとは思う。これらは極単純に、金銭や労働や手間暇などを対価として当人に快感を与えてくれる。“お前ら、このデパ地下のグルメは旨いぞーほっぺが落ちそうだぞー”とメディアが喧伝した時、そのシグナルをみてしまった個人は(まるでサルのように)必死になって欲しがってしまう。勿論、デパ地下のグルメに限らず、オタクグッズ然り、綺麗な風景然り、健康食品然り…。欲望で目を真っ赤にさせる為のシグナルは、ありとあらゆる種類のモノがありとあらゆる場所に溢れかえっている。それが現代消費社会というものだ。
なお、消費に伴うメリットのなかには、昨今特に、アイデンティティの獲得までが含まれている事がある点に注意しなければならない。特定の音楽を消費すること・特定のアイテムを身に帯びることが、自己同一性の獲得や補強に供されることは今までにもあったことだが、広漠とした都会のなかで自分が自分であるという実感なりユニークさなりがみえにくくなっている昨今においては、アイデンティティを与えてくれる商品の需要はとみに高い、と言えるだろう。思春期の男女においてはとりわけ顕著なこの傾向もまた、消費を一層加速させる。その対価は、金銭なり労働なり手間暇なりメンタルの摩耗なりであり、対価を支払うことは言うまでもなく適応上の重荷になるのである。
適度な消費は確かに安息になる。だが、強迫的な消費は疲弊しやすく、あまつさえaddictionに至るリスクすら含んでいる事に注目していただきたい。
とはいえ、もしかすると都市空間においてもある程度の共通理解や共通基盤を文化的・価値観的に持ち続ける事は可能なのかもしれない。もし、宗教が一定の役割を担ってくれるとするならば。
ところが、現代日本は宗教が他人同士を結びつける糸として機能している度合いが非常に少ないため、キリスト教圏諸国においてキリスト教がしつこく根を張って地域コミュニティや共通の価値観を下支えしているのと状況が違いすぎる。田舎社会では、仏教/神道は地域住民を結びつける糊としてまだ幾らか機能しているが、都市部では仏教/神道は人間を結びつける糊としての役割を担えなくなっている。
かと言って、日本という島国では、(ヨーロッパのように)全く異なる文化圏の個人個人が何とかかんとか生きていく処世や思考様式や空間を発達させているようにもみえない。価値観や文化が違う人に対する寛容さも、価値観や文化の相違からアイデンティティを守る鎧も、この島国の住人達には行き渡っていないんじゃないかと思う。
こうした、1.宗教の不在2.異なる文化圏とのやりとりの未発達によって、一言で現代都市空間と言っても日本は日本らしい独特の様相を呈するのではないかと私は推定している。が、実際のところはよく分からない。私は観光でしかヨーロッパに行ったことが無い。もし、住んだ事のある方でこういう方面に敏感なあ方、是非御意見を教えてください。
本当は『癒し』という単語を使いたかったのだが、あまりにも癒しという言葉の用法が多義的になっているため、誤解されるのではないかと心配になったためストレスバッファと表現した。とりわけ、癒しという単語を用いる際に“癒しなら何でも正当化される”かのような文脈を形成する人が後を絶たないのが私は気に入らない&心配なので、『癒し』という言葉を用いることを躊躇ってしまう。
同様に、このテキストでは『鬱病』『鬱状態』という言葉を用いていない。あくまで「不眠、食欲低下、過緊張」といった症候レベルの記載をしつつ、メンタルヘルス、という問題と言葉に言及しようと努力している。今日日世間で出回っている『鬱病』という言葉の多様性やDSM-IV一軸診断における『大うつ病性エピソード』に含まれるものの多様性を鑑みた時、読者の人に様々な誤解を与えやすくしてしまうリスクが高く、私が指したいものと違うものを想像されてしまうのが怖いと思ったからである。そのうえ、『鬱病』という言葉がかくも氾濫している状況は、お金儲けの好きな人達にとっては思うつぼである点にも留意しなければならない。製薬メーカーの思惑を想像すると、中枢神経が被っている種々の状態/問題を一緒くたに『鬱病』と呼び取り扱うことには一抹の不安を覚えずにはいられない。
ちなみに私は、むしろその手前の、薬を使わなくても良い段階や精神科を受診する前の段階に着目し、マクロなレベルで健康なメンタルヘルスをいかに維持するかのほうに興味がある。既に治療が必要な段階の人をどうこうする以前に、如何にそうならないように方策を巡らせるか?しかし、ここまで書いてきた通り、個人のメンタルヘルスを囲むマクロな環境因子は非常に苦しい状態に陥っており、抗うつ薬が必要なケースが増加する傾向自体はやはり不可避だろう。だが、程度問題を軽くする為にあれこれ考えたり実践したりするのは決して無意義ではないと私は信じている。

[ 81] メンタルヘルスの観点からみて、限界に達しつつある日本型ポストモダン社会(汎適所属)
[引用サイト]  http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/adjust/genkai.htm



お気に入り



  • track feed
    • seo