過剰とは?

歯科医師過剰問題(しかいしかじょうもんだい)とは、主として歯科医師免許取得者が増加し、需要と供給のバランスが成り立たなくなる社会問題を指す。
日本において、医科におけるあらゆる診療科全ての医師を養成する医学部の1年間あたりの卒業者数が7,500?8,000人であるのに対し、歯学部単独で1年間あたりの卒業生が2,700?3,000人であることからも歯科医師の供給の多さが明らかである。それに対し、主に少子化による人口減少や、予防教育などにより齲蝕になりやすい子供の数が減ったうえに、欧米諸国のように定期検診などで通うことが少ないため歯科医院への受診が減った。この結果、全国的に歯科医院の過当競争状態となり、経営が悪化する医院が増えている。
政府は今後、歯科医の適正数などの調査を実施したうえで、抑制策の詳細をつめる。具体的には、歯大や歯学部の統合・再編を促して入学定員を早期に1割削減するほか、国家試験の合格基準を引き上げて合格者を絞り込む(2009年には新基準での試験実施を目指す)としている。
歯科医師は人口10万人に対して50人が妥当とされている。これは歯科医師が保険診療を主体とした上で高収入が得られる条件を前提にしているという考えもあるが、後述する歯科医院側の事情などとも総合して考えていく必要がある。
歯科医師は免許を取得し医院を開設しても、経営能力がなければ収入を得るどころか、黒字経営すら出来ないのが一般的である。歯科医師過剰問題は、このような事情を無視し、歯科医師会のような同業者団体が歯科ギルドを作り出し、既得権益に拘泥している事例として批判されている。一般的に民主国家では、多数決の原則で医療政策・制度が決められていく傾向があるため、数の上で極めて少数派である歯科関係者が自身の生活・権利を主張するために政治献金を通じた根回しに頼ることがあった。しかし、政治献金等がもたらす受益効果(保険点数の適正化や個別指導・監査逃れなど)にはその性格上、不透明・不確実・アンフェアな面もあるため、日本歯科医師会会員の中にもそういった手法を疑問視する声がある。
う蝕(虫歯)が社会問題となりはじめ、歯科医療の充実が叫ばれつつあった1960年頃、日本には歯科医師養成大学が東京歯科大学、日本歯科大学、日本大学、大阪歯科大学、九州歯科大学、東京医科歯科大学、大阪大学の7校しかなく、国は歯学部の新設を推進した。そして1965年までにまず愛知学院大学、神奈川歯科大学、広島大学、東北大学、新潟大学、岩手医科大学の6校に歯学部が設置された。その後1980年代前半にかけて歯学部が16校に新設・増設され現在に至る。 2007年現在で、国立大学法人11校、公立大学法人1校、私立大学17校となっている。
以前より歯科医師過剰問題の1つの要因として、歯学部新設・増設後に歯科受療率が横ばいから低下したのにもかかわらず、現存の歯学部歯学科の入学定員を減少させていないことが指摘されている。
この問題に拍車をかけたと考えられているのが、私立大学を始めとした歯学部と定員数の増加である。もちろん私立大学の中には、日本の歯科医療の基礎を築いた人材を多く輩出した大学があることは否定できず、その貢献は大きなものと言える。 しかし、恒久的な定員数の増加は社会的要請にかなったものではない。国(厚生労働省)および日本歯科医師会は、私立大学に対して幾度かの定員減を要請しているが、実際の定員減はほとんど行なわれていない。
定員の合計は国公立が約500人(12大学)、私立が約2,500人(17大学)であり、私立の定員減が求められるのは自然なことであるが、私立大学側からは、むしろ1970年頃から国の意向で創設・拡充した国公立大学の歯学部を統廃合すべきだという意見があがっている。
国としては歯学部の定員の削減を更に図ると共に、歯科医師国家試験の難易度を上げ、歯科医師免許交付率を下げることで歯科医師の過剰を抑制しようと考えている。事実、この施策を講じ始めた2004年度(第97回)の歯科医師国家試験は、合格率74.2%と史上2番目の低率となり、私立大学では特に大きく低下し、中には受験者の半数近くが不合格となる大学もあった。内訳としては、国立大学 590名(合格率 87.4%)、公立大学 76名 (82.6%)、私立大学 1,529名 (68%)。
しかし歯科医療行為の特性上(視力、手先の器用さ、瞬時に診断を下す頭脳、体力などが必要)、新しく国家試験に合格する者の人数を抑制するだけでなく、年配歯科医師の診療現場からの現役引退(歯科医師定年制)を促進する必要があると考えている歯科医療関係者も少なくない。
歯科医師過剰により歯科医院数が増えることと歯科受療率の低下で、歯科医院収入は低下している。過当競争・予防知識の周知・再発率の低下・少子化による人口減少・格差社会による低所得者層の増大・先行き不安感などから、家計費における優先順位の低い傾向のある歯科医療費は、ますます減少傾向にあり歯科医院収入の低下は深刻な問題である。
歯科業界においても、一部の医院からワーキングプア的な状況が生まれつつあり、歯科の場合は、育成・開業費用等に多大な先行投資が必要なため、その点では一般社会におけるワーキングプアよりも状況は深刻と言える。
また、現在の治療ありきの保険点数制度も経営を圧迫していると指摘されている。う蝕(むし歯)や歯周病が生活習慣病の一つであるといっても過言でないことから、歯科において重要なのは治療よりも予防である。そして生活習慣病である以上、生活習慣の改善つまり正しい食習慣とブラッシング(指導)習慣、フッ素・キシリトール入りガムの使用などによって概ね予防が可能であることも事実である(外部リンクのフィンランドの歯科事情等参照)。
ところが一般的に、緊急性や即時に命にかかわる可能性の低い歯科の予防的(原則として生活習慣の改善に向けての暫定的な)通院を、日常生活において低い優先順位と位置づけて(軽視して)しまう人々は多い。国民のQ.O.Lの向上と口腔衛生への意識向上、そして歯科医院の健全経営のためにも予防関連の診療行為をもっと評価し点数を配分するべきであると考えられている。
なお、生活習慣病に対する合理的な評価方式は、疾患の発生率・再発率の低下に比例して、点数(医療機関の収入)が増加するような一種の定額方式(人頭払い制など)であると考えられている。しかし、定額制では、真に必要な診療まで控えられる可能性も否定できないため、日本の歯科保険制度においては出来高を基本としつつ、各種の指導・管理料等により定額制への移行を試みている段階にあるとみられる。ただし全般的に極めて低い点数であるため、その効果を疑問視する声もある。
前述した歯科受療率の低下は、歯科医師をはじめとした歯科医療関係者がう蝕(むし歯)の治療に尽力した結果といっても過言ではない。しかし、う蝕予防や歯周病予防・治療にも積極的に取り組み、口腔衛生についての国民の理解を得る努力をもっと早期にはじめていれば、歯科受療率の低下はもう少し抑えられたであろうという意見もある(受診率低下の一部は、予防知識の普及・生活習慣の改善・歯科医療関係者の予防に向けての努力によってもたらされたものでもあるのだが) もちろんある程度のレベルまでは、歯科医療関係者の努力に比例して、真に治療・生活習慣の改善が必要な患者の受診率の低下を抑えられたかもしれない。 しかし、歯や口腔に対して、どの程度の関心や費用を割くか(割けるか)というのは 国民性・価値観・経済力などにも左右される面があり、民意の集大成・結果である低医療費政策の現状から見る限り、ある程度の限界があると言わざるをえない。
患者(消費者)の見地から考えると、歯科医師過剰問題が話題に上がることによって、自身が罹る歯科医師を見極めることになり、また歯科医師業界においても競争原理が働くことになり、個別的にみれば医院同士の切磋琢磨も促されるように考えられるため、一見それほど悪いことにないように見える。しかし、現状のような極めて過剰な状態では、一歯科医院の収益状況が悪化すると、コスト削減のために「衛生面など安全管理の不徹底」、「過剰診療」、「過剰請求」などが起こる可能性が増大する。ただし過剰請求(いわゆる拡大解釈を含む)についてはその根本原因が、日本の保険医療が先進国平均価格の約1/4〜約1/10という異例の低料金(点数)で行われている点にあることは、意外と知られていない。
保険制度は、その設立趣旨がそもそも貧民救済であり、貧しい国民が一人でも多く医者にかかれるように当初は極めて低料金であった。その後、国民皆保険になり、医科の方は命に関わることと、医師会自身の努力があって概ね診療行為に見合う点数が与えられてきたが、歯科の方は命に関わらず、国も手が回らなかったということもあり、また歯科医師会も保険点数を診療行為に見合うものにするような地道な努力をしないで自費などで補うという形をとってきた(自費にかかわるトラブルは、比較的多い)。しかし歯科医師過剰のなかにあって、かつてのような薄利多売的な経営方針が破綻し、自費収入が減少している事情から、料金の適正化を望む歯科医師側の強い声もある。
また社会保険庁の医師や歯科医に対する恫喝的な指導・監査により、これまでの地域貢献を否定されたり、不合理な自主返還を迫られたりすることで、自殺に追い込まれる(一種のパワーハラスメント)ケースも後を絶たず(外部リンクの富山個別指導事件などを参照)これらは、特別公務員暴行陵虐罪(準用)・公務員職権濫用罪・名誉毀損罪・侮辱罪などとして刑事訴訟や国家賠償、人権侵害による不法行為として民事訴訟の対象となることから問題視されており、参議院厚生労働委員会でも舛添厚労大臣が、そういうことがあってはいけない。指導は懇切丁寧にやる。監督官だけじゃなく第三者・学識経験者などがついて暴言を吐くようなことは許さないシステムになっているはずだ。しかしそれが機能していないということは大変ゆゆしいことであり(今後このようなことが起きないように)きちんと指導していきたいなどと答弁している。
しかし、単なる口約束ではなく、より公正で信頼される医療制度を目指すためにも、立会人制度、指導・監査現場のビデオ撮影、必要に応じて司法当局へのビデオ等の提出義務、義務違反者への制裁など抜本的な指導・監査制度の改善が望まれている。
皆保険制度のもとでのこのようなしくみは、WHO(世界保健機関)が世界で最も高い総合評価(質の高さ・費用の安さ・利用しやすさなど)を与えた一因であるとする説もある。ただし、あまりに実態からかけ離れた点数・要件設定は、歯科医側の過剰請求・不正請求に対する罪の意識を失わせ、大義名分を与えるような心理効果をもたらすため、その料金抑制効果を疑問視する声もある(さじ加減が難しいところであろう)。一方で社会保険庁等には、主として料金抑制のためのノルマが課せられており、ノルマ偏重主義の弊害が危惧されている。
いっそのこと基本的な診療領域で適正な料金設定をした上で、なお予算が足りない領域は完全な自費診療とすることによって、自由市場と競合しない(自費・民間領域を圧迫しない)公的保険診療と民間自由診療の完全分離型(必要に応じて民間保険の活用)を採用することが、一般的な先進国に近い(実態に合った)料金体系が実現しやすく、患者・歯科医師双方の信頼関係を妨げる料金に対する誤解・あいまいさを解消する早道と言える。しかしそうすることによって現在の皆保険制度の利点が失われてしまう可能性も高いことから慎重な検討が必要であろう。
一般に歯科医師は、この歯科医師過剰問題に対し歯科医師会などを通じ「歯科医師過剰による治療の劣悪化」をとなえる。これは自身の競争激化、所得減少を恐れた詭弁に過ぎないという患者側の意見もあるが、様々な事情を総合して慎重に考える必要がある。
歯科医師の場合、大学(6年制)・研修期間等により 生涯労働(収入を得られる)期間が他の職業と比べ短くなる傾向があること、歯科診療の性格上(細かい作業・姿勢などによる目・肩・腰にかかる負担や切削器具による粉塵問題など)中年期以降の仕事量が落ち込む傾向にあること、開業医の場合は、経営者としてのリスク(開業資金(一般的には数千万円必要)なども負うことから、一定の期間の所得水準がやや高くなる傾向がある。
また歯科医師は一般的に、一握りの経営能力に長けた歯科医や資産家の派手な暮らしぶりにより、歯科医全体が儲かるという誤ったイメージが伝わっていることから、不当な批判を受けている。
歯科医は儲かるというイメージに反し全体的な実情は 一ヶ月あたりの医院の収支差額(いわゆる儲け)の平均値は、120〜130万円程度(一医院あたりの平均歯科医師数は約1.4人)であり、医科開業医の50%程度で医科勤務医の月収より劣るというのが実情である。 一般的には3000〜5000万円の開業資金(全体の約80%を占める私立大学出身者では、加えて3000〜5600万円の学費など)が、トータルとしておよそ3000万円〜1億円前後の金額(養成期間としては8年前後)が、必要な経費として先行投資されていることになる。現状では回収すら困難であり、その上退職金や老後の年金まで準備するには、更に厳しい状況であると言わざるをえない。また数の上で大多数を占める私立大学出身者の台所事情が、平均的な医院運営に大きく影響している。
さらに具体的に記述すると、開業後に新規に歯科医師会に加入する歯科個人開業医(*1)の平均年収が800万円台(2004年)であるのに対し、開業時に多額の事業資金(テナント開業で最低3000万円)がかかり、有名私立歯科大学入学から研修医期間終了までの費用は4~5000万もかかる。開業してからも既存歯科医院との競争が待っている(今や開業後1年の時点での保険診療点数が月間20〜25万点で妥当(採算ライン)というのは、歯科関係者の間では常識化している(特に大都市部))。このような事情に関わらず、いまだに歯科開業医が増加しつづけるのは、歯学部が29もあって医師が過剰供給されていること以外に、その原因は見当たらない(前述)。
(*1)歯科医師会にも加入できないほどの低収入の新規開業歯科医を含めるとさらに(平均年収は)低下する。
日本歯科医師会(全歯科医の約70%が加入)や全国保険医団体連合会(全歯科医の約40%が加入)には、そういった歯科医師の労働条件の維持・改善や社会的地位の向上などを目ざしている側面もあり、また患者の立場にも立って双方の利害調整・理想的な医療のあり方を模索している。(日本歯科医師会の場合、数百万円といった高額な入会金が必要なため、近年の歯科医院の減収傾向に伴い入会率が下降傾向にあるといった見方もある。)
患者側の要望・医師側の要望については、双方理想を言えばきりがない面もあるのでまずは、唯一客観的かつ国際的な基準から考えていく必要がある。WHO(世界保健機関)によれば 日本の医療は、世界で最も高い総合評価(質の高さ・費用の安さ・利用しやすさなど)を得ている。この基本的な要因は、民間資本を利用して医師養成から開院までを行い(歯科医の約7割が私立大学・大半が民間の歯科医院)公的な料金・要件設定(公的保険診療による収入が全体の約9割を占める)で料金等を統制・抑制している点にあると考えられている。 しかし歯科医師過剰状態が続けば、歯科医療の評価を維持することも困難になることが予想され、ひいては日本の医療の総合評価に影響が出る可能性もある。
一般の業種では競争原理が働けば、費用を低く抑えることができると考えられるが、医療においては保険診療の占める割合が多く(歯科では、約9割)、価格は保険点数(前述した低料金)により定められており、まして歯科医師過剰において一歯科医院の患者数が減少すれば、収入を確保するために、過剰診療や過剰請求などを行わざるを得ず、このような効果は殆ど期待できない。
予防・早期治療・再発防止などに重点を置くほど利益が上がらなくなり経営を圧迫するという出来高制の矛盾が指摘されていること
消費者である患者からの医療の質に対する評価が、必ずしも容易とは言えない(安かろう悪かろうといった判断がしづらい)こと
などから、供給過剰であるほど低廉な費用で良い治療に直結するとは、容易にならないところに歯科医師過剰問題の深刻さがある。
また、医師と違う点は、大幅な過剰状態であり、かなりの僻地(人口数十人〜数百人の集落など)でもなければ歯科医院が開設されており、もはや全国どこにも歯科医院が不足しているというところはないに等しく、現在開業後3年目に約30%の新規歯科医院が経営的危機、閉鎖の憂き目にあっているという厳しい現実があり、また既存医院の過当競争(正常以下の利潤しか得られない(窓口負担の値引き等)も認められる。
これから先、日本は急速な少子化などから人口減少社会に突入し、歯科受療率も下降の一途を辿っていることも考慮すると、日本歯科医師会・全国保険医団体連合会・厚生労働省における政治的解決を含む対策をとることにより、現在の保険制度を実態に沿って、例えば以下のように改善していく努力を続けていくことが大切であろう。
国民側にもし医師・歯科医の収入等に対する誤解・過剰な期待・ねたみなどといった感情があればそれを乗り越えて、できるだけ総合的長期的に国民の利益として考えてもらえるように努める。
必要・合理的な範囲内での医院適正配置規制、健全な医院経営の推進により適正・良質な歯科医師数を維持し、国民の保健上の弊害(コスト削減のための消毒の不徹底・過剰診療など)を防止し過剰請求も抑制する。 加えて医師のように幅広い活躍が期待できないために医師以上にシビアな需給予想・対策が重要となる。
限度を超えた低料金の適正化によりコスト意識をしっかりもてるようにして、より低額な早期治療・予防へと意識転換し(将来の)無駄な受診を控え、医療費抑制につなげる。また8020(80歳で20本以上の自分の歯を持つ)達成者と非達成者でかかる医療費を調査した結果、達成者に比べ非達成者が診療報酬点数で20%以上高かったというデータもあり、歯科医療費(全体の約9%)の微増(手厚くすること)が、全体の医療費を引き下げるテコのような働きをすることを示唆している。
なお、より適正かつ合理的な診療要件・料金設定については 例えば、厚生労働省内にある公務員向けの歯科診療所などを活用し 学術団体の指導医の資格を持つ者、歯科医師会、保険医協会などの団体から 派遣された者がその妥当性をチェックしつつ 診療内容ごとの平均的な所要時間・カルテ記載時間・診療水準・経費などに基づいて より実態に即した診療要件・点数を設定するといった方法が提案されている。
また、現時点では実現可能性は薄いが、この問題を解決する手立てとして歯科医の医療の範囲を広げる事が検討されている。医科の診療科である「麻酔科」、「放射線科」、「精神科」などである。医師不足と歯科医師過剰の両方を解決する画期的な方法ではあるが、医師会その他からの大きな反発や、技能をどのように育成するのかなど数多くの問題をはらんでおり早急な実現は難しい。しかし、人的資源の有効活用という観点から歯科医師に対する十分な研修強化と医科における麻酔医のような法定の歯科麻酔医制度設立等が望まれる。

[ 242] 歯科医師過剰問題 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E7%A7%91%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E9%81%8E%E5%89%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C

過剰性能(かじょうせいのう)、オーバースペック(和製英語)とは、機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。
過剰という言葉が指し示すとおり利用者にとっては不要なものであり、時として邪魔となる場合もある。その一方で、機械の一部分だけが他の部分の強度を越えた性能を持っている場合もこのように呼ばれるが、前者が産業上の過剰性能と呼ぶのに対して、後者は工学上の過剰性能と呼ぶ。
ちなみにオーバースペックという言葉は下記のような極めて象徴的な事例にとどまらず一般的に使用される。その場合は多く産業上の過剰性能を指す。
通常、工業製品の多くでは、消費者の多くが求めるであろうと推察される性能が設計段階によって設定される。これは過剰に性能を追求しても、製造コストが高くなるだけで、製品の市場での評価につながらないためである。
例としては、一般公道を走るために用いられる家庭向けの自動車に、レース場で首位を狙える性能のエンジンを搭載する行為が挙げられるだろう。このような製品は市場に出回ることは、常識の範疇から言えば在り得ない訳だが、仮にそのような製品が登場した場合、高速稼動に耐えられるエンジンのために車両の販売価格は高騰、また一般道走行時に法定速度を遥かに超える速度が出た所で、道路交通法によって速度違反で検挙されたり、さらには交通事故を起こして運転者に多大な不利益が発生しかねない。
実際に発売された車両としては、1969年に登場した「日産・スカイライン2000GT-R」が、レース用エンジンをわずかにデチューンした「S20型」と呼ばれるエンジンを搭載した。なお同車は走るために必要な装備以外のアクセサリー類(ラジオなど)は一切搭載されておらず、実に車両価格の約半分はエンジンの値段であった。
また工学上においても、そのような設計は推奨されない。何故なら機械装置の一部分だけを過剰に強化したところで、他の部分が耐えられなければ、実用的では無いためである。
過剰な出力を持つエンジンを搭載した自動車の場合、ブレーキ部分がその加速能力に比例して強化されなければ、これはブレーキに対してエンジンが工学上の過剰性能となる。自動車を走らせた際に、「走って止まる」という自動車の基本原則を逸脱するためである。更に言えば、タイヤが高速回転に耐えられずパンクしたり、ギアがエンジントルクに耐えられず破損したり、車体(シャーシ)が出力に耐え切れず歪んでしまう。こうなると、自動車とは到底呼べず、「高価で強力なエンジンに付随したガラクタ」となり、エンジンを含めて「実用には適さないゴミ」と成り果てる。
こういった、出力を制御しきれない工学的な欠陥を無理な力技で解決しようとした一つの例としては、パンジャンドラム(実用化に失敗)が挙げられる。
しかし、産業上の過剰性能については、それが無駄になるとは限らない。本来の目的からすれば過剰性能である工業製品であっても、設計意図を超えた使い方をされれば、その能力を発揮できる可能性があるからである。例えば、MP5短機関銃は、当時の短機関銃の常識を超えた命中精度から、特殊部隊用短機関銃として認知されることとなった。このように、産業上の過剰性能を持った製品は、時として新たなカテゴリの製品の礎となることがある。
これらの自動車は、1970年代から1980年代に掛けて市販の乗用車として盛んに発売された。中には過剰な性能を得るために、総合的なバランスをあえて無視した設計の物もあった。しかしこれらは、市販車であるにも関わらず乗り手を選び、その能力に欠けるオーナーの運転を拒否するかのように事故を起こしたり、または故障したりした。今日でも同カテゴリに属する自動車を愛好し、他の市販車のゆうに10倍前後という価格を支払ってでも購入する熱心な愛好者も存在するが、非常に限られた市場を対象に細々と生産されているに過ぎない。
この両機関車は、バブル景気による貨物輸送量増大を見込み、前者は東海道本線に於いて当時国内最強とされたEF66形の後継車種として、後者は東北本線でのED75形の重連運用置き換えを目指して1990年に開発された。最高出力はヨーロッパの主力機関車とほぼ同格の6000kWを誇り、1600トンの貨物列車を牽引して最高時速120km/hでの運転を実現させるためのものであった。しかし、フルパワーでの運転を行うと、既存の変電設備では消費電力の大きさ故に電圧低下または場合によっては負荷の急変動による安全装置の作動すらも招き、更にモーターを制御するインバータが発生させる高調波が周辺の電気機器にも影響を与えるという問題(誘導障害)も発生。バブルの崩壊後は地上設備の強化も見送られ、結局前者は試作車を含む21両が生産されただけで生産を終了。2006年現在では最高出力をEF66形同等に抑えた状態で運用に就いている(但し、2007年度の完成を目処に、山陽本線瀬野 - 八本松間(瀬野八)で地上設備の強化工事が行われており、その際には同区間におけるフルパワーでの運用が実現するものと予想されている)。後者に至っては試作車が1両製造されただけで開発を終了することとなった。その後、より現実的な性能を持った後継車種(EF210形・EH200形・EH500形・EF510形)が開発・量産され、現在に至っている。
中央線向けに10両オール電動車編成で登場するも、編成数を増やしていくと変電所の容量不足に陥ってしまった。そのため付随車の挿入を余儀なくされ(最終的には6M4Tまで後退)、当初計画より加速度が大幅に落ちてしまった(通勤電車では加減速度を大きくとれば、単位時間あたりの列車本数を増やすことができ、輸送力増強が効率的に実施できる)。山手線では4M3Tで登場したが性能の割に不経済的なことからモーター出力を上げギア比を変えた国鉄103系電車が同線向けに開発され、標準型通勤車として大量に量産された。
1970年代、2度のオイルショックで省エネへの関心が高まり、ハイパワーと省エネを両立させるため、当時の国鉄技術の粋を集めて開発された通勤型車両であった。先進的なサイリスタチョッパ制御を導入、また大量発注をかけることで、高価なサイリスタ素子価格を下げることも期待され、101系以来の通勤型車両の面目を一新した。結果的に素子価格は下がらず、頑丈な耐候性鋼板を用いた車体も相まって高価な車両となり、減価償却がなかなか進まず、結果として25年以上の長期にわたって中央快速線で運用されることになった。
非電化区間のスピードアップを目指したガスタービン試験車。高出力のガスタービンエンジンは扱い難くデリケート過ぎ、部品の破損を起こしたりトンネル内再始動時には排気ガスを再吸引してエンストするものであったほか、試験中にオイルショックに見舞われ、燃費の悪さから、また導入予定の非電化区間が電化されたことにもちなみ、量産化されずに終わる。
この航空機は、1969年2月に試験飛行に成功し、益々加速する国際航空輸送の花形として登場、音速を超える(マッハ2.2)旅客機(超音速輸送機)として注目を集めた。しかし旅客機という目的にも関わらず乗客は100名、またその巨体を高速で飛ばすために搭載されたアフターバーナー付きターボジェットエンジンの燃費は極めて悪く、オイルショック以降には更に航空運賃の高騰に拍車が掛かった。この他にも離着陸時や超音速飛行時の騒音が酷かったり、機体に負担がかかり事故が起き易く、維持コストが高く付くといった問題も抱えた。通信網が完備され、ビジネスにおける迅速な人的移動の必然性は年々低下する一方、速度よりも広く快適な機内と、安全で確実な運行(悪条件下でも安定した飛行)を求める傾向が強まり、1976年11月2日に開発中止が決定された。試作原型機を含めて20機が製造されたが、2000年には墜落事故により114名が死亡、2003年には採算性の問題もあって、全ての同型機が運行を終了した。
このパーソナルコンピュータ(当時はパーソナル・ワークステーションと呼ばれた)は、1980年代の、まだ8ビットパソコン全盛期にあって、マグネシウム削り出しの筐体に光磁気ディスクや強力なCPU・DSPを搭載して、当時は珍しかった音声認識を難なくこなし、それまで大型コンピュータを駆使して製作されていた3Dコンピュータグラフィックスを単体で製作できる性能を持っていた。しかし市場性を逸脱して設計されたこの高価で高性能なコンピュータは、その話題性とは裏腹に、明確な市場を開拓できずに姿を消していった。同コンピュータを開発・販売していたNeXT Computer社はApple社に吸収合併されたが、その技術は後にMac OS Xの礎となり、開発理念はMacintoshシリーズに引き継がれていった。
今日、家庭向けのパソコン製品は、大半の消費者にとっては過剰性能といえる。一般家庭におけるWeb閲覧や文章の作成といった利用において、既に最新のCPUやGPUは消費者の興味を引かなくなっており、パソコン本体の売上は、一頃の活気を失っている。一部のDTMや動画編集などのプロフェッショナル・プロシューマ用途、科学計算やウェブサーバなどの学術・業務用途、あるいはコンピュータゲームを行うユーザーにはまだ性能不足であるとする声があるが、一般の消費者の関心はデジタルカメラや液晶ディスプレイ、デジタルオーディオプレーヤーといった周辺機器に移っており、本体の買い替え需要を喚起できず、行き詰まり感が出てきている。
なお、法人・個人ユーザーの中には、既に陳腐化した古いハードウェアや、サポートが終了した古いソフトウェア資産を頑固に使いつづけるユーザーもあり、現在のネットワーク環境に対応するためのセキュリティソフトの導入を嫌い安全ではないまま使い続け、ゾンビパソコンなどコンピュータウィルスやマルウェアの温床となる問題が見られる。この問題に関しては、2006年にサポートが終了したMicrosoft Windows 98世代の教育用パソコンが日本の学校では40万台に上るとNHKが2006年12月31日に報じている。経済産業省ではこういったハードウェア資産をLinuxを導入することで再活用する事業を2007年度からはじめるとしている(スラッシュドット記事)。
パソコンメーカはコンシューマ市場からPCサーバ市場へ軸足を移しつつあり、複数のタスクの同時実行が可能でマルチメディアやサーバ用途に向くマルチコアがトレンドになっている。逆に、家電の世界ではパソコン向けに開発された技術を用い、ハードディスクドライブの搭載、メモリの大容量化、ネットワーク機能の搭載、高性能化が図られている。なお、パソコンは、発売時にはオーバースペックに見えても、長期的に使われた場合にはソフトウェアの肥大化に伴い4年から6年程度で陳腐化すると言われているが、経済的な問題もあり、一般家庭や中小企業ユーザーはソフトウェアやOSのバージョンアップに積極的とは言えず、これもコンシューマー市場の停滞を招く元ともなっている。
Macintosh以前にApple社が開発、販売した、一般向けとしては初めてGUIを採用したパーソナルコンピュータ。スペックも最高峰だったが、価格も最高峰だった。1983年当時、約1万ドルの値段がつけられた(当時1ドル=230〜240円)。そのため個人の手が出るものではなく、ビジネスで必要とされるソフトウエア群を添付して業務向けにワークステーション的な売り出し方がなされたが、業務用途に先進的なインターフェースの必要性が理解されず商業的には失敗、個人向けにスペックを抑えリーズナブルな価格のパソコンとしてMacintoshが開発された。
このゲーム機は当初、ゲームセンターに設置する業務用ゲーム機であった。これを家庭にレンタルする事業を行うため、家庭用ゲーム機のサイズにまとめた物が開発されレンタルビデオ店等で本体・ソフトウェア共に貸し出されたが、熱心な一部の消費者からは販売を求める声も多かった。このためメーカーであるSNK側も積極的な販売事業を展開したが、業務用機ハードウェアと同等の能力を持つ本体の価格48,800円、専用ソフトウェアROMカートリッジに到っては当時の家庭用ゲーム機水準を大きく越える大容量(加えて少量生産)であった事から3〜5万円という、「他ゲーム機本体が何個か買える」とてつもない販売価格となってしまった。しかしそれでも同社が進めていた「徹底したマニア向け戦略」もあって、同社倒産とアルゼ吸収・版権のSNKプレイモアへの移行を経た現在でも、限定された市場は存在している。
多数の高機能なプロセッサが搭載されたものの、2つ搭載されたCPUを始めとしてプログラマが使いこなすのは難しく、ライバル機との価格競争でも仇となってしまった。
2006年現在、携帯電話の演算性能やRAM容量などは10年前のパソコンを上回っている。外部記憶も当時の平均的なハードディスク容量に匹敵するメモリーカードが使用可能である。デジタルカメラとしても画素数や保存性能だけなら10年前の専用機を上回っている。データ通信速度も、PDCの9600bps、GSMの14.4kbps、ISDNの64kbps(Bチャネル1本当たり)に対し、3Gでは384kbps〜2.4Mbpsと桁違いに速くなり、大量のデータ通信がストレスなく行えるようになった。その為、料金を意識しないまま大量のパケットを遣り取りし、後に高額の請求が来て問題となる場合がある(通称パケ死)。意識しないまま通信を行っていることから、クローン携帯の存在が疑われることがある(実際には、GSMには存在するがPDCやW-CDMAには存在しない)。そのようなケースが増えてきたことから、カメラの高画素化、着うたや動画配信などコンテンツのリッチ化、通信速度の向上などが通信量の増大を誘発しているとして、電話機としては過剰性能であるといわれることがある。反面、通話品質は有線電話やPHSに及ばず、つながりやすさも高周波数帯を使うものは従来方式よりも劣り、バッテリの持続時間も短くなっている(W-CDMA方式では携帯電話の初期よりだいぶ改善されている)。
2G時代においてはQVGA液晶や40和音の音源チップ、高画素カメラなどのハードウェアの性能が高いのに関わらず通信可能なファイルの制限容量が小さい(6KBなど)為にこれらのハードウェアの性能を活かしきれなかった機種も存在した。
CDを超える特性をもつ録音再生装置である。大いに期待されたが、SCMS策定に手間取るなど、デジタルコピー問題に苦しみ、音質は若干劣るもののランダムアクセスが可能で扱いやすく、最初からSCMSを搭載しCDからのコピーが容易にできたMDが登場したことで民生用の録音再生装置としては命運を絶たれた。実際の所、DATの音質を生かすには、高性能マイクロホンやミキサ等業務用の音響機器が必要であり、業務用及びマニアの生録音用には手軽に高音質が実現できる録音機として盛んに利用された。またDDSやデータレコーダとしても応用された。現在ではPCMレコーダーの出現、HDRIやDAWが盛んになり、大手のアルプス電子がメカの製造を終了したので、今後は徐々に現役を引退していくと思われる。
デビュー当初は過剰性能とされたが、後に評価が改められたという珍しい例。この短機関銃は、突撃銃のメカニズムが導入されており、そのため高い命中精度を持つが、それが災いして価格は高騰、短機関銃としては複雑なメカニズムと相まって「拳銃弾を撃つのには大げさすぎる」というマイナスの評価を得てしまった。しかし、1977年のルフト・ハンザ航空機ハイジャック事件において、GSG-9がこの短機関銃を用いて、乗客被害を全く出さずに鎮圧に成功したことで、MP5の評価は「過剰な命中精度を持つ無駄に高い短機関銃」から「精度を要求される、特殊部隊用短機関銃」へと変化した。特殊部隊用の高精度モデルという、短機関銃の新たなカテゴリの始祖となったMP5は、今日恐らく世界一著名な短機関銃としてさまざまな特殊部隊で活躍している。
銃身内にクロムメッキを施すことで銃身寿命を数万発と向上させることに成功しているが、機関部分の寿命が銃身に比べて短い。同装備の開発に携わった津野瀬光男氏の著書「幻の自動小銃」「幻の機関銃」によれば、銃身部分だけでいえば同時期採用された62式7.62mm機関銃に比べても耐久性は高く軽機関銃としての置き換えも可能であると主張している。BARのような使い方も想定していたことが原因のようである。
日本海軍が建造した大艦巨砲主義の究極ともいうべき戦艦。前述のMP5サブマシンガンとは逆に、建造当初は必要十分な性能を持った艦として期待されたが、その後の情勢の変化によって、その卓抜した性能を活かす機会を失ってしまった例である。日本海軍が構想した艦隊決戦において、仮想敵とされた米戦艦を凌駕する強力な主砲・対弾装甲を備えていたが、航空戦が主体となってしまった太平洋戦争では、出番のないまま戦争末期まで後方に温存され続ける羽目に陥り、3番艦は建造途中で航空母艦に変更された。結局、大和・武蔵ともに戦艦と交戦することなく米軍の航空攻撃により沈められてしまった。
40ktという高速力を誇る日本海軍の駆逐艦。1隻が建造されたのみで他に速力40ktの味方艦が存在せず、他艦と行動を共にする際には足並みを揃えるために40ktでの航行ができなかった。
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[ 243] 過剰性能 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%89%B0%E6%80%A7%E8%83%BD

あまりに衝撃的すぎてこの日記に書けない。書く勇気もない(だいたい公開されてる日記なんてしごく無難なことしか書けないものなんですよ。そのうち機会があったら小説教室の二次会で話すから聞いてください←関係者各位)。
ともかく、私は自分の視野の狭さを痛感した上、小説で名を売った上で食べていくのがいかに大変なことかを思い知ったのである。
そういうことはよくあることだし、普段小説を書く上でも心得ていなければならないことなのだけれども、いろいろ知らない場所に行ってみると「まさかこんなことが!?」と思うようなことが案外たくさんあるものだ。
と言いたいところなのだが、そう言い切るには私はあまりにスコッチの種類を知らな過ぎる。いつも飲んでいる売れ筋なマッカランとかじゃなく、私は私だけのスコッチウイスキーが欲しい。
中に入ると、そこは入り口だけでなく、内装もかなり古びたBarという感じがおしゃれ。酒瓶がいっぱい並んだ木のカウンターもあった。
「ちょっと理由があってどうしてもスコッチのことを知りたいので、数種類飲ませてくれませんか。ついでに基礎知識も教えてください。ほんと、なんにも知らないんで」
「じゃーまずシングルモルトウイスキーからいきましょうか。これがGLANFIDDICH、これがRAPHRIAIG、これはKNOCKANDO・・・・・・」
小さなグラスで30mlずついただく。GLANFIDDICHは甘めのとっつきやすい味わい、KNOCKANDOはものすごくそっけなくて愛嬌も何もあったもんじゃない。
「こんなウイスキー飲んだことないです」と言うとバーテンダーさんは笑って「そうでしょう。最初は変わってるなと思いつつも、結果的にそれにハマる人、案外多いんですよ」
確かあれは大藪春彦氏の「野獣死すべし」を読んだあとに「そんなまさか!」と大笑いしたあげく「現実の男ってこんなカンジでは? 絶対こうだよね!」とか思いつつ書いたものである。
よって全編通じて男が残酷なまでにボロクソ扱いとなっている。つまり(一般的に)主人公がかっこいいハードボイルドの真逆を行っている。男ってかわいそうよね女の指示を忠実に聞くくらいしか脳がなくて。下手な反骨精神なんて持たずにせいぜいおとなしくワンとお言い。という感じか。
別に刃向かわなくたって、思うように動いていただく方法はいくらでもあるじゃいりませんか。褒めるとかおだてるとか。だからついつい・・・・・・ね。ほほほほほ・・・・・。
たとえばチーズケーキなら赤ワインと一緒にいただくし、苺ショートなどのフルーツのせケーキなら白ワイン、フルーツそのものならシャンパン、マロンケーキならブランデー、そしてチョコレートケーキにはスコッチウイスキーである。
甘いものは案外酒に合う。なのになぜみんな甘いものも酒も好きだというと変態扱いをするのか。たぶん「日本酒で大福」とかいう組み合わせを想定するからではないか。あれはさすがに合わないと私も思うのだが。
そもそも和菓子というのが難しい。強いて言えば蕎麦焼酎あたりには合うかもしれないが、やったことがないので今度試してみよう。
新潟人の私はわびしい酒も好きである。蕎麦をつまみに延々と酒。漬物をつまみに延々と酒。握り飯(ただし新潟コシヒカリの新米に限る)を片手に延々と酒。
窓の外にはちらつく雪。凍える外気。見渡す限り田んぼ以外何もないところで、遠くの線路の響きを感じつつ「ここには酒を飲む以外なんの楽しみもないんだなぁ」とつぶやきつつ、また酒を飲む。気が付くと一升瓶が空いている。
11.5(日)白角のソーダ割り(レモン入り) 近頃いろいろと用があって出られなかったのだが、昨夜は久々に小説教室の二次会に出た。
なにせ久々なものだから、できるだけたくさんの人と話をしようとばかりに、グラスを持ったままいろいろなところを回ってみる。
するとみんなすごい話をしている。前立腺とか射精とかマルガリータとか虐げられたいとか、そういう話がバンバン飛んでいる。人間って深いなぁと感心するばかり。
わかりやすく言えば「変態」なのだが(身も蓋もない 笑)、よくもまあそんな事象で欲情できるもんだ(男ってすごいな)とびっくりしたり悲しくなったり。
普段職場じゃこんな話はできないので、遠慮なく聞かせていただいた。ありがとうみなさん(深々とおじぎ)。 帰宅は午前様。家族はすでに皆寝ていたので、仕方なく一人ザ・マッカランの封を開けようとする。が、急にソーダ割りが飲みたくなったので、予定を変更して白角をグラスに注いでレモンを絞ってソーダを注ぐ。
柿の種(新潟人なので浪花屋の柿の種を常備しているのは基本中の基本である)をつまみに、ひとりベランダに出て白角のソーダ割りを飲む。
亡くなった父は酒が好きだった。そして車の運転も好きだった。けれども両方いっぺんにやったものだから、ある日電柱にぶつかって死んでしまった。
でも、酔っ払い運転で死んだのが四十年近く前でよかったのかもしれない。今だったら非難ごうごうだ。ましてや自損じゃなくて人を轢いたとなれば、自身の命はあっても世間から抹殺されるも同然になるだろう。
パパ、パパ、なんで死んじゃったの(それはお酒を飲みすぎたからだよ)。と思い続けてきたけれど、そんなことを言っている間に、すでに親が亡くなっていてもおかしくない年齢になってしまった。
ゆうべは飲みすぎた。なにせ知らないうちにいつの間にか潰れていた。自宅でよかった。どこかの店だったら大変なことだ。
キッチンに降りると「酔心」一升瓶が半分ほど無くなっていた。封を開けていなかったはずのスコッチウイスキーのボトルの中身も1/4ほど消えている(ちなみに700mlではなく1L瓶)。なんでこんなに飲んだんだ。と、昨夜のはじけぶりがよくわかる状況証拠。後半ほとんど覚えてないけど。
だからしばらく家飲みするとすぐ調子に乗って外でも同じように飲んでしまうのだが、外では家飲みの半分程度しか飲んでいないにも関わらず、翌日は決まって二日酔いである。やはり飲食店の酒は質が悪いに違いない。もっとも利益を出すためには仕方のないことなのかもしれないが。
昨日あんなに苦しんでようやく書き上げたばかりなのに、今度は酒をテーマにした何かを書こうなどと考えて書きはじめるのだが、果たして世の中の人間のどれほどが酒に関する正しい認識と愛を持っているものかと考えるうちになんだかバカらしくなり、途中で全部消してしまう。
今回は本当に苦しかった。なにせ下書き時点で三作も書いたのに、改めて読んでみるとどれも面白くなくて、すべて自分でボツにしたのだ。
それでも期日は迫ってくるし他にもやらなきゃならないことはあるし、会社の仕事はむちゃくちゃ忙しいし家でも面倒な事件は起きるしで「自分、今度こそダメかぁ?」と絶望したものだ。
だが、私が小説を書いていることを知っている知り合いに「三連休で書く? そりゃ無理だな。この連休は天気もいいぞー。三日間とも家にこもれるもんか。ははははは」と笑われたら俄然やる気に。
書き上げた後、その知り合いに「書けたよーん」とメールしようかと思ったがやめた。そんな暇はない。書き上げたからには、私は酒を飲まなくてはならないのだ。
絵描きっていいな。そんなに酒飲んでも絵が描けるんだ。私なんて創作中はほぼ禁酒状態だよ。酒飲んじゃうと、ろくなものが書けないんだよ。それとも横山大観は天才だから、そんなこと関係ないのかな。だとしたら私はまだまだだな。
トップバッターはなんとこの私。始まる前日は「ま、書いちゃったものに関して今更考え込んでも仕方ないし」とお気楽なものだったのだが、当日の時間直前になったら手は冷たくなるわ身体はカチコチになるわで完全緊張状態に。
と自分で自分を笑って緊張をほぐそうとしたものの、うまくいかず。だが考えてみたら緊張するのも当たり前の話なのだ。私の作品を巨匠が読んで評してくださる。こんな事態は数年前の私は想像もしていなかったに違いない。
そんなぐにゃぐにゃ状態のまま二次会へ行き、先生といろいろとお話させていただいたのだが、なにぶんにも呆けていたためどうもピントはずれなことしか言えなかった。
おめでとうございます。私もその世界にもうすぐ逝きますゆえ(笑)、いつまでも若々しいキレイなママでいてねん♪
「私は仕事がしたいのに、育児のためには周囲も仕事を辞めろというし主人も俺の収入で暮らしていけるんだから仕事なんかしなくてもいいという」
「これじゃー見るからに程度の低い(と思われる)亭主からさらにコケにされても仕方ないな」とも思ったわけで。
結局、周囲の意見でしか自分のことを決められないもんだから、いざ自分が不利な立場になってしまうとそれもぜーんぶ周囲のせいにしてしまうのだろう。
全部自分で決めて自分で責任取ればいいじゃん。その勇気がないのなら甘んじているしか方法はあるまいに。
結局似たもの同士でくっつきあって、互いの傷や自慢話に同調しつつ「今の自分が安心」と思うのが無難な生き方なのかもしれないのだけれど。
住居費はたしかにべらぼうと言われるほどに高い(何せ物価水準が世界第一位)けれど、車を維持していく費用とか面倒とか税金とか、何よりも人を轢き殺すかもしれないリスクから逃れられることをを考えれば破格に安いものである。
(余談だが、それでも私の住む地域の人達は車を所有している人が大半である。週に一回以下くらいしか使うことのない贅沢品に年間何十万円も費やすなんてすごすぎる。それで家ではビールではなく発泡酒だか雑種だかを冷凍枝豆つまみで飲んでいるんだから泣ける話である。人はくだらない見栄のためにそこまで出来るらしいという愚かな俗物話でもある)
トラックとかタクシーとかの運転系は最初から除外である。あの手の仕事をしていれば当然酒は飲めないだろうと思ったからだ。
同じ理由で、医療系も選択しなかった。私自身が酒飲みの医者や看護婦に自分の身体を任せたくはないからだ。
私は身分証明のために免許証は持っているが、車は所有していない。今後も所有する予定はなく、これからもハンドルを握る気は一切ない。
私は酒という趣味を愛し続けるために、運転を捨てた。酒を楽しむ生活を守るために、人よりも余計にリスクを背負っているのだ。
「車も運転したい」「でも酒も飲みたい」なんて無茶である。そういう人間は車の運転以前に、酒そのものをバカにしている。酒は本来人に迷惑をかけずに楽しむ上等な趣味なのである。酔っ払いの無礼講なんて品のないことが許されるのはニッポンだけである(酔っ払いサラリーマンは恥を知れ)。
だいたい嫌なことがあって憂さを晴らしたいとか、泥酔して現実を忘れたいなんて甘ったれたヤツらに酒を飲む資格などない。嫌なことくらい酒無しで解決してみろ。現実なんて一時的に忘れたって消えて無くなるわけじゃない。そんなことしているから消費者金融の借金がかさむのだ。ましてや酒飲んで運転するなんて論外である。最初から殺す気と思われても仕方ないではないか。
車を運転したいなら酒をあきらめろ。いや、それ以前に、酒を飲む習慣のある人間には免許証を出すな。ましてや職業としてのドライバーなんかやらせるな。そういうのは面接で全部落とせ。
その後の弔辞でも泣きそうになったけれど、特に泣いてしまったのは奥様である津村節子さんのお話だった。
吉村さんはまず舌ガンが見つかり、その放射線治療を続けてガンがようやく小さくなった頃に、今度はすい臓にガンが見つかったのだという。
そのガンも取り去って身体にはなんの異物も無くなったはずなのに、その後はどんどん具合が悪くなり、ついには胸の部分から血管にカテーテルを差し込んで二十四時間体制で点滴をするようになる。
奥様もそれをお医者様に伝え、退院が決まり、吉村さんは点滴を身体に繋いだまま、家へ帰ったのだという。
けれどもそれからしばらくすると、吉村さんは胸に挿してあったカテーテルを自らの手でねじり取ってしまったのだという。
奥様も泣きながらお話されていた。あの人の気持ちもわかるけれど、そんな場面を見せられた私たち家族はどうなる。最後まで本当に自分勝手で、皆さんに迷惑ばかりかけて。と、涙を流しながらお話する姿に、確かに最期は吉村さんらしいエピソードだけれど、ご家族は本当に大変だったのだ。と、月並みすぎるけれどそんな感想を持った。
スコッチの水割りと鴨のローストをいただきながら、自分はこんなに悲しいのにどうして水割りも鴨もこんなに美味しいんだろうと、またうるうると涙が出てきた。
けれども故人はお酒が好きな方だったので、やはりこういう席では美味しくいただいたほうがいいのだろうなどということを考えつつ、天国の吉村さんにお別れをした。
吉村氏はもっとも尊敬する作家のひとりである。何度も何度も読み返したくなる氏の著作はどの本もボロボロになるまで読んでいるし、度重なる黒部旅行のきっかけになった高熱隧道に至ってはあまりにも持ち歩くものだから、新しいのをもう一冊買って家に置いてあるくらいだ。
私は氏の謙虚かつ真面目な創作姿勢も大好きで、氏のエッセイにある創作方法をそのまま真似して実践しているほどである。小説を書いていれば、いつの日かお会いできる機会がきっとあるかもしれないないと思っていたのに。
おそらくこの手のニュースを見たときに、不安定な雇用にさらされていない人達は「自分達のようにきちんとやってきた人間には無縁の話(他人に対する不公平さはできれば見なかったことにしたい)」と思うだろうし、不安定な雇用にさらされている人は「自分達には実力がないのだから仕方ない(自分に対する不公平さを自覚するのは辛いから見なかったことにしたい)」と思うことだろう。
だが、このような不安定雇用の出現したそもそもの原因は、企業側が自分達に「だけ」都合のいい労働力を欲しがり、それを実現する組織ができたからに過ぎず、個人の能力うんぬんとはそもそもの問題が違う。むしろ、企業側の策略として不安定雇用する個人にそのような感情を抱かせたい というのが本当のところだ。感情の相乗効果として結果的に「猿轡をはめさせ」て黙らせているのだ。
つまり、「無縁な話」と思う人も「仕方がない」と思う人も、不安定雇用から作り出された策略にはまっているのに過ぎない。
そして自らが策略にはまっているという自覚も無いまま、それを心の底から当然のように考えていることそのものが、見ていて非常に痛々しくてやりきれないのである。
現在の社会は個人のみならず、法人でさえも「自分のところさえ良ければ後はどうでもいい」という考えなのだ。
そういった考えのもとに、外部組織から受け入れた労働者を低賃金で、安全責任もあいまいなまま使い、要らなくなったら簡単にクビを切れる好都合な仕組みの元に「労働力の使い捨て」をする。
特に最後にある請負会社幹部のセリフ「一生こんな賃金で使われ続ける彼らの将来は大丈夫かねえ。我々にとってはありがたい存在だけど……」には猛烈な怒りを覚える。
心配している心境さえ口にすれば、自分のやっていることが免罪されるとでも思っているのだろうか。人としてどうかしてるとしか思えない。ちっとも役に立たない厚生労働省もしかりである。のんきにアンケートなど取ってる場合ではない。
「人として変」なやつらというのは私らの世代でもすでにいたのだけれど、私らよりも下の世代はそれに輪をかけて変なヤツが多いように見える(のはいつの世も同じことなのか?)。
一言で言えば恐ろしいまでに「行き当たりばったりで自己中心的」。自分さえ良ければ他はどうでもよくて、物事に対する計画性がまるでない。会社で仕事をしていても、自分と同年代もしくは下の人間からそういう発言を真顔でされたり計画性の無さに対する言い訳を聞いたりしてあきれかえることはたびたびある。
ということだ。 感性や勘だけでなんの計画性もなく生きていたいなら結婚しなければいい。自分に言い訳ばかりして寂しいだの老後が心配だのごたくを並べる権利などお前らにはない。甘えるのもいいかげんにしやがれ。一生一人で気楽に生きてろ。あ、それからせめて税金くらいは払え。 (ハァハァハァ・・・・・・) しかし本当に不思議に思う。それなりの責任も果たさずに結果だけ欲しがる人間が、どうしてここまで増えたのだろう。
なあんて。こんなコメントを素で言えるほど皮肉屋ではない。だが、言ってみたい。 会社の帰り、オフィスを出たら、うわさの二人(中年で頭の薄い役職者とその部下の若くて派手な女子社員)が仲良く話しながらエレベータを待っていた。
「そんなの堂々と歩いていって『あーらお二人さん。今日も仲がよろしいこと』ぐらい言ってやればいいのに」
自分よりもうんと若い男性(中年にもたまにいる)がいかにもわかったような口をきいているときにいろいろと
「えらそうな能書きばっかりたれてる洟垂れのクソガキが。言う前におのれがそれを実行してみやがれ出来もしないくせに」
頭の悪い人(特に男)は相手にしたくないというのもあるが、多弁すぎる男というのはたいていの場合そのしゃべりによって墓穴を掘って自爆するものなので、あえて自分が面倒くさい役回りを演じなくてもいいだろうという怠慢な気持ちもある。
いいかげん嫌になる。なのになぜ私は顔や態度に出ないのだろう。 ・・・・・・って、それはね。長年仕事をしているうちに、社会性として身についてしまったからなんだよ。 と、私の耳の横で小さな妖精がささやいている。
それと同時に今日会社で話したことを思い出した。 小説を書き始めてからというもの、なぜか会社での仕事のほうもとても順調で、けれどもだからといってそこに骨を埋める気にもなるわけでもなく。
決意さえすれば安定した生活が待っているというのに、なぜそこに行けないかというと、それはそこがどうもまやかしの世界のような気がしているからではないかと思う。
結局のところ「これでいいんだ」と自分をごまかすのは一時的には出来ても、死ぬまでそれで押し通すことは不可能だ。
そんなことを考えずにいられる性格だったら、与えられるものをただ嬉しいと言って抱きしめられるような性格だったら、どんなに生きるのが楽だったことか。
学生の頃はお世辞にも勉強好きとは言えなかった私だが、社会人になってからは必要性もあってか、大変な勉強好きとなった。
(学生の頃も試験対策等の必要性といえるようなものはあったことはあったのだが、私にとっては真の必要性としての刺激に幾分足りなかったようである)
仕事の合間を縫っていろいろと勉強して吸収するたびに感動を覚えるとともに、「ヒマだった学生の頃ならもっともっと勉強できたはずなのに」と後悔することしきりでもある。
だが後悔先に立たず。今やれることは今やるしかないと思いつつ、毎日せっせと読んでは書きとめ、覚えては理解し、展開しては理論を突き詰め・・・・・・と飽きもせずに繰り返している。
さて。私の子供達は現在小学三年生なのだが、そろそろ勉強内容がきつくなってきて嫌気が差しているらしい。
私にも覚えがあるので気持ちはわかる。おそらく彼女達もやはり、勉強の必要性というものがわかっていないのだろう。
となると、生きるために、あるいは実質的に、今やっている勉強がどの程度必要なのか、具体的にはそれを覚えておくとどんな面で自分が得をするのか、という動機付けをするのがもっともいい方法なのではないかと思った私は、娘達に言う。
「試験なんかどうでもいいのよ。学校の評価もどうでもいい。要は楽しめることが大切なんだよ勉強って。せっかく小学生やってるんだから、勉強楽しまないともったいないよ」
彼女達は目を輝かせて聞いているが、実は私が一番楽しんでいる。話は横道にそれまくりで、本人達はその横道にそれた話のほうをよく覚えているのだが、実はそれらは中学や高校の授業で教わる高度な内容でもある。その芽が何年も後にどのように開花するか、今から楽しみだ。
褒められてちょっと涙。というのも、入ったころの私はといえばもうほんとうにボロボロに下手くそで「ここは本当に厳しいなぁ」と思い、いつか先生に褒めてもらえるような作品を書くのがまず第一の夢だったのである。
「そこは君の悪いところだ」と言われているのにも関わらず、言葉の上では「はい。そうですね」と認めるフリをしておきながら意識の上では決してそれを認めていないということだから。
周りから、バカだ無謀だそんなのできっこないと言われれば言われるほど、やってみなければわからないと思ってしまうのだ。 
なぜって顔に書いてある。私を見つめるまなざしは、いつもどう見ても「あなたが好きなんです」と熱く叫んではばからない。
受け止めたところでどうにもならない。何がどうなるわけでもない。 そんなあの人が、結婚して遠い土地へと行くことになった。
けれども私たちはそれを心にしまいこんだまま、それでも離れがたくてグラスを重ねてどうでもいいようなことを話していた。 「もう帰ろうね」「そうですね」
頬と頬を合わせた瞬間、あの人の長いまつげが額に触れて、周りの音が聞こえなくなった。かすかに香水のにおいがした。

[ 244] 過剰な人々
[引用サイト]  http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3970/nikki.html



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