小町とは?
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小野小町(おののこまち、大同4年(809年)頃 - 延喜元年(901年)頃)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。 出羽郡司小野良真(小野篁の息子)の娘といわれる。仁明天皇の更衣だったらしい。また文徳天皇の頃も仕えていたらしい。「町」の字は後宮に仕えた女性に用いられる。また彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としても使われる。小野小町に材をとる作品を総称して「小町物」という。 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。「古今和歌集」序文において紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。文屋康秀・僧正遍昭との贈答歌もある。 生まれには多数の説があるが現在の秋田県湯沢市小野(旧雄勝郡雄勝町小野)という説が主流となっており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。(福井県越前市生まれという説もある米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものである。同市には小野小町にちなんだ建造物「小町堂」があり、観光の拠点となっている。旧雄勝町では、町おこしの一環として、毎年6月に「小町まつり」を開催している。 しかし、秋田県湯沢市小野が小野小町の生誕地であるかどうかの確証はない。出身地はこの他にも福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく「古今和歌集」の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。 京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。前述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。 滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。他にも、小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。 能の「小町物」には「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」などがある。これらは和歌の名手として小野小町を讃えるもの、深草少将の百夜通いをモチーフにするもの、年老いて乞食となった小野小町に題材をとるものに大別される。後者は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。 裁縫に使う「待ち針」の語源は小野小町にちなむという俗説もある。言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴(膣)のない女と噂されたという伝説に基づき、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているというものである。 鎌倉時代に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いた九相詩絵巻は別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。モデルとしては他に檀林皇后も知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされる。 タイトルが、「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に」である。ポスターには十二単を着て小野小町に扮した中島みゆきが後姿で写っている。ストーリーは、小野小町の伝承と、上田秋成の雨月物語の中の浅茅が宿をモチーフにしている。 小町が残した「我死なば 焼くな埋むな 野にさらせ 痩せたる犬の 腹を肥やせよ」の歌から、自分の人生を生ききった美しいだけではない強い女性として小町を描いている。 歌人 | 秀歌 - (53) - (73) - (90) | 決まり字 | 競技かるた | 高校選手権 | 文化財団 | 時雨殿 | 小倉百人一首(ソース) | 読み札(コモンズ) カテゴリ: 平安時代の人物 | 平安時代の歌人 | 小倉百人一首の歌人 | 秋田県 | 伝説 | 小野氏 |
[ 174] 小野小町 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA
