パシェーとは?
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「星を見る時はさ、その星自体を見るんじゃなくて、その隣の暗闇に目を向けるんだ。そうするとさ、ほらよく見えるだろ?」 このいつもお決まりのセリフを聞いて、トアはもう朝が近い事を察した。 同時にそれまで見ていた夢がみるみる内に色褪せ、その世界に入れ込んでいた心がみりみりと現実感を持って膨らみ始める。『それまで夢を見ていたトア』と一緒に体育すわりをしながら、トアはその様子をぼんやり見ている。 トアは、もう少し、夢に浸っていたいと思う。しかし、思考を巡らせれば巡らせるほど、意識は顕著化し、現実世界へと向かってしまう。まるで、保育園で、それまでみんなで楽しく遊んでいたのに、母親が迎えに来ると、それまで夢中になってしていた遊び(例えば、お絵かきでも追いかけっこでもいい)を放り投げて、みんな母親と「現実へ」帰ってしまう。トアは、そんな気分になった。もちろんトアの意識は、朝という母親に連れられて行こうとする。行かなければならない。ずっとここに居る訳にはいかない。しかしトアの心は、もう少しだけ、ここにいたい、と思っている。そう思いながらも結局は、意識と朝についていく。 そうして、今では真っ暗になってしまった『夢が在った場所』にぽつんと座っているトアの方を、少しだけ振り向く。バイバイと言おうとするけど、座っているトアは目をもう二度と合わせてくれない。 すっかり立ち上がった意識は、明るい朝日をまぶたの裏に認め、ちゅんちゅんと鳴く鳥の声を認める。ほどなくして、ママが「トアー!起きなさーい!」 と言う。トアは、はあーい、と寝床に横たわったまま返し、しばしまどろみと戯れる。そして、ひどく現実的にこれからのパターンを考えてうんざりする。朝食を食べて支度をして家を出て自転車に乗って学校に着いて・・これがトアの世界で、社会という名の舞台で、整頓された現実だ。これは、トアが存在していなかった過去から積み上がってきて成り立っている世界だ。ただし、そこに身を置くトアには、現実はあまりにも現実味が無い。 トアは高校2年生になり、思春期の盛り上がりが収まりつつあるのを日に日に感じている。それはつまり、もう一段高い自我の芽生えを意識しているのであり、彼女にとって、世界はその姿を変えつつある(世界自体はその姿を変えないのに)。 小学生の頃に感じた、夏休みの夢のような時間の進み具合、中学生の頃の、説明しがたい初期衝動。そういう熱狂は、冷めつつある。何も心配しなくて良かった頃は過ぎつつある。お祭りの様な魔法から覚めてしまったような気分だ。 合理性が我が物顔で世界を支配している。様々な問題はあるにしても、ひとまず世界は、科学と数学の仕組みで成り立っているようだ。でも、トアにとってその風潮は腑に落ちない。そういう見かけの仕組みは、実際の所、見かけに過ぎないのか、それともそういう仕組みなのか? 大人になったからといって、楽しく安全に生きられる保障は何も無い、と薄々感じてきている。社会、と名のついている所に住んでいても、その輪郭はぼやけている。姿の無い「でたらめ」が、ちらほらしているのが見える。でもそれが見えている事は、言ってはいけないし、見えていると認めた人は、「でたらめ」と一緒に過ごさなくてはいけない。解ける事のない呪いにかかったような気分だ。 つまり、大人が頼れるとか、先生が正しいとか、社会はきちんとしているとか、そういう事じゃない、と分かってきたのだ。羊みたいに従順に生きていたって、理不尽な目に合うし、大人になればはっきりするであろう事柄は、実は大人も知らない。なぜこの世界があるのか?どうして生きているのか?そういう根源的な質問は、「ばか」か「天才と言われていい気になっているばか」しか、してはいけない。そうして「賢い人々」は、ルールを敷いて、数字を計算して、後は努力とか愛とかをいじくっている。そしてトアは、どうも「賢くなりきれず」、「ばか」な事ばかり気にかかる。 そんな訳だから、彼女の中での揺るぎがたい世界の基盤が崩れつつあった。年齢を重ねるごとに、世界は徐々に生々しくその存在を露にしながら、同時にその本質はよりぼやけて、確固たるものでは無くなっていた。 周囲の友達を見る限り、誰もそんな風には思っていない様だし、第一「ぼやける」ってどういう事?と聞かれてもトアには明確な説明が出来ない。ただ、色々知れば知るほど、比例して分からなくなってくる。 例えば、世界はサーカスのテントの中なのだ。 中では、観客たちがきらびやかな舞台に歓声を送ったり、次の出番の役者が準備をしたり、裏方たちが一生懸命内部を直したり、迷子になった子供が泣き喚いたりしている。楽しい事も大変な事もあるが、それでもみんな身を寄せ合って何とかやっている。それが悪い事だと別に思わない。ただ、その中の一員であるトアは「サーカスの外は、どうなっているんだろう、なんで誰も気にしないんだろう」と思う。 まるで、サーカスの中だけが、世界だという風に認識されている様だが、実際には、外があるはずなのだ。トアはサーカスの外を覗いてみたい気がする。 そんな事を考えていたので、トアはサーカスの夢を見た。そして隣に座っているママに、サーカスの外はどうなっているの、と聞いたら、外なんか、無いよ、と言われた。嘘、あっちに出口があるじゃない、と言うとママは舞台に夢中になって返事をくれなかった。 トアは、恐る恐る出口に向かった。誰もかれもステージの方を向いている。トアは耳の裏で歓声を聞きながら、そっと垂れ幕を引いてみる。 そこは、夜の荒野があった。暗くてよく分からないが、物陰は見当たらない。蒼黒い空には、ちらちら星が瞬いている。涼しい夜更けだ。なあんだ、と思って戻ろうとすると、サーカスのテントが見当たらない。どこを探しても見当たらない。荒野にひとりぼっち。君が知りたかったサーカスの外と一緒にいられるんだから満足だろ、と痩せたピエロがふざけた調子で捨て台詞を吐いて、やがてぽん!と消えて、取り残される。そんな夢だった。 ともあれトアは、自分自身が規範とならないといけない、いつまでも友達と一緒だったり、誰かが言った通りにするのではなく、自分で物事と対峙しなければ、とも思っていた。ただ、その自分が見つからなかったからやきもきした(それとも友達と一緒のまんまで良いのかな?)。 だから、世界をどう見るべきか分からなかった。雑誌に載っている世界は、煽るためのマヤカシで、それに煽られる気にはどうしてもなれなかった。色んな要素をごてごて混ぜ合わせて『自分』を作るのは、苦手だし、欺瞞だと思った(それとも面倒くさいから有り合わせで良いかな?)。 極端に言えば、世界が幽霊に思えた。トア自身も幽霊に思えた。じゃあ幽霊自身は自分の事をどう思っているのか?しかし本をいくら読んでみても答えは無かった。多分、答えは文脈には姿を現さないのだろうと思った。だって幽霊の事なんだから。* 駅へと向かう道の途中、いつも通り過ぎる大木があった。 それが、ある朝、ばっさりと途中から上が切られていて、切り口がむき出しになっていたので、トアは、嫌な気分になった。まるで、首をちょん切られた人に見えたので、残酷でずっと見ていられなかった。 ママに、その事を知っているか、と聞くと、知っているわよう、と言う。「ビルの管理人が、邪魔だから、切ったらしいわよ。それにほら、あの木、春先に毛虫が多いじゃない」 木が可哀想だね、と言ったけど、でも邪魔なんじゃあしょうがないわよね、あら、これもう駄目だわあ、とママは古くなった牛肉を丸ごとゴミ箱に捨てていた。 トアは、牛肉になった元・牛が殺された時の痛みややり切れなさは、誰が償うのか、と思った。まさか自分じゃあないよね、と考えてすぐに忘れるようにした。* トアは、中学で部活を引退する頃あたりから、時々一人で時間を過ごすようになった。 その多くは、図書館か、街を見下ろせる高台だった。 図書館には、無言の言葉たちが居た。本に囲まれながら、トアは何かを探していた。何を探せば良いか知らずに、探していた。彼女を見かけた友人に「いつも図書館で何してるの?」と聞かれた時、「宝探し」と言いたかったが、そういうある種ロマンチックな、センチメンタルな言動は、避けなければならなかった。「何言ってんの」と言われた時に、「さあ」としか答えられないから。つまり、彼女は彼女の言葉に責任を持てなかった。しかし、彼女は何か答えへたどり着く為のきっかけを文字の洪水に見出していたが、答え自体が何なのかを知らなかった。 高台には、無言の植物たちが居た。木々に囲まれながら、トアは何かを探していた。やはり何をか、を知らなかったが、風の通り過ぎる形や、植物の佇まい、それから視界の70%以上を占める空の有様には、ヒントがある気がしていた。 中学の頃、学校へ向かう電車で、トアはずっと同じ車両の同じ窓から外を眺めていた。 ある川を通り過ぎた後、建設現場があって、トアの乗る電車が通り過ぎる時刻に、いつもそこでは現場で働く人たちが体操をしていて、その様子を見るのがトアの日課だった。 しかし、しばらくして、建物が出来上がり、体操をしているおじさん達の姿は無くなった。当たり前だけれど、次の日も次の日もおじさん達の体操は無く、無言で佇む建物があった。トアは、言いようも無い感情を、過ぎ行く時間の中に見出していた。* 世界には色んなものが溢れていた。古くからあるもの、新しく出てきたもの、そして、昔に絶えてしまったもの。そして、そういう人間が作ってきたもの以前にも、たくさんのものがあって、その幾つかは今でもあるけれど、幾つかはトアが生まれるずっと前に姿を消している。それらの情報がトアの頭に入ると、色々結びついたりして、やがて迷路に入った気がして、取り返しのつかないような気分になって、焦ってしまう。 そんな時は、図書員の長谷川さんに目をやる。 長谷川さんは、図書員として、然るべき場所に居て、図書員としての仕事をしている。そのルールは揺るぎない。分かりやすい。トアは安心する。 それでも、考えが煮詰まる。例えば、リンゴがある。リンゴは赤い。なぜ赤いのか?それは、人の眼が、その色素を赤、と見なすから。それは分かる。でもリンゴは、「人に赤色である、と認識される」ために赤いのかと言えばそうではない。そういう色なのだ。だけど、どうしてそういう色をする必要があるのか?例えば、そういうリンゴを育んだ地球がある。地球は、宇宙に生まれた星だ。宇宙に意思があるかどうかは知らないが、多分無い。地球も無機質だから、無い。リンゴも、植物だから、無い。そして赤い。それを有機体である人間が見て、「赤い」という感覚と認識が生まれる。何のために?理由など、無い。ただし、揺ぎ無いルールは、有る。人の心は、どちらに属するのか? 例えばそんな風に考えると、別に知らなくてもいいような事を、トアは思わず考えてしまう。長谷川さんが図書員としてそこに存在する事と、リンゴが赤いものとしてそこに存在する事が、同列にならない。昔は気にならなかった事が、気になる。誰も答えを教えてくれない。辞書も、「人が定義した事」の一部しか、教えてくれない。何か知るべき大事な秘密があるんじゃないのかな? 時間は流動体なので、色んな事が昔になって、消えていく。そして、新しい事が日々生まれる。まるで、砂浜で、寄せ返す波の泡を見ているようだ。どれが、何なのか、よく分からない。廃れてしまって良いの?誰も残そうとしないの?結局人は人が大事だと思う事しか残さず、それ以外は、風化させようとしている。この事実は気づく必要も無いの? いま自分が普通に暮らしている事が、どういう事なのか、よく分からない。とりあえず、犬の見ている世界は灰色だ、というような事を知った時、トアは、ある逆説めいた予感を感じた。感じたけれど、それがどうした、と言われれば、どうでもない。どうでもない事が気にかかるのは、どういう事なのか?* とまあ、そんな風に、トアは漠然と悩んでいて、霧の中にいるように感じていた。 そのくせ変に現実的な部分があるので、学校をサボったり、タバコを吸ったり、変に孤立したりしなかった。むしろ、トアの心の中身は少しも外へ滲み出さないようにしていた(逆に言うと、心の中に何か入れようとしていなかったのかも知れない)。 しかし、トアには、密かな楽しみがあった。それは、今年の11月11日の約束だ。 小学4年生の頃、社会の宿題で図書館に来ていたトアは、クルムトヘロジャンという人が書いた「へろ」という本を何となしに手に取った。どういう本だか全然知らなかったけど、装丁が目に引いたし、ページ数が少なくて何となく手に取りやすかったのだ。そうしてぺらぺらやっていたら、ある紙片が挟まっていたのに気がついた。『2013ねん、11がつ11にち、あなたがよくいくとしょかんで、あいましょう』 それを見た時、誰かのメモだ、と思ったけど、スパンコールのようにきらきらした装飾がとても魅力的だったので、トアは持ち帰った。 それから、中学2年のある日の放課後、図書館で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を読んでいた時、以下のメモを見つけた。『トアへ、2013ねんのやくそく、ちゃんとおぼえてる?そうおんこうこうのだいにとしょかんで、あいましょう』 名指しだった。 これを見て、トアは、急いで家に帰って、自分の(今では見向きもしなくなってしまった)宝箱の中のきらきらした紙と見比べた。その筆跡から、恐らく同じ人が書いて、しかもその人は自分の事を知っているようだった。トアは、何か感情が滲み出るのを感じた。いないと思っていた夢の存在、つまり妖精やサンタクロースが、実はやっぱりいたような、その証拠を掴んだような、そんな気がしたのだ。 そうして高校受験をする時、自分の偏差値にあった学校を塾がリストアップした。その一番最初に、「爽恩高校」があった。トアは、静かに静かに興奮しながら、これだ、と思った。ママには、入りたい部活があるから、と言っておいて、本当の理由は言わなかった。あの手紙の約束、そんな理由で、人生の行き先を決定してしまうエッセンスが、人生には必要だと思っていた。仮にママに全て打ち明けたとする。そしたらママは、そんな理由だなんて!、とあきれて心配するかもしれない。でもママが言うであろう「まっとうな理由」がどれだけまっとうなのか、トアは疑問に思っていたから、その後しばらくは、ママに肩モミなどをして、それでトアの中で、罪悪感は消えてしまった。 それから高校入学後も、トアは、図書館になんとなく居るようになった。そして、いろんな本を読んだ。「ゴドーを待ちながら」もその本の一つだった。作品の中で、登場人物は、ゴドーという人を待っていて、色々しながら待つのだが、結局ゴドーは来ないのだ。同じ様に待っているトアは、「ゴドーを待ちながら」の登場人物に自分を重ねて、手紙の主を待っていた。 そうして、二年生になった頃の11月11日の土曜日。 トアは、興奮して昨晩ほとんど寝れなかったけど、それでも興奮を継続させたまま図書館に居た。眠くて仕方が無かったけど、頭の芯はぎんぎんだった。もう何度この日の事を想像しただろう。 一体どういう人が来るんだろう。不思議な存在が現れて重大な秘密を打ち明けてくれるんだろうか(トアはそんな事は有り得ないだろうと思いながらも、もしかしたらと思っていた)?仮に普通に人だったとしても、一体何の用事なんだろう?もう何年この人との待ち合わせを待ったんだろう! トアにとって、恐らく人生で一番のイベントに違いなかった。抑えきれない興奮は、過ぎ去ってしまった小中学生の頃の高鳴りによく似ていた。 反面、誰も来ないのじゃないか、とも思っていた。むしろ、それが妥当なんじゃないかな、と。そうしたらそうしたで、この世界を捉えるきっかけが出来る。つまりこの世に不思議な事なんか、一切ない、と。お話の中にだけ、夢があるのだ、と。そしたら、ママの望む良い子になれる。超現実的に、不可思議な事を心から抹殺して生きれる。そう思いながらトアは、結局ゴドーが来ない話を読み進めていた。* 時間の指定は無かったので、朝から待っていたけれど、トアはいつのまにかうとうと眠りこけてしまった。そして、夢の先っぽで、あの台詞を聞いた。「星を見る時はさ、その星自体を見るんじゃなくて、その隣の暗闇に目を向けるんだ。そうするとさ、ほらよく見えるだろ?」 ああ、まただと思ってトアが目を覚ますと、こちらを向いている女の子と目があった。彼女は、いたずらそうな目で、こちらを見ている。何この子、と思ってぼやけて顔を向け合っていると、その子の唇から「星を見る時はさ」とあの台詞が漏れて来たから、トアは目が完全に覚めた。「あなたが今、言ったの」「そうですよ。夢で何度も聞いただろ?」 同じ高校の制服を着ている。けれども見た事が無い子だった。彼女は、よく来てくれたね、と言った。「?あなたが、手紙を書いたの?」「そうだよ、ちなみに君が手紙を発見して家に持って帰っただろうというのも知っている」「なんで?そういう力があるの?」「いや、物影から見てたんじゃないかな」「ストーカーなの?」「ストーカーじゃあない。大事な事だからね」 彼女の名前はパシェで、彼女は何だか妙な感じだ。例えば口調がおじさんみたいだ。それにしても本当に約束の主が現れるとは。トアは嬉しくて、誰かに言いふらしたい気分だった。 トアとパシェは、図書館の読書室を出て、紙パックジュースの自動販売コーナーに座っていた。トアは、色んな質問をした。サンタクロースはいるの?なんで犬の世界は灰色なの?りんごが赤い意味は何?どうしてどうして?ねえねえねえ? パシェは、一つの目を細めて、もう一つの目を見開いて言った。「君、何言ってるの?」「え?」「そんなのボクが知るわけなかろう」「え?そうなの?あなたは、あのーえーと、そういうの知っている人じゃないの?」「うん」「ええー。じゃあなんで?何なの?目的は何?」「ああ、世界がさ、ほどけてしまうんだ」「え?」「こう、もつれた糸がほどけるみたいに」「だから?」「そうなるとさ、今ある世界は、ぐっちゃぐちゃのほろほろー、となる」「そんで?」「元通りにならなくなる。君は君じゃなくなって、パパもママも関係無くなって、上も下も左も右も無くなる」「…ちょっと待ってどういう事?あなたこそ何言ってるの?」「うん、その感覚は正しい。じゃあ、逆に聞くけど、ボクのこの髪の色、どう思う?」 パシェは、クリーム色の髪を腰まで伸ばしていた。「普通じゃん」「ほらね。こんな髪、普通じゃないよ。でもね、君は普通だと思ってる。これはほどけの証拠だよ」「はあ?(変な人!)」 トアは、バッグを持ってその場を離れようとした。パシェは後ろから追っかけてきながら、言う。「あのさ、多分君はもう感じているはずだよ。子供の頃の世界と今の世界は、どんどん違ってきている。思った以上に、現実は現実的で合理的なくせに、どこかあやふやだ、って。そして、言葉で定義されたものだけで構成された世界は、何かが欠けている、って」 トアは、心を掴まれた気がして立ち止まる。それに夢でいつも聞くあのセリフを何であの子が知っているのか、気になる。「じゃあ聞くけど、ほどけって何?あなたは何なの?」 パシェはよくぞ聞いてくれました、という顔をして、それで二人はファミレスに入って話す事にした。 パシェが言うには、ほどけは、基本定義的には『相転移(そうてんい、phase transition)とは、化学的、物理的に均一な物質の部分である相 (Phase) が他の形態の相へ転移することの熱力学あるいは統計力学上の概念であり、それらを発生機構とする物理現象の総称でもある。ばい、うぃきぺでぃあ』という事だった。「よく分からないけど、ほどけるとどうなるの?」「ばらばらになる。例えばね」 パシェは、ソーダ水のグラスから氷を一つまみ取り出してテーブルに置いた。「今は、こういう形の一つの氷だよね。でも、放っておくとどうなる?」「溶けて水になる」「もっと放っておくと?」「蒸発する」「そう。つまりこの世界はこの氷の様になりつつあるから、そこにいる存在達に然り」「つまり私達もばらばらになるの」「そうさね」「じゃあどうすればいいの?」「再構築する。でもね、世界とある意味、一心同体なボク達な訳だから、全部が全部できる訳じゃない。世界自体が自己再生するきっかけを与えてあげれば良い」「勝手には再生しないの?」「難しいね。砂を縄で縛ったり、表面の無いコインを風で鋳造したりするよりも」「ふうん」「だからボクらがその手助けをしてあげればいい。多分、これは私見だけれども、この世界は鬱なんだね。現状を維持する事を放棄している。で、自分自身どうしたら良いのか分からないんだ」「世界が鬱?」「そう。まあそれはおいおい話そう。あのさ、もう一度ボクの髪を見て。よーく見て。多分頭の中には、『学生』っていう定義があるのかもしれないけど、それをとっぱらって、君の目で見てみて」 トアは、しぶしぶ言われた通り、よく見てみた。この髪が変?髪の形が?色が?こういうのどこにでもいるじゃない?テレビでも見るし、校則に「クリーム色は違反」なんて書いてなかったような?待てよ、クリーム色?クリーム色…黒じゃなくて。黒じゃない?えーっと、クリーム色?え?「あ、変だ」「だろ」「何であなたそんな髪なの?え?ブリーチしたの?怒られないの?」「よしよし。そうだよ、その感覚が取り戻せれば大丈夫。いいかい、星を見る時は、その隣の暗闇を見る事を忘れちゃいけないよ。さ、行こう」 二人は、ずっと続く並木道を散歩しながら話した。黄金色に染まった銀杏の葉が螺旋を描きながら舞い落ちる。「ねえ、その髪、怒られないの」「今はね。元々はダメさ。でも今はもう世界ほどけてるからみんな気にしないよ。それにこれは地毛」「分かった分かった。世界がほどけてるんでしょ。で、それを食い止めるんでしょ。それよりさあ、あなたは何でそんな事知ってるの?」「だって見てきたから」「え?見てきたって、どこで?未来で?」「そうだよ。そしてボクは、これから過去へ行く」「…?」「君とは時間軸が違うんだ。君は過去から未来へ行くだろ。ボクは逆へ行くんだ」「ちょっと待って、え?」「だからね、結論を言うと、ボクが存在してる、って事は、未来がある、って事なんだ。つまりほどけるのを防ぐ事は約束されている」「というか、どうすれば防げるかも知ってるの?」「そう。だからさ、ちょっと手伝ってよ、防ぐの」「うん。簡単そうだから別に手伝っても良いけど…でも何か…よく飲み込めないし、それに何か…」 トアは嘘は言っていなかった。パシェの話の理屈は本当に非現実的だ。だけど、トアが常々抱いていた世界への何か説明し難い気持ちが、パシェの言う事にどこかリンクしている気がしていた。「ほどける、って何かもう超越した現象だと思うけど、それって人の知恵を飛び越えた事なの?あーえっと、今現在分かっている事では説明出来ない事なの?あー、うまく説明出来ない。私はね、普段から、なんでこの世界はあるのかな、とか、例えば三次元とかね、どういう仕組みなのかな、とか不思議に思ってて、そういう部分を気にしないで、暮らして行くのが何か違うような気がして…」「うん、君がそういう考えを持っていると思っていたよ。回答としては、人が分かっている事は、世界の本質のほんの一部。氷山の一角。だから、君が疑問を持つのは普通の事だし、本質の中には、人が絶対に解明できない事も含まれている。自分の肘で自分の顎を触れないようにね。これは、言葉を操る人間の脳と、言葉の機能性の限界から来ているつまり、この世界は、言葉で説明出来るものと、出来ないものがあって成り立っている。」「ホント?」「まあ、ホント」 トアは、ずうっとつかえていたモノが取れた気がした。「それから、ほどけを防ぐのは他の人じゃダメなの?そもそも何で私なの」「それは、君が最終的に防いだから。未来で」「私が?」「そう。だから君じゃないとダメ」「そうなんだ。そうはっきり言われると何か…納得」 トアは、腕時計を見る。もう31時だ。「でも、そろそろ帰らないと」「どうして?」「だってもう31時だもん」「31時?」「うん」「31時なんてあったっけ?一日の時間は全部で幾つ?」「え?」 トアはもう一度時計を見た。文字盤は55分割されている。これが普通だと思うけど、何か変だ。元々は、確か偶数だったような。そうだよ、偶数。それで半分にすると確か12だったから、全部で24?「24だったっけ?あれー」「そうだね。あのさ、今やった風によーく考えている時って、何か頭にイメージが浮かばない?」「イメージ?」「そう」 トアはもう一度考えてみた。イメージ…事実を見つめ直すための…うん?模様の様なものがよぎったかな?曲線で幾重にも構成された円形の模様。それは、王冠にも、カットされた鉱石にも似ている。そしてそれは仄暗くも光芒をまとっている。「浮かぶ。…何となくだけど」「よしよし。それはね、この世界の心のあるべき姿だよ。それをボクと二人で復活させるのがゴールさね」「うーん…でもさ、世界がほどけたって、みんなが『それが普通だ』って思えば問題ないんじゃない?あなたの髪の色だって、言われるまでは別に普通って思ったし。時間が24でも55でも、みんなが納得して生活が成り立てば、それでいいんじゃない?」「もっともだ。じゃあ、ほどけがどれだけオカシな事象なのか教えてあげよう」 それで二人は、街の商店街へ行った。 行く途中、パシェは靴底からローラーを出して滑って言った。「トア、ローラー出さないの」「あ、そっか」 滑りながら違和感があったから、こんなローラーで滑るのが普通だっけ、とパシェに聞くと、うん、ほどけているから普通だよ、でも元々はこんなものは無いよ、と言った。トアは、何かおかしいなあ、と思ったけど、滑るのは快適だった。* 街では、ハシゴを担いでいる若者がちらほら居た。ふいに一人の少女が建物にハシゴを立てかけてよじ登り、かなり高い所から飛び降りた。当然、彼女は着地に失敗し、ひじを擦り剥き、足首を捻挫したみたいだった。少女の口元には微かな笑みがある。「あれは何をしているんだい?」「何って、最近の流行じゃない。自分を傷つけて、その負傷がおしゃれなんでしょ?」「そうなんだけど。トア、イメージしてから、もう一度考えてみて」「うん、もうしてる。変だよ。変って言うか、何か根本的に気持ち悪い。感覚だとそう思うけど、常識というか頭で考えると別に普通だと思う」「何だ、もう感じてたのか。だろ?ほどければほどけるほどこんな事が増えてきて、最後は到底理解できないカオスと化すのさ」「でもね、やっぱりいいんじゃないかと思う。だって自分を傷つけたい人はさ、別に死にたい訳じゃなくて、自分が生きてるかどうか確かめたいんだと思うよ。それに周りも、すごいなあ、って思いながら心配してくれるし」「まだ完全にイメージできてないね。『自分が生きてるかどうか確かめたい』っていう考え方が既に変じゃあないかな?生きてるのに生きてるって実感できないんだったら、それは死んでいるんだよ。死んでいるくせに死に近づく事で生を蘇らせるなんて」「うん。でもさ、多分昔は、そういう自傷行為って無かったと思うのね。でも、新しく生まれた文化だから、それでもいいんじゃないの?」「文化っていうのは、そういうものじゃない。それに自傷には思想が無い。極めて動物的な行為だよ。いいかい、これはほどけに関わる事だから良く聞いて欲しいんだけど、生を実感できないのは、空虚のせいだよ」 パシェはノートを取り出して、あんぱんと、それからドーナツのようなものを描き出した。「空虚?」「そう。このあんぱんとドーナツを見て。これらは両方とも世界のあり方を表しているとしよう。あんぱんが在るべき状態。ドーナツが今。あんぱんの中身やドーナツの中心の空間は、何か信じる心を表す。簡単に言えば、神様という超越した存在を信じる事。すがりつく、もしくは委ねる事。あんぱんにはぎっしりあんがある。ドーナツには何も無い。それから、あんぱんの外側やドーナツの幹の部分は言葉で定義された物事を表す。つまり人が言葉で事象を捉えたものだね」「うん?」「世界は、今ドーナツのような状態にあるんだ。神様はこの100年で殺されてしまったからね、いや忘れ去られたと言った方が正しいかもしれない。つまり、ドーナツの幹の部分さえあれば良い、という風に考えられてきているんだ。でも、真ん中の空虚を幾ら言葉で埋めようとしても、言葉は外側に付け足されるに過ぎない。人は、自ら殺した神様の亡骸をこの100年食いつないできた。でもそろそろ潮時だね。幾ら真ん中を言葉で埋めようとしても叶わず、真ん中の空虚がますます存在感を増してきた。昔の人が、素直に信じる事で満たされたものを今の人は放棄しているからこうなる。いいかい、神を盲目的に信じろというんじゃない。人や言葉を超越した存在が居る、という事を知っていれば良いんだ」 トアは、何だかピンと来た。「…それって、サンタクロースがいる、とかでも良いの?」「ああいいさ、十分だね。例えば俗的な批判をする人は、トナカイとソリが空を飛ぶはずは無い、とか、なぜおもちゃを配って回らなければならないんだ、とか、現実や分かっている範囲の科学でのみ物事を捉えようとする。これは知識を知って知恵を知らない事だね」「…」「別の例だと、人や自然と接しないで、テレビばかり見ていてごらん。色んな情報は得る事ができても、実際に得ているものは、スクリーンに映し出されたものだけ。つまり、0か1の配列の記号を見て、モノを見ている気になる。これはね、幻を見ているようなものさ。それで、知った気になって、物事に意見を述べるんだ」「うん」「でもさ、そう言っている自分の存在の理由を知らないくせに、そんなつまらない断言をするのは軽はずみだし、第一面白くない。サンタは居る、って信じていた方が心が明るくならない?それに「悪魔の証明」というのがある。これは、『いない』という事実を証明する事が非常に難しい事から生まれた言葉だ。つまり俗的に物事を言っている人は、変に現実的に理論付けているつもりかも知れないけど、ちゃちで身勝手な物言いさ。何でもかんでも、適当に物事を言葉のライトで照らすべきじゃない。ライトに余計な色がついている可能性は大だし、それに本質を暗闇のままにして、究明せずにしたままの方が良い事もある」「でも暗闇って、何か怖い」「うん。鬼が居るかもしれない。でも、電気をつけてみたら、つまらない、見たくも無いガラクタしかなかった、って知るよりましだろ?鬼を恐れる事で、心身をわきまえられる。それにさ、星を見る時は暗闇を見ればいい、って言っただろ。それに、これは逆説的な言い方だけど、言葉っていうのは、組み方によっては本質を突ける。だから本当に本質を照らしたかったら、詩的な組み合わせで意味を潜り込ませるんだ。古の呪文とかね。そういうのが本来の言葉というモノなんだよ」 気がつけば、すっかり日が暮れていて、空に星が瞬き始めている。トアは言われた通りに、星の隣の闇に目を向けてみると、確かに星を直視するより、かえって捉える事が出来た。街の光景に目を移すと、よちよち歩きの子供をにこにこ顔のお母さんが支えている。「ほどけたらさ、あの子供もお母さんも何にも関係無くなる。人間の歴史も意味が無くなる。意味が無くなるって意味分かるかい?存在が形骸化して、中が空虚になるんだ。」「それはやだね」「だろ」「分かった。とりあえずやる。でもさ、一つ良い?世界がほどける、って、それって地球が、って事?」「まあ、そうだね。でも地球もさ、世界全体の一ピースな訳だよ。トランプをさ組み合わせてピラミッド作るじゃない?その中の一枚が地球だとしたら、まあ、一枚無いだけでもバランスが崩れて、結果全体が崩壊するよね。これはエネルギーの法則に因るんだけど…」「分かった分かった。難しい事はいいよ。とにかく納得した。それにしてもパシェも随分理論的だよね」「うん、まあね。そう言われると参るな」* それからトアとパシェは、再構築の作業に取り掛かる事にした。 街行く人々の頭の上には、様々な色やデザインの手のひらサイズの鳥みたいなものがそれぞれ三匹ずついて、くるくる回っている。誰もその鳥には気にかけていないから、今はそれが普通なのだろうけど、トアは変だな、と思った。みると鳥は、どうも金属製で、三匹が針金で繋がっている様だった。「さてと。じゃあトアにはね、『感覚』を集めてほしいんだ。ほどけて失われてしまう前にね」「『感覚』を?」「そう。それでボクは、物事の『定義』を集める。唯一の救いは、記録として残された文字だけは、ほどけに侵食されない事さ」「つまりパシェは、文献から集めるって事?じゃあ私はどうやって集めればいいの」「何かを感じた時に、心に何か鉱石みたいなものが浮かぶはずだよ。それを取り出してくれれば良い」「取り出す?」「うん」 その瞬間、パシェがひゅっとトアの頬をはたこうとしたので、トアは咄嗟に目を閉じた。 しばらくして目を閉じると、パシェは、頬ぎりぎりの所で手を止めている。「トア、心に何かあるだろ」 トアは、パシェにはたかれそうになった時、痛みをイメージしていた。 と思うと、胸の辺りから何か剥がれそうな気がして、次いで、ころりと薄桃色の破片が落ちた。「これが『痛み』の感覚ピースだよ。ちなみにね、『痛み』の定義にも幾つかあって、例えば今みたいなものは、疼痛と言って、『物理的刺激、あるいは疼痛物質(セロトニンやブラジキニンなど)による化学的な刺激を疼痛神経終末版が感知し、電気的なシグナルに変換し温痛覚求心経路である外側脊髄視床路を通過し、大脳の中心後回が痛みとして認識した結果を疼痛という。痛みを伝える末梢神経にはAδ線維とC線維の2つの神経線維が知られている。伝導速度はAδ線維の方が早いため、腕を叩いた時の痛みははじめに局在が明確な鋭い痛みが伝わり、後から局在が不明確なじんじんとした痛みを感じると説明されることがある。この現象から痛みは二度感じると言われることがある。この遅い痛みであるC線維を軽度かつ持続的刺激を行うと痒みが生じる事が知られており、生理学的には痛みと痒みは同じ感覚になる。ばーいうぃきぺでぃあ』なんだよ」「物知りなのね」「うん。でもまだまだ足りない。もっと集めないと」 そういうと、パシェは自分のこめかみの辺りから桃色の楕円が欠けた形の破片を取り出した。「これが「痛み」の定義ピース。ちなみに頭の辺りから取り出したのは、この情報がデジタルなものだから。君の心から出たのは、それがアナログなものだからだよ」「こういうピースを集めればいいの?」「そう。最終的には、集めたピースで、君が見たあの円環の模様をしたオブジェを作る。オブジェは、色とりどりのピースから構成されてる。薄いピースは感覚、濃いピースは定義。それからおまじないや、伝承、つまり理屈を超えて人々に信じられているものが、ピースとピースを繋ぎ合わせる接着剤みたいなものだよ」「うん」「で、組み立てたオブジェを、世界の根源に供えれば、あとは世界が自己再生する、って訳だね」「分かった。パソコンの再インストールみたいな感じなのかな」「そうだね。それとさっき、『世界が鬱だ』って言っただろ。あれはね、接着剤が機能しなくなっているから結果的にピースがばらばらになっちゃってるからなんだ」「接着剤が機能しない?」「つまり、あまりにも定義に侵食され過ぎてるって事。逆に言えば、言葉で説明のつかない事象を無視して、有り合わせの定義で実態とは違うもので捉えてしまっている」「だから世界が鬱になったの?」「うん、というか、人がね。言葉で説明できない事象に対して言葉で対抗しようとするからイビツな結果を招く。そんなものに囲まれて生活していたら鬱屈するよ。結果的に、人と世界は一心同体だから、世界も鬱になって、現状維持を放棄しちゃって、ほどけちゃうって事さ」 パシェは、うーんと背伸びをして、とりあえず大体分かっただろ。ボクは基本的に図書館やらで定義を集めているからさ、トアはどんどん感覚を集めてきてくれるかい、と言って、それで二人はひとまず解散する事にした。 トアの家に帰る途中、あのばっさり上を切られた大木があったので、トアは思わず顔を背けた。「トア、あの木を見て、どう思うんだい?」 パシェは、トアの心を読んだように、硝子が鳴る様な声で、そう言う。 トアは、別に、と言いそうになったけれど、引っ張られるような気がして、ぽろっと本音が出る。「…人の生活には邪魔かもしれないけど、でもああいう切り方は、可哀想だと思う」「うん、そうだね。その感覚を忘れちゃいけないよ」 トアの胸から、薄藍色のピースが、落ちた。* トアは、帰路へつきながら、パシェが教えてくれた色々の事を反芻していた。 感覚のピースを集める事。それは過去の体験を慎重に思い出して集めれば良い事。「でも、私自身がまだ体験してない感覚はどうやって集めるの?」「まあ難しいだろうけど、それは想像に任せていいよ。本やテレビから得られる情報を参考にすれば良い。その作者の心情が反映されているからね。それに既に世界がほどけているから、個々人の感情というのは流出しやすい状態にある。つまり、作者がどう考えてそれらの作品を作ったか、よく考えれば、いつもよりすんなり理解できるはずだよ。定義的に言うと、Synchronicityとか相貌的知覚とかシェルドレイクの仮説とかcollective unconsciousとかが混ざり合っていて、それらっていうのは、うんぬんかんぬん…」 パシェの言う事のほとんどはよく理解出来てない。しかし、ほどけを食い止めなければならない事は納得できる。それに、あの心に浮かんだ円環のオブジェを完成させる事は、言いようも無く興味深い。いや、むしろ完成させなければ気持ちが悪い。まるで頭の中いっぱいに、太った淡水魚が隙間無くみっちり潜んでいるような気になる。 だから、それからトアは、とにかく手当たり次第に、ピースを集めてみる事にした。 こねる感覚、切る感覚、千切る感覚、噛み砕く感覚、塗る感覚、受け止める感覚、手放す感覚、惨めな感覚、絡める間隔、ゆったりする感覚、急ぐ感覚、立ち止まる感覚、過ぎる感覚、失くす感覚、芽生える感覚、恋する感覚、悲しむ感覚、懐かしむ感覚… 知らず知らずの内に、こんなに多くの感覚を得ていたんだなあ、と改めてトアは感慨深く思った。 思い出や、見聞きした物事から、多くのピースが集まった。 例えば、もう死んでしまったおばあちゃんと幼少の頃に話していた記憶。その頃すでに他界していたおじいちゃんの事を話すおばあちゃんの口ぶりや瞳、それから口元の微かな笑みは、その頃のトアにはよく分からなかったが、今思い返すと、よく分かる。長年連れ添った大切な人を亡くす事。 トアは、感覚は、言葉のみで感じ取るものじゃないと分かった。おばあちゃんとの会話で、彼女の口から発せられたものは、意味を司る言葉だけではなく、態度や雰囲気、それから声の抑揚など、色んな事が含まれていた。 それで、トアは、こころとは何だろう、と思った。 例えば、単純に落ちる感覚。トアはビルの屋上から、下を見下ろしながら、以前行った遊園地で見たバンジージャンプをする人を思い出した。あれは、傍から見ていてもはらはらした。その気持ちが屋上にいるトアの胸に重なる。みるみる内に、体温が上昇し、目がくらむ。根源的な死を快楽と見なす気持ちと、死を絶対的に否定する気持ち。それらが高いレベルでカチカチ鋭くやり合うものだから、トアは、叫びたい気になる。それから落ちる時に全身を通り過ぎる風、重力にひっぱられる内臓、迫り来る地面との距離感を受け止める網膜など。実際に跳んだ人が「ちょーたのしかったー」とか「ちょーこわかったー」と単純な言葉を吐いていて、それから別の時にテレビでどこかの先生が「今の若い人は、語彙が乏しい」と言っていたけど、こういう感覚は、言葉で表すのは難しそうだった。 それで、トアは、ことばとは何だろう、と思った。 しかし、妙な感覚だった。 トアがパシェから聞かされた事、そして実際に自分を取り巻く世界が知らず知らずの内にほどけている事、それからそれらに対して、『普通だ』と思う自分と『変だ』と思う自分がいる事。明らかに、今までの自分の生活とはかけ離れた状態にも関わらず、自分はとてもスムースに適応している。まるでこうなる事が約束されていたみたいに。「君は、なんで自分が、って思うかもしれない。理由は簡単。人の脳には、太古の生物が持っていた脳の部分が残っている。そして、そこが普通の人より目覚めているんだね。他にも目覚めている人がいるんじゃないかって?勿論たっくさんいるよ。でもその中でも君だっていうのはね、これはある種の揺ぎ無い法則の元、なるべくしてなった結果さ。『神はサイコロを振らない』という言葉を知っているかい?これは量子力学にも関係するけど、うんぬんかんぬん…」 つまりは、自分以外の全ての要素が絡み合って、しかも確率などではなく、在るべくして自分が在る、という事らしい。 パシェの言う事を信じるとすると、例えば、ある感覚、あの通学途中のばっさり切られていた大木を目にした時に生じた感覚、をトアが感じた事を考えると、何だか不思議だ。 まず、トアがあの大木を見るためには、トアの家があの位置にあって、大木があの位置に生えていなければならない。家があるためには、両親が居て、両親がそこに居を構えた背景が脈々とある。大木があるためには、植えた人、手入れをした人がいて、大木になるまで育った環境が脈々とある。 天文学的数字の要素が、天文学的な回数掛け合わさって、『トアが首を切られた大木を目の当たりにした』という事実が生まれた。そして、その事実が元で、ピースが回収できて、そしてあの円環オブジェの一部分になるのだ。 トアは、ある絵画を見ながら、ピースを回収しようとしていた。その絵が出来るには、作者の意図があるはずだ。彼、ないしは彼女が生まれ育った土壌、文化、血などが根底にある。また、作者の培った技術と思想がある。元々の根源として、絵を描くという行為、それから色を塗る行為、そして色自体というものがある。数え切れないほどある色の中から一つの色を選んで、何十、何百という毛が合わさった筆に何十mgの絵の具が付けられ、何十回と塗られ、その時の空気に含まれた要素が合わさり、カンバスに表現された絵。 この絵は、作者一人が描いたもの、とされているが、実はそうではない事が、トアには分かってきていた。その瞬間、絵、という物事に関する感覚にまつわるピースが、トアの胸からごろごろっと幾つも零れ落ちた。作者は描かされたのか?いやそういう事じゃない。取り巻く全て、そして後世に見る者があってある種、自動的に、描けたのだ。逆に言うと、『この作品は、書いた者と、見る者がいなければ、存在しない』という事だ。 そう思った時、絵と対峙しているトアは、まるで作者が目の前に佇んでいるような気分に陥った。 こうして思うと、自分が今ピースを集めているのは、必然的な事である、というが納得が行く。ひいては、世界がほどけるのも納得が行く。 ただ、今の所、気になるのは、なぜパシェはそんなに知っているのか、という事だ。そう言えば未来から来たと言っていたけれど、パシェは誰なのか?* その疑問を解決すべく、トアが図書館に行こうとすると、母親がセロハンテープを持たせた。何に使うのか大いに疑問であったが、恐らく彼女の中では、そして今の世界では、常識的に持って出るべきものであるはずなので、トアは、ありがと、と言って受け取った。 図書館の隣の広場には、何か太いチューブが地面から生えて、地面へ埋まっていた。 中に入ると、メガネをかけたパシェが高く積まれた本の山の中心に居た。「パシェ!どう、調子は」「ああ、ご無沙汰だね。なかなかいいよ。色んな図書館に行ってね。日本語だけじゃなく、色んな世界の本も読んでいるんだ。君こそここしばらく一人で大丈夫だったかい」「うん、大分慣れてきた。こう言っちゃあ何だけどほどけの世界もキッチュでなかなか面白いよね」「余裕が出てきたみたいで何より」 受付に目をやると、ちょうど本を借りようとしている人がいた。いつもの通り貸出カードにスタンプを押すのかと思っていると、長谷川さんは、1、2、3、…と数え始めた。そして、「53」に差し掛かった時、借りようとしている人もいっしょに、53、と言った。それで受付処理は済んだようだった。「パシェ」「うん?」「あなたって誰なの?何なの?」 …と言おうと思ったけど、あまりにもストレートすぎるので、少し表現を変えたほうが良さそうだった。「パシェ」「うん?」「隣の広場にさ、何か生えてたの見た?」「ああ、地球の血管だろ」「血管?地球の?」「そうだよ。地球も生き物だから。まあ、ほどけのせいだけど」「何かキモ」「そうそうそれと、昨日のニュース見た?日本の神様は片腕なんだねえ」「え?」「神様がさ、腕が無くなった、って言って渋谷辺りをうろうろしてたから、警察に補導されたらしいよ。それにしても身長14,5メートルって言ってたからさぞ大きかっただろうね。まあ、ほどけのせいで調子に乗った下級動物霊か何かが化けているんだと思うけど」「へえー、そんな事あったんだ」「それで?」「へ?」「何か用があったんだろ」「へ?(…あ、読まれてるかな?)あ、あーあーうんうんそうそう(忘れてた、ってフリしちゃえ)」「ボクが誰なんだ、って。それを聞きに来たんだろ」「なんだ、知ってるんだ。そりゃそうだよね、未来から来たんだし」「まあそうなるけど。簡単に言えばボクは世界の心の分身みたいなもんかね。とにかく、このほどけをきちんと防いだ瞬間に生まれたんだ。世界ってのはさ、自暴自棄になっているつもりで、その癖、臆病だから、ボクみたいのが生まれたんだろう。何とかしてくれ、ってね。ほら、死んでやるー、って騒ぐ人も、どっかで歯止めをかけてたりするだろ。そういう気持ちが具現化したのが、ボク」「あ、なーるほど」「わかったかい。わかったら、もう少し収集活動を早めようか。最近ボクは目が悪くなってしまって。ボクの記憶の中の未来だと、こんな事は起きていなかった。どういう事か分かる?」「え、よく分からない」「未来が変わっている。微妙に。大丈夫だと思うけど、とにかく急ごう。あ、それと帰る途中で、遠近感が狂う事があるかもしれないけど、それは『不思議の国のアリス症候群』が、意思を持っていたずらしてるからだから、気にしないようにね。それじゃボクは忙しいから」 そう言うとパシェは、ものすごい速さで次から次へと本を読み始めた。 彼女の言い方に緊張感が混じっていたので、トアは少し急ぎめに帰る事にした。 確かに、帰り道、遠くのものが近くに感じたり、太いモノが極細に感じたりして、気分が悪かった。* それから、(すでに一日の時間は100時間以上だし、朝夜朝夜のパターンではなく、朝朝夜朝夜夜などのパターンなので、どれくらい時間が経っているのか、トアには良く分からなかった)、トアはたくさんのピースを集めた。その頃には、明らかにほどけの現象と思われる異常な事柄が多くなってきたので、トアは不安になっていた。 そんなある日、パシェが様子を見に来たので、二人はピクニックに行く事にした。そして、原型を留めていない街の高台のベンチに座ってケーキをむしゃむしゃ食べながら、そろそろ大分収集出来てきたよね、と話していると、ふいに何か、カッチリ、と螺子を巻く様なした音が鳴った。「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「うん、聞こえ」「パシェ、今の音聞いた?」「う…トア、ト」「パシェ、今の音聞いた?」「トア!トア!」「パシェ、今の音聞いた?」「落ち着いて聞」「パシェ、今の音聞いた?」「聞いてくれ!」「パシェ、今の音聞いた?」「意識を横にし」「パシェ、今の音聞いた?」「してみてくれ」「パシェ、今の音聞いた?」「横にしてみて」「パシェ、今の音、え?な」「そう、そうや」「何?どうすればいいの?」「横に意識を持」「何?どうすればいいの?」「持ってくる感」「何?どうすればいいの?」「感じだよ」「何?どうす、横にする?」「そう、横にす」 トアは思い切って、意識をぐいっと横にした。すると、パシェと自分以外はセピア色に染まっていて、耳が痛いくらいの静寂に包まれていた。見るとパシェの髪の色が鮮やかな水色になっている。「パシェ、これは?」「時間の進み方がネジれたんだ。だから時間の進み方に対する意識をそのままにしてると、ループする」「ループして、どうなるの」「ずっとループするんだ、永遠に。それより、この現象は、もう少し後に起こるはずだった。でも、今起こったって事は完全に未来が変わっている事を意味する。ほら、ボクの髪の色、こんなになっちゃった」「うわー、どうしよう」「とにかく、今集まっているピースでオブジェを組んで、供えに行こう。ボクは図書館に取りに行くから、君も君んちに取りに行ってくれ。くれぐれも意識を縦にしないようにね」「わー、意識を縦ってよく分かんないけど、急ぐよ!」* それで急いでトアは、何とかピースを持ってきて、パシェと落ち合った。が、パシェは手ぶらだ。「パシェ!あなたのピースは?」「飲み込んだ!さあ君のも飲むからどいてどいて」 そう言うとパシェはトアが持って来た袋を掲げたと思ったら、口をぐわっと5メートルほど広げてざらざらとピースを飲み込んだので、トアはびっくりした。次いで、パシェはスカートから、尻尾を取り出したので、トアはもう一度びっくりした。「し、尻尾」「そう!これを、こう君の胸に当てる。そうすると、君の心に蓄えられた『言葉や理屈を超えたものを信じる心』が取り込める」「そんなもの取り込んでいいの?もやもやしてるけど」「だから必要なのさ。よし、じゃあ行こう」 パシェがくるりと背中を向けたかと思うと、背中がぱっくり割れている。「トア、入って」「え、入ってったって」「いいから、大丈夫だから」「そう?じゃ、じゃあ失礼しまーす…」 ゴムの様に柔らかいパシェの背中の入り口に手を添えて、恐る恐る入ってみると、中には永遠を思わせる広大な暗闇があった。否、宇宙空間が広がっている。宝石のかけらの様な星光が舞うその光景を前にして、トアはそれを自分がお母さんの中で見たようなデジャブを覚えた。そして、今通った入り口が外から内へと、ぐにゃっと捲くれて、反転したパシェが現れた。「パシェ、これって…」「この底の方にね、このオブジェを供える『世界の根源』があるんだ」 パシェの手には、あの円環のオブジェがあった。それは、以前イメージしたようにひどく美しかったが、何か不完全に見えた。「思っていたよりピースが集められなかったけど、ちゃんと模様が成り立ってるから大丈夫だと思う。さ、行こう」 二人は、透明な螺旋階段を降りていった。上も下も右も左もよく分からない宇宙空間を降りていくのは、妙な感じだった。一応下っている方向を見ると、目が眩む。最初緩やかだった螺旋は、徐々に狭まってくる。普段、能弁なパシェは一言も喋らないので、トアもそれに従った。* そうして、数時間も下ってすっかり時間の感覚が無くなった頃、どうやら一番底へ着いた様で、しばらくぶりにパシェが口を開いた。「トア、この床に窪みがあるはずだから、探してみて。腕一本くらいが入る穴があるから」 トアは這いつくばって、床を手探りしてみると、窪みがあった。そしてパシェの指示通り、その窪みに手を突っ込んだみた。「奥の方に何かひっかかるものがあるはずだから、それを押してご覧」 言われた通り押してみると、透明な床が開き、全てを溶かす様な眩い光が溢れ出したので、トアは目をぎゅっとつぶったけど、まぶたを通して光が強く存在感を主張する。パシェにオブジェを手渡されたトアは、その光の中へ、オブジェを静かに供えた。「よし、これでOKだ。後は、世界がこれを元にして再生を始める。トア!お疲れ様!」「本当?あー良かった!というか、何だかすごくすごく嬉しいよ。パシェこちらこそ色々ありがとう」 それから二人は地上へ戻った。「トア、もし本当に世界がきちんと再生し終えたら、ボクは、いなくなる。というか、生まれていく訳だけど、一つ気になっている事がある」「うん?」「ここまで来るのに幾つかのイベントの発生順序が違かったり、起こらなかったりしている」「はあ」「ともかく、もうしばらく様子を見よう。何かあったら、ボクは図書館にいるから」 そう言うパシェは、心なしか、何か焦っている様に見えた。* そして次の日、世界は、すっかり元通りになっていた。「トアー!起きなさーい!」 とママの声を聞いて、ああ戻ってきた、とトアは実感していた。いつも通り支度をして学校へ行ってみると、いつも通り生徒たちがいた。日常っていうのは、しばらく離れていると何かかけがえの無いものに思えるのだなあ、と思いながら、何気なくある生徒の顔を覗いてみると、のっぺらぼうだった。 トアはびくっとして、他の生徒を見ると、どの人もどの人ものっぺらぼうだった。 うわ、これまだほどけてる、と思ってパシェに相談するべく図書館へ行った。 行く途中、みんなのっぺらぼうだった。ひょえーっと思いながら駆けていくと、所々真っ白な空間があった。試しに踏み込んでみると、どこまで言っても真っ白だった。サーカスの夢で見た荒野が思い出され、慌ててトアは抜け出した。 息を切らせて図書館に着くと、パシェが居たからほっとした。「パシェーっ、まだほどけてるよ。あのね、顔が無い人がたくさんいてね…!」 彼女がゆっくりこちらを向いて、何か白く膨らんだような顔で、笑いをかみ殺しているような表情をしている。「…パシェ?」「のっぺらぼうが何だって?何?君、その人たちの事知っているの?」「え?」「全部ね、ぜえええんぶね、記録が無いと、そりゃ白紙に決まってる!そんなとこまで元通りになるはずないだろ。その人たちの顔が必要だったら、記録が無いと駄目さ!記録を持って来い!全ての表情のな!さもなきゃのっぺらぼうに囲まれて暮らすのさ!うヒヒヒヒひひいいいいイッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッ!」 パシェの顔が、ぐうにいやあーーーーーん、と禍々しく歪んで、それでトアは目を覚ました。 汗をびっしょりかいていた。 時計を見ると午前49時、長針と短針の他に、7本くらい針がくるくる回っている。時計盤の数字が反転してるので、その辺の本を見てみると、全ての文字が裏返っている。外は暗いままで不自然に雨が降ったり止んだりしている。ほどけはまだ続いているみたいだ。 台風が来る前のような天気の中、トアは、急いで図書館へ向かった。 周りには人影がまったくなかった。その代わりに、何か黒い蠢くものが居た。ひどくゆっくり動くそれらは、不気味な様子で複数の手足を絡ませ、背中についている奇数個の目で、トアを見ながらうろうろしていた。 夢で見た様に、ひょえーっと思いながら、何とか図書館に着くと、パシェが本に囲まれて必死に本を捲っていた。髪が銀色になっている。「パシェ!」「あっトア!良かった。もう来る頃だろうと思っていたが」 いつもの彼女だったので、トアはひとまず安心した。「ほどけはまだ続いているのね」「ああ、しかも速度を速めている。ほら、文字まで反転してしまったから参ったよ!」「髪も銀色になっているじゃない」「そうさ、この展開はボクの未来では無かった。来る途中、黒い奴らを見たかい?あれはね、存在を食ってしまう奴らなんだ。ボクの未来では数匹現れた時点で、ほどけを止めたから良かったけど」「街にうじゃうじゃいるよ、どうしよう!」「さあて、参ったね。あれに食われると無くなってしまうから…つまり最初から無かったことになってしまうから、さっさと止めないといけないんだけど。でも大丈夫、ボクには別の手がある」 パシェはそう言うが、明らかに焦っている。トアは喋っている間にも、次から次へと本を読んでいる。「あれもほどけが原因なの?何か明らかに異質な感じだけど…」「奴らは、本来いるべきでない者たちさ。世界の外から来ているね」「どうしてそんな奴らが居るの?」「あの供えた円環のオブジェが不完全だったんだろうな。あれはある種の結界なんだけど、うまく機能していないらしい」 外では急に強い風と共に雨が降り出してきたので、ますます不穏な雰囲気になってきた。「やっぱり、文字の記録ってのは、人間が捏造したものもあるし、それから意図的にも、自然的にも記録に残らなかった歴史があるだろう。だから言葉の情報は、ある種、不浄っていう面もある」「そんな」「それに感覚だって、今は死滅した病気に罹った人の感覚とかさ、それから絶えてしまったフォークロア、つまり古く伝わる風習・伝承とかさ。そういう、人々を超越した、畏怖の対象として機能してきた物事っていうのは役目を終えて淘汰されたしまった訳だけど、逆にそういうものを通じて共有できた事があったわけさ」「共有?誰が?」「人々がね。意識の底でさ、共有してたんだよ、そういう物事を。でも、それも無くなってしまった。科学的、論理的に見て価値の無いものは、必要無い、迷信だってね。しかし、悪いものを取り除く、っていうのは一つの手段であって最良の手段じゃない。逆に悪いものがあるから注意したり戒めたりして、より安全に生きようとするだろう。少量なら毒は薬なんだよ。今はそれが無い」 何だか、とっても悪い状況のようだ。今朝見た夢のように、パシェがいひひひーっと笑い出したらどうしよう、とトアは思った。「じゃあどうしようか」「これはね、その絶滅してしまったものをカバーしないとだめなんだと思う」「集めるっていうの?文献にも残ってないんじゃもう手立てがないじゃない」「いやその辺もひっくるめて、もはや人外の存在に頼るしかないね。模様はあれだけの完成度で落ち度は無いはずだけど、最後に世界をもう一押ししてあげるというか、よーし、再生するかー、という気にさせてあげるというか。それが出来るのは人外の存在だし、それに訴えかけられるのは、今の所トアだけなんだけど」 パシェはこめかみに指を当てながらそう言うと、黙ってしまった。 険しく空を睨んでいる。 トアは、ドキドキして、胸が痛かった。どうすればいいの?「『トアなんだけど』、で、結局どうすればいいの?」 パシェはみじろきもしないで、その姿勢を保っている。「パシェ?」 目を合わせもしない。窓の外には、あの黒く気持ち悪い奴が、たくさん張り付いている。どこからとも無く、おんおおーーん、という鳴き声ともつかない聞いた事の無い音が響いてくる。「ちょっとパシェ?」 彼女の肩を揺すろうとすると、ふいに肩がざらざらざらっと崩れ、それからパシェ全体がざらあっと砂のようにばらばらになってしまった。 トアは息を飲んだ。 どういう事?落ち着いて。 パシェがいなくなった。 つまりこれは、未来が無い事を意味する?一気に汗が流れ、パシェであった砂にぽとぽと落ちる。 ちょっと待って、ほどけるんだよね。そうなると全てが台無しになるんだよね。どうすれば良いの?パシェが言った人外って何?そういえば以前、人や言葉を超越した存在が居る、という事を知っていれば良い、って言ってた。えっと、えっと。絶滅したものをカバーする?無いものを?それらがあった頃を知っているモノ…神様とか?でも文献に残っている神様はパシェがカバーしたし… バゴンッッという音と共に、向こうの空間が破裂する。爆発したのではなく、食べられてしまったように、真っ暗な空間がぽっかり浮かんでいる。あちらこちらで、空間が破裂していく。窓から外を見ると、もう見た事の無いような絶望的な風景が広がっている。世界が崩れていく。 パシェ、どうしよう。どうすればいいの?パシェはもういない。でも、そうだ、星を見る時は、暗闇を見ろって言っていた。暗闇は何を暗喩しているの?あの真っ暗な空間?いや違う。人外…人じゃないのは、神様…その中でも、未だ人が知らない神、が必要って事なの? トアがそう思いついて立ち上がった拍子に、隣の空間がべりべりと破れ、向こう側に荒野が揺らめきながら現れた。どこかで見た荒野だ。荒々しい雷雲がゴロゴロ立ち込めていて、丘の方に何か立っている。 咄嗟にトアは、藁をも掴む気持ちで荒野へ飛び出して、丘を駆け上がった。 そこには古びた祭壇があり、何か書かれている。トアは息を切らしながら、読んでみた。「agn…nost…os the…os…、はあ、ふう、agnostos theos?」 意味は分からなかったが、読み上げているトアの脳裏にはあの円環の模様が浮かんでいて、確かに模様の真ん中辺りが一際輝いていて、トアは根拠無く確信した。 トアは、もう一度、はっきりと読み上げた。「Agnostos Theos!」 その瞬間、ものすごい閃光の中、ほとんど透明に近いパシェが揺らめきながら立ち現れた。「パシェ!」「トア!良かった、それでいいんだ、Agnostos Theos、ギリシア語で『知られざる神に』という忘れ去られた賛美の呪文だ!これでいい、世界は蘇る!ボクは生まれいくよ!さよならトア!」「パシェ!ああ!さよならーーー!」 光をまとったパシェは、まばゆい光を放つ円環のオブジェと絡まり、無数の光の渦をまき散らしながら、空へと舞っていった。それを見上げながら、トアは、言いようも無い多幸感に包まれ、そして遥か昔に、同じ様に知られざる神に気づいていた人を想った。多分その人が、星を見る時には暗闇を見よ、と言ったのだろう、と思った―――*** 気づくと、そこは図書館だった。 夕日が差し込む静謐な雰囲気がやけに懐かしい。「パシェ?」 向こうで本を読んでいる女学生が、何か言いましたか?という様に、不思議そうにこちらを見て、すぐに本に視線を戻す。受付には、長谷川さんが貸出カードを音を立てずに整理している。トアは、自分が寝ぼけている、と寝ぼけながら思った。えっと、今私は何と言った?えーっと。えっと。何か大事な事。さっきまで掴んでいたのに。もうするりと手のひらから無くなってしまった。掴んでいた感覚だけが思い出される… そして、トアは、思わず戸惑った。それは、自分の握ったペンの先に、明らかに自分の字で、以下の通り、書いてあったからだ。『2013ねん、11がつ11にち、あなたがよくいくとしょかんで、あいましょう』 書いた覚えは、まったく無い。誰に宛てたのか、どの図書館なのか、知らない。 よく分からないのだが、トアはそのメモを本に挟んで、本を戻して、図書館を後にした。 彼女は、なぜその一文を書いたのか、そして本に挟んだのか知らなかったが、そうしなければならないと確信していた。あのメモを受け取る人と会う予感もしていた。 もう一度、はっきり反芻した。よく分からないのに、妙な確信は、有る。 それから、彼女は、恐怖が入り混じった奇妙な安らぎを感じながら、自分がいかに不確かな存在であるか思った。そしてその心に朧気ながら浮かんだなものを注意深く掬い、ふいに悟った。つまり、自分は、『夢を見られている』、『誰かの見ている夢の中の存在に過ぎない』、と。 だから、さっきのメモは、夢を見ている本人へのメッセージなんだと思った。つまり、この話を読んでいるあなたへ、と。 |
[ 115] WEB MAGAZINE "mistoa": loiol / 「ほどけととあ」
[引用サイト] http://mistoa.seesaa.net/category/2610348-1.html
