愛想とは?

何故そういう注釈を付さねばならぬのかと言うと、進学や就職の都合などから本土での生活経験のある人たちはそこで愛想笑いを覚えてしまうので、私がここで言う八重山の人の範疇には入らないのである。
このことを端的に言うなら、元来の八重山の生活や文化には愛想笑いが必要なかった のであり、愛想笑いなるものが現在の八重山にあるならばそれは本土の人間が持ち込ん だものとなる。
勿論、私もその本土の人間の一人であり、本土の生活や文化によって愛想笑いを仕込まれた一人であり、愛想笑いが極当たり前の行為と思っていたわけであ からこの地に初めて足を踏み入れた時は、己の顔につい浮かんでしまう愛想笑いのやり 場に困ることがしばしばであった。
島のオヤジどもと共に肉体労働に汗を流し、休憩時 間となって清涼飲料水の配給など受けながらその場に集ったオヤジどもに愛想笑いを向 けた時、我が身の困窮は明らかとなる。
無意味に頬を緩ませた自分が馬鹿か阿呆の類に 思え、激しい孤立感に苛まれてしまうのである。
いや、正直に言おう。この地に来たばかりの時分の私は自分を馬鹿とか阿呆と思うの ではなく、お愛想の一つも出来ない島のオヤジどもこそ馬鹿か阿呆なのだと断じていた 。
人間って奴は海ばかり見て暮らしているとこうも表情が乏しくなってしまうものなの かと結構辛辣な思いを腹に抱えていたのである。
しかし、島での私の暮らしも五年目に入り、いつの間にやら自分自身が愛想笑いをし なくなってしまったことに気付く。
とは言っても長年の本土の暮らしで培われてきた習 性であるから、まったく消えてしまったわけではない。やはり愛想笑いをするときもあ る。
教育とは何も学校で習うものだけが教育ではなく、 親なり親戚なり近所のおばちゃんなりから常識や社会規範として与えられるものだって 教育に他ならず、学校で習う勉強に疑問を挟むことはあっても常識や社会規範として教 え込まれることに疑問を挟むことは大抵の場合ゆるされないのだから、学校のお勉強な どより強制力が大きい分だけ常識や社会規範としての教育のほうが反動としての怖さも 大きいのである。
そのあたりに昨今本土界隈で頻繁に起きている尋常ならざる事件の背 景があるように私には思えるのだが、それはともかく本題に戻ろう。
適度なお愛想であればそれは人間関係の潤滑剤ともなり えるのだろうが、愛想笑いから入る輩というのは今一つ信用がおけないし、愛想笑いを 続ける奴、お愛想が過ぎる奴などは決定的に疑ってかからねばならぬと。
愛想笑いと言う行為そのものが悪いわけではないが、過度な愛想の良さは腹に抱えた 悪意を覆い隠すための術なのではないかと私は断じるのであり、それは我が身を鑑みて も明らかであるから私はそう確信せざるを得ない。
そして、同様に経験と体験から導く ならば愛想の裏に隠しているものは悪意ばかりとも限らない。
逆説的な表現だが、隠さ ねばならないものを何も持っていない人もまた愛想が良すぎるものである。
つまり、相 手に対しての接し方もわからず、相手の言葉に返すべき言葉も持たず、意見も信条も持 っていない人と言うのは、自分が何も持っていないことを相手に悟られまいとして無意 識のうちに愛想笑いなんぞを用いて体よく粉飾して見せる場合が多々あるわけで、かか るに過度の愛想笑いには注意して掛からねばならないのだが、八重山の人と接するに当 たっては斯様な注意を払う必要がないから気楽なのである。
誤解を招く表現かも知れぬが、八重山の人はそういった粉飾がたいへん下手であり、 ある意味でたいへん正直な人たちなのである。
優しい人は優しい顔であり、ぶっきらぼ うな人はぶっきらぼうな顔をしているし、悪人の方はきちんと悪人面 をしているのだ。
「ぶっきらぼうで何 が悪い。俺はぶっきらぼうなんだから仕方ねぇだろう。それが嫌なら俺の前からさっさ と消えちまいな」
以上は簡潔化した例えでしかなく、人の内面を単純に推し量ってみてもあまり意味の ないことだが、良きにつけ悪しきにつけ八重山の人との付き合いは本土での一般 的人間 関係より明瞭なものであることは間違いない。

[ 20] The 八重山見聞録 愛想
[引用サイト]  http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2520/report51.html



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