ガダルカナルとは?
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毎月発行される当会の会報は、529号を数えています。憲法記念日にちなんで、今回は、過去の記事の中から、ガダルカナルでの戦争体験を書かれた会員の記事をご紹介します。なお、昭和42年当時に書かれた原稿の原文をそのまま転載させていただきますのでご了承下さい。 日本が大東亜戦争に突入したのは、昭和16年12月8日未明のことである。当時私は南支にあって香港作戦に参加し、その後アンボン、チモール、ジャワ、ガ島、ボ島、と転戦し、敗戦をニューブリテン島で迎える日まで青春の一切を犠牲にして祖国防衛の尖兵として日夜戦斗に明け暮れていたのである。 大東亜戦争の是非は後世の史家が明らかにするであろうが、少くとも我々はひたすら祖国の加護と繁栄を信じて南浜の地に若き命を失った幾多の将兵に対し、その死を決して無駄にしてはならないし又このことを決して忘れることがあってはならないということである。 第二次世界大戦という多大な犠牲を払って漸やく獲ち得た平和が今日果たして維持されているであろうか。戦後朝鮮動乱を始めとして、イスラエル紛争、印パ紛争、南阿の反乱等一日も晏如(あんじょ)たる日はない程である。今尚ベトナムでは巨大な出血を強要されており住民の生活は全く破壊されていると聞く。人類の歴史は治乱興亡の歴史といわれる。破壊と建設それが人類に課せられた宿命というのであろうか。今こそ世界の雄国の指導者らにはこの地上に人類の永遠の平和と繁栄を築き上げるためにその卓越せる指導力を駆使して、その叡智と勇気を傾注すべき義務があるというべきではないか。 戦後22年。日本は敗戦の廃墟から立ち上り、世紀の驚異とまで云われる繁栄を示しているが、その底辺に戦争の危険が絶無であるという何等の保証は全然ないのである。 若き日大東亜戦争中最大の激戦地といわれた「ガ島」に一兵士として参加し、辛くも、九死に一生を得て生還したが、今日ベトナムの戦争記事をみるにつけ、ガ島を想起する心がしきりに高まり、その頃の憶い出を書き記しておくことは苛烈無残な戦争を通して真の平和とは何かということを理解する上に決して無意味ではないと思い敢えてこの小文の筆を採ることにした。 大東亜戦争の緒戦に挙げた電撃的戦果は昭和17年の中頃より漸やく衰退を見せ始め、アッツ島の玉砕、ミッドウエーの敗北、ガ島の撤退、ニューギニヤの苦斗と打ち続く悲報は祖国日本を震撼し、次第に敗戦の色を濃くしていった。 この頃の日本の戦域は北は満州より、支那全土に亘り、仏印からマレー半島、蘭領東印度諸島から太平洋諸島に及び、その戦域は史上最大となっていたのである。ガ島はその東南端の防衛線上にあり、日本にとってはガ島を扼することは対濠包囲戦上不可欠の要請であり、米国にとってはガ島を失うことは米濠間の連絡を断絶するという作戦上の理由が、太平洋上の一小島のガ島をして大東亜戦争中最大の激戦地たらしめたのである。 日米両国がこの一小島を太平洋戦争の天目山としてあらゆる戦力を投入し、米国は米海軍最強といわれる第七海兵隊を出動させ、連日熾烈なる砲火を日本軍に浴びせたのである。ために、さしもの千古の密林も丸裸となり、山容俄かに改まるという状況であった。 ガ島に最初日本軍が上陸したのは昭和17年5月頃、400名の海軍陸戦隊と千数百名の工作隊であった。だが8月には米軍の猛攻の前に全滅してしまった。その後陸軍が続々と投入された。 先づ8月旭川師団の一木大佐の指揮する一個大隊と配属部隊が上陸したが間もなく全滅、連隊長は割腹自殺、軍旗を川中に埋めるという悲運となった。その次に9月牟田口兵団の川口少将の指揮する一個連隊を基幹とする兵団が上陸したがこれも殆んど全滅、ついで10月丸山師団が上陸したがこれ亦全滅、最後に第三八師団が投入されたのである。 敵の優勢なる兵力に対しこのような出し惜み的な戦力の投入によってガ島を奪取できると考えた上層部はその作戦において大なる過誤を犯していたものというべきである。 制空権も制海権もないガ島の上陸部隊は常に2、30倍以上の敵兵力と死斗を続けなければならないという悪条件の上に、食糧弾薬の欠乏は更にこの戦斗を悲惨にした。栄養失調で死んだ者はその数を知らず。その凄惨さは筆舌に尽くし難し。 運命の日。忘れもしない昭和17年11月5日その未明、我々は初めてガダルカナル島に第一歩を印した。これまで大東亜戦争勃発以来殆んど無傷に近い第三八師団がここで大半全滅し、生還したものは1割にも達しなかった苛烈なる戦斗の序幕となったのである。私は第三八師団歩兵第二二八連隊第一二中隊に所属してこのガ島に上陸したのである。 ガダルカナル島は南緯9度に位し東西130粁(キロメートル)南北40粁(愛知県よりやや大きい)のソロモン群島の一小島であって海岸線に沿って椰子林が密生し、その奥地は昼なお暗きジャングルを形成し、食物もない全くの無人島である。 ガダルカナル島は赤道直下の太陽のギラギラ輝く明るい島である筈であるが、今脳裡に残っているのは凡そこの世のものとも思われない陰気な、無気味な死の島ということである。ガダルカナル……何という薄気味の悪い語音を持つ言葉であろうか、当時我々は餓死のガ島といっていた。 その日未だ明けやらぬ船上からガ島を眺めるとボンヤリと鬱蒼としたジャングルが海辺に迫っていた。風もなく波も静かで空にはまだ星の光が明滅していた。ガ島は死んだように静まり返っていた。しかし上陸地点には数隻の日本の船舶が擱坐(かくざ)していて先日来の戦斗の苛烈さを物語っていた。 上陸開始の指令で海中に飛込み、その儘上陸地点であるタサファロングに向って急いだ。まだあたりは暗い。中隊全員が上陸を了えたところへ、先に上陸していた某部隊の将校がジャングルより出て来て「こんな所でグズグズしていると艦砲射撃にやられるぞ」という第一声を聞いた。我々は支那事変以来艦砲射撃の洗礼を受けていないので、その恐ろしさをその時まで全然知らなかったのである。 しかし夜が明けてからそれが現実化されるとその恐ろしさをいやという程知らされることになった。取るも取敢えずジャングル内に入り壕を掘ることになった。しかし前日来一睡もしていないので穴堀りも容易に進まなかった。夜が明けるまでに漸やく膝の部分位の穴しか堀れていない。ガ島は日本より東に位置するので午前3時頃に夜が明ける。もう猶予はない。既に艦砲の音がし始めている。敵は定期便の如く海岸線に沿って射込んで行く。至近弾が烈しく落ちるので、更に奥地に入る。我々の目標はルンガ岬にある敵を攻撃することにある。しかしそこに達するのは容易ではない。距離はせいぜい40粁であろう。しかし敵機が縦横無尽に銃撃を加え到底昼間の部隊行動はとれない。夜間、しかも海岸線は進めず、真暗なジャングル内を進まなければならないので異常な時間がかかる。 着衣はボロボロ、負傷した箇所にむらがる銀蠅を追う気力もなく、うつろな眼で何処へ行くのか戦野を彷徨している姿である。これが勇猛をうたわれた二師団の敗残の姿だ。我々より1カ月前に上陸し総攻撃に失敗した残党であったのである。このとき我々は1カ月先きには同じ運命が待っているとは少しも知らず、その無気力に寧ろ軽蔑の目で眺めていたのである。 上陸3日目、コカンボナを経て勇川に達す。ここからの前進は至難を極めた。耳底に響くのは烈しく射つ敵の弾丸の音だけだ。この3日間何処で寝て、何処をどう行動したのか、さっばり判らない。 ともかく勇川のほとりの真暗なジャングルで野営したことを今でもはっきり憶えているというのは、翌朝とんでもないことが起きたからだ。 我々が上陸する以前に上陸していた部隊で岡部隊というのがある。この部隊は川口支隊の一個連隊であるが、敵陣に総攻撃をして全滅したが一部残党が指揮系統を勝手に離脱して戦野に彷徨していたのである。 既に2カ月に亘り軍の食糧から見放され野盗化していたのである。この野盗は餓狼と化して新しく上陸する部隊を狙い携帯する食糧を掠奪し、時には殺害もするという手合である。日本軍の道義は既に地に堕ちていた。尤も彼等をかかる状態にした軍も悪い。 私は上陸3日目の夜連日の疲労で不覚にも昏睡していたらしく、近づく人の気配すら感じなかったのである。ところが翌朝目が醒めると、前夜枕にしていた背のうが失くなっているのである。この中には食糧が10日分はゆうにあり、煙草その他身廻品が一杯入っていた。 私が中隊で最初の餓狼の餌食となったのだ。私は限りない憤りを覚えた。既に前線を脱走した野盗がこれから前線に向うべく休息している兵隊の食糧を奪うとは、何という非道の奴輩と烈しい怒りがこみ上げた。 彼等が暗躍するのは比較的後方地区に属するところである。彼等には軍人精神不在である。従って弾の烈しく落ちるところにはいない。このような事件は前線では起こらなかったからである。 しかし後方地区では糧秣輸送隊の落伍者が殺害され糧秣を強奪されたことが屡々(しばしば)あったことを後で耳にしている。 私の今までの経験ではかかる前線を脱走し、野盗化した友軍によって脅される事例はなかったので、ガ島という異常な戦場、即ち戦力なき者への非情性が作り出した特有なものであったかも知れない。負傷しても手当されず、病に倒れても薬すらない。医療設備は皆無に等しく、兵站病院は死体処理場と化していたのである。衛生兵の仕事は毎朝死体を勘定してこれを一箇所に集めることであった。 戦列を離れた彼等に食糧の配給はなく、従って野盗化せざるを得なかったであろうが断じて許すべきではない。速かに戦列に復帰すべきである。しかし彼等には戦意なく、唯一匹の餓狼に堕していたのである。全く救いのない戦場というべきである。 上陸4日目初めて中隊で戦死者が出た。T上等兵だ。この日までは敵は定期的な射ち方であったが、新上陸部隊を察知したのか、一段と烈しい射ち方に変って、ジャングル内に猛射を浴びせて来た。 他部隊でも夥しい死傷者が出たが、わが中隊ではT上等兵一人が壮烈な戦死を遂げた。Tは私と同年兵の戦友で、頭がすごく切れるという方ではないが、仲々世間慣れしていて、所謂要領のいい方で皆の気受けもよく、又瓢軽な奴で、変な流行歌等を口遊んでいた。よもや彼が真先きに死ぬとは思わなかった。惜しい男だった。穴を堀り死体を手厚く葬ってやった。だがこのときはまだよかった。これから連日の如く戦死者を出したが死体を埋めるということは殆んど出来ず、戦野にそのまま放置されていた。生存者にも余裕がないし、体力的にも戦況的にも許されざる状況であった。 これからの3カ月間、死体は山野に散在し屍臭はジャングル内を充満した。その状況は到底筆舌に表し難い。悲惨悽愴という外はない。 死体には何万という銀蠅がたかり、口、目、鼻、肛門、穴のあいているところには無数の蛆がうごめいていて、膚に粟を生ぜしめる地獄の世界だ。 死体は2、3日で、もの凄く青く膨れ上り、その内毎日降るスコールと暑熱のため、10日間位で白骨化してしまう。ヨレヨレの軍衣を骸骨が纏っている格好だ。 はじめは恐怖と戦慄を感じたが、その内に無神経となり、そのようなものを見ても何とも思わなくなった。驚くべき心理状態となるものだ。これは体験しなくては到底理解できない心的変化である。 |
[ 169] ガダルカナル
[引用サイト] http://www.aiben.jp/page/library/kaihou/4205guadalcanal.html
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FS作戦 - ウォッチタワー作戦 - ガダルカナル島 - 第一次ソロモン - 第二次ソロモン - サボ島沖 - ヘンダーソン基地艦砲射撃 - 南太平洋 - 第三次ソロモン - ルンガ沖 - レンネル島沖 - ケ号作戦 - ビスマルク海海戦 - ビラ・スタンモーア - ニュージョージア島 - い号作戦 - クラ湾 - コロンバンガラ島沖 - ベラ湾 - 第一次ベララベラ - 第二次ベララベラ - ラバウル攻撃 - ブーゲンビル島 - ブーゲンビル島沖 - ろ号作戦 - セント・ジョージ岬沖 ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい, Battle of Guadalcanal)とは、太平洋戦争において1942年8月以降日本軍と連合軍がソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。 日本は太平洋戦争開戦後の緒戦の勝利によって、援蒋ルート遮断と南方資源(原油、天然ゴム等)の獲得のため、ビルマ、フィリピン、シンガポール、インドネシアの広大な占領地を獲得したが、それ以降の連合国に勝利するための第2段作戦については明確な方針を持てずにいた。 日本海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。その海軍が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第2にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。 日本陸軍は、当初中国などの大陸方面での作戦を重視しており、太平洋方面は海軍の領域であるという認識に立っていたため、太平洋での作戦遂行にほとんど関心を払わなかった。したがって大兵力を満州や中国から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、将来の反攻拠点となりうるオーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。そこでオーストラリア攻略作戦に替わって立案されたのが、いわゆる米豪遮断作戦である。この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(「MO作戦」)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(「FS作戦」)から成るものであったが、「FS作戦」遂行にあたって5月に前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。 一方、アメリカ艦隊をおびき寄せるべく実行されたミッドウェー攻略作戦であったが、日本海軍は逆に主力空母4隻を失うこととなり(ミッドウェー海戦)、「FS作戦」の実施は一時中止されることとなった。しかし、守勢に回ったとしても必要となるソロモン諸島の制空権拡張のため、ラバウル以南の前進航空基地を建設する必要を認めた大本営は、ミッドウェー海戦後の6月下旬にガダルカナル島の飛行場建設を正式決定し、航空偵察の後、7月6日に第11・13海軍設営隊2,571名が建設作業を開始した。設営隊がこの地に赴いた当初、大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、当地においても戦闘能力のある人員は設営隊と海軍陸戦隊を合わせても600名足らずであった。ちなみに連合軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。 しかし、日本側の予想を覆す形で、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となる「ウォッチタワー作戦」を発令した。当初、米国陸軍マッカーサー大将は、ミッドウェー海戦で勝利したことから「ウォッチタワー作戦」の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張していたが、太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に米国海軍作戦部長のアーネスト・キング大将から猛反対され、先のMO作戦で日本軍に占領されたツラギ島奪回とその近くで飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への布石が打たれた。 これが、ガダルカナル島、そしてヘンダーソン飛行場(ミッドウェー海戦で空母「飛龍」を爆撃した際、帰還不能とみて飛龍に体当たり自爆した海兵隊員ロフトン・ヘンダーソンに因んで名づけられた)を巡る、日本陸海軍と連合軍による戦いの幕開けであった。両軍とも当時、ガダルカナル島を戦略的要衝と位置づけていなかったため、これが半年以上もかけて争われる太平洋戦争の象徴的な戦いになるとは意識していなかった。 8月7日午前4時、海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。 8月7日、ガダルカナル島の日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。上陸当時、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。この上陸戦において、米軍側公刊戦史は小銃、機関銃数挺、70粍山砲及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えている。一方、第13設営隊隊長岡村少佐は冷静に指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長門前大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川を第一戦陣地とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせてガダルカナル島守備隊を構成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊にマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料はわずか7日分であった。この後、海軍ガダルカナル島守備隊は、8月10日以降、飛行場地区の占領を終えたアメリカ海兵隊の強襲を何度か受けながら後退を繰り返し、9月11日に蟻輸送と呼ばれる舟艇機動でガダルカナル島北西に上陸した岡部隊(歩兵124連隊第2大隊基幹)が到着するまでガダルカナル島の日本軍西部正面陣地を形成した(海軍陣地からは、8月20日午後2時25分にヘンダーソン飛行場へ艦載機20機うち戦闘機5機が飛来したことなど貴重な情報が第八艦隊司令部に報告されている[1]。また、一木支隊の攻撃の際には銃爆撃音が届いていたが遠く離れていたため戦闘に参加することは無かった[2])。 なお、連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と第八艦隊(三川軍一中将、重巡4、軽巡1、駆逐2)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍はグァム島の一木支隊、パラオ駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。米軍上陸日当日から翌日にかけて行われた25航戦による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃により効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。また、第八艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達しそこで連合軍艦隊と遭遇し、第1次ソロモン海戦が戦われ、重巡4を撃沈し同1を大破させる快勝を演じた。重巡「鳥海」艦長早川幹夫大佐は、余勢を駆って再度ルンガ泊地へ反転し敵輸送船団を攻撃するよう意見具申した[3]が、敵空母の存在と揚陸作業後のカラ船との心中を懸念した三川中将は未明のうちに戦場離脱を指示ししたため本来の目的である揚陸中の敵輸送船団を撃ち漏らす結果となったことが「小成に安んじた」[4]として非難される一方、先任参謀神重徳大佐は主要幕僚では唯一三川中将をかばって「(反転攻撃により戦域離脱が遅れれば)敵空母の追跡を受ける危険性が大である」と擁護した。なおガダルカナル水域にあった米空母「サラトガ」、「エンタープライズ」、「ワスプ」の8月8日午後11時の位置はサンクリストバル島南西沖を南東方面に移動中で、結果的には反転しても敵空母追跡の懸念は無かったといえるが、当時の第八艦隊司令部にはそのような情報は無く、9日午前零時23分に「全軍引き上げ」を各艦に下令し未明に戦域を離脱した。 上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルの米軍揚陸地点を危険と判断したフレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで同島への物資補給は米軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった(後に日本軍はこの手法を「鼠輸送」と称して常用するようになるのである)。 一木清直大佐率いる一木支隊(第七師団歩兵第二十八連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため攻略作戦は中止となり、一時グァム島に休養を兼ねて留め置かれ、同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦「陽炎」以下6隻に第1梯団として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾砲24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が急派されている。残りは同時に輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが9.5ノットの低速が災いし、イル川渡河戦(米国名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。駆逐艦輸送では上陸用舟艇が使えないため一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や駐ソ武官からの希望的観測が交錯した極めて楽観的なものであったといわれる。そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行しジャングルに追い込まれた海軍陸戦隊高橋部隊・第11設営隊・第13設営隊の残存勢力を保護すると同時に、逃亡前の敵兵力を捕捉撃破することが戦術目的とされた。なお、一木大佐は陸軍歩兵学校の教官を数次にわたって務め、良くも悪くも当時の陸軍を象徴する銃剣突撃主義を体現したような人物であったとされる。 情報が不足する日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日にコーストウォッチャーの通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知し、19日昼には倒した日本軍斥候兵の階級章からタイボ岬から上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。 8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら東を目指して前進し海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により20日夕刻頃までにはテナル川を越えイル川西岸地域まで到達している(行軍行程は15キロ程度だったが、一木支隊に陸軍から与えられた地図は島の概図とタイボ岬周辺図と貧弱で、原住民との協力もままならず海岸沿いの砂浜の徒歩行軍を強いられたため部隊の疲労度は高まった)。なお、当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き飛行場所在している敵残存兵力を攻撃することとしていたため、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。そのため、20日18:00にイル川を越えて先行していた斥候将校渋谷大尉・館中尉らを含む34名中31名がアメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に会う。2時間後に離脱兵から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。ここに至っても一木大佐はまったく敵情を把握していなかったと言えよう。 21:00頃にはついに一木支隊の尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流し一木大佐は22:30より歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。しかし、火力の差は明確で37ミリ対戦車砲、75ミリ迫撃砲、105ミリ迫撃砲などを有する強力な砲兵に援護された機銃座陣地を前に100名余の損害を出して一旦攻撃を停止するのやむなきに至る。しかし、敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は1時間後に同様に白兵攻撃を命じて同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機や手榴弾による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが一木大佐は聞き入れず、その後、海岸近くに渡渉に適した砂州を発見したとの情報を得て状況を確認し、その砂州のうねりが対岸機関銃座からの遮蔽物になると考え、渡河点を海岸砂洲に集中することとした。加えて一木大佐は渡河点を下流に移すことにより敵東岸陣地への迂回攻撃を企図したとされるが、敵陣地が飛行場西側からイル川西岸、海岸に至る地区一帯に形成されていたことは知る由も無かった。21日午前2時ごろ一木大佐は、残存したわずかな歩兵砲、擲弾砲による砲撃の後、白兵突撃を命じた。しかし、うねりに見えた砂州は結局平坦で何の遮蔽物にもならず、強固に築かれた敵海岸陣地への正面強襲となり、一木支隊はここでも多くの将兵を失った。ようやく午前5時ごろ一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からはアメリカ海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。さらに同日午後から投入された水陸両用戦車6両により支隊本部は蹂躙され、ある者はジャングルに逃れ、ある者は海に逃れ、事実上、一木支隊は壊滅した。また、海に逃れたものには、上空を舞っていたヘンダーソン飛行場から飛び立った戦闘機からの機銃掃射が加えられた。海岸での米国海兵隊による掃討戦は21日14時には概ね終了し、気絶した負傷兵15名が捕虜となった。結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、除く790名(戦死者行方不明者775名、捕虜15名)の損害を出して戦いは終わった。部隊の集結が完了した8月25日に第17軍司令部に状況報告がなされ精兵といわれた一木支隊の惨敗が伝えられた。米軍の損害は戦死者40名余りとされている。 支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。ちなみに、戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は飢えに悩まされるようになった。 一木支隊の壊滅の報を受ける間もなく、8月中旬以降川口清健少将率いる支隊(第三十五旅団司令部及び歩兵第百二十四連隊基幹)約4,000名の輸送が始まることとなった。しかし、連合艦隊司令部では8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の輸送船輸送を中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」基幹)に出撃を命じたことから東部ソロモン海域において8月23日〜24日にかけて第2次ソロモン海戦が戦われることになる。 海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、米軍は護衛空母「ロングアイランド」を使ってヘンダーソン飛行場基地航空部隊に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空隊の動きが活発化し、川口支隊輸送船団への援護は一時的に第2次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域にとどまった空母「瑞鶴」が支援したが(8月25日)、その間にも空からの攻撃で輸送船1、駆逐艦1を失ったため川口支隊の船団輸送は中止となり、輸送は駆逐艦による鼠輸送と島づたいの蟻輸送に頼ることとなった。 結局、川口支隊は、一木支隊の第二梯団と共に9月7日までにガダルカナルに上陸した。しかし、川口少将の強硬な主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊(約1,000名)は空襲や故障、潮の流れによってバラバラになり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着き、総攻撃には間に合わなかった。また、本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、重火器は高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門しか揚陸できなかった。しかも、後述するように重火器のジャングル内の前進は不可能に近く、このうち実際に戦闘に参加した砲は、ごくわずかであった。 川口支隊は、一木支隊の戦訓からヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかしそのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。しかし、人一人がようやく通れるような粗末な啓開路では重火器や砲弾の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残され、兵は疲労困憊し、相互の連携もとれないまま9月12日午後8時を期して「中央隊(左、中、右と3個大隊が別々に行動)」、「左翼隊(岡大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊)」、「右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)」が同時に米軍陣地に攻撃を行うこととされたが、12日夕方に攻撃位置につけたのは中央隊の一部だけであり、12日は各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第1次総攻撃(米国名「血染めの丘(エドソンの丘)の戦い」Battle of Edson's Ridge)が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。なお、12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、右翼隊(部隊長の水野少佐は戦死)は鉄条網と火線を越えられず、中央隊(中)渡辺大隊も敵情や戦況を把握できていなかったことから散発的な戦いのみに終始した。 激戦となった中央隊(左)を担当した田村昌雄少佐率いる青葉大隊の一部が中央隊(右)国生大隊のアメリカ軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からヘンダーソン飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。一時、戦場は敵味方入り乱れて混乱状態となったが、アメリカ軍の後方からの猛砲撃により日本軍の攻勢は続かず、夜明けとともに飛行場から飛び立った戦闘機の空襲などにより撃退された。アメリカ軍はこれを「9月の危機」と呼び、この攻撃が唯一の奪回の機会だったとしている。このとき日本軍はアメリカ軍を5,000名と判断していたが、実際には18,000名に増強されていた。 この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め中隊長クラスの幹部将校の多くが命を落としている。また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5000名余りが駐屯することになり、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。 1942年9月17日、杉山参謀総長は昭和天皇にガダルカナル島の戦いについて以下のように上奏している。 川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した奇襲に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること 連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること この戦いを受けて第17軍に、関東軍、支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用、編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと しかし、この上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであり、駆逐艦には搭載できない重火器を大発による「蟻輸送」により送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦輸送による鼠輸送(連合軍は「東京エクスプレス」と称した)だけでは兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できず、結局、10月中旬に機動部隊の護衛と戦艦部隊によるヘンダーソン基地の艦砲射撃の間隙をぬってガダルカナル島タサファロング沖に大挙、白昼に敵の航空優勢が予想される中、6隻の高速貨物船で揚陸を企図することになる。 さらに10月7日には、先に到着していた増援の第4連隊がヘンダーソン飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図ったところ連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。 なお、この間、連合軍はマタニカウ川の東岸域を確保したのに続いて、10月13日にヌーメアからアメリカル師団の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功した。また、9月の危機で脆弱だったムカデ高地の陣地を補強し従来のジャングルに敷設した集音器の数を増やし、ジャングルからの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。さらに10月15日にはニミッツが、それまで南太平洋戦域の米軍を統括指揮していたゴームリー海軍中将を更迭、代わりに猛将ウィリアム・ハルゼー中将を起用している。 川口支隊の敗北を受け、10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、さらにジャワ島にあった第二師団が同島に派遣された。第二師団に与えられた作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、連合艦隊はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行うこととし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった(ただし、第2次総攻撃の日は海軍機動部隊の燃料の関係から10月20日を目処とすることとされた)。 まず、10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃に向かった重巡部隊が米軍艦隊と遭遇し、サボ島沖夜戦で手痛い敗北を喫することとなる。しかし、13日の第2陣となった戦艦「金剛」「榛名」を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行い(ヘンダーソン基地艦砲射撃)、35.6センチ砲弾918発、14センチ砲弾48発を米軍飛行場と陣地に発射、さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した海軍航空隊による空襲、14日夜には重巡「鳥海」「衣笠」による艦砲射撃が追い打ちをかけた。重巡部隊の砲撃の後、第二師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。なお、この一連の砲爆撃によって米軍の航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けたが、米海兵隊は既にヘンダーソンとは別に規模の小さな戦闘機用の滑走路を完成させており、海軍の航空偵察も陸軍川口支隊も其れを察知しておらず、潰し損なったため、第二師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかったことから兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなった。また、展開の遅れた空母機動部隊は第1次総攻撃の終わった25日から26日にかけて米機動部隊との間で南太平洋海戦を戦うことになる。 第二師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失い支離滅裂となった川口支隊の失敗を受けて、20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と戦車1個連隊(戦車・装甲車75両)の火力を集中し、海岸線沿いに正攻法でアメリカ軍を圧倒する作戦を企図していたが、前述の通り第二師団は戦車や重火器のごく一部しか揚陸できなかった。そのため、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初予定の正攻法の進撃路は一部の部隊(住吉支隊)が陽動として行うことになった。しかし、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや支離滅裂の状態となった。さらに攻撃の直前になって、右翼部隊(先に敗退した川口支隊と一木支隊の残兵)を指揮していた川口支隊長が、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐と対立して罷免されるという事件まで起こった。この罷免事件については、戦後に至っても辻・川口の両者が互いに著書で相手を非難し合うほどの(辻の著書では、川口のことを「K少将」と書いているが)遺恨を残した。 戦車や重砲はとてもジャングル内の迂回路を進むことは出来ないため、住吉支隊に配属されたが、その数は野砲7門・10センチ榴弾砲4門・15センチ榴弾砲15門・10センチ加農砲3門などにすぎず、戦車は独立戦車第1中隊が九五式軽戦車及び九七式中戦車合わせて10数両を持つだけであった。さらに、砲弾の不足は日本軍の圧倒的な火力不足にいっそう拍車をかけた。また、ジャングルの迂回路を進む主力には山砲・速射砲・迫撃砲など比較的小型・軽量の砲が配属されていたが、歩兵が進むにも難渋する密林中の難路のなかで、これらの砲の大半は進撃路の遙か後方に取り残され、戦闘には間に合わなかった。 結局、第二師団は川口支隊とまったく同様の経過をたどってジャングルのなかで支離滅裂となり相互に連携を欠いた状態で10月24日夜から26日朝にかけてバラバラにアメリカ軍陣地に攻撃を掛け、大きな損害を受けて撃退された。 また、陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では住吉少将が急に作戦の拡大を決定、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。しかし、前日この方面に戦車のエンジン音を聞いた米軍は37mm対戦車砲や75mm自走砲を配備して日本軍を待ち構えていた。結果、戦車隊は河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2両も地雷で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。こうして住吉支隊も虎の子の戦車隊をたった1回の戦闘で失うという大きな打撃を受けて撃退された。 この戦闘における全体の戦死者については、資料がなく不明であるが、第二師団麾下の歩兵第二十九連隊では、兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。それほど高い死亡率となっていないのは、川口支隊の場合と同じ事情によるものと思われる。 第2次総攻撃と併行して第三十八師団の輸送も継続されていたが、第17軍の苦戦と海軍艦船の消耗に加え、ヘンダーソン基地の強化によりその実施は遅延に遅延を重ねていた。一部の部隊は、第二師団の増援としてすでに戦闘に参加して敗退していたが、師団の主力が11隻の輸送船団に分乗してガダルカナルに派遣されたのは11月初旬のことだった。第二師団の輸送の際と同様、海軍は上陸支援のため、高速戦艦「比叡」、「霧島」を基幹とする艦隊を派遣して、11月12日に飛行場に対する砲撃を企図したが、待ちかまえていたアメリカ海軍艦隊との間で海戦が惹起することとなった。 この海戦で、アメリカ艦隊も巡洋艦2隻が撃沈されるなど大きな損害を被ったが、日本軍は「比叡」を失い、さらに生き残った「霧島」を中心とする艦隊が翌13日に再度飛行場砲撃を試みたが、やはりアメリカ艦隊に迎撃され「霧島」も撃沈された。この間に重巡洋艦「鈴谷」と「摩耶」が飛行場の砲撃に成功し、合計約1,000発の20センチ砲弾を撃ち込んだが、戦艦の35.6センチ砲と重巡の20センチ砲の威力の違いから、飛行場に大きな損害を与えることはできなかった。 このため、輸送船団は米軍機の激しい空襲にさらされた。11隻のうち6隻は往路で撃沈され、1隻は損傷して引き返した。残る4隻がガダルカナルにたどり着いたが、揚陸中にも船団は激しい空襲にさらされたため、船団は沈没をさけるため岸辺に船を乗り上げて揚陸を続けた。しかし、攻撃された輸送船は岸辺に乗り上げたまま炎上し、揚陸した兵器・弾薬食料のほとんども、浜辺に積み上げられたまま空襲によって焼失した。 揚陸に成功した兵力はわずか2,000名、ジャングル内部の兵站基地に運び込むことができた重火器はほとんど皆無、食料が4日分という惨状だったが、栄養失調が蔓延しつつあったガダルカナル島陸軍部隊にあっては士気旺盛な精兵として迎えられた。 第三十八師団の輸送失敗のあと、大本営はさらに第五十一師団と第六師団をガダルカナル島に送り込むことを計画する。 しかし、ガダルカナル島の航空基地も増強されていて、アメリカ軍の制空権下の輸送が成功する見通しは全く立たなくなっていた。すでに、大型だが低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦が夜陰に乗じて高速で島に接近し、細々と補給を行うことしかできない状況に陥っていたのである。この駆逐艦輸送を、米軍側は「東京急行」と呼び、日本側は半ば自嘲気味に「鼠輸送」と称した。しかし駆逐艦による輸送でも、10月下旬の第二師団総攻撃失敗以降、わずか3ヶ月あまりの間に10数隻の駆逐艦が撃沈される結果となった。この時期の駆逐艦建造計画は年間10隻程度であり、この急激な消耗にはとても対応できなかった。 一方、輸送船は軍の直接的な作戦のためにも必要だったが、国内生産としての軍需や民需のためにも必要であった。この時期、軍の作戦のために商船が、しかも高速で優秀な商船が大量に徴用されていたため、国家の戦争遂行のための輸送に必要な船舶数に不足を来たしていた。そのため、1942年9月から10月にかけて、陸海軍あわせて22万トンの徴用商船を解傭(徴用解除)し、軍需や民需の輸送に戻すことが計画されていた。ところが、ガダルカナル周辺で大量の輸送船を失ったため、解傭計画は吹き飛び、逆にさらなる商船の徴用の必要が生じてしまった。陸海軍の主張する商船の増傭は、陸軍37万トン、海軍25万トン、合計62万トンという莫大なもので、とうてい実現可能なものではなかった。政府はこのうち27万トンの増傭だけを認め、さらにその条件として翌43年春までに18万トンを解傭することとした。 これに対して、ガダルカナル戦推進の急先鋒であった参謀本部の田中新一作戦部長が、これでは作戦ができない、政府が軍に商船の解傭を要求するのは統帥権干犯であるなどとして、激しく反発、12月初めには解傭を要求する陸軍省の佐藤賢了軍務局長との談判の席で殴り合いの喧嘩を演じ、さらに東条英機首相と直談判に及んだ際に「馬鹿野郎」と面罵したことで解任された。しかし、解任と引き替えに解傭問題は再検討とされ、生産計画は根底から狂うこととなった。 1942年12月31日の御前会議において、ようやくガダルカナル島からの撤退が決定された。そして、この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することが出来たが、その陰では身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていた。 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった[5]。 国民には敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。 ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、田中作戦部長が更迭されたことで日本軍はようやく撤退に向けて動き始めた。しかし、実際の撤退決定までは、なお1ヶ月以上もの時間を要し、その間にも多くの将兵が餓死していった。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういうなかで、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。こうした軍紀の乱れは「幽兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。 1942年12月頃からアウステン山の守備についていた兵士たちの間で不思議な生命判断が流行り出したと言われる。 この記述は、刊行物としては辻政信参謀の戦後著作が初出となっているが、実際には歩兵弟124連隊旗手小尾靖夫少尉の陣中日誌『人間の限界』12月27日の項が元になっていると思われる。小尾も、後にこの手記を発表しており、また公刊戦史「陸軍南太平洋戦史(1)」にもこの風聞が掲載されている。もっとも、今日においてこうした極限状況を再現することは不可能であり、信頼に足る正確な統計記録も残されておらず、このような再現性のない判定が事実か否かの検証は困難である。 日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用された。また、ガダルカナル島内の日本軍の残兵掃討を行い、部隊の練度を上げることが行われたと言われる。日本軍狙撃兵は、ガダルカナル撤退作戦時、アメリカ軍の急追を防ぐため伏兵として島内各所に残された [要出典]。彼らは自力で食料収集を行ないつつ、日本軍撤退後も個人個人の判断で戦闘を継続した。ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、昭和27年である [要出典]。 ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされているが、継戦能力の喪失という意味ではミッドウェーより遙かに重大な敗北であった。航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えた(ミッドウェーでは、ほとんどの航空機が母艦の沈没もろとも海没したので、救助された搭乗員も多く、搭乗員の戦死は100名あまりであった)。このため、開戦以来の優秀な搭乗員の大半が戦死し、搭乗員の練度は著しく低下した。また、大量の輸送船が撃沈されたこと、それにともないさらなる商船徴用が行われたことは、それ以降の海上輸送と軍需生産に深刻な打撃を与えた。海軍は、大型艦の沈没は戦艦「比叡」・「霧島」、空母「龍譲」、重巡「加古」・「古鷹」・「衣笠」、軽巡「由良」であったが、それ以上に艦隊の手足となる駆逐艦を大量に喪失したことが、以後の作戦遂行上大きな打撃となった。要するに、能力を超えた作戦を行ったことにより、日本海軍は航空戦力・海上輸送力を一挙にすりつぶし、作戦行動すらままならない半身不随の状態に陥って、継戦能力を喪失したのである。 一般に、ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと認識されており、それは一面において確かに事実である。しかし、必ずしもそのことがガダルカナルの敗北の本質ではない。それ以上に、限られた戦力で東部ニューギニアとガダルカナルという二正面作戦を行い、自軍の先端根拠地(ラバウル)から1,000キロ以上も離れたところに一足飛びに基地を推進しようとし、敵の戦力と戦意を根拠なく見くびり、それ故兵力を小出しにして典型的な兵力の逐次投入に陥った上に、補給の根幹となる輸送計画も作戦計画も安易であったために、同じ失敗を二度三度と繰り返した、粗雑な作戦に本質的な敗因があったと考えられる。 物量について言うと、最終的には米軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、米軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重装備や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた。(アメリカ軍側で言う「八月危機」)また、ヘンダーソン飛行場の米軍機は60-100機前後で推移しており、ラバウルその他の日本軍の基地航空隊の方が数が多かったし、空母の艦載機を含めても同様だった。輸送船団に対する米軍機の攻撃も微弱であり、この時期か、あるいは遅くとも川口支隊の総攻撃の時期までに、一木支隊・川口支隊・第二師団の全力を揚陸して攻撃を掛けていた場合、戦闘の帰趨は全く異なっていた可能性が高い。ヴァンデグリフト少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍はなすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。 しかし、実際には日本軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退され、機数では米軍を上回っていた航空戦力も、ガダルカナル島から1,000キロ以上も離れたラバウル基地からの出撃では航続距離の限界で、戦場上空での滞空可能時間がわずか15分に過ぎず、その力を大幅に削がれた。また、当時の日本海軍航空は「攻撃機至上主義」に凝り固まっており、防御が軽視されていた。海軍の主力攻撃機一式陸攻は、最大航続距離が6000kmでガダルカナル攻撃には充分だったが、防御力の貧弱さのために、爆撃にかかる前にアメリカ軍の戦闘機に次々と撃墜される事態となった。海軍は、遠方からの航空攻撃の間違いに気づき、よりガダルカナルに近いブーゲンビル島ブインに戦闘機専用の飛行場を造成したが、稼動は10月となり、設備も貧弱で充分に活用することができなかった。空母部隊も艦艇の損害をおそれてガダルカナル島に接近しようとはしなかった。結局一時的な物量の優位を生かすことが出来ないまま、やがて米軍の物量の優位に転換して、勝機は失われていったのである。 もっとも、仮に占領に成功していたとしても、その後日本から6,000キロ以上も離れたこの島を、米軍の反攻を前にどこまで維持できたかは疑問である。より根本的には、ガダルカナル島は、米軍にとっては占領されれば米豪間の連絡が危機に瀕するという意味で重要な意味があったが、日本にとっては、戦争遂行上、あれほどの消耗戦で戦力をすりつぶしてまで奪取しなければならないほど重要性があったわけではない。川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたと考えられる。 軍医・高木八郎がガダルカナル戦場で詠んだ短歌約150首が『アララギ』1943年8月号から翌年11月号にかけて掲載されている。歌集『南海の雲』(1953年)所収。 |
[ 170] ガダルカナル島の戦い - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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日本陸軍は、当初中国などの大陸方面での作戦を重視しており、太平洋方面は海軍の領域であるという認識に立っていたため、太平洋での作戦遂行にほとんど関心を払わなかった。したがって大兵力を満州や中国から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、将来の反攻拠点となりうるオーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。そこでオーストラリア攻略作戦に替わって立案されたのが、いわゆる米豪遮断作戦である。この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(「MO作戦」)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(「FS作戦」)から成るものであったが、「FS作戦」遂行にあたって5月に前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。 一方、アメリカ艦隊をおびき寄せるべく実行されたミッドウェー攻略作戦であったが、日本海軍は逆に主力空母4隻を失うこととなり(ミッドウェー海戦)、「FS作戦」の実施は一時中止されることとなった。しかし、守勢に回ったとしても必要となるソロモン諸島の制空権拡張のため、ラバウル以南の前進航空基地を建設する必要を認めた大本営は、ミッドウェー海戦後の6月下旬にガダルカナル島の飛行場建設を正式決定し、航空偵察の後、7月6日に第11・13海軍設営隊2,571名が建設作業を開始した。設営隊がこの地に赴いた当初、大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、当地においても戦闘能力のある人員は設営隊と海軍陸戦隊を合わせても600名足らずであった。ちなみに連合軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。 しかし、日本側の予想を覆す形で、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となる「ウォッチタワー作戦」を発令した。当初、米国陸軍マッカーサー大将は、ミッドウェー海戦で勝利したことから「ウォッチタワー作戦」の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張していたが、太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に米国海軍作戦部長のアーネスト・キング大将から猛反対され、先のMO作戦で日本軍に占領されたツラギ島奪回とその近くで飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への布石が打たれた。 これが、ガダルカナル島、そしてヘンダーソン飛行場(ミッドウェー海戦で空母「飛龍」を爆撃した際、帰還不能とみて飛龍に体当たり自爆した海兵隊員ロフトン・ヘンダーソンに因んで名づけられた)を巡る、日本陸海軍と連合軍による戦いの幕開けであった。両軍とも当時、ガダルカナル島を戦略的要衝と位置づけていなかったため、これが半年以上もかけて争われる太平洋戦争の象徴的な戦いになるとは意識していなかった。 8月7日4時、海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた12,000名のアメリカ軍が、艦砲射撃と航空機の支援の下でテナル川西岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面でも上陸戦が行われている。 同日、日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。上陸当時、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。第13設営隊岡村隊長はルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃とうとするが、同日夕方に合流した第11設営隊の門前隊長は彼我の戦力比からルンガ川西岸の第13設営隊陣地の維持は不可能と判断し、さらに約6キロメートル東にあるクルツ岬付近まで後退した。この際に両隊がクルツ岬の海軍本部陣地に収容できた食料はわずか7日分であった。 なお、連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と第8艦隊(三川軍一中将、重巡4、軽巡1、駆逐2)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍はグァム島の一木支隊、パラオ駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。上陸日当日から翌日にかけて行われた25航戦による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃により効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。また、第8艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達しそこで連合軍艦隊と遭遇し、第1次ソロモン海戦が戦われ、重巡4を撃沈し同1を大破させる快勝を演じた。しかし、敵空母の存在とラバウル制空域からの突出を恐れて第8艦隊(三川中将)が夜戦終了後、未明のうちに戦場離脱を指示ししたため本来の目的である揚陸中の敵輸送船団を撃ち漏らす結果となり、帰路に重巡「加古」を潜水艦の攻撃により失う不幸もあり、三川中将は1943年4月に内地に転属となってしまう。 ちなみに、上陸初日からラバウル飛行基地からの日本海軍航空隊によって反撃が行われ、テナルの米軍揚陸地点を危険と判断したフレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させたため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず、上陸作戦完了後、1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで同島への物資補給は米軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった(後にこの手法を「鼠輸送」と称し日本軍は常用するようになる)。 一木清直大佐率いる一木支隊(第七師団歩兵第二十八連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため攻略作戦は中止となり、一時グァム島に休養を兼ねて留め置かれ、同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦「陽炎」以下6隻に第1梯団として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾砲24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が急派されている。残りは同時に輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが9.5ノットの低速が災いし、イル川渡河戦(米国名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。駆逐艦輸送では上陸用舟艇が使えないため一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や駐ソ武官からの希望的観測が交錯した極めて楽観的なものであったといわれる。そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行しジャングルに追い込まれた海軍陸戦隊高橋部隊・第11設営隊・第13設営隊の残存勢力を保護すると同時に、逃亡前の敵兵力を捕捉撃破することが戦術目的とされた。なお、一木大佐は陸軍歩兵学校の教官を数次にわたって務め、良くも悪くも当時の陸軍を象徴する銃剣突撃主義を体現したような人物であったとされる。 情報が不足する日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日にコーストウォッチャーの通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知し、19日昼には倒した日本軍斥候兵の階級章からタイボ岬から上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。 8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら東を目指して前進し海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により20日夕刻頃までにはテナル川を越えイル川西岸地域まで到達している(行軍行程は15キロ程度だったが、一木支隊に陸軍から与えられた地図は島の概図とタイボ岬周辺図と貧弱で、原住民との協力もままならず海岸沿いの砂浜の徒歩行軍を強いられたため部隊の疲労度は高まった)。なお、当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き飛行場所在している敵残存兵力を攻撃することとしていたため、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。そのため、20日18:00にイル川を越えて先行していた斥候将校渋谷大尉・館中尉らを含む34名中31名がアメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に会う。2時間後に離脱兵から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。ここに至っても一木大佐はまったく敵情を把握していなかったと言えよう。 21:00頃にはついに一木支隊の尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流し一木大佐は22:30より歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。しかし、火力の差は明確で37ミリ対戦車砲、75ミリ迫撃砲、105ミリ迫撃砲などを有する強力な砲兵に援護された機銃座陣地を前に100名余の損害を出して一旦攻撃を停止するのやむなきに至る。しかし、敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は1時間後に同様に白兵攻撃を命じて同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機や手榴弾による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが一木大佐は聞き入れず、その後、海岸近くに渡渉に適した砂州を発見したとの情報を得て状況を確認し、その砂州のうねりが対岸機関銃座からの遮蔽物になると考え、渡河点を海岸砂洲に集中することとした。加えて一木大佐は渡河点を下流に移すことにより敵東岸陣地への迂回攻撃を企図したとされるが、敵陣地が飛行場西側からイル川西岸、海岸に至る地区一帯に形成されていたことは知る由も無かった。21日午前2時ごろ一木大佐は、残存したわずかな歩兵砲、擲弾砲による砲撃の後、白兵突撃を命じた。しかし、うねりに見えた砂州は結局平坦で何の遮蔽物にもならず、強固に築かれた敵海岸陣地への正面強襲となり、一木支隊はここでも多くの将兵を失った。ようやく午前5時ごろ一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からはアメリカ海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。さらに同日午後から投入された水陸両用戦車6両により支隊本部は蹂躙され、ある者はジャングルに逃れ、ある者は海に逃れ、事実上、一木支隊は壊滅した。また、海に逃れたものには、上空を舞っていたヘンダーソン飛行場から飛び立った戦闘機からの機銃掃射が加えられた。海岸での米国海兵隊による掃討戦は21日14時には概ね終了し、気絶した負傷兵15名が捕虜となった。結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、除く790名(戦死者行方不明者775名、捕虜15名)の損害を出して戦いは終わった。部隊の集結が完了した8月25日に第17軍司令部に状況報告がなされ精兵といわれた一木支隊の惨敗が伝えられた。米軍の損害は戦死者40名余りとされている。 支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。ちなみに、戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は飢えに悩まされるようになった。 一木支隊の壊滅の報を受ける間もなく、8月中旬以降川口清健少将率いる支隊(第三十五旅団司令部及び歩兵第百二十四連隊基幹)約4,000名の輸送が始まることとなった。しかし、連合艦隊司令部では8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の輸送船輸送を中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」基幹)に出撃を命じたことから東部ソロモン海域において8月23日〜24日にかけて第2次ソロモン海戦が戦われることになる。海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、米軍は護衛空母「ロングアイランド」を使ってヘンダーソン飛行場基地航空部隊に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空隊の動きが活発化し、川口支隊輸送船団への援護は一時的に第2次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域にとどまった空母「瑞鶴」が支援したが(8月25日)、その間にも空からの攻撃で輸送船1、駆逐1を失ったため川口支隊の船団輸送は中止となり、輸送は駆逐艦による高速輸送と島づたいの舟艇輸送に頼ることとなった。 結局、川口支隊は、一木支隊の第二梯団と共に9月7日までにガダルカナルに上陸した。しかし、川口少将の強硬な主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊(約1,000名)は空襲や故障、潮の流れによってバラバラになり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着き、攻撃に間に合わなかった。また、本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、重火器は高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門しか揚陸できなかった。しかも、後述するように重火器のジャングル内の前進は不可能に近く、このうち実際に戦闘に参加した砲は、ごくわずかであった。 川口支隊は、一木支隊の戦訓からヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかしそのために必要な地図の準備はなく、密林中に進撃路を切り開く工事手段もつるはしとスコップによる人力以外にはなかった。そのため、ジャングルの中で重火器は後方に取り残され、兵は疲労困憊し、相互の連携もとれないまま9月12日から14日にかけて各部隊バラバラに攻撃を開始した。 部隊の一部がアメリカ軍陣地の第一線を突破し、さらにごく一部の部隊が第二線の陣地も占領した。戦場は敵味方入り乱れて混乱状態となり、飛行場すぐ近くの米軍海兵師団司令部の宿営地まで迫った部隊もあったが、アメリカ軍の猛砲撃により攻撃は頓挫し、撃退された。アメリカ軍はこれを「9月の危機」と呼び、この攻撃が唯一の奪回の機会だったとしている。このとき日本軍はアメリカ軍を5,000名と判断していたが、実際には18,000名に増強されていた。 この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、これはジャングルのなかで位置を見失ったまま会敵すらできなかった部隊が多かったためである。十分な補給を行う事が出来なかった日本軍は、以後食料・弾薬の不足が深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。 川口支隊の敗北を受け、10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、さらにジャワ島にあった第二師団が同島に派遣された。第二師団に与えられた作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、連合艦隊はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行うこととし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。 まず、10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃に向かった重巡部隊が米軍艦隊と遭遇し、サボ島沖夜戦で手痛い敗北を喫することとなる。しかし、13日の第2陣となった戦艦「金剛」「榛名」を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行い(ヘンダーソン基地艦砲射撃)、35.6センチ砲弾918発、14センチ砲弾48発を米軍飛行場と陣地に発射、さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した海軍航空隊による空襲、14日夜には重巡「鳥海」「衣笠」による艦砲射撃が追い打ちをかけた。重巡部隊の砲撃の後、第二師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。なお、この一連の砲爆撃によって米軍の航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けたが、米海兵隊は既にヘンダーソンとは別に規模の小さな戦闘機用の滑走路を完成させており、海軍の航空偵察も陸軍川口支隊も其れを察知しておらず、潰し損なったため、第二師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかったことから兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなった。また、展開の遅れた空母機動部隊は第1次総攻撃の終わった25日から26日にかけて米機動部隊との間で南太平洋海戦を戦うことになる。 第二師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失い支離滅裂となった川口支隊の失敗を受けて、20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と戦車1個連隊(戦車・装甲車75両)の火力を集中し、海岸線沿いに正攻法でアメリカ軍を圧倒する作戦を企図していたが、前述の通り第二師団は戦車や重火器のごく一部しか揚陸できなかった。そのため、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初予定の正攻法の進撃路は一部の部隊(住吉支隊)が陽動として行うことになった。しかし、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや支離滅裂の状態となった。さらに攻撃の直前になって、右翼部隊(先に敗退した川口支隊と一木支隊の残兵)を指揮していた川口支隊長が、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐と対立して罷免されるという事件まで起こった。この罷免事件については、戦後に至っても辻・川口の両者が互いに著書で相手を非難し合うほどの(辻の著書では、川口のことを「K少将」と書いているが)遺恨を残した。 戦車や重砲はとてもジャングル内の迂回路を進むことは出来ないため、住吉支隊に配属されたが、その数は野砲7門・10センチ榴弾砲4門・15センチ榴弾砲15門・10センチ加農砲3門などにすぎず、戦車は独立戦車第1中隊が九五式軽戦車及び九七式中戦車合わせて10数両を持つだけであった。さらに、砲弾の不足は日本軍の圧倒的な火力不足にいっそう拍車をかけた。また、ジャングルの迂回路を進む主力には山砲・速射砲・迫撃砲など比較的小型・軽量の砲が配属されていたが、歩兵が進むにも難渋する密林中の難路のなかで、これらの砲の大半は進撃路の遙か後方に取り残され、戦闘には間に合わなかった。 結局、第二師団は川口支隊とまったく同様の経過をたどってジャングルのなかで支離滅裂となり相互に連携を欠いた状態で10月24日夜から26日朝にかけてバラバラにアメリカ軍陣地に攻撃を掛け、大きな損害を受けて撃退された。 また、陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では住吉少将が急に作戦の拡大を決定、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。しかし、前日この方面に戦車のエンジン音を聞いた米軍は37mm対戦車砲や75mm自走砲を配備して日本軍を待ち構えていた。結果、戦車隊は河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2両も地雷で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。こうして住吉支隊も虎の子の戦車隊をたった1回の戦闘で失うという大きな打撃を受けて撃退された。 この戦闘における全体の戦死者については、資料がなく不明であるが、第二師団麾下の歩兵第二十九連隊では、兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。それほど高い死亡率となっていないのは、川口支隊の場合と同じ事情によるものと思われる。 第二師団の敗退を受けて派遣されたのが第三十八師団である。一部の部隊は、第二師団の増援としてすでに戦闘に参加して敗退していたが、師団の主力が11隻の輸送船団に分乗してガダルカナルに派遣されたのは11月初旬のことだった。第二師団の輸送の際と同様、海軍は上陸支援のため、高速戦艦「比叡」、「霧島」を基幹とする艦隊を派遣して、11月12日に飛行場に対する砲撃を企図したが、待ちかまえていたアメリカ海軍艦隊との間で海戦が惹起することとなった。(第三次ソロモン海戦) この海戦で、アメリカ艦隊も巡洋艦2隻が撃沈されるなど大きな損害を被ったが、日本軍は「比叡」を失い、さらに生き残った「霧島」を中心とする艦隊が翌13日に再度飛行場砲撃を試みたが、やはりアメリカ艦隊に迎撃され「霧島」も撃沈された。この間に重巡洋艦「鈴谷」と「摩耶」が飛行場の砲撃に成功し、合計約1,000発の20センチ砲弾を撃ち込んだが、戦艦の35.6センチ砲と重巡の20センチ砲の威力の違いから、飛行場に大きな損害を与えることはできなかった。 このため、輸送船団は米軍機の激しい空襲にさらされた。11隻のうち6隻は往路で撃沈され、1隻は損傷して引き返した。残る4隻がガダルカナルにたどり着いたが、揚陸中にも船団は激しい空襲にさらされたため、船団は沈没をさけるため岸辺に船を乗り上げて揚陸を続けた。しかし、攻撃された輸送船は岸辺に乗り上げたまま炎上し、揚陸した兵器・弾薬食料のほとんども、浜辺に積み上げられたまま空襲によって焼失した。 揚陸に成功した兵力は、兵員がわずか2,000名、重火器はほとんど皆無、食料が4日分という惨状で、第三十八師団はとうとうアメリカ軍に対する攻撃すら行うことができなかった。 第三十八師団の輸送失敗のあと、大本営はさらに第五十一師団と第六師団をガダルカナル島に送り込むことを計画する。 しかし、ガダルカナル島の航空基地も増強されていて、アメリカ軍の制空権下の輸送が成功する見通しは全く立たなくなっていた。すでに、大型だが低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦が夜陰に乗じて高速で島に接近し、細々と補給を行うことしかできない状況に陥っていたのである。この駆逐艦輸送を、米軍側は「東京急行」と呼び、日本側は半ば自嘲気味に「鼠輸送」と称した。しかし駆逐艦による輸送でも、10月下旬の第二師団総攻撃失敗以降、わずか3ヶ月あまりの間に10数隻の駆逐艦が撃沈される結果となった。この時期の駆逐艦建造計画は年間10隻程度であり、この急激な消耗にはとても対応できなかった。 一方、輸送船は軍の直接的な作戦のためにも必要だったが、国内生産としての軍需や民需のためにも必要であった。この時期、軍の作戦のために商船が、しかも高速で優秀な商船が大量に徴用されていたため、国家の戦争遂行のための輸送に必要な船舶数に不足を来たしていた。そのため、1942年9月から10月にかけて、陸海軍あわせて22万トンの徴用商船を解傭(徴用解除)し、軍需や民需の輸送に戻すことが計画されていた。ところが、ガダルカナル周辺で大量の輸送船を失ったため、解傭計画は吹き飛び、逆にさらなる商船の徴用の必要が生じてしまった。陸海軍の主張する商船の増傭は、陸軍37万トン、海軍25万トン、合計62万トンという莫大なもので、とうてい実現可能なものではなかった。政府はこのうち27万トンの増傭だけを認め、さらにその条件として翌43年春までに18万トンを解傭することとした。 これに対して、ガダルカナル戦推進の急先鋒であった参謀本部の田中新一作戦部長が、これでは作戦ができない、政府が軍に商船の解傭を要求するのは統帥権干犯であるなどとして、激しく反発、12月初めには解傭を要求する陸軍省の佐藤賢了軍務局長との談判の席で殴り合いの喧嘩を演じ、さらに東条英機首相と直談判に及んだ際に「馬鹿野郎」と面罵したことで解任された。しかし、解任と引き替えに解傭問題は再検討とされ、生産計画は根底から狂うこととなった。 いずれにしても、ガダルカナル島での戦いはすでに日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、田中作戦部長が更迭されたことで日本軍はようやく撤退に向けて動き始めた。しかし、実際の撤退決定までは、なお1ヶ月以上もの時間を要し、その間にも多くの将兵が餓死していった。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういうなかで、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。 1942年12月31日の御前会議において、ようやくガダルカナル島からの撤退が決定された。そして、この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、撤退(ケ号作戦)作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することが出来たが、その陰では身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていた。 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった[2]。 国民には敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。 日本軍撤退後、ガダルカナル島はアメリカ軍の新兵訓練場として使用された。その理由は、ガダルカナル島内に日本軍狙撃兵が潜伏しており、この狙撃兵を生きた訓練標的として掃討作戦を行い、部隊の練度を上げると同時に、島内の治安を回復させる一石二鳥を狙ったものである。日本軍狙撃兵は、ガダルカナル撤退作戦時、アメリカ軍の急追を防ぐため伏兵として島内各所に残された。彼らは自力で食料収集を行ないつつ、日本軍撤退後も個人個人の判断で戦闘を継続した。ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、昭和27年である。[要出典] ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされているが、継戦能力の喪失という意味ではミッドウェーより遙かに重大な敗北であった。航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えた(ミッドウェーでは、ほとんどの航空機が母艦の沈没もろとも海没したので、救助された搭乗員も多く、搭乗員の戦死は100名あまりであった)。このため、開戦以来の優秀な搭乗員の大半が戦死し、搭乗員の練度は著しく低下した。また、大量の輸送船が撃沈されたこと、それにともないさらなる商船徴用が行われたことは、それ以降の海上輸送と軍需生産に深刻な打撃を与えた。海軍は、大型艦の沈没は戦艦「比叡」・「霧島」、空母「龍譲」、重巡「加古」・「古鷹」・「衣笠」、軽巡「由良」であったが、それ以上に艦隊の手足となる駆逐艦を大量に喪失したことが、以後の作戦遂行上大きな打撃となった。要するに、能力を超えた作戦を行ったことにより、日本海軍は航空戦力・海上輸送力を一挙にすりつぶし、作戦行動すらままならない半身不随の状態に陥って、継戦能力を喪失したのである。 一般に、ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと認識されており、それは一面において確かに事実である。しかし、必ずしもそのことがガダルカナルの敗北の本質ではない。それ以上に、限られた戦力で東部ニューギニアとガダルカナルという二正面作戦を行い、自軍の先端根拠地(ラバウル)から1,000キロ以上も離れたところに一足飛びに基地を推進しようとし、敵の戦力と戦意を根拠なく見くびり、それ故兵力を小出しにして典型的な兵力の逐次投入に陥った上に、補給の根幹となる輸送計画も作戦計画も安易であったために、同じ失敗を二度三度と繰り返した、粗雑な作戦に本質的な敗因があったと考えられる。 物量について言うと、最終的には米軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、米軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重装備や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた。(アメリカ軍側で言う「八月危機」)また、ヘンダーソン飛行場の米軍機は60-100機前後で推移しており、ラバウルその他の日本軍の基地航空隊の方が数が多かったし、空母の艦載機を含めても同様だった。輸送船団に対する米軍機の攻撃も微弱であり、この時期か、あるいは遅くとも川口支隊の総攻撃の時期までに、一木支隊・川口支隊・第二師団の全力を揚陸して攻撃を掛けていた場合、戦闘の帰趨は全く異なっていた可能性が高い。この戦闘に参加したアメリカ軍海兵隊少将ヘンダーソン氏は後に、こう語っている「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍は成す術もなく追い落とされていただろう」。 しかし、実際には日本軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退され、機数では米軍を上回っていた航空戦力も、ガダルカナル島から1,000キロ以上も離れたラバウル基地からの出撃では航続距離の限界で、戦場上空での滞空可能時間がわずか15分に過ぎず、その力を大幅に削がれた。また、当時の日本海軍航空は「攻撃機至上主義」に凝り固まっており、防御が軽視されていた。海軍の主力攻撃機一式陸攻は、最大航続距離が6000kmでガダルカナル攻撃には充分だったが、防御力の貧弱さのために、爆撃にかかる前にアメリカ軍の戦闘機に次々と撃墜される事態となった。海軍は、遠方からの航空攻撃の間違いに気づき、よりガダルカナルに近いブーゲンビル島ブインに戦闘機専用の飛行場を造成したが、稼動は10月となり、設備も貧弱で充分に活用することができなかった。空母部隊も艦艇の損害をおそれてガダルカナル島に接近しようとはしなかった。結局一時的な物量の優位を生かすことが出来ないまま、やがて米軍の物量の優位に転換して、勝機は失われていったのである。 もっとも、仮に占領に成功していたとしても、その後日本から6,000キロ以上も離れたこの島を、米軍の反攻を前にどこまで維持できたかは疑問である。より根本的には、ガダルカナル島は、米軍にとっては占領されれば米豪間の連絡が危機に瀕するという意味で重要な意味があったが、日本にとっては、戦争遂行上、あれほどの消耗戦で戦力をすりつぶしてまで奪取しなければならないほど重要性があったわけではない。川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたと考えられる。 ^ 五味川純平『ガダルカナル』文春文庫 p.398 より。ただし、小尾靖夫『人間の限界』12月27日の項からの転載との注釈あり スポンサーリンク 映像の転職情報リクナビNEXT。職種や地域、経験などで全国の求人情報を検索。next.rikunabi.com宝塚の宿は国内旅行に選べる4万7千プラン。5%ポイント還元のじゃらんnet。www.jalan.net米国屈指のフィルムスクール本場アメリカでプロに学ぶ、映画制作・演劇・プロデュース・3Dアニメwww.nyfa.comアナウンススクールのMスタナレーター司会DJ声優リポーター朗読声の仕事で活躍したい方の事務所www.m-suta.comこのページの上へ'); ソロモンの激闘―ガダルカナル島争奪を巡る日米機動部隊総力戦の全貌 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 59) 米国屈指のフィルムスクール本場アメリカでプロに学ぶ、映画制作・演劇・プロデュース・3Dアニメwww.nyfa.com'); アナウンススクールのMスタナレーター司会DJ声優リポーター朗読声の仕事で活躍したい方の事務所www.m-suta.com'); レコードはZooooo.jp他には無いセレクションを中心にお届けするレコードオンラインサイトwww.zooooo.jp'); 大人の音楽WEBマガジン「e-days」創刊!ユーミンや高橋幸宏などのインタビュー収録e-days.cc'); |
[ 171] ガダルカナル島の戦い とは
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