川柳とは?

口語が主体であり、季語や切れの制限もない。字余りや句跨りの破調、自由律もみられる。同じ音数律を持つ俳句とともに、俳諧すなわち俳諧連歌を源とする。付け句からあらかじめ用意された七七を省略し、五七五として独立した。江戸時代の前句師・柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出して『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる)を刊行し盛んになったことから、「川柳」という名前で呼ばれるようになった。同時代は、「うがち・おかしみ・かるみ」という三要素を主な特徴とし、人情の機微や心の動きを書いた句が多かった。その後も『誹風柳多留』は毎年刊行され、幕末まで167編を数えた。寛政の改革では政治、博打、好色といった風俗を乱す句が『誹風柳多留』から削除されるなどの検閲がなされた。
初代川柳没後は、前句附興行から選句集「柳多留」への二重選考システムが失われ、次第に句会としての形式を強め、選者もベテラン作者が任意に行なうようになり、「柳多留」も句会発表誌の役割になりさがった。 しかし、四世川柳の命名した「俳風狂句」時代は、文化文政期の江戸町人文化を背景に盛んとなり、四世川柳の門人には、九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々一坊扇歌、「偽紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が名を連ねていて、作品も狂句と命名されていても、内容的にはとても面白いものがある。さらに天保狂句期には、その隆盛を極めた。 しかし、天保の改革に前後して、四世川柳は、公職の障りになるとして川柳号を辞めさせられ、佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲り、自らは「柳翁」となった。天保の改革の風俗取締りは、当然、末番句を有する狂句界にも及び、取締りが厳しくなった。五世川柳は、狂句の存続を、内容的変化に求め、「柳風式法」や「句案十体」という狂句界の規範を作り、内容も忠孝、仁義、報恩などの教化を主とするものにしてしまった。これが、自由な表現を旨としていた川柳に規範という重い指針となり、これを金科玉条とした以後の柳風狂句会の作者により、表面的な言葉遊びに堕落させてしまう原因となった。これは、五世川柳が悪いというのではなく、時代の風波に晒された川柳風を守る行為であり、いたしかたない選択であったろう。問題は、文明開化以後も、時代の風潮に変わらなかった明治柳風狂句の指導者たちの指導力のなさである。これは、柳風会内だけの言葉遊び、皮相的な作風に陥いった。
明治35、6年になると阪井久良伎が現れて子規の短歌、俳句改革の影響を受け、川柳改革の意識が高まる。翌年には、井上剣花坊が新聞「日本」に<新題柳樽>欄を与えられ、これが大ヒット。柳風狂句に代わる新川柳の勃興となった。この二人を特に「川柳中興の祖」と呼ぶ。
以後、川柳は江戸からの客観的な視点の作風から、新傾向川柳によって作家の内面に向かう視点を獲得、さらに新興川柳では、プロレタリア思想と結びついたり、純詩的作風が生れたりして、川柳の表現分野は、人事面360度の幅広いものとなった。
戦中、戦後にかけて六大家と呼ばれる中興の祖の次の世代が現れ、全国に新川柳の大きな波を起こし、多くの川柳家を生み出すこととなった。その中核は、川上三太郎の「川柳研究」、村田周魚の「川柳きやり」、前田雀郎の「せんりう」、岸本水府の「番傘」、麻生路郎の「川柳雑誌」そしてやや小ぶりだが、椙元紋太の「ふあうすと」の6社である。これは、川柳の多角化におおいに貢献し、女流作家が増大するとともに情念も川柳の表現の一部となった。
現在では、「俳句」が口語を取り入れ、川柳の詩的表現を求める者が文語に近づくなど、表現の表面上では俳句と川柳の差がほとんどなくなってきたという部分もある。 現在、川柳界は社団法人全日本川柳協会のもと、大会、句会を中心とする老人の娯楽的世界になりつつある。新川柳が獲得してきた本来の、作者を表出する川柳作品は、ごく一部の川柳誌が追求しているのみで、明治柳風狂句期の句会至上主義とどこか似てきている。 その点で、「サラリーマン川柳」からブームとなった一般公募による川柳は、投稿者も若年世代から老人まで幅広く、一流の川柳家を選者とした公募川柳作品では、単なる「語呂合わせ川柳」と呼ばれる域を越えて、新しい表現分野になりつつある。この場合、作者の個人名とは離れて、無名性の作品ともいえる作風であり、初代川柳期の無名性の川柳と似たものがある。この背景にあるのは、「大衆」の<共感>が作品評価のベースになっていることであり、阪井久良伎が明治中興期に定義づけた「川柳は横の詩」ということに戻ったともいえる。

[ 80] 川柳 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9F%B3

川柳 川柳(かわやなぎ せんりゅう、1931年3月23日 - )は 埼玉県秩父郡横瀬町生まれの落語協会所属の落語家。本名加藤利男(かとう としを)。出囃子は『三味線ブギ』(※定期的に変わっている)。 主に新作落語や漫談を得意とする。自他共に認める「落語界の酒豪番付の“悪い方の”横綱」であり、その武勇伝は数知れない。
1951年 - この頃酒販店にて住み込みで働く。これにより酒の味を覚え入門後泥酔騒動をおこす原因となる。
1957年 - この頃泥酔し圓生の自宅玄関で脱糞する事件を起こす。脱糞の件は後に小川宏ショーで白状するまで圓生にばれずに済んだが身に付けていた褌が圓生の机においてあったためその件で咎められたという。
1959年 - 東宝「落語勉強会」メンバーに選ばれるが騒動が起き、巻き込まれる形で除名。新作へ転向するきっかけとなった。
1960年代 - 『ラ・マラゲーニャ』を高座で披露したのをきっかけにテレビの仕事が増えるが、酒の失敗も増え、圓生と溝が出来始める。
1974年3月 - 小さんが長期間二ツ目にいる者を真打にさせる。圓生は認める気はなく、さん生の披露目などに一切参加をしなかった。
1978年5月12日 - 圓生が圓楽を除く弟子一同を集め、落語協会を退会する考えを伝える。この時点では弟子達は同行(退会)せず、圓楽一門に入り落語協会に残るように言われ、協会残留に除名・破門は関係していない。
同年5月14日、圓生が新しい協会の設立を計画している事を弟子全員が知る(事前に知っていた者として圓楽、圓窓、生之助、圓彌)。
同年5月16日、圓生から新しい協会、「落語三遊協会」の説明などを受け、ついていく事にするが、帰宅後の飲酒の上での失敗(後述)から残留へと転変する。
同年5月17日、好生が落語協会残留の意志を圓生に伝える。数時間後、好生とは別にさん生が残留の意志を圓生に伝える。高座名はそのまま。
同年5月28日、さん生宅に圓生から「芸名を返せ」との電話。その日の内に楽屋で8代目林家正蔵(後の彦六)・小さんと相談し、「川柳川柳」と改名。
決して相性が悪かったわけでは無い。好生の行動が圓生の気持ちを害するもの(圓生の落語だけでなく自身の癖まで模倣する落語家)だったのに対し、さん生は圓生の落語への考えから外れるもの(新作落語のみの落語家)だっただけである。
本人著には、ジャズと義太夫を織り交ぜた『ジャズ息子』を圓生が聴き、義太夫について色々と教えてもらい、ジャズにも強い関心は無かったものの、理解してくれたとある。
さん生を新作落語へ転向させる原因となった東宝落語勉強会は、評論家の飯島友治が半ば無理強いで圓生に願い出た企画で、落語協会・落語芸術協会、双方から選ばれた二ツ目の落語を真打や素人の客にまで評価させるというものだった。メンバーの数人が企画者と意見が対立し除名された際、圓生門からも誰かを除名させないと折り合いが悪い状態となってしまい、好生は自殺しかねない繊細さを考慮され、矛先がさん生へ向いたと、この経緯は圓生のおかみさんが本人に伝えている。
真打昇進の反対については、人気ばかりを考えている古典落語が出来ない二ツ目を真打にさせては落語家の恥と考えての事であり、この思想から林家こん平の真打昇進を快く思っていなかった事もさん生本人に真打昇進をさせない理由と共に伝えている。
「落語三遊協会」設立の際も当初はついていくつもりであり、圓生からも「客受けの戦力」だからと評価を受けている。最終的に残留となったのには、直後のさん生自身の酒の失敗(酔った勢いで3代目古今亭志ん朝に計画を聴かされていなかったと愚痴をこぼし、それを聞いた志ん朝から圓生の元に「師弟一丸となってもらわないと困る」と苦情が入った。この一件を知った圓楽は激怒し、さん生に電話をよこした)、圓丈の忠告、好生の同意などが影響している。
この師弟間の決別を決定的なものにしたのは、さん生の酒による失敗が他の一門など外部に及んだ事が圓生の耳に入った事と、協会との対立が続いた圓生に精神的な余裕が無くなってしまった事が要因である。
因みに、2006年の大銀座落語祭で行われた落語会、『六代目圓生トリビュート』は「鳳楽/圓窓/川柳/生之助/圓龍/圓好」という出演陣であった。
大師匠4代目橘家圓蔵の前座名。8代目桂文楽・8代目三笑亭可楽も名乗った経歴のある名前である。尚、現在さん生を名乗る落語家に、川柳と同じ落語協会所属の柳家さん生が居る。現在では柳家・翁家・三遊亭さん生で7人前後確認されている。
3代目三遊亭圓馬がさん生と同じ様に師匠から破門され名を取り上げられ、直後に自分の本名の姓を取り、「橋本川柳」と名乗り、その後大出世を果たしている。他にも春風亭川柳で確認されている。
因みに川柳自身は著書で「さん生」の経緯は書いたが「川柳」に関しては「川柳川柳というズボラ、いや、洒落た名前を(小さんから)頂いた」と一文だけで纏めている。
川柳の代表作とも言える演目。漫談と軍歌のコラボレーション。 正式名称は『歌で綴る太平洋戦史』。“ガーコン”自体は通称であり、本編中に出て来る脱穀機の稼動中の音。しかし一般的には通称の方で有名。ネタ帳などには『昭和歌謡史』『歌は世につれ』など、適当に表記されていたが、1994年10月8日の木馬亭での川柳祭にて、他の噺家が川柳のネタをやるという企画の中で古今亭右朝が演目としてガーコンとプログラムに表記し、噺の中でもガーコンで通して以降、川柳本人もガーコンという通称を使うようになった。 ちなみに、落語会など持ち時間が長い時にやる「ガーコン」を『大ガーコン』と呼ぶ(CDに収められているものでは52分)。
ストーリーは、己の欲望の赴くままに享楽に耽る落語家に、妻が「お前さん、寄席行っておくれよぉ」と哀願する、という、芝浜の改作。噺の落語家のモデルは題名そのままに川柳である。2代目快楽亭ブラックや、5代目鈴々舎馬風のような毒舌系落語家により語られる。本人はやらない。
川柳の二ツ目の頃の売り出しのきっかけともなった、圓生に「色物」と呼ばれる所以ともなった演芸。現在では寄席で主任の時は大喜利として行う。高座着の上からソンブレロにサラッペのいでたちでギターを抱えて「ラ・マラゲーニャ」を歌いながら小咄を展開する。
川柳の十八番のひとつ、6代目三遊亭圓生の弟子時代のしくじり噺のひとつでテレビ・ラジオでは絶対放送できない放送禁演落語。ストーリーは川柳が二つ目・さん生時代「エロ御法度(※ 実際「キンタマ」といっただけで永久追放になった落語家がいたという逸話が登場する)」である東宝主催の落語会「東宝名人会」で放送禁止用語である××××を高座で喋ってしまいその事で師匠に咎められたがなんと師匠も川柳と同じく生々しいことをしゃべっていた、というもの。ちなみに川柳は寄席でしか披露できない新作色艶噺を多数製作している。
妻一人娘一人。妻はもともと飯島友治の取り巻きの一人(川戸『対談落語芸談』p.192)で、のちに川柳ならぬ俳句の先生(俳人)となる。「妻は俳人、夫も廃人」とよくからかわれるネタとなる。
この「川柳川柳」は、落語家に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(P:舞台芸術/PJ芸能人)

[ 81] 川柳川柳 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E6%9F%B3



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