たぶんとは?

下総丹党:小文間城ノ内(2)〜再訪。天神社の跡を確認し、「城ノ内」の地名の名残を発見。 (06/30)
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柴崎城の城主は、東国戦記実録では荒木三河守とされているが、はっきりとした記録は残っていない。日本城郭大系によると、戦国時代には小金城の高城氏の支配下にあったのではないかとの記述がある。さて、柴崎城の遺構は全く残っていない。昭和40年代初めの宅地造成前は、3郭で構成された城郭であったようだ。柴崎神社付近が城址位置になる。我孫子市教育委員会の「我孫子の史跡を訪ねる」によると柴崎神社と隣合う円福寺の裏手の道路が空堀跡だそうだ。なお、柴崎神社は、歴史がある神社であり、平将門の祈願所とされたいた。当時は、妙見社と呼ばれ、千葉氏一門の守護神として崇められてきた。伝説では、柴崎城主荒木三河守が社殿を改修し、この神社で武運を祈ったとある。千葉氏と何らかの関係がある神社ではある。場所:我孫子市柴崎字城根。天王台駅から徒歩15分。参考引用文献:日本城郭大系、我孫子市教育委員会・我孫子の史跡を訪ねる【“【我孫子】柴崎城址”の続きを読む】
増尾城は、柏駅の南東3kmの位置にある舌状台地上にある。増尾城址公園として整備されており、当時の土塁・空堀・2つの郭が明確に残っている。日本城郭大系によると、増尾城の築城は、南北朝時代にさかのぼり、城主は、相馬氏の所領だったことから、相馬師胤ではないかとされている。戦国期は、松戸市大谷口にある小金城・高城氏の家臣・平川若狭守が城主であったとされている。平川氏は、豊臣秀吉の小田原遠征時は北条方についた高城氏ともに小金城に籠城したという。この城の目的は、街道が交差する陸上交通の結節点を抑えるためだったといわれている。場所:増尾城址公園。柏駅から徒歩40分。引用・参考文献:日本城郭大系、東葛の中世城郭、柏市増尾城址発掘調査報告書【“【柏】増尾城”の続きを読む】
柏にある日立サッカー場の近くに小規模な土塁が残っている。最初は増尾城と関係がある遺構かと思ったが、城址とはまったく関係がないことがわかった。土塁ではなく、野馬除土手の跡である。野馬除土手とは、野馬(野生の馬)が、馬牧(牧場)の外に逃走し、民家に侵入したり田畑を荒らすのを防ぎ、野犬などの害獣の侵入を防ぐために、馬牧を囲むように作られた土手の総称である。馬牧の起源は、中世にまでさかのぼり、当時、房総で栄えていた千葉氏が軍馬育成のために牧場を作ったものによる。安房国には白浜牧、錺師牧があり、上総には大野牧、下総には高津牧、大結牧、本島牧、長州牧があったと言われる。房総は、一大軍馬の産地であったらしい。江戸時代になると、徳川吉宗の牧改革により、幕府直轄による小金牧、佐倉牧、嶺岡牧があったという。柏は、上野牧の中にはいっており、この野馬除土手は、外周の土手にあたる。野馬土手の名前にある「小金原」とは、千葉氏の時代は、この辺の原野をそう呼んでいたことによる。場所:柏市あかね町。日立柏サッカー場がある公園入口の交差点にある。参考引用文献:千葉県教育委員会・県内遺跡詳細分布調査報告書「房総の近世牧跡」、柏市・市内遺跡発掘調査報告書【“【柏】小金原の野馬除土手跡”の続きを読む】
金杉口からJR北小金駅方面へ進むと、大倉記念病院が見える。その脇にある小山が達磨口跡だ。※達磨口にある縄張り図。クリックすると拡大します。【“【松戸】小金城(2)〜達磨口”の続きを読む】
小金城は、松戸市大谷口のほぼ全地域がすっぽりとおさまる巨大城郭である。日本城郭大系によると、1460年に栗ケ沢に高城氏が定着し、根木内に城を築き、天文6年(1537年)にこの地に城郭を築いたのが始まりらしい。当時は、大手口、達磨口、金杉口、横須賀口、大谷口の5つの虎口があり、今は、金杉口と達磨口が残る。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めによる浅野氏による攻撃で落城する。城址としては、宅地化でほとんど消滅しているが、松戸市大谷口の起伏に富んだ地形や、丘・道路(堀跡ですかねー)から、城郭都市としての往時を感じることができる。縄張り図をもって、周辺を歩き回るだけでも楽しかった。(^_^) 唯一残る、金杉口・達磨口には、土塁・空堀が残っており、特に、土塁の巨大さには、当時の巨大城郭の雰囲気が楽しめる。参考引用文献:日本城郭大系場所:松戸市大谷口。総武流山電鉄「小金城址駅」下車。大谷口歴史公園を目指す。達磨口は、大倉記念病院のそばにある。【“【松戸】小金城(1)〜大谷・金杉口”の続きを読む】
松戸城は「戸定」の丘にある。日本城郭大系によると1465年に千葉氏一族の原信濃入道とその子の八郎が上杉氏に対して立て篭もったのが最初とされるようだ。天正十年(1582年)当時は、小金城主高城胤辰の一族高城筑前守が城主となり、江戸時代は、徳川氏の旗本知行地となった。今の松戸城は、徳川昭武が明治時代に建設した館「戸定邸」になっており、往時の城郭の雰囲気はわからなくなっている。城郭大系によれば、空堀や土塁が残っていたそうだが、私が訪問したかぎりでは、見つけることができなかった。参考引用文献:日本城郭大系【“【松戸】松戸城(徳川昭部戸定邸)”の続きを読む】
大友館は、上野ケ丘の台地上の北東側(大分駅方面)に位置する。上野ケ丘高校の正門の手前の道を左手に曲がった所にある大分上野郵便局の先を左に曲がったところがそうである。遺構としては、土塁が残っており、その上に「西山城大友屋形址」の石碑が建っている。日本城郭大系によると、大友氏第9代氏秦のときに古国府の館をこの台地上に移し、一族近親の住居にしたのが始まりらしい。天正19年(1550年)に、第20代大友義鑑がこの館で殺された(二階崩れの変)事件が起きた。参考文献:日本城郭大系【“【大分県】大友館”の続きを読む】
布川城は佐竹街道・鎌倉街道の要衝にあり、利根川の水運ににらみを利かす台地に立地している。城址説明板によると1244年に豊島氏がこの地(利根町)に入ったのが始まりであり、築城は、1519年のことらしい。豊島氏は布川城を根城に周りの村々を従えて勢力を誇った。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた際に、北条方についた結果、北条氏とともに敗亡した。当時の城主豊島氏は北条氏直とともに高野山に入ったと伝えられている。参考文献:図説茨城の城郭、日本城郭大系。【“【利根町】布川城”の続きを読む】
時間ができたので、小文間城ノ内を再訪した。過去に訪問済みではあるが、詰の丸があったとされる「天神社」の場所が今ひとつ特定できなかった。美浦村お散歩団のページに、天神社の場所が掲載されていたのを参考に行ってみることにした。参考サイト:美浦村お散歩団【“小文間城ノ内(2)〜再訪。天神社の跡を確認し、「城ノ内」の地名の名残を発見。”の続きを読む】
表題の事情により、更新する時間がありませぬ。。。しかし、落ち着きつつありますので、そろそろ復活します。
鹿などBlog藪ログ茨城県南のお城&散策ガイド:美浦村お散歩団茨城城郭会涸沼地域史研究所鹿嶋文化財探訪涸沼地域歴史民俗研究所管理者ページ

[ 86] たぶん取手ブログ
[引用サイト]  http://toridecity.blog72.fc2.com/



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