愛すとは?

敗戦間もない一時期、失意と混乱の中で「君が代」に代わる、新しい時代にふさわしい自分たちの国歌をつくろうという大きな国民運動があった▼憲法で高らかにうたい上げた主権在民、平和、民主主義。その精神をくみ、民衆の中から自然にわき上がるそんな自分たちの国歌ができないか。全国から実に五万点を超す応募があり、昭和二十八年十月、東京日比谷公会堂で新国民歌(国歌)制定の発表会が行われた▼西条八十、三好達治といった錚々(そうそう)たる人々が審査員となり新国民歌「われら愛す」(芳賀秀次郎作詞・西崎嘉太郎作曲・山田耕筰編曲)が誕生した。心を洗われるような美しい旋律にのせて歌は全国に広がっていった▼われら進む/かがやける明日を信じて/たじろがずわれら進む/空に満つ平和の祈り/地に響く自由の誓い/われら進むかたく腕くみ/日本(ひのもと)のきよき未来よ/かぐわしき夜明けの風よ…。この歌の内容にほとんど解説はいらない▼私がこれを初めて聴いたのは昭和三十一年。高校生のころだった。当時米軍占領下の沖縄に玉川学園の生徒たちが、戦後初めて学生使節としてやって来た。交流会の中で、学園の生徒たちが合唱し、聴かせてくれた。新鮮な驚き。あの時の感動を今も覚えている▼「天皇」の名の下に強いられた大きな犠牲。その血であがなわれ、深い反省の中から出発した戦後日本。私たちが帰るのはこの歌に歌いあげられたそうした祖国だと▼そして迎えた現実。いま、再び強制された「君が代」が、かつて私たちが掲げた理想、国民主権に根差した自由の精神を押しつぶそうとしている。
このコラムの内容は、勿論新国民歌「われら愛す」の賛歌といってもいい。「心を洗われるような美しい旋律」「日本の民主主義、人が個として重んじられる、精神の自由を大切にしたい、と願う人々にとって、」「勇気を与え、それこそ美しいこの国を平和の国として愛したいと願う心に響いてくる」歌であると書いている。
元埼玉新聞編集委員室長の近田洋一さんは、このコラムを書いた動機について次のように話してくれた。
このコラムを書いたころから、文部省の学校現場に対する「日の丸」「君が代」の扱い方がそれまでのゆるやかな指導から、義務に近い形をとった厳しいものに変わっていきました。新学習指導要領では、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」という、それまでの「望ましい」から一歩も二歩も踏み込んだものになっていました。しかも、教師がこの要領に反して子どもたちを指導しない場合には、指導要領違反として処分の対象になるという罰則つきのものに変わっていったのです。
私は、文部省の「日の丸」「君が代」の押し付けは、教師や子どもたちの精神の自由を権力によって侵害するおそれがあると考え、このような現実に抗議の意味を込めて、自分が所属する埼玉新聞のコラム欄に、戦後まもなく「君が代」に代わる新国民歌運動があったことを書いたのです。
今月二日の「さきたま抄」に戦後間もない昭和二十八年に誕生した新国民歌「われら愛す」(芳賀秀次郎作詞・西崎嘉太郎作曲・山田耕筰編曲)のことを書いたところ読者のみなさんから意外なほど大きな反響があり、実は書いた私も驚いている▼〈空に満つ平和の祈り/地に響く自由の誓い…かぐわしき夜明けの風よ〉――。「なによりも歌詞がいい、今日の、民主憲法下の国民歌、自分たちの“国歌”としてこれなら胸張って歌えるのではないか」そんな電話を何本かいただき、譜面と詞(一番から三番まである)があればぜひ欲しいとの希望も受けた▼幸いにも、高校時代、沖縄を訪ね、その時この歌を合唱した玉川学園の学生の一人が今でも親しい私の友人で、彼に問い合わせたところ、譜面と詞、そして今では当時のものとしては一本しか残っていない、という貴重なテープをダビングして届けてくれた▼改めて三十何年ぶりに聴いてみると、胸が熟くなり、涙が出た。「日の丸」「君が代」にあえて対抗して歌おう、とまでは言わない。だがほんとうに日本の民主主義、人が個として重んじられる、精神の自由を大切にしたい、と願う人々にとって、この歌は勇気を与え、それこそ美しいこの国を平和の国として愛したいと願う心に響いてくるだろう▼譜面が欲しい、いってきたのは地方の公務員や学校の先生、主婦、合唱団、サークルの人たちなど、世代を超えたさまざまな層にわたっている▼新入生の歓迎会やピクニックなど学校の行事や、仲間のちょっとした集まりでこの歌が歌われ、広がっていけばどんなにすてきかと夢見る。戦後を吹き抜けた自由の風が再び人々の胸に…と。
私が沖縄県立石川高校の一年生だった一九五六(昭和三一)年春休み、本土の玉川学園の生徒たちが「沖縄覿善使節団」を組織して来沖し、交流をもちました。
当時の沖縄は、沖縄戦で完全に破壊され尽くした焦土を立て直すいとまもなく、米軍の占領下に入り、敗戦国民として塗炭の苦しみを味わっていました。そんな折、占領下の沖縄に初めて本土の学生使節団がやってきたのです。約二週間、彼らは沖縄本島の全ての高校を精力的にまわり、沖縄の高校生たちと交流会をもちました。われわれ沖縄の高校生は苦しい沖縄の現状を訴え、使節団の学生たちは自分たちに何が出来るか話し合ったのです。そのような交流の中で私たちは新国民歌「我ら愛す」の合唱を聴き、感動しました。沖縄の学生が本土復帰を目指して、というより唯一の目標として運動をやっているときに、本土の学生はこんな明るい、希望に満ちた歌を歌っていると思うと、感動とあこがれで胸が一杯になったのです。
そして、使節団の団長をつとめた学生の一人森口豁さんと知り合い、一緒に沖縄復帰支援運動を始めた近田さんは、学校を卒業して琉球新報社に勤務、そこで沖縄問題について取材活動を続けた。
その後、本土にわたって埼玉新聞社に入社、ジャーナリストとして活躍してきた。「日の丸」「君が代」が学校の教師や子どもたちに有無を言わさず押し付けられようとしている現実を目の当たりにしたとき、近田さんの頭の中には、四〇年前に玉川学園の生徒たちが沖縄で歌ってくれた「われら愛す」の新鮮な感動がよみがえった。
前出のコラムは、この感動をもう一度たくさんの読者の方々に伝え、共有したいという思いで、書かれたものだった。(p.108-113)
[文中の森口豁氏は、2005年4月から日本テレビ(系列)で放映された「瑠璃の島」の原作者と思われます。]
およそ半世紀前に作られた「幻の国歌」が、いま、にわかに話題を呼んでいる。そもそものキッカケは「朝日歌壇」(2002.3.4)に載った高橋貞雄氏(元 大阪府立高校国語科教諭)の一首「離任式は最後の授業 幻の国歌『われら愛す』説きて歌いつ」であった。本書の著者である生井弘明氏(元 都立高校社会科教諭)は、この短歌に喚び起こされた懐かしい記憶を綴って朝日新聞の「声」に投稿した(2002.3.14)。それを読んだ人たちから寄せられた多くの便りを手がかに、生井氏は「われら愛す」の成立事情や、この歌がその後どのような運命をたどったのかをつぶさに追う。「この本は『われら愛す』をめぐるドキュメントであるとともに、『われら愛す』へのラブコールと言ってもいい」、と著者は書いている。
1953年、講和条約発効一周年を記念して、「洋酒の壽屋」(現、サントリー)が新国民歌を募集した。歌詞応募5万余篇、作曲応募3千余篇の中から選ばれ、ラジオを通じてのほかいろいろな場で広く歌われた。その後「君が代」をめぐる政治的状況が厳しくなるのに相応じるかたちで一般には歌われなくなっていったが、なお現在に至るまで日本の各地で自然に歌い継がれ愛唱されている例も少なくない(岐阜大学附属中学校では創立以来、愛唱歌として全校で歌い継いでいる。また、都立五日市高校では、1958年から1995年まで、学校行事の中で歌われていた、等々)。そして、いまこの歌を広めようという新たなうねりが起こり始めている。
こうした歌の存在にあらためて注目が集まるということは、戦後民主主義の成果が根こそぎ廃棄されてしまいかねない現在の情勢のもとでの、あるいは一つの必然かもしれない――。高い志を荘重に歌い上げた「われら愛す」(本書添付CD 指揮:高浪晋一、合唱:町田混声合唱団)を実際に聴きながら、そう納得した。(2005.4.7 T)
(上の「メロディー」または「合唱」をクリックすると曲を聴くことができます。なお、左の歌詞を見ながら曲を聴くには、演奏が始まると同時に画面右上の「−」印をクリックしてその画面を最小化します。)

[ 8] 抜書き帖★生井弘明「われら愛す――憲法の心を歌った“幻の国歌”」
[引用サイト]  http://wwwsoc.nii.ac.jp/gsle/90.nukigaki/nukigaki.namai.html



お気に入り



  • track feed
    • seo