新選とは?
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ここは平野太一(彫刻家)の作品展用企画[新選組【美術】計画]のページです。 新選組(新撰組)に発想を得た美術、タイトルそのままです。 新選組に縁のある土地での発表もしています。現在は新選組隊士や箱館五稜郭の旧幕府脱走軍、遊撃隊隊士の容姿の考証、彫刻・絵画作品の制作を行っています。 新選組・幕末関係以外の作品に関しては別ページを作成中です。** 基本的には新しい情報や画像等は“ 新選組&旧幕府脱走軍 情報処(画像入り)”と“ 掲示板 ”に掲載しています。他が更新されていなくても、こちらは追加してあることが多いので、時々覗いてみて頂ければ嬉しいです。このサイト全体の画像や文章の無断使用・転載を禁じます。 (C) HIRANO Taichi 上の画像 手前:土方歳三 近藤勇 奥:相馬主計NEW!- [花魁 小稲]に三遊亭円朝や歌舞伎役者たちの錦絵画像を追加しました。- 伊庭八郎の「明細短冊」の画像他を情報処に載せました。- 新吉原稲本楼の小稲に関する別サイトを始めました。- 『銀座あおぞらDEアート』泰明小学校でのワークショップの写真を「情報処」に載せました。- 『銀座あおぞらDEアートagain』すどう美術館での展示写真も追加しました。-“腹切ふらわあ”に「相馬主計」像・「京都時代の土方歳三」像を掲載しました。-「原田左之助の彫刻」の習作をやっと掲載しました。-「斎藤一」像ページ作り直しました。-“その他-”に「伊東甲子太郎像のエスキース」他を掲載しました。-「脱走軍には美男がいっぱい」の一番下に“伊庭八郎”情報を追加しました。-「新選組&旧幕府脱走軍 情報処」に伊東像と藤堂平助像を掲載しました。-「沖田総司立体化計画」再開しました。 「新選組にも美男がいっぱい?」への御意見もお待ちしております。-『脱走人役人充増覺』をテキスト化しました。 http://homepage3.nifty.com/ht/dasso_meibo.html- 高橋由一の「花魁図」のモデルで伊庭八郎を助けたとされる吉原稲本楼・小稲に関する情報を掲示。** 掲示板の小稲に関する初期の記事をまとめました。 http://homepage3.nifty.com/ht/koina_koine.html-『代打! 新選組壁画のひみつ』展 無事終了いたしました。 写真を何枚か情報処に掲載しています。- 2004年6月の「総司忌」に行ってきました。報告をちょっとだけ掲示しています。- 沖田総司像のための想像図・第1弾を公開しました。-「脱走軍には-」をちょっとづつ更新しています。 山脇隼太郎と斎藤辰吉を追加しました。- 近藤像と土方像の画像を「情報処」に。微調整の比較ができます。- 『群々オルガノン』展の御案内を「情報処」に掲示しています。 |
[ 111] [新選組【美術】計画]
[引用サイト] http://homepage3.nifty.com/ht/
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以下は放送開始前にご案内した過去の情報で、日付・予定などは現在のものではございません。 しかし土方は、巷間言われているような時代に取り残された旧体制の男ではなく、戊辰戦争のプロセスで銃と大砲を主力とする近代戦法を吸収した、フランスの軍人も賞賛する天性の軍人だった。 「最期の一日」に焦点を絞って、激動の時代に尽忠報国を貫いた土方の思いを、熱くダイナミックに描く。 明治2年(1869)5月10日夜、新政府軍の総攻撃を翌朝に控えた箱館五稜郭。絶望的な状況で、箱館政府総裁・榎本武揚(片岡愛之助)、陸軍奉行・大鳥圭介(吹越満)ら幹部は別れの杯を交わしたが、その場に土方歳三(山本耕史)の姿はなかった。歳三は、京からの新選組の同志、島田魁(照英)らと共に奇襲をかけ、敵の兵糧を巻き上げていた。歳三は、一緒に戦いたいと言う島田たちを説得して皆に箱館の港と街の警備を命じ、世話役を務めていた市村鉄之助(池松壮亮)を密かに呼んで、故郷の多摩に送り出した。新選組と別れ、永井尚志(佐藤B作)から榎本の決心を聞いた歳三は、再考を促すべく榎本を訪ねようとするが、大鳥が立ちはだかった。立場と価値観が異なる三人の話し合いは、言葉を重ねていくうちに意外な方向に展開していく…。やがて総攻撃が開始され、敵の本陣を目指していた歳三は信じられない光景を目にした。そして、歳三が一本木関門を通過したとき敵の銃声が響く―。 ご存知、新選組副長。天保6年(1835)生まれ。明治元年(1868)4月、盟友である新選組局長・近藤勇が新政府軍に捕縛されたあとの土方は、江戸を脱出した大鳥率いる旧幕府軍に加わり、宇都宮、会津と転戦して、仙台で榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流し、10月、蝦夷地に上陸した。10月26日に、箱館・五稜郭に無血入城。 その後、土方は、軍を率いて松前、江差を押さえ、蝦夷地全島を制圧して、12月15日、五稜郭に凱旋した。土方の箱館政府での役職は、陸軍のナンバー2である陸軍奉行並。 翌明治2年(1869)、新政府軍は反撃に転じ、4月9日、蝦夷地に上陸。以降、土方が孤軍奮闘するも新政府軍の進撃が続き、箱館政府軍は五稜郭への退却を余儀なくされる…。 ジョン万次郎から英語と欧米の新知識を学び、長崎の海軍伝習所でオランダ人教官から指導を受け、海軍操練所の教授となった、いわゆる超エリート。文久2年(1862)、幕府がオランダに軍艦を発注したのを機にオランダに留学し、開陽丸の完成とともに、慶応3年(1867)帰国、翌明治元年(1868)、幕府海軍副総裁。8月、新政府軍による艦船引渡し要求を拒否し、八隻を率いて江戸を脱し、仙台で土方と出会う――。 降伏後、獄中生活を送るも、明治5年に赦免されると明治政府に出仕。まず、開拓使として北海道の調査と開墾に尽力、その後、政治家として、逓信、文部、外務大臣などを歴任し、旧幕臣としては、異例の重用を受けた。 天保4年(1833)生まれ、播州赤穂の村医の長男。緒方洪庵の適塾で蘭学を修めて、江川英敏の兵学塾で教授を務め、わが国活版印刷の嚆矢となる「築城典型」を翻訳刊行したりした、学究肌の人。やがて幕臣に取り立てられて歩兵奉行となるが、江戸城が新政府軍に引き渡されると、大鳥は配下を率いて江戸より脱出、国府台(千葉県市川市)で土方と出会う。以後、土方とともに、戊辰戦争を戦い抜く――。 箱館政府の役職は、土方の上司にあたる、陸軍奉行。降伏後、獄中の身となるも、榎本と同様に赦免されると、開拓使御用掛として明治政府に出仕。その後、元老院議員、学習院長、枢密顧問官など、要職を歴任した。 なぜなら、土方歳三の最後の一年が、あまりにドラマチックすぎたから。 しかし、今回は正月時代劇。この放送時間ではどうしてもダイジェストになってしまいます。それだけは避けたかった。 どこにポイントを絞るか、それでずいぶん悩みました。最終的には、歳三の「最期の一日」に物語を集約させ、彼の死に様を丹念に描くことで、生き様そのものを浮かび上がらせることにしました。 「五稜郭」は敗者の物語です。しかし、決して単なる悲劇として終わらせたくはなかった。 敗者だけが見ることのできる、絶望の淵から顔を覗かせた「希望」。それが僕の描きたかった「五稜郭」でした。 私が北海道に赴任したとき、目を奪われた風景はまっすぐにどこまでも続く道でした。北海道というと、このまっすぐな道をまずイメージします。 旧幕府軍として最後まで戦い抜いた土方歳三の人生は、まさに一本の道でした。土方の終焉の地が蝦夷地であることの符合を深く感じます。 「閉じこもった悲しみの日々にわたしが 自分を映してみる一本の道がある」、イタリアの詩人ウンベルト・サバの一節です。榎本武揚と大鳥圭介は降伏後明治政府に仕え、特に重用された榎本の生き方に対しては当時少なからず批判がありました。榎本や大鳥にとっても、土方は「一本の道」だったのではないか、それではひょっとして土方は戦に身を投じる前に榎本と大鳥に何かを託したのではないか・ ・ ・三谷さんは想像力の翼を見事に広げてくださいました。 また、「一本の道」の輪郭を浮かび上がらせるには、演じる側にスター性が求められます。片岡愛之助さんの品と風格、吹越満さんの緩急自在のリズム、そして山本耕史さんの 存在感、限られた時間と空間で繰り広げられる三谷ワールドの台詞劇をお楽しみください。 土方歳三が、最後まで死に急いでいたわけではなかったとしたら…。 そう考えてみた時、新年にお届けする正月時代劇にふさわしいテーマが見えてきました。 異なる考え方を持つ人間同士がお互いに理解し合うことをあきらめない。 現在を生きる私たちにとって、今もっとも重要なテーマのひとつです。 そして、三谷幸喜さんでなければ書けない新鮮で刺激的な台本が届きました。大河の五十番目のエピソードでありながら、単発ドラマとしての独立した魅力を兼ね備え、女性中心のドラマが主流の昨今に一石を投じる見事な「男のドラマ」になっていました。構造も型破り。ドラマの中盤は五稜郭の中だけで延々と続く、総裁・榎本武揚、陸軍奉行・大鳥圭介、そして陸軍奉行並の土方歳三の議論で構成されています。ワンシーン十分近い場面もあり、緊張感に満ちた現場になりました。 魅力的なキャスト&スタッフの熱意とアイディアを結集してその高いハードルにどのように挑んだか、是非ご覧ください。 そして、歳三が何にこだわって近藤勇の死後を生きたのかを、山本歳三入魂の芝居で堪能していただきたいと思います。 『新選組!! 土方歳三 最期の一日』の特設サイトがオープンしました。 『新選組!!土方歳三 最期の一日』イベント・トークショーを開催! 入場:無料(先着順で観覧スペースがなくなり次第、入場制限を行います) 「新選組!! 土方歳三 最期の一日」の配役が、以下の通り決定いたしました!また続報が入りましたら、その都度お伝えいたします。 2006年の正月時代劇。正式タイトルが「新選組!! 土方歳三 最期の一日」に決定いたしました。また、9月18日から制作が始まりました。 近藤勇の死で終わった2004年大河ドラマ「新選組!」。いわばその「続編」として、盟友である土方の最期を、三谷幸喜がオリジナルで描きます。 佐幕に生き、佐幕に殉じた"最後の武士"、土方歳三。激動の時代に尽忠報国を貫いた土方の思いを、最後の一日に焦点を絞って熱くダイナミックに描きます。 昨年放送された大河ドラマ「新選組!」には、放送終了前後から続編を求める多くの声が寄せられ、終了後半年を経過した現在も、手紙やメールでの続編希望が届いています。 そうした視聴者の皆さん方からの熱い要望にお応えして、来年・2006年(平成18年)の正月時代劇として、土方歳三を主人公に「その後の新選組」(正式タイトル未定)を制作することになりました。 近藤勇が主人公であった大河ドラマでは、近藤の死をもって物語が終了しましたが、盟友である土方歳三は、会津から奥州、そして函館の「五稜郭の戦い」で、その波乱の生涯を閉じました。ドラマではその後の土方を描きます。脚本は、大河ドラマ「新選組!」を執筆した三谷幸喜さん。主演は同じく大河で「鬼の副長・土方歳三」を演じた山本耕史さんです。 大河ドラマ「新選組!」を観続けていた人には最高のプレゼントに、観ていなかった人にはそれを思い切り後悔させるような作品に、したいと思います。 大河ドラマが終わってからも、伺う先々で、土方歳三のことを言われました。また、その際、「続編を見たい」というご要望もずいぶんと耳にしました。今回、正月時代劇で「その後の新選組」を描くことになり、今から楽しみにしています。香取=近藤勇の志を受け継いで、精一杯演じたいと思います。 NHKドラマホームページ に関するお問い合わせは、こちらの お問い合わせフォーム からどうぞ。 なお、全てのメールにお返事できない場合がございます。あらかじめご了承下さい。個人情報の保護につきましては、併せて 個人情報保護について をご覧ください。 |
[ 112] 新選組!! 土方歳三 最期の一日 : 新選組!続編 : NHK正月時代劇
[引用サイト] http://www.nhk.or.jp/drama/html_news_shinsen.html
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■私が新選組に興味を持ったのは、司馬遼太郎さんの小説「燃えよ剣」やテレビ映画「新選組血風録」がきっかけです。 私にとって、土方歳三や沖田総司のイメージは「新選組血風録」の栗塚旭さん、島田順司さんなのですが、現実はそんな颯爽としたものではなく、殺伐とした人斬り集団なのでしょうか?。 治安警察として、ときには暗殺集団として幕末の京都を戦慄させた新選組とは、どのようなものだったのでしょう。このコーナーでは、私なりに「新選組」をまとめてみました。 ■「新選組血風録」というテレビ時代劇をご存じでしょうか?。昭和40年に放送された、司馬遼太郎さんの同名小説のドラマ化作品で、全26話。年配の方ならリアルタイムで見たとおっしゃるかもしれませんね。 土方歳三を栗塚旭さん、近藤勇を舟橋元さん、沖田総司を島田順司さん、斎藤一を左右田一平さんが演じていて、脚本は結束信二さん。主題歌を春日八郎さんが歌っています。 出演者の演技や物語が素晴らしく、オープニングで主題歌が流れるとワクワクします。機会があれば、ぜひご覧になると良いですよ。昔のテレビ時代劇の良さが堪能できる、「新選組もの」の名作です。 「新選組血風録」昭和40年放送。全26話。時代劇専門チャンネル(SKYパーフェクTVやケーブルTV)で、2006年10月26日から連続放送されました。引き続き12月4日から「燃えよ剣」全26話も放送(月曜〜金曜)。録画のチャンスです。 ■新選組の隊服といえば、浅葱(あさぎ)色の、袖に白い山形をデザインした羽織ですが、隊士が増えると全員には行き渡らず、着ていたのは十人に一人か二人だったそうです。着用されたのは結成当初だけで、池田屋襲撃時では着用者は指揮官数人だともいわれています。隊服を着た完全武装の隊士たちが、出動で屯所を駈け出す場面を想像すると胸が躍りますし、ダンダラ羽織が新選組のトレードマークと思っていたので残念です。 TVドラマで、油小路事件の時に隊士たちが隊服を着用しているのを見ましたが、これでは襲ったのが新選組だと世間に知られてしまいますね。 ■ところで、新選組は「新撰組」とも表記されますが、私は「新選組」と書くことにしています。 「新選組始末記」の巻頭で子母澤寛さんは、「どちらでも良い、局長の近藤勇でさえ、時によって両方の字を用いている」とおっしゃっていますし、当時の人は漢字にこだわらなかったようです。選と撰、どちらでもかまわないのでしょうが、 私は「新撰組」という表記が好きではありませんので、「撰」は用いないことにしています。変な所にこだわると思われるでしょうけど、ご堪忍ください。 ■文久3年(1863)当時の京都市中は、激派浪士たちが攘夷思想を唱えて横行し、「天誅」と称するテロ行為が後を絶たない状態でした。そのため幕府は、江戸における攘夷浪士を懐柔して利用することを企図し、「浪士組」を募集しました。江戸の浪士たちを幕府側に引き寄せ、京都に送り込んで、近く上洛する予定の十四代将軍家茂の警固と治安維持にあたらせようとしたのです。 その上洛早々の「幕府浪士組」を策士清川八郎が私兵化。朝廷に接近し、攘夷の朝命を得て関東に帰り、攘夷を実行しようと企みます。それに反発したのが、浪士組に参加していた芹沢鴨と近藤勇ら13人(17人?)です。彼らは将軍の指揮の下に攘夷は京・大坂で行うべきと考えていたようです。芹沢、近藤たちは脱退して京に残留し、京都守護職松平容保に嘆願書を提出。それが認められて「京都守護職預り」となり、壬生の八木源之丞邸を屯所として「壬生浪士組」を結成しました。 ■その後、壬生浪士組は京都守護職配下の警察組織として、将軍が江戸に戻り不在となった京都市中の治安維持にあたり、不逞浪士取り締まりという攘夷とは無縁の日々を重ねます。 文久3年8月、薩摩藩と会津藩が、天皇の攘夷親征を企んだ長州勢と三条実美ら七人の激派公卿を不忠であるとして失脚させ、京を追放する事件が勃発。「8月18日の政変」といわれる騒動ですが、この時の御所守備の働きにより、「新選組」という隊名が正式に与えられたといわれます。 鴨川の流れ。むこうに見えるのは丸太町橋。橋の右方へ行くと、京都守護職松平容保が本陣をおいた黒谷金戒光明寺。左へ行くと京都御所。 ■新選組が誕生した文久3年(1863)は、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、強力な武力を背景に幕府に開国を要求した嘉永6年(1853)からちょうど10年めです。 この10年間は幕末動乱時代の前半期。幕府は欧米列強の圧力に鎖国政策を維持できず、日米和親条約に続いて、修好通商条約(安政の五カ国条約)が天皇の許可を得ることなく調印されました。このため朝廷をはじめ、国内から開国に反対する声があがり、「日本は神国であり、天皇は神の子孫である。西洋人は夷狄であり、彼らを神州に入れてはならない」とする尊王攘夷論が広まりました。 大老井伊直弼が「将軍継嗣問題」での反対派を弾圧した「安政の大獄」(安政5年・1858)が原因で「桜田門外の変」(万延元年・1860)が起こりました。同年に「外国人ヒュースケン殺傷事件」。その後、「東禅寺英国公使館襲撃事件」(文久元年・1861)「坂下門外の変」「生麦事件」(文久2年・1862)などの事件が続発。幕府の権威が急速に失墜することになりました。 ■この頃はまだ、幕府の勢威が衰えたりとはいえ、桜田門外で大老を襲った水戸浪士たちも、攘夷を唱える志士たちも倒幕までは考えていませんでした。孝明天皇は幕府を中心に公武合体で攘夷をおこなう考えでしたし、薩摩の島津久光も公武合体論者でした。島津久光や松平慶永(越前)山内豊信(土佐)伊達宗城(宇和島)たち雄藩大名は、国政に参加し、幕府との連立政権を構想していたのです。 文久3年8月の政変で京都から攘夷急進派を一掃した時に、彼ら雄藩大名は幕府(一橋慶喜)と会議を持ちますが、幕府は自己の利益と体面しか考えず、雄藩の政治への口出しを嫌ったため、彼らは幕府を見限ってしまいます。 ■薩摩は生麦事件をきっかけに勃発した薩英戦争(文久3年7月・1863)を体験し、長州は無謀にも攘夷を実行した下関戦争(元治元年8月・1864)で列強国の報復攻撃を受け、ともに外国の実力と攘夷の不可能を身をもって知りました。 薩長両藩は、戦争の相手国イギリス・坂本龍馬・中岡慎太郎(土佐)を通して接近し、軍事同盟(薩長連合、慶応2年1月・1866)を締結。一大倒幕勢力として、「開国倒幕」へ向かって進むことになります。 「大政奉還」「王政復古の大号令」で江戸幕府が正式に廃止されることになるのは、慶応3年(1867)10月〜12月。新選組が京都に誕生してから、わずか4年半後でした。 壬生の前川邸(屋内は非公開)。八木邸だけでは手狭になったため、筋むかいの前川邸も屯所になりました。 慶応元年(1865)4月頃、新選組は屯所を壬生から西本願寺へ移しました。総長山南敬助脱走の一因ともいわれ、西本願寺は傍若無人な新選組に迷惑したそうです。 文久3年8月、新選組が京の見廻りをおこなうことが市中に布告され、「もし手余り候節は斬捨御免」と、捕縛のさいに抵抗にあって、手に余る場合は斬り捨てる権限を与えられたそうです。 新選組は、京都市中で攘夷浪士を斬りまくったように思われていますが、実際は捕縛するのが基本(もちろん抵抗する者は斬ったでしょうが)だったようです。 ■私は新選組の隊名は、江戸に戻った「幕府浪士組」が「新たに徴集した組」として「新徴組」と命名されたのに対して、「徴集した者の中から、新たに選抜した組」という意味で、幕府か会津藩が命名したものと思っています。 近年、「新撰組」の名称は会津藩の軍制に古くからあったもので、それを与えられたといわれています。新選組関連の本には「新撰組の名称は会津藩古来のもので、その由緒ある名を賜った」と断定しているものもあります。 その理由というのは、会津藩の林房之助という人の著とされる「志くれ草紙」の中に、会津藩の寛政4年(1792)の軍制として、「新撰組」という「諸芸に秀でた子弟30名により編成された組」の名が書かれているからだとか。 私は「志くれ草紙」は信頼できる史料なのか確認するべきと思いますし、それに、たんに同じ名称だという偶然の可能性も大きいと思います。史料に同じ名称が出てきたからといって飛びつき、それを「壬生浪士組」に結びつけるのはこじつけにすぎません。ましてや鬼の首を取ったように、「である」などと断定するのはとんでもないことです。 会津の軍制に「新撰組」が存在したとしても、たかが浪士の集団にすぎないものに、そのような由緒ある名を与えるとは思えません。確かな裏付けが取れないかぎり、由来は不明、もしくは「新徴組」に対する「新選組」ということで良いのではないでしょうか。 ■命名時期は「8月18日の政変」時の御所警備に就いた時といわれますが、警備の会津兵には浪士組がうさん臭く見え、局長芹沢鴨との間に一騒動あったそうです。そのような浪士組に由緒ある隊名(と仮定して)が与えられたとすれば、誇り高い会津藩士たちが納得しないでしょう。 また、「島田魁日記」(隊士島田魁の著)に「八月十八日・・・新選組ノ隊名ヲ下サル」と書かれているからといって「8月18日」をそのまま信じて確定するのは早計で、「その頃に命名された」とするべきだと思います。 ■「尽忠報国 じんちゅうほうこく」という言葉は、忠を尽くし国に報いるという意味です。これは文久3年1月に、幕府が江戸で浪士組を募集した時のスローガンです。 幕府は「尽忠報国の志厚き者」という要項で浪士を集めました。この当時の尽忠報国は尊王攘夷のことで、幕府浪士組から分離誕生した新選組も当然のことながら、「尽忠報国。尊王敬幕、攘夷」つまり攘夷を目的とした思想集団でした。しかし、幕府を主体とした攘夷はついに行われず、新選組は京都の治安警察として、不本意な日々を送ることになります。 ■近藤勇は攘夷論者です。浪士組に参加したのも上京して攘夷をするつもりでした、攘夷を実行しない幕府に腹を立てています。攘夷をやらない幕府を倒す、となるのが倒幕論ですが、近藤はあくまでも幕府中心の攘夷を希望していて、「攘夷をしない幕府は不満だけど、倒幕を主張する勢力は許せない」という考えだったのではないでしょうか。 ■司馬遼太郎さんの小説「燃えよ剣」に、「われわれはもともと、攘夷の魁(さきがけ)になる、という誓いをもって結盟したはずではないか。そのはずの新選組が、攘夷決死の士を求めては斬ってまわっている。おかしいと思わないか、沖田君」という山南敬助のセリフがあります。 攘夷が目的だった新選組が攘夷浪士を斬るという矛盾。新選組は元治元年あたりから、「攘夷」を捨て、幕府擁護のための人斬り集団に変貌していったのだろうか。 ■隊規では「局を脱するを許さず」とあり、いったん入隊したら死ぬまで辞められないと思われがちですが、実際は円満に除隊した者や、役に立たないと見なされ解雇された者もいたようです。斯波良蔵という隊士が、外国へ行き勉強したいという理由で除隊。また藤沢竹城という隊士は剣術が苦手で、戦闘の役に立たないという理由で除隊したそうです。 手続きを踏み、正当な理由が認められれば除隊できたのですね。ただ除隊後は京・大坂に居られないのが条件だったようです。武田観柳斎と浅野薫という隊士が隊を追放されましたが、武田観柳斎は薩摩藩に接近したため斬られ、浅野薫は生活に困り、隊名を騙って金策したために斬られています。 ■入隊は、武士としての心構えや協調性など、人間性を重視したようです。とくに剣道などの実技試験は行われなかったらしく、面接で「独身か女房がいるのか?」を問われ、妻子が10里(40km)以上離れていれば入隊できたそうです。 新選組関連の本を読んでいると池田屋事件の箇所で、「五つ刻(午後8時)に会津藩兵と合流する手はずだった」とあり、襲撃が「四つ刻(午後10時)」となっています。このカッコ内の時刻換算は、一日を単純に12等分したもので、池田屋事件は夏ですから、大きくずれています。 不定時法は、日の出36分前を明け六つ。日の入り36分後を暮れ六つとして、その間の昼と夜を各6等分(12等分が1時間)します。昼夜の長さは季節や地域によって変化するので、1時間の長さも変化します。 池田屋事件は元治元年6月5日で、陽暦では7月8日です。夏至から二週間あまりずれていますが、おおよそ五つ刻が午後9時10分くらい、四つ刻が午後10時35分くらいです。 北陸地方の、7月8日の明け六つは午前4時06分くらい、暮れ六つは午後7時51分くらいで、夜間の1時間は約41分です。京都地方とでは少々地域差が生じますが、大きな差はないと思います。 |
[ 113] 新選組について
[引用サイト] http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/shinsen.htm
