人達とは?
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ブログによるコミュニケーションネットワークを作りつつあるweb2.0の人達。しかし、すでにこのようなネットワークを構築している人達はブログを書く事に興味がない。なぜなら、新たな価値が生まれないからだ。所詮はブログはバーチャル。リアルの方がより良い価値を生み出す土壌がある。そのような人達はweb3.0かもしれない。 ヤフーの井上代表は、ブログにもSNSにも積極的に参加しない。理由が、井上さんらしく------------------------どうですか? 今後もがんばろうとは思っていますが、どうも……、最近のSNSみたいなのを見ていると、おれはどうもこれは無理だなあと思ってみたり。まず自分で日記を書きたいと思わないんですよ。ブログもそうですが。そもそも、子供の頃から日記を3日以上書いたことがありません。社長ブログをやっている社長もいますが、ああいうのはあまりやる気にならないんです。2.0に乗り遅れているかなあと自問自答したり、そればっかりじゃないぞと自分を励ましたりもしていますが。まあ、やりたいこともやらなければならないこともたくさんあるので、「おまえもうそろそろ代わったほうがいいんじゃないの」と言われるまではやるかなあ。------------------------ ヤフー代表ならではの豪快な一言である。最初、聞いた時は「?」と思った。運営者の代表である人が、興味がないとは?不思議に思った。しかし、井上さんの中では、既にweb3.0の世界に突入しているのでは?と思うようになった。 私は、まだ、web2.0の世界すら見えていない。だから必死になってブログを毎日更新する。嫌なコメントやトラックバックがあっても凹まず、努力しながら書き続ける。それは、自分自身がコミュニケーションネットワークが全く構築されていない現状があるからだ。更に、リアルの世界でも、コミュニケーションネットワークが無いため、必死になってブログのバーチャル世界で、新たなネットワーク構築を確立させようと頑張っているのである。 web2.0の人達・リアルでネットワーク構築が出来ていない。・リアルで友達が少ない。・リアルで重役などの役職ではない。・リアルで上場企業などの有名会社に勤めていない。よって、ブログなどを必死に毎日更新し、新たなネットワークが出来るように目標としている。 web3.0の人達・リアルで人が羨むほどの人的ネットワーク構築がある・リアルでビックリするほどの有名人との交流がある・リアルで社長などの重役・リアルで年収800万円以上よって、ブログなどに頼る必要性が全く無く興味もない。仕事柄、時間が空いている時に書く。 web2.0の人達から見れば、web3.0の人達は「嫌な奴」だ。しかし、明らかにweb3.0の人達の方が、社会的に優れている事がわかる。 CNET Japanブログの10人を見ても分かるように、3週間に1回程度しか更新しない。これはweb3.0の住民だからだ。それに比べて、読者ブログは更新頻度が高いのはweb2.0の住民。リアルが忙しいweb3.0の人達は、CNET Japanブログなど「おまけ」。暇な時間に書いて適度なネットワークが出来れば上々。新たにネットワークを構築する必要性が無い。なぜなら、リアルで既に「完璧」に近いネットワークが出来ているため、双方向のコミュニケーションなど不必要なのだ。※ちょっとひがみが入っています。 web3.0の人達は時代遅れなのか?それは、web3.0の人達と交流が全くない私には調査が出来ない。つまらないブログを時々書いて、チャレンジもしないで偉そうにしている。私は、こんなイヤな人にはなりたくない。 ブログを書いてweb2.0の世界へ到達し有名になっても、web3.0の人達と同レベルにはなりたくない。くだらないコメントや無名の人からのトラックバックを受けて考え、自分の個性を前面に出し、忙しくても毎日更新し、自己主張を繰り返して頑張りたい。 ●その他リンク集・web2.0について ・web3.0について ・キーワードSEO検証 ・SEOについて ●ブロガー紹介角田和司(つのだかずし)、33歳、川越市在中、有限会社スリーズコム勤務。販促品やノベルティのネット販売をしています。 ●現在、参加中のSNS 「アゴリア」その他のビジネスSNSへの参加希望です。コメントお待ちしています。 ●現在、展開中のブログ※web2.0とブログの可能性は2006年7月で終了しました。・SEO経営(CNET読者ブログ)・web2.0(アメーバブログ)※web2.0に関してはこちらにて展開中です。 ※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。 web3.0の流れは「女性の台頭」だと思っています。しかし、このコンセプトだと、ほとんど反応が無い。又は薄い。なぜなら、CNETは男性が見ている媒体だから。 だからこそ、男性が好きな「肩書き」や「名誉」をメインにweb3.0を考察しました。個人的にも、このような趣向は嫌いです。しかし、逆にこの反応。やはり身近な視点に落すと、良い悪いの反応は高くなる。 コメントに「○○しない方が良い」と書かれていますが、これは個性を無個性に変えろ!と言っているようなもの。 情報が正しく無いから発言するな!ではなく、情報が正しいか正しくないかの判断は、見る側が判断して対応するのがweb2.0の世界。 情報が乱立して混乱するのが、楽しいと思う。なぜなら、色々な意見や価値観がある事が認知される。「こんな視点もあるのかぁ」と思えるかどうか。 そのためにインターネットはある と断定して良い。新聞や雑誌は、安心・安全な情報だが、役に立たない時代。しかし、個人が発信 僕自身まだWeb2.0についていけてない感はするのですが、ちょっとこちらで書かれているWeb2.0、Web3.0の解釈にはちょっと?な感じがします。 まずWeb3.0というキーワードはすでに存在します。勝手に定義されないほうがいいと思いますよ。情報が乱立して混乱します。 Web2.0はようやく普及期、Web3.0はまだその定義や形態自体があいまいで模索時期にあると思います。Web2.0、Web3.0というキーワードはあくまでWebの進化形態のフェーズの差であり、どちらも目指すところはすべての、望む人々がその恩恵を受けられる、ということですから友達が多いとか、年収がどれくらいとか、どんな会社のどんな役職にいる、とかそんなことは関係ないと思います。 IT会社のすべての役員がそれを把握しているとは限らないし、個人でもちゃんと把握できている人はいると思います。 web3.0の格差は、「年の差」ではないのかなぁ。つまり、web年齢というか、既にネットコミュニケーションが年寄りなんだよ。 それに比べてweb3.0の人達は、能力があるが故に、新しいコミュニケーションを試みないし、実験もしない。 「初心忘れべからず」なんだけど、web3.0の人達のブログって、どうして有名ブログ同士のコメントしかか議論しないのか、いまいち分からない。 議論の内容は、本人の肩書きではなくて、内容なのにね。内容がよければ無名でも真剣に議論するのが、web2.0の流れではないのか?思考も発想も行動も年寄りじみて嫌いです。 >>ブログを書いてweb2.0の世界へ到達し有名になっても、web3.0の人達と同レベルにはなりたくない。くだらないコメントや無名の人からのトラックバックを受けて考え、自分の個性を前面に出し、忙しくても毎日更新し、自己主張を繰り返して頑張りたい。 WEB2.0で赤の他人との壁が低くなったのに、WEB3.0で格差が生まれるってのは、認めたくないです。 議論とは「自分思考」です。オリジナルです。特にブログは個人発表の場です。同じ思考を発表しても、梅田さんのコピーだからです。間違えでも「自分の意見」を発表しています。 donnさんも、自分の意見をブログで書いて見てはいかがでしょうか?特に今回の梅田さんの投稿は面白いと思います。トラックバックして頂ければ読ませて頂きます。議論受付中です。 先日の梅田さんの記事(エリートほど充実したリアル生活に満足しているのでネットに熱中せず、ゆえにネットへの理解が皮膚感覚として弱いという逆説)に影響されているのでしょうけど、ネーミングと議論展開がおかしくないですか?そもそもリアルにどっぷりつかっている人を指してネーミングするのになんで「Web3.0」なんでしょう?Web関係ないでしょ?思考が混乱してませんか? aaaさんの気持ちはわかります。書いている本人も理解していますよ。自分のブログが良いブログだと思っていませんので。 でも、本当に止めさせたいのであれば、実名ブログでトラックバックすると、書いている本人は凹みますよ。議論しますから。コメントだけだと単なる「愚痴」だけですので、全く効力ありません。 ブログは総表現化社会の道具なので、この道具が無くならない限り、web.○の議論は無くなる事はありません。 一番の解決方法は見ない事・無視する事です。これが一番の最善策です。逆にコメントをもらうと書きかますので、逆効果ですよ。 いい加減、Webx.0を都合のいいように読み替えるのは辞めていただきたいものです。Webx.0で検索した人の時間を無駄にするスパム行為だと思うのですが。 記事内容がクソかどうかを問わず、更新頻度と被リンクだけで良質リンクだと判断する検索エンジンの仕様がクソだということを証明する逆説的試みだということは分かりましたんでマジ勘弁してください。 いつも大変興味深く、面白く拝見させていただいています。けど今日のエントリーはそんなに、いや、ボクが勉強不足なだけですね。 「LAMP」という単語が物珍しいものではなくなったように、OSSのプログラミング言語「PHP」はウェブサイト構築で重要な選択肢となっている。関連製品を提供するゼンド・ジャパンは今後、コンサルティングやサポートなどのサービスを中心に事業展開していくとしている。 みんなのお題では、ブロガー同士で質問を出し合いそれに対する回答や意見を集めています。今日はどんな話題が盛り上がっているでしょう? 新倉さん、こんにちは。生のMicrosoft OfficeドキュメントからPDFにすると埋め込みオブジェクトとかの情報?.. CNET Japan ブログネットワークは、元はCNET Japanの一読者であった読者ブロガーと、編集部の依頼により執筆されているアルファブロガーたちが、ブログを通じてオンタイムに批評や意見を発信する場である「オピニオンプレイス」、また、オピニオンを交換するブロガーたちが集うソサエティです。 広い視野と鋭い目を持ったブロガーたちが、今日のIT業界や製品に対するビジョンや見解について日々熱く語っています。 これは、CNET Japan 編集部の依頼に基づいて執筆されているCNET Japan アルファブロガーによるブログの印です。 CNET Japan ブログネットワーク内で拍手の代わりに使用する機能です。ブログを読んで、感激した・役に立ったなど、うれしいと思ったときにクリックしてください。多くGood!を獲得した記事は、より多くの人に読まれるように表示されます。 イー・クラシス、全国厳選税理士を無料で検索/問い合わせが可能なサービス『フィデリ・税理士検索』オープン! 本体ケースのトップメーカーは、どんな電源ユニットを提案するのか?--Antec「NeoPower(ネオパワー)」 Antecは自作PCにとって重要なパーツ、電源ユニットもリリースしているのだ。その最新シリーズが、Antec Neo これまで長らく、PCと言えばデスクトップ型とノート型の2パターンしか存在してこなかった。しかしユーザー ポータブルという進化--フィールドを越えて楽しむオーディオ、ボーズ「SoundDock Portable」 充電池を内蔵しポータビリティを重視した「SoundDock Portable」は、高音質再生をそのままに使用場所の自由 最近では年賀状作成ソフトの住所録が高機能になった分だけ、入力する項目の多さや、万が一の情報流出などが チェックしておきたい今週の新製品:11/10〜11/16:ケータイ新モデルが発売日決定! ワンセグ機器が拡大中 |
[ 74] ブログを書かない・必要としないweb3.0の人達:SEO経営 - CNET Japan
[引用サイト] http://japan.cnet.com/blog/seomanage/2006/06/22/web30_a49e/
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まず誤解を受ける表題だと思うが、“あいつは信用できない奴だ”とか“怪しい男だから信用しない方が良い”などという、いわゆる“胡散臭い”連中のことを語るつもりではない。“他人の事を信用することが出来ない人達”についての話だ。 ホームページを持つようになってから、掲示板やメールでいろいろな見知らぬ方々と接する機会ができた。顔が見えない匿名の関係ゆえに、日常の直接的な人間関係の中ではなかなか触れる事が出来ないような個人的な苦悩をさらけ出している人達も少なくはない。別に私に対してその苦悩を告白してくるわけではなくて、その方々の主催するホームページやそのリンクのつながりなどから知る事になるのだが、その悩みの深さにはある意味驚嘆する思いがある。 一方で、私の身の回りにいる友人や知人と話をしていく中で、やはりどうにも解決できないでいる“漠然とした”悩みを抱いている人達の存在がとても多いことを知った。そうした悩みを積極的に解決しようとしない、あるいはできないでいる人達は、必然的に精神的な不安定さを日常的に抱え込んでいる。その不安定さは、あるタイプの人達では『鬱』という状態として現れる事が多いようで、それがさらに問題の解決を遅らせる悪循環をもたらしているようだ。 端的に言ってしまえば、彼らは“お人好し”ではない。もちろんそれは“人が悪い”という意味ではなく、気軽に他人を信じられない人という意味合いである。他人を信じられないという事は、すなわち自分自身に対しても信用を置いていないということにほかならない。自分に信があれば、少なくとも世の中には信用を置いて良い人達が幾らかはいるはずだと感じるものである。言い換えれば、他人が自分を信用して良いか迷っている時に、自分は大丈夫だと彼らは言いきる事が出来ない。自分を含めた人間全般に対して信用を持ち切れない状態で生きていると、結局最後はうまくいかないのではないかとか、裏切られるのではないかという不安が常につきまとうことになる。表面的にはそんなことを感じているようには見えず、こちらを信用してくれて付き合っているように思っていると、最後の最後にはさっと身を引かれてしまうような、そんな態度が彼らにはある。 もちろん、こんな世の中だから、無警戒に他人を信じるお人好しはかえって危険だと言えば全くその通りであって、そんなことを勧めるつもりはないし、そんな風になる必要もないが、少なくとも自分自身と極々身近な人間にだけは信用を置くことが出来なければ、生きて行く上で身を寄せる場所が見つからないだろう。ところが、こうした苦しみにある人々の生活史を眺めてみれば、その多くが家族関係に不信感をもちながら成長してきたという経緯があるように思える。その問題のほとんどは親子関係にあるらしいこともまず間違いがないようだ。極端ないじめとか、犯罪被害といった強烈な体験が人間不信の原因である場合も少なくないとの意見があるかも知れないが、それも身近に信頼の置ける相手がいなかったことが苦しみを引きずる結果に繋がったと思われるから、やはり肉親などの精神的な援助が得られない環境というのが根本的な問題だろうと思う。 いわば最も信頼を寄せなければならない親に対して、不信感、違和感を持ちながら育ってしまった場合、『人間とは根本的に信じられるものではない』という結論に至るのは当然かも知れない。というわけで、本当に身近である伴侶などに対してさえも、最後の最後には裏切られるかも知れないという思いを抱き続けて、結局相手を信じきれず、自分を委ねきれず、さらけ出せずに、悶々鬱々という状態から根本的には抜け出せないという人々が少なくないようである。 生まれ持った性格、環境がそうさせたという面が大きく、容易には解決できない難しい問題であることは理解するものの、率直に言って、彼らの言い分を端で聞いていると、実際には多少なりともイライラを感じる。「何だお前は!」と怒鳴りたくなる人が出てくることも理解できるし、実際彼らがそんなふうに怒鳴られる機会は数限りなくあったかも知れない。だが、おそらくはそういう精神状態に最もイライラしているのは彼ら自身だろう。それではいったい何が彼ら自身や周りの人間をイライラさせているのかと言えば、それは『自信の欠如』という一点に尽きると言っても過言ではないと思う。そういう状態に陥ること自体、ある意味止むを得ない面があるとわかってはいても、自分のことを駄目な役立たずだと言い続ける姿というのは、周りにいる人々を不愉快にさせるものだ。 肉親が彼らに信頼感を与えてくれなかったという事は、言い換えるなら彼らを認めてくれなかったということである。彼らの言い分に聞く耳を持たなかったという事であり、彼らを理解しなかったということである。誰も自分を理解せず、自分にこそ問題があるのだと言われ続ければ、その人が自信を持つ事は困難だろう。しかし、困難ではあるが、不可能ではない。現に、似たような境遇にありながら、そうした自己否定の罠から抜け出している人達はいくらでも存在する。私の身近にもいる。 私自身はそんな境遇にはなかったから、こんなことを言う立場ではないという人もいるかも知れない。ひどい鬱状態というものを体験したことがないので、その苦しみについては真に理解することはできず、かつて落ち込んだ時の気持ちを増幅させた状態を想像するぐらいがせいぜいだろう。それでも違う立場から言えることはあると思う。鬱になれば極めて激しい自信喪失状態になるし、気力も萎えきってしまうようだから、その状況から積極的に抜け出す方向にはエネルギーを向けることがほとんどできないだろう。そうした状況が長く続けば続くほど、その人の物事の捉え方は、消極的・否定的な方向に固定されてしまう傾向が強まるに違いない。 そういう状態にある人同士が接触することは、お互いの理解という面で安心感を与えるものであろうから、ある面では有効だろうとは思うが、だが結局の所は積極的な解決の方向に向かう原動力にはほとんどなり得ないというのが本当のところだと思う。そうした、きつく言えば『傷を舐めあうような』関係は、一時的に必要な場合はあっても結局は何ももたらさないだろうということには当の本人同士もおそらく大方は気付いていることだろうから、最初からそういう関係を毛嫌いする人達も少なくはないように思う。というわけで、鬱とは少し離れたところにいる人間の言うことのほうが有意義な面が多いのではなかろうかと、やや調子に乗って書いてみる。 鬱は病気だと診断され、診断されることによって本人はなんとなく安心することがあるようだ。確かに完全な『鬱病』というものは、もはや日常生活の中での自然な回復がなかなか困難な病気であると言えるだろうが、「病気だから仕方がない」、「心の風邪だからしょうがない」と自分を慰めているだけでは何も変わらないだろう。『鬱病』と診断されるほどに精神状態が悪化してしまうまでには、本人の責任による精神的悪循環の経緯が存在するはずである。 鬱状態は何の脈絡もなく突然襲ってくるわけではない。多くは幼少期からのトラウマ、刷り込みによって、自分を、他人を信用できなくなっていることに端を発するのだと思う。 「世の中は、自分の思惑通りに運ぶようにはできていない。上手くいっている人はたまたまそうなっているに過ぎず、何かを一生懸命誠実にやったから報われるというような考えは幻想である。人はいつどこで不運に見舞われるかわからず、全ては偶然に支配されている。もしも偶然ではないとするなら、きっと自分は不運に見舞われやすく生まれついているに違いない」 もしもこのような思いを抱きながら生活するならば、当然ながら彼らは不安の中で生きることになるだろう。こうした精神的な背景を持ちながら、健全でいられる人はいない。そういった精神的状況にあれば、ちょっとした『心の風邪』を引くことは避けようがないかも知れない。そのことを本人の責任だというのは酷だろう。彼らはきっと何度も何度も風邪を引く。それは当然なのだ。だが、何度も風邪を引くうちに、本人には何かを気付く機会が訪れているはずだと思う。どうして風邪を引いたのか、その原因を探るチャンスはあったのに、彼らはそのことに目を向けず、あるいは気付かずに不養生をし、風邪をこじらす。風邪を予防する根本的な方法があるにもかかわらず、それを知ることのないままに、風邪の度に症状を抑えるための薬を使うだけだ。根本的に体質を改善しない限り、彼らはいずれ重い病に至る可能性が高い。それは『鬱』という症状には限らないだろうが、精神的な危機を迎えることに変わりはない。 心の風邪を引きやすい体質を改善することは、1人ではほぽ不可能だろうと思う。もしも彼らが家族に絶望しているならば、他人の存在が必要である。家族との関係というものが特別であるところは、物理的にも精神的にもその関係を断ち切ることが困難であることだが、そうしたマイナスの関係を引きずりながらも精神の安定を得るには、友人や恋人といった身近な立場の人間との間に深い信頼関係を結ぶことが欠かせない。おそらく、それ無くしては彼らに本当の心の平和は訪れないだろう。家庭に身の置き場が無く、学校ではいじめを体験し、一時的に非行へ逃避したものの、それでも結局最後には自信を取り戻すことができたというような経験を持つ人達には、そうしたいわば“幸運な”関係がある。しかし、それは果たして運だけで得た関係であろうか。 人間に対して不信感を持っている人は、そのことが原因となって、他人を遠ざけることが少なくないようだ。本当は誰かを信頼したいものの、一度信頼した上で裏切られることの衝撃の大きさを考えると、最初から浅い関係を維持する方が危険性は少ないという、いわば腰の引けたスタンスを選択している。居心地が悪くなればすぐに切ってしまえるようなそういう関係は、確かに自分の心をかき乱すことにはなりにくいかも知れないが、精神的には特に益にもならない関係だといえる。常に自分の精神を混乱させる肉親たちに比較すれば、無害というだけでも随分とありがたい平和な存在なのだろうが、彼らが本当に欲しているのはもちろんそんな存在ではない。 一方では、ちょっとした優しさを示してくれた相手に対して、あまりにも簡単に己の全てを委ねてしまうような人たちもいる。彼らは相手の本質を見極めることなく、一部の長所をもとに全てをよしとして身を預けきってしまう。いうなれば、信頼のおける相手を求め過ぎるがゆえの勝手な思い込みに過ぎないのだが、相手が自分の思い込んでいた理想像と違う姿を見せた時、それを自分の見誤りだとはせずに相手の裏切りとして捉える。今までの全肯定が一瞬にして全否定に変わり、場合によっては恨みさえ抱く。こういうタイプはストーカー的な行動に至りやすいかも知れない。 いずれのタイプにしても、共通して言えることは、彼らが自らチャンスを遠ざけているということだろうと思う。“世の中に自分を理解してくれる人はいない”という立場でものを見ていたり、己の判断力を放棄したような、他人に対しての安易な依存性を持って生きているなら、相手の本質を感じ取ることができないだろう。つまりはどれだけ人間関係をまじめに捉えるかの問題であって、正面から真摯に対峙しない限りはおそらく精神的な空隙は一生埋まらない。人間関係の問題こそ、避けていては解決をみないどころかどんどん悪化して行く大問題だといえる。それは、自分自身の中での問題としての話であって、必ずしも特定の相手との関係全てを解決する必要があると言っているわけではない。すなわち、家族との関係の中で出来上がった自分の精神的な傷は、必ずしも家族との関係の中で修復しなければならないというわけではないということだ。もちろん、それがもっとも直接的で効果の高いアプローチになる場合もあるかも知れないが、あまりに強いトラウマがある場合にはそうした手段は困難な場合が多いだろうし、かえって傷口が大きくなることも少なくないに違いない。むしろそういう関係は、積極的に断つとか、完全に断たずとも遠ざかることが望ましいかも知れない。ケースバイケースだろうが、そこにこだわることで精神的な負担を持ち続ける必要は全くない。 そうは言っても、肉親(主に親)との関係で生じた圧迫感に支配され続けている人達が、そこから完全に脱することは一生不可能なことなのかも知れない。少なくとも、数年単位では解消できない問題ではある。だが、そうした圧迫感を抱えながらも、他の人間との関係が希望をもたらしてくれることは必ずあるはずだ。“幸運にも”有意義な、人間に対する信頼を取り戻してくれる関係を築くことのできた人達にあって、“不運にも”精神的破綻に追い込まれてしまった人達に欠けているもの、それは“希望”にほかならない。 絶望の果てにあるものは、自殺か、自暴自棄となった末の反社会的行動か、あるいは無気力、自堕落、精神の崩壊といった結末だろう。彼らの境遇を不幸だとは思いながらも、最終的に辿り着いたそういう結末については、社会はあまり同情してくれないものだ。そこにはまず、彼らの置かれた状況の厳しさを真に理解していないという面も少なからずあるが、境遇はどうあれ、そうした道筋を辿らずに済むだけの機会はいくらでもあったはずだとの人々の思いがある。要するに、結局は自己責任だという認識を社会は持っている。こういう厳しい見方は、当の本人達をさらに追いつめることになりがちである。こうした社会の目にさらされることで、彼らの自己嫌悪感、自信の喪失感はいっそう増す場合が多いようだ。 自信を失っている人に対しては、厳しい言い方をすべきではないだろう。彼らに必要なのは希望であって、絶望ではない。精神的に弱っている人が厳しいことを言われれば、「普通の人にはできても、自分には無理だ」という焦燥感、絶望感に捕われる可能性が高い。厳しく言われるということは、決して楽しいものではない。ある種の人々に対しては、厳しい態度というものが発奮材料になる場合もあるけれど、繊細で感じやすいタイプの人間にとっては、萎縮させる原動力になりこそすれ、希望をもたらす力にはなりにくい。自己責任であるということは、言い換えるなら自分の気持ち次第で状況を変えられるというということであって、彼らにはこれから先の希望的な面を認識してもらうことが大事だろうと思う。 「私の人生がこのままで終わるわけがない。こんなに辛い経験をして、幸せを感じないままに死んだのではたまらない。この経験が糧となって、普通の人以上に幸福を感じられる人生を送れるに違いない」 たとえ、今、まわりに誰も味方がいなくても、真摯に生きていればいずれ理解者が現れる。宇宙はそれほどに酷ではないと私は信じている。実際のところ、一時的にでも理解者が全くいない状況というのはそうそうあるものではない。いないと思っているのは、自分が周りの人間を理解していないからだ。腰の引けた態度や、判断力を放棄した付き合い方をしていては、理解者である相手の心を知ることができない。 という言葉は、自己憐憫に浸る人がよく口にする言い方だが、彼らの特徴をよく現している言葉だと言える。人が自分を理解してくれないことを責められるほどに、自分は人を理解して来たと言えるか。確かに彼らは正常な愛情を受けてこなかったという思いが強く、そうしたものを渇望しているのだろうが、それにしても、求める面ばかりが強過ぎる。自分のことばかりに頭を支配されていると言っていい。他人のことを気づかう余裕などない、ということに尽きるのかも知れないが、身の回りにいる人間に対する気遣いもできないようでは、当然ながら求める愛情も受けることはできなくなるだろう。求め過ぎるがゆえに得られないというのは皮肉なことだが、彼らが陥っているのはそうした悪循環にほかならない。他人の心情をよく理解できる人ほど、自分が理解されているかどうかということにはそれほど頓着しないものだ。 “幸運な”人というのは、その点を理解している。自分を苦しめた人間と、自分を理解してくれる人間とを切り離して考えることができる。自分を理解する人間が全くいないなどとは考えない。『全てか無か』ではなく、世の中は黒から白へのグラデーションであるとか、あるいはモザイク模様のようなものだということを理解している。だから、希望を失うことがない。いつまでも辛い状況が続くはずはないと信じている。辛い状況が終わったなら、その経験をその後の人生の糧にできると思っている。そしてもう一つ大事な点は、自分を全くの役立たずだなどとは思っていないことだ。実際に他人のことを気にかけ、自分のことだけで頭がいっぱいにもなってはいない。 理解者とはいっても、別に完璧な救世主が現れるわけではない。理解してくれる点もあれば、理解してくれない点も多くあるだろう。だが、最初から全てを理解してくれないからといって絶望する必要もない。理解というのは徐々に深まって行くものだろう。別に理解してくれるから頭が上がらないというわけでもなく、結局人間関係とは持ちつ持たれつなのだ。相手に対して与える面も多くある。苦しみを和らげてもらうこと自体が、相手の人間性を良い方向に変えることもある。最初は助けられてばかりのような気がするかも知れないが、そういう関係が後々違う方向に発展して、いずれは自分が助けてばかりの立場に変わることだってあり得るだろう。実際、夫婦などはそんな関係であることも多いと思う。結局はそういう自分の可能性を信じることをやめないことだ。自分に見切りをつけず、端からあきらめてしまわないことなのだ。 私には自殺した同僚がいた(「不幸について 〜その4〜」参照)。彼に対しては結局なにもできなかったわけだが、当時は、自殺に至るほどの苦しみにもがいている人間というものに接するのが初めてであったし、彼がそういう道筋を選ぶという可能性に思い至らなかったという面もある。淡泊に言ってしまえば、そもそも、私が彼の面倒を見なければならないという義務はなかったわけだし、そういう力になれる立場にあったかどうかも疑問であるので、彼の死に対しては特に責任を感じているわけではない。だから、私が彼について文章を書いたのは、後悔の念とか、自責の念にかられてのことではない。ただ、興味があった。人間がああいう結末に至る原因はどこにあったのかということを探りたかった。もちろん、そういう人生を積極的に肯定はしないので、できるなら他の人達が彼と同じような罠に陥らないように願っているし、そうした役にたてればよいと思ってはいる。 Iちゃんの場合、彼の精神を追い込んだそもそものきっかけはやはり家庭にあったと言っていいと思う。彼の生前の発言や、彼が亡くなった後にお兄さんが語ったこと、あるいはご両親と親戚の方から伺った話や私が感じた家庭の印象などから推察したものに過ぎないので断定はできないが、少なくとも思春期には既に問題を抱えていたようである。彼がそうなったのは、劣等感を持ちやすいある種の性格に生まれついていたからかも知れず、そういう面ではそのこと自体が“不運な”ことだと言えないことはないのかも知れないが、それでも彼自身に責任が無いとはどうしても言えない。彼をあそこまで追い込んだのは結局は自分自身なのだと、やはり言わないわけにはいかない。 絶望は生命力を断つ。自殺には限らず、また人間にも限らず、絶望だけで動物は死ぬという。植物が絶望するかどうかはわからないが、もしかしたら植物さえもそうかも知れない。どんなに困難であろうとも、ひとかけらの希望さえ持てない状況というのはまずあり得ない。いかに可能性の薄い、荒唐無稽な希望であろうとも、それが実現しないとは限らない。少なくとも希望を持つことぐらいなら常に宇宙は許してくれるはずだ。なにも、自分から希望を放棄することはないだろう。 辛い状況を経験した後、そのままつぶれてしまうか、それを糧にできるかは自分自身にかかっている。立ち直るきっかけは用意されている。見逃して、遠ざけているのは自分自身だ。ちょっと宗教臭い言い方かもしれないが、人生において乗り越えられない試練は与えられないという。私はそれを信じる。もちろんそれは精神的な問題であって、金持ちを望んでも一生貧乏の壁は乗り越えられないかも知れない。体に障害を負ってしまえば一生健康は取り戻せないかも知れない。だが、精神的にはそれをよしとして、最後には満足して死ねるだけの力を人間は持てるということだ。 チャンスは一度ではない。本人がその気になった時には気がつくだろう。立ち直るチャンスがないとか、自分には能力がないからできないとか言う前にその気になって捜すことだ。斜に構えて人生を醒めて眺めているようでも、愛情を受けず、希望を持てない人生を苦しいと思わない人はいない。自分の人生はそういうものだと自ら思い込ませているなら、もういちど本当に自分の求めていることをじっくり確かめてみることだ。自分の本当の気持ちに気付いたなら、素直にそれに従えばいい。 部屋の中をぐちゃぐちゃに荒らされたのは自分のせいではないとしても、それをそのままにしておきながら「住み心地が悪い」と言い続けていたら、それはもはや自分の責任だろう。自分がやったわけではない、自分が悪いわけではないからと放っておいたなら、いつまでたっても住み心地は良くならないのだ。自分の部屋を自分が最も住みやすいように片付けられるのは、自分自身でしかないということに早く気付くことが必要だ。周りを見回せば、片付けを手伝ってくれる親切な人もきっといるはずだ。ものを盗まれるかも知れないとか、かえって荒らされるかも知れないと最初から拒否せずに、相手を良く見て判断したほうがいい。場合によっては、盗まれること、荒らされることも覚悟で相手を招き入れる開き直りがあってもいいかも知れない。もし悪い相手だったなら、次は間違わないようにすればいい。経験が自分の目を以前より確かなものに進歩させてくれているだろう。ほんの少しの経験によって全ての人間を見限ってしまうような早計な真似は決してしないでほしい。簡単に希望を捨てず、なによりも自分自身の力を信用することだ。 |
[ 75] パラビオシス /信用できない人達
[引用サイト] http://mo-retsu.jp/para/sinnyou.htm
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■紙飛行機に乗ってた人達Fair is foul, foul is fair II 先日、hirax.netの検索エンジン「ぐるぐる」宛にこんなメールが届いた。 私たちが折り紙を覚えるとき、一番最初に折ってみたのは紙飛行機だった気がします。もしかしたら、私だけでなくて多くの人たちもそうであるのかもしれません。そこでふとこんな疑問が浮かびました。よく、時代劇で折鶴、紙風船がでてくることがあるのに、なぜ紙飛行機は出てこないのでしょうか?折り方は一番簡単なのに…。 昔は、飛ばして遊ぶ折り紙はなかったのでしょうか?もしそんなものが何かあったとしたら、それを一体なんと呼んでいたのでしょうか。折り方でいちばん簡単な三角翼、いわゆるジェット機に似た形のものが有ったとしたら、それを何と呼んでいたのでしょうか?この答えを探しに行った「ぐるぐる」はまだ帰ってこない。きっと何処かで「紙ひこうきの歴史」を調べているところなのだろう。あるいは、何処かで道草でもしているのかもしれない。 きっといつか「ぐるぐる」も戻ってきて、上の検索結果も判るとは思うのだけれど、今回はこのメールで思い出した「ある紙飛行機に乗ってた人達」の話をメモしておこうと思う。それは、昔から語り継がれているらしい少し不思議な紙飛行機の話である。 先日、スキーに行った帰りの車中で、私の会社の先輩にあたる人が「この話は二十年くらい前に大学の先輩から聞いた」と言って、私達にこんな話をし始めた。 「これは不幸にも墜落した紙飛行機に乗っていた人達の話です」と言って、ある人が聞き手の前でこんな風に紙飛行機を折っていく。 紙飛行機を折るまずはこんな紙を用意して片側を三角に折るもう片側も折り込む真ん中で折る一方の翼の部分を折り返す逆側の翼も折り返すよくある紙飛行機ができあがる普通に飛ぶ紙飛行機である そして、話し手は、「ある日、この飛行機に過酷な運命が訪れる。その飛行機は、いつもと同じように乗客を乗せて、いつもと同じように飛行場を飛び立った。しかし、この飛行機は不幸にも翼の自由を奪われてしまう」と言いながら飛行機の翼を折り畳む。そしてさらに、「翼の自由を奪われたこの飛行機は何処かの場所に激突してしまう。紙飛行機には多くの乗客が乗っていたが、その人達を乗せたまま紙飛行機は真っ二つに割れてしまった…」とゆっくりと語り、その飛行機の胴体を二つに切ってしまう。 翼の自由を奪われた紙飛行機の胴体を二つに切ってしまう…紙飛行機の翼を折り畳んだ状態で胴体を真っ二つに切断する 次に、話し手は「そしてこの不幸な飛行機の胴体は、紙飛行機に乗っていた人達と共にバラバラに散らばってしまった…」と言って、紙飛行機のカケラを散らばらせる。目の前で、全部で九つある紙のカケラはバラバラになっていく。 そして、その散らばったカケラの中の一番大きな一つを拾い、折り畳まれたカケラをゆっくりと開きながら、「飛行機に乗っていたほとんどの人は天国に行った」と呟く。すると、確かに話し手の掌の中で拡げられていく紙のカケラは、いつの間にか十字架の形に変わっていく。 いつの間にか十字架に形を変えた紙飛行機のカケラ そして、まだ目の前に散らばっている残りの八つのカケラを話し手は拾い、それをゆっくりと並べながら「残りの罪ある悪しき人々は地獄へ行く」と話す。すると、その言葉のままに、残りの紙飛行機のカケラはいつの間にか姿を変えて"HELL"という文字に変わっていくのである。 残りの八つのカケラが形作る言葉…「罪ある悪しき人々は地獄へ行く」 そして、最後には話し手と聞き手の間には、紙飛行機が姿形を変えた「十字架と地獄」だけが残り、「紙飛行機に乗ってた人達」は「善き人々と悪しき人々」に分けられて「天国と地獄」へそれぞれ別れていく、という話なのである。 バラバラになった紙飛行機が姿を変えた「天国と地獄」 この話を聞いたときに、その「一見普通に見える」紙飛行機がバラバラになって、そしてそのカケラを並べ直すといつの間にか「十字架の形」と「"HELL"という言葉」に形を変えるなんて、とても不思議で少し不吉な話だなぁと小心者の私は思った。 そして、この話がどんな風に作られて、どんな風に語られているかを知りたくなった私は、この話に関連しそうな話を探してWEBサイトを辿ってみた。すると、キリスト教の説法の一つとして、この「十字架と地獄」という話をいくつもWEB上で見かけることができた。そのほぼ全ては「天国と地獄」「十字架と地獄」といった「善と悪」の話だった。また、その話は「天国へのチケット」という風に、もとの形が飛行機でないものも多かった。 そして、さらにいくつかの情報源を辿っていると、他とは少し変わった終わり方の話を見かけた。その話の中でも、全部で九つの紙のカケラの内の一つはやはり十字架になり、「飛行機に乗っていたほとんどの人は天国に行く」というところまでは他の話と全く同じだった。しかし、その話の中では残りの小さな八つのカケラが形作る文字が"HELL"という文字ではないのだった。 やはり残りの八つのカケラが形作る言葉…「残りの敬虔な人々も深い愛で包まれる」 その残りの八つのカケラは並べ直すと、姿を変えてこんな風に"LOVE"という文字を綴るのである。そして、語り手はその文字を指しながら「残りの敬虔な人々も深い愛で包まれる」と終わるのだった。この形で終わる話を眺めて、ようやく、この「紙飛行機に乗っていた人達」の話は「とても不思議で少し不吉な話」から「とても不思議な話」だと私は思えるようになったのである。 紙飛行機が何処かに激突して二つに分かれてしまう。ある人が語る話の中では「紙飛行機に乗ってた人達」は「善き人々と悪しき人々」に分けられて「天国と地獄」へそれぞれ別れていくと語られる。そして、また違う人は「紙飛行機に乗ってた人達」は「飛行機に乗っていたほとんどの人は天国に行き」「残りの敬虔な人々も深い愛で包まれる」と語られる。同じカケラが、語り手次第で「地獄へ行く罪ある悪しき人々は」だったり、「深い愛に包まれる敬虔な人々」だったりする。 マクベスの冒頭の"Fair is foul, foul is fair."という言葉ではないけれど、何が善で何が悪かはほんの少しの視点の違い次第だ。それはもちろん、この八枚の紙のカケラに限らない。 関連記事を読む >> Keywords:できるかな?|紙飛行機 |
[ 76] hirax.net::Article::紙飛行機に乗ってた人達
[引用サイト] http://www.hirax.net/dekirukana6/foldingpaper/index.html
