芙美子とは?
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芙美子の食卓を飾っていた椀、湯のみ、リキュールグラスセットなどを展示します。 【予約等】ガイドの予約は不要です。ただし、団体の場合は事前にご連絡ください。 記念館の特別公開(7/7)を前にボランティアさんが作ってくれた、きれいなささ飾りです。 キバナノツキヌキホトトギス(黄花の突抜杜鵑草)。黄色いホトトギス。とても珍しいとか… この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。 大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。 新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせました。 芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、その思い入れは格別でした。このため、山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっています。芙美子は客間よりも茶の間や風呂や厠や台所に十二分に金をかけるように考え、そのこだわりはこの家のあちらこちらに見ることができます。 掘りごたつ、釣り戸棚、二段押し入れ、収納式神棚、多くの小引出しなどを備えたこの部屋は、暮らしやすさを考えた一家団らんの場でした。ちゃぶ台を囲んで一家が集まる時、芙美子の母・キクは、常に右手床の間の床柱前に、大きな座布団を敷いて座ったそうです。 納戸として作られたこの部屋は、しばらくすると、書斎として使われるようになりました。納戸として作られたため、洋服入れ、物入れなどが作り付けられ、使いやすく出来上がっています。しかし、深い土庇、部屋の中から、半障子を通して廊下越しに北の小庭が見えるなど、納戸とは思えないような趣向が凝らされています。 芙美子は熱中すると強度の近眼用眼鏡をはずし、顔を机につけるように執筆しました。 芙美子生存中、この庭一面に孟宗竹が植えられていました。その死後、次第に竹は切られ、その面影は客間前の庭付近に見られるだけとなりました。このほか、寒椿、ざくろ、かるみや、おおさかづきもみじなど、芙美子が愛した木々がこの庭にも植えられました。 奥の棚に小さな仏壇が置かれたこの部屋は芙美子の母・キクが使っていました。しかし、男性の書生がいるときにはその寝室にもなりました。また、客間がいっぱいになったり、ひき会わせたくない客がぶつかると、客間としても使われました。 ただし小・中学生及び、20人以上の小・中学生を引率する方(1名まで)は下記の期日について免除されます。 |
[ 123] 林芙美子記念館
[引用サイト] http://www.regasu-shinjuku.or.jp/shinjuku-rekihaku/public_html/fumiko.html
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[ 124] 「芙響和音」水田芙美子公式blog powered by ココログ
[引用サイト] http://mizu-fumi.way-nifty.com/
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小説家。山口の生まれ。多くの職を転々としながら、自伝的小説「放浪記」で文壇に出た。一貫して庶民の生活を共感をこめて描いた。他に小説「清貧の書」「晩菊」「浮雲」「めし」、詩集「蒼馬を見たり」など。(大辞泉) 昭和26(1951)年、心臓を患っていた林芙美子は、主治医の忠告を聴き入れず、『主婦の友』の「私の食べあるき」という企画で外出した。夜10時過ぎに帰宅し、家族と団欒した後、床に就く。 11時を回っていた。突然、芙美子は苦悶し始め、午前1時、帰らぬ人となる。47歳だった。 行商人の父・宮田麻太郎と、母・林キクの元、山口県下関市の間借りの部屋で生まれ、私生児として届けられる。22歳の麻太郎に、14歳年上のキクと入籍する気はないまま、3人の生活は続いた。 だが芙美子6歳、母とともに家を追い出される。麻太郎が、芸者を同居させたからだ。雪の降る夜、少女の心に大きな傷が残された。 同じころに麻太郎から解雇された番頭・沢井喜三郎が、芙美子の養父となる。母と沢井は、町から町へ行商をして歩いた。1つ1銭のアンパンを芙美子も売り歩き、日が暮れれば、行商仲間の子供たちとパンをかじりながら帰った。 15歳の時、芙美子は尾道市立高等女学校へ入学した。才能を発揮したのは作詩である。空想力が自由に跳ね、生き生きした文章が駆け出す。 商業高校に通う岡野軍一と出会ったのも、そのころだ。2人は語り合って時を過ごす。淡いときめきだった。 女学校を卒業した芙美子は、東京へ向かう。仕事を見つけ、両親の生活を少しでも支えたい。また、東京の大学へ進んだ岡野に会うためでもあった。 しかし、再会した2人の幸せは続かなかった。貧しい行商人の娘との結婚は、周囲から反対されたのか、岡野は故郷へ帰ってしまう。 わびしく苦しい生活が始まった。目まぐるしく芙美子は、職を遍歴する。文士や学者宅での掃除・洗濯、株屋の事務員、玩具工場やカフェでも働き、産院の手伝い、毛糸売りもやった。が、1日じゅう働いても、その日をどうにか過ごす収入しかない。キャベツを刻んだだけのおかずがごちそうだった。泊まる家がなく、駅の公衆便所に寝たり、空き家に潜り込んだ夜もあった。 やがて知り合った俳優・田辺若男と、同棲するようになる。貧しいながらも幸せを感じていたある日、芙美子は田辺のカバンから、2千円の預金通帳を発見した。芙美子を働かせて大金を隠している田辺に、激しい憤りを覚えた。2人の仲は、数ヵ月で終わりを告げる。 芙美子は寂寥感に耐えかね、知り合って間もない詩人・野村吉哉と暮らし始める。しかし、野村は芙美子を土間へ投げ飛ばしたり、炭俵に詰めたりもした。やがて野村に愛人ができると、芙美子は身を引いた。 しばらく後、友人の紹介で手塚緑敏と会う。ようやく芙美子は、落ち着いた結婚生活を手に入れた。 そして、書きためていた日記に、芙美子は手を入れてみる。昭和3年、世は女流文学熱が高まっていた。 雑誌『女人芸術』に、芙美子の手記『放浪記』が載ることに。評判はよく、改造社が発刊した「新鋭文学叢書」の1冊に収録されたのである。 圧倒的な売れ行きだった。評論家の批評よりも早く、一般読者の人気を呼び、『続放浪記』も出版される。1、2年で60万部が売り尽くされた。 印税を手にした芙美子は、満州から中国大陸へ、2ヵ月にわたる旅に出た。昭和6年には、片道切符を手にパリへ。滞欧中、短編小説や随筆、紀行文などを次々に書く。旅に生きた芙美子らしかった。 名声はますます高まった。反面、栄枯盛衰の文壇でいつ、読者から忘れ去られるか、芙美子は不安にさいなまれたという。築いた地位を脅かしかねない新人女性作家には、特に神経質になり、露骨な妨害をしたという証言もある。 原稿依頼はことごとく、無理を承知で引き受けた。『晩菊』で昭和24(1949)年、日本女流文学者賞を受賞。新聞小説や雑誌の連載を敢行し、ほかにも長編、短編を発表している。 夜10時ごろから執筆を始め、深夜の4時に就寝する。朝は7時に起床して、決まったように机へ向かう。濃いコーヒーとタバコを愛する生活は、芙美子の健康に暗い影を落とした。肺炎で一度、入院したが、仕事は一向に減らない。動悸が激しくなり、持病の心臓弁膜症で少しの運動にも耐えられなくなっていく。 私はあと幾年も生きてはいられないような気がしている。心臓が悪いので、酒も煙草もとめられているのだけれども、煙草は日に4、50本も吸う(椰子の実) |
[ 125] 林 芙美子
[引用サイト] http://meigen.ivory.ne.jp/meiku/hayashi.htm
