戦いとは?
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この項目では1356年に行われたポワティエの戦いについて記述しています。732年に行われたポワティエの戦いについてはトゥール・ポワティエ間の戦いをご覧ください。 スロイス ? クレシー ? カレー ? ポワティエ ? オーレ ? アジャンクール ? ルーアン ? ボージェ ? ブールヌーフ ? オルレアン ? パテー ? フォルミニー ? カスティオン ポワティエの戦い(Battle of Poitiers)は百年戦争の一環として1356年9月19日にプランタジネット朝イングランドとヴァロア朝フランスの間で行われた戦いのこと。 戦に先立つ1356年8月8日、エドワード黒太子はアキテーヌを根拠地に北上しつつ騎行戦術をとった。 地方に駐屯する守備隊を撃破し、物資を略奪することによって調達した。 ツールのロワール川近辺で、イングランド軍は根城を確保できておらず、また、大雨により都市を焼き払うことができずに行軍が遅れ、フランス王のジャン2世はイングランド軍を捕捉することに成功した。 イングランド軍のエドワード黒太子は16歳の時経験したクレシーの戦い同様の作戦計画を立案し、自然の障害に囲まれた平野に陣取った。 陣地の左側面は小さなクリークに、背後を森に囲まれており、唯一弱い右側面、ポワティエからボルドーへと続くローマ時代からある古道には、略奪物が載せてある荷車を置いてバリケード代わりとした。 そして、騎兵もみな馬をおり、歩兵として二部隊にわけられ、その両翼にV字にロングボウを持った長弓部隊を配置した。 この際、Captal de Buchのジャン・ド・グライー3世率いる200騎ほどの騎兵部隊が、後方の森に隠されていた。 第1陣はジャン・ド・クレルモン元帥率いる300人ほどのエリート騎士と槍を持ったドイツ傭兵部隊、弩部隊によって構成され敵の長弓部隊に対抗する役目を負っていた。 戦いに先立ち、イングランド軍の左翼が後退するかに見せかけたため、フランス軍の騎兵はそれに誘われるようにして突撃し、戦が開始した。 イングランド軍は、予測通り突撃してきたフランス軍に矢を雨霰と降り注がせた。 ジャン・フロワサールは、イングランド兵の放つ鏃はフランス騎士の鎧上を滑り、衝撃は緩和されフランス騎士を傷つけることはできなかったと書いている。 ともあれ、騎兵の鎧を貫くのは困難であったが、馬の鎧は側面、あるいは後背からの攻撃には弱かったため、長弓部隊はフランス軍の側面に回り込むようにして馬をねらい打ちにした。 結果、第1陣は壊滅的打撃を受けて潰走し。これにつづいて第2陣を率いた王太子率いる歩兵部隊が攻撃したが、再編成のために撤退した。 それを見たオルレアン公配下の第3陣は恐慌状態に陥って敗走し、第4陣は進軍できずしばし立ち往生することとなった。 この間にイングランド軍は矢が不足したため弓兵も剣を抜いて白兵戦に備え、歩兵の一部は騎乗し戦いに備えた。 まだまだ脅威となる戦力を残すフランス軍との戦いは激しいものとなったが、イングランド軍には背後に隠しておいた騎兵部隊があった。 騎兵部隊は戦場を迂回してフランス軍の側背面に回り込み奇襲を仕掛けることに成功した。 包囲されることを恐れたフランス軍は逃走を試みたが、ジャン2世とその側近たちは捕らえられ捕虜となってしまった。 結果としてフランスは軍事のみならず、経済的にも大打撃を受けた。エドワード黒太子の活躍により、フランス国王ジャン2世を捕虜としたイングランドは当初50万ポンド(1ポンド=1トゥール貨リーブル)もの莫大な身代金を要求したが、交渉が進むうちにエキュ金貨四百万枚に、最終的にはブレティニ・カレー条約で合意に達した身代金の額は、エキュ金貨三百万枚であった。この額は、結局全額払われることは無く、一旦は解放されていたものの、人質であったアンジュー公の逃亡、及び支払いの遅延により、ジャン2世は再びロンドンに自ら赴き、ジャン2世は捕虜のまま死を迎えることとなった。 イングランドの側としては、数年前のスコットランド王を捕虜にしたときの身代金の額より多くすべきだと言う考え方と、王としての格で身代金の額を要求すると、ジャンのフランス王位を認めたことになり、フランスの王位を主張するエドワードの立場としては、あくまでヴァロア伯を捕らえたものとして身代金の額を設定する必要があるというジレンマが存在した。 この戦いはクレシーの戦いの再現とも言える大勝で、イングランド軍のすぐれた戦術により少数が多数を圧倒した戦いとなった。 |
[ 99] ポワティエの戦い - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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テルモピュライの戦い(-たたかい、Battle of Thermopylae)は、ペルシア戦争さなかの紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘。「テルモピレーの戦い」とも呼ばれる。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。 海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前に敗退した。しかし、スパルタ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止めた。 ペルシア遠征軍の侵攻を知ったギリシア側は、イストモスにおいて会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオンで、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つ地点だった。ギリシア側はスパルタ王レオニダス率いる先遣隊を派遣し、マケドニアのテルマ(現テッサロニキ)から南下する大部隊(ヘロドトスによると陸兵総勢210万人)を迎え撃つことになった。 テルマを出立したペルシア陸戦隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣をはったが、その兵力規模の大きさにギリシア側は全軍が恐怖に陥った。ペロポネソスから派遣された兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対したため、レオニダスはテルモピュライでの決戦を決意、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。 クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、ギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた。 以上はヘロドトスの述べる数字であるが、シケリアのディオドロスによるとスパルタ軍には300人隊に加えて1,000人のスパルタ装甲歩兵が参戦していたことになっており、ロクリス・オプンティアの全兵力を加えたギリシア側の総数は7,000人前後と推定される。最後まで戦闘に参加したのは、スパルタ、テスピアイ 、テバイの兵 (合計1,400人〜2,400人) のみである。 以上はヘロドトスの述べる数字である。ヘロドトスによるとこのほか水兵が541,610人おり、総兵力は2,641,610人。また非戦闘員が同数帯同したと仮定して遠征部隊の総勢を5,283,220人と見積もっているが、これらは明らかにペルシア遠征軍の実数としては認められない。ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、15,000から30万まで様々な推定がなされている。古代ペルシア語から古代ギリシア語への翻訳の過程で単位が1桁間違って伝わったという解釈に従うと、ペルシア陸戦部隊の総数は21万人となる。20世紀以降の学者の見解に限ればペルシア陸軍の総数を10万人以下とする推定が大半であり、平均すると6万人前後である。 テルモピュライは、テッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路だったが、峻険な山と海に挟まれた街道は、最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア陸軍は大軍を優位に展開することが出来なかった。ペルシア側の先陣を切った軽装歩兵メディア軍は、1万もの多大な被害を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア部隊を敗走させることができなかった。 ファランクス隊形で迎え撃つスパルタ重装歩兵を先陣とするギリシア軍の猛攻を目の当たりにしたクセルクセスは、2日目にはヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、街道にもうけられた城壁を利用して防衛するギリシア軍を突破できなかった。現状を打開できなかったクセルクセスは苦慮したが、山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り(一説にはギリシャ人からの密告によって知りえたとも言われる)、これを利用することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間、この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、スパルタ軍ではないと悟ったペルシア軍はこれを無視して間道を駆け降りた。翌朝、不死部隊はギリシア軍の背面に展開した。 (一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国襲撃と思い守備隊全員が臨戦のため帰国したとも言われる) 3日目の未明にアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛戦から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人とテバイ、テスピアイ兵1,100人の合計1,400人(またはスパルタの装甲歩兵1,000人を加えて2,400人)は、共にテルモピュライに残った。 夜明けを待って、レオニダスは全軍に出撃を命令した。それまでは、街道の城壁での防衛を主としていたが、この日は道幅の広い場所まで進撃した。彼らは槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯を使い、全軍が玉砕するまで戦った。ヘロドトスによれば、この戦いによるペルシア軍の戦死者は2万人とされる。 奮戦も空しく玉砕したスパルタ王レオニダスの死体をめぐって、ペルシャ軍とスパルタ重装歩兵軍との戦いは、ペルシャ軍を撃退すること前後4回、ディエヌケスが遂に王の遺体の奪回に成功し、道幅の狭いところまで遺体を移したものの、前後から襲い掛かる圧倒的ペルシャ軍の前に玉砕した。 この戦いでレオニダスとスパルタ兵は英雄として讃えられ、テルモピュライにはスパルタ軍を記念して碑が置かれた。碑文はシモニデスが草したもので、ヘロドトスによれば、「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われている。現在はコロノスにこの言葉を刻んだ石碑が設けられている。 スパルタとともにテルモピュライに残ったテバイ兵は、彼らが全滅するに及んでペルシア側に投降し、ペルシア遠征軍に組み込まれた。この戦いに敗退したギリシアは、防衛線を大きく後退させ、 デルポイ、アテナイ、メガラを占領した。 紀元前4世紀から3世紀にかけてバルカン半島を南下し、ギリシアに接近していたガリア人は、紀元前279年にブレンヌスのもとに結集してギリシアを目指した。これに対してギリシアの諸ポリスは再びテルモピュライに集結して防衛線を敷いた。ガリア人の度重なる攻勢に対してギリシア勢はよく守備したが、最終的にはペルシア戦争時と同じく地元住民から間道のことを聞き出したガリア人の部隊がギリシア軍の後方に回りこんだ。しかしこの時は、沖合いに展開して掩護に当たっていたアテネの艦隊に収容されたため、守備隊は全滅という悲劇の再現を免れている。 |
[ 100] テルモピュライの戦い - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
