人さまとは?

弘長元年(1261)5月、念仏者と幕府権力者が結託した策謀によって大聖人さまは、伊豆流罪という不当な処置を受けられました。御歳四十才のことです。
しかし大聖人さまは、この迫害を法難(正法弘通を原因とする迫害)と受けとめられ、さらに法華経の弘教を誓い、法難に値うことを悦び(法悦)とさえ感じらていました。
流罪から約二年がたった弘長三年二月、幕府は大聖人さまの流罪を赦免しました。罪を赦された大聖人さまは、ふたたび鎌倉の地に戻られたのです。
不当な手段を用いてまで流罪に処した幕府が、大聖人さまを赦免にした理由は何だったのでしょうか。
「事しづまりぬれば、科なき事は恥ずかしきかの故にほどなく召し返され」(『下山御消息』全355頁)
と大聖人さま仰せのように、幕府重臣・北条重時の死去によって事(非難)が静まったことが理由のひとつです。この熱心な念仏者である重時の死(狂死)が、もともと無罪である大聖人さまを赦免する判断を出させました。
さて、伊豆流罪を赦免された大聖人さまは、いったん鎌倉に戻られたあと、ご自身が生まれ育ち出家を志した故郷・安房の地へと向かわれました。同地方の檀越である工藤吉隆の招きによるものです。(一説には御母の病気平癒のためとも伝えられている)
大聖人さまは、数人の弟子・檀越方とともに安房に向かわれました。しかし、その情報をいち早く察知していたのが、この地の地頭であり念仏者でもある東条景信でした。
かつて清澄寺内において強烈に念仏批判を行なったばかりか、領地問題の訴訟の時も大きく立ちはだかった大聖人さまの帰郷を、東条景信は憎しみの心をもって待ちかまえていたのです。
文永元年(1264)十一月十一日の夕刻、大聖人さま一行が、景信の領地内である東条松原の大路を通りかかったとき、いっせいに景信ひきいる念仏者たちが襲いかかってきました。
薄闇のなか、怒号と罵声が飛び交い、修羅場と化したであろうその時のことを大聖人さまは、檀越にあてたお手紙のなかでつぎのように回顧されています。
●今年十一月十一日、安房の国東条の松原という大路で、待ち伏せしていた数百人の念仏者に襲われた。こちらの総勢は十人ほどで、応戦できるものはわずか3、4人しかない。射られる弓矢は雨のように、打つ太刀は雷のようであった。この襲撃によって弟子一人はその場で殺され、二人は重傷を負った。日蓮も額を切られ、左手を打ち折られた。しかしこの絶対絶命の危機を、不思議なことに逃れることができ、今日まで生き延びている。(取意、『南条兵衛七郎殿御書』全1498頁)
雨のように射られる矢、また電光のように激しく切りつける刀。この突然の襲撃によって、お弟子の一人である鏡忍房が討ち死にし、二人が負傷、さらに大聖人さまご自身も額に傷を受け、左手を折られるほどの重傷を負われたのです。またこの襲撃によって天津の領主である工藤吉隆も殉死しました。
二人の殉教者を出し、ご自身も重傷を負われたこの東条松原での襲撃は、まさに大聖人さまにとって命を奪われるほどの大難でした。
さきのお手紙は、この東条松原での襲撃からわずか一ヶ月後に、大聖人さまが駿河国上野郷(現在の静岡県富士宮市)の檀越である南条兵衛七郎殿にあてられたものです。
●法華経の第四の巻に「仏在世であっても正法流布するときには怨嫉を受ける。仏が滅したときはなおさらである」と説かれ、第五の巻には「一切世間は怨むものが多く正法を信じることが難しい」と説かれている。いまの日本国に法華経を読み学ぶ人は多い。しかし、盗みや邪淫の罪で仕打ちを受ける者は多けれども、法華経のために迫害を受けた者は一人もいないではないか。いま日本国の持経者(仏教者)のなかで日蓮の他にこの法華経の経文のとおりに実践しているものがいるであろうか。ならば日蓮こそ日本第一の法華経の行者ではないか。(取意、『同』1498頁)
大聖人さまは、おそらくまだ傷の癒えない状態でこのお手紙を認められたことでしょう。弟子・檀越の殉教を悲しまれながらもしかし大聖人さまは、この大難によって、お経文の通りに振る舞うことを誓い、ご自身が「日本第一の法華経の行者」であることを宣言されるのです。

[ 100] 無題ドキュメント
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/gyohoji_web/kenkyu/sokuseki/setumei/komatubara.html

世の中に飲食店はすごくたくさんあるけれど、一人で入って、リラックスして美味しく食べて、「また来ようかな」って気分よく出て来られる店がいったいいくつあるだろう。男の人だったら吉野屋とか松屋とか立ち食いソバもあるけど、やっぱり女性があの空間に一人で入るのは勇気がいる。最近は女性客も増えたらしいが、女性が入っている店でも男女比は9:1くらいだからどうやったって目立つし。しかもプロトコルがわからない。牛丼のつゆを多く入れるのを「シルダク(汁だくさん?汁ダクダク?)」ということだって、この間初めて知ったくらい。じゃあファストフードならどうかというと、昼ならともかく夜はちょっとそれじゃ寂しすぎる。人を誘ったり、家で作って食べるには微妙に遅い時間(午後9時とか)に、ふらっと入れる「台所」みたいなところがいくつかあったらいいだろうなあ、といつも思う。
先日、会社帰りにスポーツクラブに寄ったのだけど、その前に腹ごしらえにと焼き鳥&釜飯の店に入った。たしかカウンター席があったから、あそこでさくっと……という算段だったのだが、これが失敗。金曜日の夜9時過ぎ。そこは居酒屋と化していて、しかもカウンター席はいっぱいだった。奥のお座敷が見えるテーブル席に案内され、一人座った。「そっか、ここは夜は居酒屋さんなんだ」と気づいたときはメニューを手渡されていた。もうかなり出来上がっているグループもいて、周囲はとても騒がしく、一人で釜飯をよそっている自分がどうにもこうにもそこの光景に馴染んでないような気がして気が引けた。早く食べて出なければ……とおのずと早食いになる。左は常連さん、右は、すごく疲れた感じの女性二人が煙草をくゆらせて職場のグチを語り合っていた。そして正面のグループはどうやら合コン中。食べ終わってそそくさと出ようとしていたら、店主とおぼしき人が、お茶を持って来てくれた。その一杯だけで、「忘れられていない」という気がして、ちょっと嬉しかった。
ウチの近所のカフェも、一人で比較的入りやすいのだが、ここでは2度ほどいやな思いをしたので、しばらく行っていない。そもそも客の入りがよくない店なので、大勢のお客のなかで、「お一人さま」は自分だけ、という状況にはならないのがいい。いつも一人か二人、先客の「お一人さま」がいる。それでちょくちょく行っていたのだけど、あるとき「お水下さい」といったら勝手にミネラルウォーターを持って来て、あとで500円チャージしていたのが感じ悪いなあと思った。でもまあ、夜はお酒も飲ませるところだし、水には気を遣っているんだろう、とそのときは許してあげた。で、またしばらくして行ったとき、店には私しかいなかったので、座りごこちよさそうなコーナーのテーブル席に移りたいといったら、「いいですよ」とOKしておいて、あとから「テーブルクロス代」というのを伝票につけてきた。このときは「先に言ってくれてもいいんじゃない」と嫌味を言ったのだった。地元の客相手の店だから、何度か行ったのでそろそろ顔を覚えてもらえるかな、という頃だったけれど、そのことがあってから足が遠のいた。「常連になりたいなら週に2回は通わなきゃだめだ」と友人には言われたが、やっぱりそれくらい行かないとだめなんだろうか。まあそのカフェは、私が行かなくてもそこそこ流行っているみたいだからいいけれど。
いま、週に二回とはいわないまでも、週一回は通っているところがある。M寿司というお寿司屋さん。私が通っている着付け教室の近くにあるので、いつも教室が終わるとここに寄って帰るのが密かな楽しみとなっている。そこは結構一人でくる地元のお客さんも多くて、私が一人で寿司をつまんでいても風景としてもおかしくはないし、気分的にも堂々と一人でいられるのでとっても楽である。地元の常連さんは、板さんと軽口をたたいたりして、それを聞いているのも面白い。雛祭りの日、どこかの教室帰りのお婆さんたちが5人ほど入って来てずらりとカウンターに陣どり、「今日はみんなちらし寿司よ。お雛様だからね」と注文しているのが可愛らしかった。わたしはといえばそんなこともすっかり忘れて一人で握りを食べていて、「ああしまった、お雛様か。私もちらしにすればよかったな」と思ったものだ。板さんたちは、私の顔を覚えてくれてているのかいないのか、わからないけれど、1000円の並のときも2000円の上のときも、かわらずハキハキと「ありがとうございました」って言ってくれて気持ちがいい。
寿司屋の話で思い出したが、知り合いからこのあいだ驚くべき話を聞いた。すし屋のカウンターに一人の客が3人並んで座っていて、その全員がケイタイで喋っていたのだという。すごい光景だ。寿司屋のカウンターに座っているときまでケイタイで喋らなくちゃいけないことがあるのだろうか。それほど緊急の用事なら、お寿司が握られて出てくるのを悠長に待っている場合ではないだろう。寿司屋のカウンターって比較的一人でも格好がつくところだと思うのだけど、喋ってないと落ち着かないのかなあ……。
「おひとりさま」について考えていたら、もう7、8、年も前に読んだフランスの短編を思い出した。題名はずばり、『お一人きりですか?』。本は誰かにあげてしまったみたいで、家の本棚にはなかったが、思い出したらどうしても読みたくなって、インターネットの古本屋を通じて取り寄せた(インターネットで古書を買ったのは始めてだったけれど、予想以上に気持ちのいい経験をした。欲しいと思った本は案外簡単に見つかって、古書店主から丁寧な確認のメールがきて、その翌日、とても几帳面に包んだその本が届いた)。読み直してみたら他愛のない話だったけれど、さわりだけ紹介しましょう。
独身のワーキングウーマン、フェビエンヌ。いつもランチは職場付近のカフェに行くことにしている。ここの料理がそこそこ気に入ってるからだ。でもここのウエイトレスは気に入ってない。毎日来ている彼女に「お一人きりですか?」と毎回聞く。これが彼女を不愉快にする。「お一人」の客は、いつもドア付近の落ち着かない席に案内される。カップルや家族連れは日の当たる座り心地よさそうな席なのに……。が、ある日フェビエンヌは、一人きりなのにいつもいい席でゆったりと食事をとっている老婦人を発見。「なぜあの人だけ?」と訝りつつちょっと憤る。すぐに謎はとけて、この老婦人は、かつては夫婦での常連さんだったということが判明。だんなさまが亡くなってからもこうしていつも食事に来るので、店の人が気を回して昔二人で座っていた席に案内していたというわけ。フェビアンヌは、「お一人さま……」と聞かれるのがいやで、ある日、浮浪者(といってもインテリ風で小奇麗な)を拾って、彼と毎日食事をすることになった。そして……。
このあとにドライなユーモアのきいたオチがあるのだが、たねあかししてしまうのも芸がないので、ファビエンヌは一人でも堂々と居心地のいい席に案内されて、落ち着いて食事をとれるようになりました、めでたしめでたし、とだけ書いておきましょう。
オチのヒント:一人でもVIP扱いされていた老婦人は、「未亡人」だったんですね。

[ 101] 「お一人さまですか」
[引用サイト]  http://www.president.co.jp/pre/special/aiai/016.html

隣りの席になってはや3年。彼のことを弟のように可愛がって来た(つもりだが本人はどう思っているかは知らない)私としては、ほのぼのと嬉しい。で、
しかしこれで我が編集部の独身比率もまた下がった。ますます肩身が狭くなるかと思いきや、なんだかそうでもなくて、最近自分でも混乱している。というのは、騙されているのかもしれないけど、巷では「独身というのは最先端の生き方である」という意見も聞かれるようになってきたからだ。「遅れた」「残った」と言われながら、知らないうちに最先端になっていたとはこれいかに〜。
最近、建築家、竹山聖氏の、『独身者の住まい』という本を読んだ。これが全編、独身者礼賛、みたいな本だった。たとえばこんな調子。
「世界は独身者に向かって進んでいます。豊かな世界ほど、ひとりの気ままさを許している。自由な時間をもたらしている。個人が共同体のしがらみから解放されています」
「仮に人類の歴史が自由に向かう歴史だとするならば、独身者は人類の理想なのかもしれません。独身者ほど自由でいられる生き方はないのですから。人類の芸術・文化を築いた偉大な先人たちに、なんと独身者の多いことか」
ちなみにダ・ヴィンチもゴッホもベートーベンもアダム・スミスも独身だったそうな。人が「起きて食べてセックスしてウンチして寝るだけ」の動物と違うのは、創造する能力をもっていること。創造のためには、ある程度の物理的、精神的余裕が必要で、そのために創造の急先鋒の人たちは結果的に独身者が多い、というような話だった。いま日本にゴロゴロいる独身者たちを歴史に残る偉大なクリエイターたちと混同しちゃいけないというのは百も承知だけど、ま、悪い気はせんなあ。しかしこれだけだと独身者ばかりをターゲットにした怪しげな教団の勧誘みたいでキモチ悪くもある。その手にはのらないぞ〜。だが、もちろん竹山さんの真意はそういうところにはない。彼は、現在の独身者のことを「在庫」に喩えてこのように言う。
「男も女も“売れ残る”という言葉が暗に意味するように、結婚にあたっては商品です。…そしていままでの社会では、その在庫期間が極力少なくなることが、社会の安定のためにもお家の繁栄のためにも共同体の活力のためにもいいことでした。陳列から消費者の手に渡るまでのあいだをなるたけ合理的にしかも返品の少なくなるように工夫してきました」
ワタシら、在庫なんだってさ。でも、この在庫たちが今の社会の財産になっとる、と竹山さんは指摘する。在庫というのは最終消費されるまでのプロセスの状態なのだけれども、消費されずとも、プロセスのまま何かを生み出しているというのだ。
「社会の活性化、消費社会の主役は独身者です。創造的なライフスタイルを築くのも独身者です。……芸術のパトロンも独身者です。可処分所得が多く、可処分時間が長く、わがままに行きられるのも独身者です」
何もあせって在庫処分するまでもあるまい、そのままで社会のいい肥やしになってちょうだいよ、ということである。でもちょっと待てよ。可処分所得、可処分時間が多いって、子供のいない共働き夫婦、子育ての終わった悠々自適夫婦なんかも当てはまるんじゃないの?ってことは、この人たちもいわば「独身型」ライフスタイルなわけだ。既婚、未婚っていうグループ分けの持つ「意味」っていうのがどんどん曖昧になってきている。
国立社会保障・人口問題研究所の岩澤美帆氏によれば、過去10年で結婚しない人は増えたけれど、男女のカップル数はほとんど変わっていないそうだ。その内容が「婚姻同居方」から「非婚非同居型」、つまり一緒に住んでいる法律上の夫婦の割合が下がり、独身状態で特定のパートナーがいるという状態の男女が増えている、ということになろう。この二つのグループの中間には「非婚同居型」というカテゴリーもある。そう考えていくと、「婚姻非同居型」、いわゆる単身赴任者というカテゴリーもあるなあ。この人たちのライフスタイルはシングルとかわらない。既婚者と未婚者は、じわじわとお互いの領域に進出しつつあるようだ。
竹山氏が言う、「世界は独身者に向かって進んでいます」というのは少々言い過ぎにしても、いままでマイノリティだった独身者が、社会的、経済的、文化的に無視できない一大勢力となってきた、ということは言えるのではないか。私は、「独身的なるもの」についての研究はこれからいろんな分野で進んでいくような気がする。独身者に「パラサイト」「ノンパラサイト」という分類ができたことだって、既にこの集団が学術的な研究対象になっていることの立派な証拠。ちなみに『宣伝会議』11月号(2002No.636)では、シングル30代を「日本の新消費リーダー」と位置づけてこの集団の価値観を分析している。こんなふうに注目されると、なんとなくその気になってしまう。ひょっとして私、「最先端なのか?」とひそかに思ったりしている今日このごろである。これを世間では「現実逃避」とも言う。

[ 102] 「お一人さま」は最先端?
[引用サイト]  http://www.president.co.jp/pre/special/aiai/057.html



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