ディケンズとは?

二月七日、イングランド南岸にある軍港都市、ポーツマスの郊外ランドポート(現在は市内になっていて、コマーシャル・ロードと呼ばれる通りの一六九番地)にチャールズ・ジョン・ハッファム・ディケンズが生まれた。父親ジョン・ディケンズは海軍経理局の下級事務員、母エリザベスは夫よりもややよい家柄の出であった。父は人づき合いのよい愉快な男で、友人と一緒に飲んだり、騒いだりするのが大好きだったが、金にだらしないところがあり、家計に対してあまり責任をとることのできぬ男、後にチャールズが小説『デイヴィッド・カパーフィールド』の中で、ウイルキンズ・ミコーバーとして描いた不朽の人物のモデルであるといわれる。母はちょっと見栄っぱりで、偉ぶったところがあり、同じく子供の小説『ニコラス・ニクルビー』の中で、ニクルビー夫人(ニコラスの母)として描かれている。この夫婦の間にはファニーという長女を頭に八人の子供が生まれ、チャールズはその二番目、長男であった。
父がまた転動で、ロンドンの南東テムズ河口に近い軍港の町チャタムに移ったので、一家もその町に住む。チャールズ少年にとって、この町とすぐ隣りにあるロチェスターでの平和で楽しい生活は、一生忘れられぬ甘い思い出となった。ロチェスターは古城の廃墟と大聖堂のある、古くて活気のない、しかし、のんびりした牧歌的な町で、まだ産業革命の黒煙や轟音で汚され、乱されることがなかった。チャールズは身体があまり丈夫でなかったために、他の子供の遊びに加わるよりも、お話を聞いたり歌を習ったりすることを好み、母から読み書きの初歩を学んでいた。
父のなげやりな経済がたたって、この頃から一家の家計が苦しくなって来たために、同じチャタム町のより小さな家に転居。屋根裏で父の蔵書たる小説類を読みあさったという。主として好んだのは『アラビアン・ナイト』などのような東洋風の幻想物語、十八世紀のイギリス小説、例えはスモーレットの『ロデリック・ランダム』や『ペレグリン・ピックル』や『ハンフリー・クリンカー』、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』、それに大陸の作家セルバンテスの『ドン・キホーテ』や、ル・サージュの『ジル・ブラース物語』の英訳などであった。
この頃から近所の牧師の息子ウィリアム・ジャイルズの学校に通い、先生から前途有望な少年として認められた。読書と平行して、芝居にも興味を持ち、隣町ロチェスターの劇場へ連れて行かれ、シェイクスピアの『リチャード三世』や『マクベス』などを見て楽しんだ。父はお客が来た時によくチャールズ少年をテーブルの上に立たせ、本人はよくわからぬ寄席のコミック・ソングを歌わせたり、芝居の真似をさせては拍手喝采を送ることがあった。
父が再びロンドン転勤となり、一家は大都会の北の場末の貧民街の小さな家に住むこととなる。チャールズだけがチャタムに残り、ジャイルズの学校を終えてから、ロンドンの一家に加わる。しかし、家計が苦しくなったため、ロンドンでは学校に通えなかった。当時はまだ無料の義務教育制度はなかったのである。
家計がますます苦しくなったため、親類の世話でチャールズは、テムズ河畔にある靴墨工場に働きに出された。その直後、父が借金を返済することができなくなったために、当時の法律に従って一家もろともロンドン南部のマーシャルシー負債者監獄に入れられてしまった。チャールズ一人は監獄の近くに下宿し、そこから仕事場に通ったが、これは少年にとって何とも耐えがたい屈辱、不幸であった。数か月後に僅かな遺産が親威から入ったために、父は借金を返済でき、一家は監獄から出て、またロンドン北部のスラム街に住むことになったが、両親ともにチャールズの精神的苦悩を理解してくれず、あい変らず靴墨工場へ通わせた。出獄後一か月ほどして、やっと父は同情して彼の仕事をやめさせ、学校へ通わせようとしたが、母はそれに反対だったため、チャールズの幼い心は、終生忘れられぬ傷を受けた。しかし、結局父の意向が通り、チャールズは労働から解放されて、ウェリントンハウス・アカデミーという私立小学枚へ通わせて貰うことができた。
チャールズは小学校を出てエリス・アンド・ブラックマーという法律事務所に勤めるが、この職業にはあまり関心がなく、父親にならって速記を勉強し、新聞記者になろうとした。晩にはせっせとと芝居見物に通ったり、ロンドンの町なかを歩き廻ったりした。
法律事務所をやめて、民法博土会(ドクターズ・コモンズ)の法廷(遺産相続や離婚などを扱う)の速記者となる。
銀行家の娘で一つ年上のマライア・ビードネルと知り合い、熱烈に恋するようになるが、しょせんは身分の釣りあわぬ恋とて、彼女の両視も反対だったし、彼女自身も本気ではなかった。後に彼女は両親の手で教育を受けるためにパリに送られ、数年後帰国した時には彼女は彼をすっかり忘れていた。このようにして、チャールズは初恋の痛みを味わったのである。
大英博物館附属図書室の閲覧券の交付を受け、これから後仕事の暇にせっせと通って本を読む。彼の文学的教養はすべてここでの独学によって得たもの、といってよい。
芝居好きが昂じてとうとう俳優になろうとこころざし、オーディションを受ける予定にまでこぎつけたが、当日病気のためその機会を逸した。叔父の紹介で議会報道誌『ミラー・オヴ・パーラメント』の記者となり、続いて『トルー・サン』新聞の通信員となった。この年は選挙法改正をめぐって、イギリス国内の政治情勢が揺れに揺れていたので、新聞記者としては仕事に追い廻されることになるが、チャールズ・ディケンズはその記事の正確なこと、文章を書き上げるスピードの早いことで名を挙げた。
記者仕事のかたわら、手なぐさみに書いた小品「ポプラ小路の晩餐会」を、月刊雑誌『マンスリー・マガジン』に投稿してみたところ、その十二月号に掲載された。はじめて自分の作品が活字になったのを見た彼は、喜びと感激のあまり目がうるみ、おもてを歩くことができなくなるほどであった。
ひき続き小品をあちこちの雑誌に発表。この年から「ボズ」というペンネームを使うようになった。これは彼の愛読する『ウェイクフィールドの牧師』の主人公プリムローズ博士の息子の名モーゼズを、チャールズの弟がなまって「ボズ」と呼んでいるのを聞いて面白く思い、それを拝借したものである。
新たに創刊された夕刊新聞『イーヴニング・クロニクル』にも、スケッチを不定期に寄稿することとなり、同紙の編集長ホガースの家にしばしば呼ばれる。やがてその長女キャザリンと愛し合うようになり、婚約する。
これまで各所に発表した小品を集め、新しく数篇を加えて『ボズのスケッチ集』二巻が二月に出版され好評を呼んだ。「日常の人びとの日常の生活点描」という副題の示すように、ロンドン庶民の生活や街頭風景などを忠実に描いたもの。純枠のルポルタージュもあれば、筋を持ったフィクション、つまり短篇小説もあれば、その中間もある。十二月にはその第ニシリーズも刊行された。
この年三月に新しく創立した出版社、チャップマン・アンド・ホールの依頼を受けて、小説『ピックウィック・クラブ遺文録』を月刊分冊の形式で発表しはじめる。これは三十ニページの文章と、数枚の絵によって構成される紙表紙の小冊子で、これを毎月発行して二十冊で完結する(しかし、最後の第十九分冊と第二十分冊は合本になるので、全部で十九か月を要する)ことになっていた。いわば小説の月賦販売に当るわけで、当時増えて来た、あまり裕福でない大衆を小説の読者として抱き込もうという、出版社の商策であった。ところが、第一分冊はあまり売行きがよくなかった。その上、文章を書く若手の駈け出し作者チャールズ・ディケンズが、挿絵を担当していた当時のベテラン画家シーマーに対して、かなり強引に自説を押し通した上に、注文
までつけるという態度を取ったために、シーマーは感情を害し、二人の仲が険悪になってしまった。第一分冊が出た直後にシーマーが突然自殺をしてしまった(原因はわからない。まさか若造作家になめられて、頭に来たからではあるまいが)ので、出版社はあわててディケンズに、後任の画家の人選を依頼した。ディケンズは応募して来た数人の画家 ― その中にはウィリアム・メイクピース・サッカレーという青年もいた。彼はこの時挿絵画家として採用されなかったので、後に文筆に転じ、ディケンズとライヴァル視されるまでの大文豪となった−の中から、ハブロット・K・ブラウン(雅号「フィズ」)を選んだ。フィズはこれ以後ディケンズのよき相棒となり、数多くの彼の作品に挿絵を描くこととなった。
四月二日、キャザリン・ホガースと結婚。『ピックウィック』は第四分冊で、サム・ウェラーという典型的なロンドン庶民のユーモラスな人物が登場してから、爆発的な人気を呼び、ディケンズのベストセラー作家としての名声が確立した。これに自信を得たのか、彼は十一月に新聞記者をやめ、文筆だけで生活をたてる決意を固める。また、この年のクリスマス頃にジョン・フォースターと知り合う。彼はディケンズの生涯の親友となり、その死後に伝記を書いた。
新たに創刊された月刊雑誌『ベントリーズ・ミセラニー』の初代編集長に任命されるとともに、そこに小説『オリヴァー・トゥイスト』を連載しはじめる。これもたちまちすばらしい人気を呼ぶ。妻キャザリンの妹であり、ディケンズ夫妻と一緒に暮していた十六歳のメアリー・ホガースが五月に急死、彼女を深く愛していたディケンズは大きなショックを受け、あれほど勤勉だった彼が執筆を一時中断し、『ピックウィック』に一回分穴をあけざるを得ぬほどだった。
ヨークシャー州に寄宿生徒を虐待する学校があるという噂が高かったので、一月に取材のために、挿絵画家フィズとともに旅行をした。これを題材に使った長篇小説『二コラス・ニックルビーの生涯と冒険』を、四月から月刊分冊形式で発表しはじめる。
『ベントリーズ・ミセラニー』編集について、出版社主ベントリーとの間に不和が生じ、ディケンズは同誌の編集長を辞任する。
雑誌を編集したいという欲望がこらえようがないほど強かったのであろうか、四月四日から週刊誌『ハンフリー親方の時計』を自分で創刊・発行した。これは自作の短い雑文や短篇小説だけを載せた文字通りのワンマン雑誌であったが、第二号(四月十一日)の売れ行きが急に悪くなってしまったので、急拠予定を変更し、第四号(四月二十五日)から、毎号長篇小説『骨董屋』だけの発表の場とした。少女ネルを主人公としたこの物語のお蔭で人気が盛り返し、イギリスとアメリカの多数の愛読者がこの小説の刊行を待ちこがれることとなり、ネルが死にそうになると、ディケンズの許には嘆願の手紙が殺到した。
『骨萱屋』が二月六日号で終了すると、ひき続き次の二月十三日号から『バーナビー・ラッジ』を連載する。これはかなり前から構想を温めてあったのだが、さまざまな事情で発表が遅れたものである。ディケンズにしては珍らしい歴史小説で、一七八〇年にロンドンで起ったカトリック反対派の騒乱事件を題材にしたものであるが、第一回からミステリー的な要素が強い。この第一回をアメリカで読んだエドガー・アラン・ポーが、その時点で謎を解き、物語の進展を予言したことは、有名な逸話である。
一月から六月にかけてアメリカ旅行。各地で大歓迎を受けたが、帰国後の十月にその旅行記『アメリ力覚え書』を発表したところ、彼のあまりにも率直なアメリカ批判がそこに現われていたために、多くのアメリカ人が憤慨するという結果になった。ディケンズがアメリカで抱いた不満の主なものは、奴隷制に対する反撥と、それからアメリカで彼の作品の海賊版が横行していて印税を取ることができない、という事実だった。彼は国際的著作権についての協定を結ぶことを力説したのであるが、それがアメリ力人一般から冷く受取られた。しかし、訪米によって得たワシントン・アーヴィング、ロングフェローなどとの個人的友情はその後も続き、深まる一方となった。ポーとも会ったのであるが、ディケンズはあまり強い印象を得ていないようである。
一月から長篇小説『マーティン・チャズルウィットの生涯と冒険』を、例によって月刊分冊の形で発表しはじめたが、これまでのように熱狂的な人気をかち得ることができなかった。売れ行きを増すために彼は、主人公マーティンとその従者をアメリカに移住させるという、本来予定にない筋を急に取り入れるなど、苦肉の策を弄した。
年の暮近くに中篇小説『クリスマス・キャロル』を発表。かねてから社会改良、慈善、貧民救済などという実践活動に強い関心を示し、みずからもそれに従事して来たディケンズが、彼の考える人間愛の精神、つまり「クリスマスの哲学」をここで強調したものであるが、同時に、この平和と善意の季節にあてこんで本を売り、収入の激増をはかろうという(ちょうど、日本のオーケストラが毎年歳末にベートーヴェンの第九の演奏会を開くのと同じような)魂胆があったことも事実である。彼は大家族を養わねばならず、近く外国旅行も計画していたので、金が欲しかったのである。装幀にこりすぎたため、予想していたほどの儲けにはならなかったが、『クリスマス・キャロル』は爆発的な人気を呼び、これに気をよくした彼は、以後毎年クリスマス頃に同じような中篇小説を発表(後に一冊の『クリスマスの本』として、まとめられた)することにした。ディケンズといえばすぐクリスマスが連想され、彼自身が子供たちからサンタクロースのおじさんであると考えられるまでに至ったが、こうした神話の発生に大きく貢献したのが、この『クリスマスの本』であった。
家族とともにイタリアに旅行。主としてジェノアに滞在し、そこで第二のクリスマスの本『鐘の音』を書き上げた。これは功利主義哲学者たち、社会問題をすぐに数字の理屈で処理しようとする経済学者たちを批評する目的を持った作品である。年の暮に一時イギリスに帰り、カーライルなど友人を集めてこの作品の一部を朗読したところ、作品が好評だったのみならず、ディケンズの朗読が実に大きな感銘を与えたので、若い時から芝居好きで、大勢の拍手喝采に酔うことにこたえられない性分のディケンズは、以後しばしば友人相手に内輪の自作朗読会を開く誘惑に抗しきれなくなってしまった。
六月にイタリアから帰国。秋に友人たちと一緒に素人劇団を組織し、ベン・ジョンソン作『十人十色』を上演、彼自身は演出とほら吹きのボバディル役の二刀流をやってのけた。慈善のためで報酬こそ受取らなかったが、市内の大劇場で行い、ヴィクトリア女王の夫君をはじめ、名士のお歴々が観劇に来るなど、ほんものの芝居公演と変ることなく、ここでもディケンズはかねての芝居への野心を満足させることができた。この素人芝居興行は以後しばしば行われることとなった。
かねてから考えていた日刊紙の編集・刊行の夢が実現して、一月二十一日から日刊紙『デイリー・ニューズ』の編集を担当することなったが、たちまち種々の面倒ごとをひき起し、たった三週間で編集長を辞任する。しかし、創刊号から三月二日号までイタリア旅行記を連載、これが単行本『イタリアのおもかげ』として五月に出版された。
家族ぐるみでスイスに旅行、ローザンヌに家を借りて、そこで新しい長篇小説『ドンビー父子』の執筆にとりかかるが、筆がなかなか進まない。十月からやっと月刊分冊で刊行が開始された。十一月からパリへ行き、しばらく滞在する。『クリスマスの本』の第四作となるべき、『人生の戦い』発表。
五月に『デイヴィッド・カパーフィールドの生い立ち、冒険、体験および観察』を、月刊分冊の形で刊行し始める。もともと自叙伝を書こうと思って、途中まで書きかけた(これは死後フォースターの『チャールズ・ディケンズ伝』の中で紹介される)のを思いなおし、一人称形式のこの小説に体裁を改めたものであった。それだけに極めて自伝的要素が強い。
三月末から『家庭の言葉』という週刊雑誌を創刊。これまで何度も挫析した雑誌編集の悲願を、やっとこれで実現しようとしただけあって、出資(半額であるが)、経営、編集、それに原稿の一部の執筆まで、全部一人でやるという熱の入れよう。内容は創作だけでなく、社会、世界事情、科学、その他もろもろに関しての解説記事、ルポ記事などなどで、読者も表題の示すごとく、一般庶民の家庭の人びとまでを対象としている点、まさに「国民的総合雑誌」のはしりと言ってもよいものである。ほとんどすべての記事は筆者の名を出さずに印刷されているが、それはとりもなおさず編集長チャールズ・ディケンズが雑誌の全ぺージに対して一切の責任をとるという彼の姿勢をあらわしているのであろう。事実、彼は寄せられたすべての原橋に目を通し、自由に筆を加え、改訂削除も思いのままにやっている。無名の新人の文章のみならず、当時有名な文学者の寄稿を頼んだ時でさえワンマン編集長の筆は少しも遠慮するところがなかったため、後に、例えばギャスケル夫人の『クランフォード』の時のように、トラブルが生じたこともあった。雑誌の表題の下に「チャールズ・ディケンズ指揮による」(Conducted by Charles Dickens) と書いてあるとおり、彼はまさに今日におけるオーケストラの指揮者のようなつもりでいたのだろう。彼は最初この週刊誌に与える表題の候補の一つとして、まさにそのものずばり『チャールズ・ディケンズ』というのを考えていたというから、その意気込みと自信のほどはわかるだろう。
この週刊誌も毎年十二月末に「クリスマス特集号」を出し、そこに彼自身と親しい友人の共同で、いくつかのクリスマスにちなんだ短篇を発表している。共同執筆者の中でもっとも重要な人物は、十二歳年下のウィリアム・ウィルキー・コリンズであって、このプロット構築の名人は、いくつかの作品をディケンズと共同で書いたばかりでなく、独立でも多くの小説をディケンズの週刊誌に連載し、彼のもっとも親しい友人の一人となった。
『子供のための英国史』を、『家庭の言葉』一月ニ十五日号から不定期に連載しはじめ、一八五三年十二月十日号で完結した。
三月から『荒涼館』を月刊分冊で発表しはじめる。前作『デイヴィッド・カパーフィールド』までが、主として主人公個人の運命を追った物語であるのに反して、これ以後の長篇小説は、社会全体を主題とした巨視的、パノラマ的なものが多く、作品のトーンも、初期の作品のそれに比べてより陰気で悲観的、ユーモアも重くるしいものに変って行く。しかし、プロットの構成とか、象徴的描写の点では、大きな円熟を見せるようになった。
はじめて自作の朗読を公開で行い、その名調子、さらに芝居そこのけの名演技に、熱狂的な拍手喝采が送られた。以後この公開朗読は全イギリス、さらにはアメリカにまで及び、彼の死の直前まで続いた。
一月、イングランド中部のプレストンという工業都市で工員のストライキが起り、視察に行く。この事件を題材にした長篇小説『つらいご時世』が、『家庭の言葉』四月一日号から連載される。
若い時の片想いの相手マライア・ビードネル(現在ウィンター夫人)から手紙を受取り、再会したところ、往年のあこがれの美女は、肥っておしゃべりな中年女となっていて、ひどい幻滅を味う。この体験は『リトル・ドリット』の中に織り込まれている。
チャタムに住んでいた子供の頃、ほど遠からぬギャッズ・ヒルの上に立派なお屋敷があり、「お前だって偉くなれれば、あそこに住めるさ」と言った父親の言葉が、彼の脳裡に焼きついて雄れなかった。少年のあこがれの的であったギャッズ・ヒルに空いた屋敷を見つけ、買い取る交渉をはじめる。
素人演劇に応援として頼んだプロの女優の一人、十八歳のエレン・ターナンに強くひきつけられた。二十年間連れ添い、十人の子供をもうけた(ほかに四回の流産があったという)妻キャザリンとの間が、どうもうまくいかなかったのである。
ウィルキー・コリンズと二人で北イングランドを旅行し、それに基づいて旅行記『ぐうたら徒弟二人旅』を合作で、『家庭の言葉』に連載。
五月、ついに妻との関係が破局に達し、別居することになった。もちろん原因はディケンズとエレン・ターナンとの情事にある。彼はエレンとの交際をひた隠しに隠し、彼女に家を与えて住わせ、会う時も彼女が他の場所にいるように見せかけるアリバイ工作をするなど、かなり気を使ったのであったが、噂はひろまってしまった。しかし、ディケンズの秘密の愛人は、夫妻と同居していた妻の妹、ジョージナ・ホガースであ
るというゴシップが、ささやかれているのを知ったディケンズは、『家庭の言葉』に一文を寄せ、別居の事実をはっきりあかし、やましい事情はないと弁明している。いずれにせよ夫婦は別居することとなり、子供のうち長男だけが母と一緒に暮すことを選んで、ロンドンに去り、ほかの子供とジョージナはディケンズとともに、ギャッズ・ヒルの屋敷に留った。
十一月、ささいなことから、もう一人の文豪で、とかくディケンズのライヴァルと見なされていた、ウィリアム・メイクピース・サッカレーと仲違いをしてしまった。このあたりも情緒不安定を示す証拠の一つであろうか。
出版社との不和から『家庭の言葉』を五月で廃刊。それに先立って四月三十日に、新たに同じような週刊雑誌『一年じゅう』を創刊、あい変らずワンマン的編集・経営を死ぬまで続げた。この雑誌の創刊号から長篇小説『二都物語』を連載。フランス革命時代のロンドンとパリを舞台にした、彼にしては珍らしい歴史小説である。
七月、次女ケイトが、ウィルキー・コリンズの弟で画家であるチャールズ・コリンズと結婚する。ただし、後にチャールズは病気のために早逝し、ケイトは再婚して、ペルジーニ夫人となる。
『一年じゅう』の十二月一日号から、長篇小説『大いなる遺産』を連載。これと別に、同じ週刊誌に一月からスケッチ風の随筆『非商用の旅人』を掲載しはじめる。チャタム、ロチェスターで過した少年時代を回顧し、その町再訪を記した「ダルバラ町」はこの中に入っている。
このところ公開朗読興行が忙しいため、肝心の創作活動まで衰えることとなった。豪勢な邸宅で毎日のように多数の客を招いて派手なパーティーを開き、素人芝居に熱中し、別居した妻、さらに情人エレンにも家を持たせて生活の保証をせねばならないのだから、金の必要に追られるのも無理はない。そのために、てっとり早く金が入る公開朗読の方が、創作よりも有利で魅力的だったのだろう。しかし、もう一つの理由として、客の熱狂的な拍手喝采をその場で確かめられる舞台の方が、より直接彼の虚栄心をくすぐったからであろう。そのため彼の朗読には熱がこもり、幕が降りた後は輿奮と緊張のために口もきけなくなることすら、しばしばあった。健康によくないことはわかりきっていたし、一代の文豪が役者の真似をすることもあるまいと、彼の親友たちは必死に止めようとしたが、彼は頑としてきかず、マネージャーをつけて、国内巡業のスケジュールをぎっしり組み、オーストラリアやアメリカにまで巡業することを考えた。前者は実現しなかったが、アメリカヘは一八六七年に出かけて行った。彼の生命を縮めたことは間遠いない。
十二月、かねて仲違いしていたサッカレーと和解したが、その直後の二十四日にサッカレーは死んだ。このところ創作といえば、毎年の暮に、『一年じゅう』のクリスマス特集号のために、他人と共同で執筆する短篇くらいのものであった。
久しぶりの長篇小説『われら共通の友』を五月から月刊分冊で発表しはじめる。もう三年ごし構想を温めていたのであったが、なかなか筆が進まなかったのである。毎月きまった分量の原稿を印刷所に渡すことは、これまで何度もやって来た仕事であるのに、この作業の場合は原稿が足りなくて印刷ぺージにブランクが出来、校正段階であわてるなど、これまで経験したことのない失敗があった。気力の衰えを示すものであろうか。
前年より健康がすぐれず、執筆もはかばかしく進まないので、五月末からフランスで約一週間の体養をとる。その帰途の六月九日、エレン・ターナンと一緒に乗っていた列車が、南イングランド、ステイプルハーストで鉄橋から転落した。彼自身の車両は運よく無事であったため、怪我は負わずに済んだが、精神的ショックは大きかった。
十一月にアメリカへ公開朗読巡業のために出かける。アメリカ人はかつてのディケンズへの怒りも忘れ、熱狂的に彼を歓迎し、彼もアメリカに対して前回の旅行の時よりはずっと好感を持った。
『一年じゅう』のクリスマス特集号(テーマは「マグビー・ジャンクション」)のために、「信号手」を執筆。
このところ執筆活動はほとんど手がつかず、公開朗読旅行に全精力と時間を傾倒した。そのため遂に健康状態が急激に悪化し、四月に医者から朗読を禁じられた。五月に遺言状を作成。朗読旅行をやめた夏ころから、次の長篇小説『エドウィン・ドルードの謎』の構想をめぐらし、秋から執筆に着手する。前年に発表されたコリンズの『ムーンストーン』にはり合うつもりか、この作品は完全に本格的な推理小説の体裁をとり、数々の謎の設定とその解決を扱うはずののであった。
健康がやや回復したので、一月から三月にかけて最後の告別公開朗読をロンドンで行い、その最終回で彼は聴衆に向って別れを告げ、今後は執筆に専念すると約束した。三月にはヴィクトリア女王に単独拝謁の栄を賜わる。
四月、『エドウィン・ドルードの謎』が月刊分冊で発表されはじめる。挿絵ははじめ娘ケイトの夫であるチャールズ・コリンズの予定であったが、彼が病気で仕事が出来なくなったため、急拠新進の画家ルーク・ファイルズに変更した。
六月八日、一日じゅう執筆の後タ食の席で、突然気分が悪くなったと言って立上った途端に床に倒れた。義妹ジョージナなどが驚いてソファに寝かせたがそのまま意識が戻らず、翌九日に死んだ。同十四日にウェストミンスター寺院の「詩人のコーナー」に葬られた。ディケンズ自身遣書の中で、葬儀はつとめて簡素に、と述べていたのであったが、各界の名士が多数列席する盛大な葬儀がいとなまれ、花を捧げる一般庶民の列が、その後数日にわたって続いた。九月に『エドウィン・ドルードの謎』の第六分冊が出たが、ここで未完のままに中絶したために、この小説は文宇通り「謎」となって終った。その後多くの人びとが完結篇を書いたり、謎の解決についての論文を発表したりしたけれども、どれも一長一短で、現在に至るまで決定的な解答というものは出ていない。
親友のジョン・フォースターが、ディケンズの文学上の遣言執行人となり、自筆原稿、ゲラ刷その他の資料を受け継いだので、それを基として『チャールズ・ディケンズ伝』全三巻を発表した。親友である以上、故人のスキャンダル、秘密の情事などについては一言も洩らしていないのは止むを得ないだろう。そうした点で伝記としての不備はあるが。しかし現在でもディケンズ研究にとって最も重要な資料の一つであることに変りはない。また彼が受け継いだ自筆原稿、書簡、創作ノート、ゲラ刷などすべては、彼によって「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」に寄贈され、現在も保管されて、多くの研究者に資するところが多かった。
義妹ジョージナと長女メアリーの手で編まれた『チャールズ・ディケンズ書簡集』が公刊されたが、もちろん私生活に関して都合の悪い部分がかなり削られているので、現在では文献としてあまり大きな意義はない。
かつてディケンズの住居であったロンドンのダウティ街四八番地の「ディケンズ・ハウス」(現在博物館となって一般公開している)に、同好研究団体「ディケンズ・フェローシップ」が設立された。この本部を中心として、英語圏はもとより、世界各地に支部があり、機関誌『ディケンジアン』の発行など、現在まで活躍を続けている。
トーマス・ライト著『ディケンズ伝』の中で、はじめてディケンズとエレン・ターナンの関係が活宇によって公けにされた。大きなセンセイションをまき起し、根も葉もない中傷であるとする多くの非難が寄せられた。しかし、その後多くの学者たちの素人探偵そちのけの捜査活動によって、この問題はほぼ間違いのな事実と認められるようになった。
『ナンサッチ版ディケンズ全集』が刊行された。現在のところ、これがもっとも完壁な全集版とされている。特にその中の書簡集三巻は、目下のところ望み得るもっとも網羅なものである。
決定版書簡集を目ざす『ピルグリム版ディケンズ書簡集』の第一巻が刊行。ただし現在までのところ四巻までしか出ていない。
厳密な校訂を施した『クラレンドン版ディケンズ全集』の第一巻(『オリヴァー・トゥイスト』)が刊行。原稿、ゲラ刷、すべての版の異同を記した決定版全集にするべく、作業が進められているが、前記書簡集と同じくぺ−スは遅く、現在まで四巻を出しただけである。完成まで何年かかるのか、予想もつかない。
文豪没後百年記念として、世界各地で多くの行事があり、多くの出版物が刊行されたが、ロンドンの「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」で開かれた展覧会がもっとも充実したものであろう。
十二月に同好団体「ディケンズ・フェローシップ」の日本支部が設立されて、現在に至っている。事務所は東京都世田谷区成城六ノ一(〒157)成城大学英文学研究室内
この年譜は小池 滋『ディケンズ:19世紀信号手』(東京:冬樹社、1979) から取ったものです。「ディケンズ略年譜」(pp.147-62) の転載を日本支部に快く許可してくださいました小池 滋氏に感謝いたします。

[ 112] ディケンズ・フェロウシップ日本支部:年譜
[引用サイト]  http://wwwsoc.nii.ac.jp/dickens/chronology.html

チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日)は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。ポーツマスの郊外に生まれた。
年少時より働きに出され、新聞記者を勤めるかたわらに、作品集『ボズのスケッチ集』で登場。主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺した作品群を発表した。その登場人物は広く親しまれており、イギリスの国民作家とされる。作品は『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』など。
海軍の会計吏ジョン・ディケンズとエリザベスの長男として、1812年2月7日にハンプシャーのポーツマス郊外のランドポートに生まれた。2歳のときにロンドンに、5歳のときにケント州(現在は独立行政区メドウェイ)の港町チャタムに移る。チャタムでは6年間を過ごし、ディケンズの心の故郷となった。少年期は病弱であり、フィールディング、デフォー、セルバンテスなどを濫読した。
ディケンズの家は中流階級の家庭であったが、父親ジョンは金銭感覚に乏しい人物であり、母親エリザベスも同様の傾向が見られた。そのため家は貧しく、ディケンズが学校教育を受けたのは、2度の転校による4年のみであった。1822年の暮れに一家はロンドンに移っていたが、濫費によって1824年に生家が破産。ディケンズ自身が12歳で独居し、親戚の経営していたウォレン靴墨工場へ働きに出されることになり、さらに借金の不払いのため、父親がマーシャルシー債務者監獄に収監された。家族も獄で共に生活を認められていたが、ディケンズのみは一人靴墨工場で働かされ、しかもこの工場での仕打ちはひどく、彼の精神に深い傷を残した。数ヵ月後に父親の出獄が認められ、ディケンズはウェリントン・ハウス・アカデミーへ行くことが認められたが、このとき母親に強く反対され、このことも強く心に残った。父親はのちに、『デイヴィッド・コパフィールド』の登場人物の一人であるミコーバー氏のモデルとなったとされる。
1827年からエリス・アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤めたが、のちジャーナリストになることを決心し、速記術の習得に取り掛かった。これを修了すると事務所を辞め、法廷の速記記者となった。なおディケンズは芝居好きであったが、このころ俳優になろうとしたこともあった。20歳前後から諸雑誌から仕事の声が掛かるようになり、1834年に「モーニング・クロニクル」紙の報道記者となり、ジャーナリストとしての活動が本格化する。
定職の片手間に「ボズ」という筆名で書き始めた投稿エッセイが1833年、初めて「マンスリー・マガジン」誌に掲載され感激、その後も継続して書き続ける。なお、この時期の筆名の「ボズ」とは、ディケンズの弟オーガスタスに付けられたあだ名に由来するとされる。こうしたエッセイは後にまとめられ、1836年、第一作『ボズのスケッチ集』として発表された。優れた批評眼が注目を浴びた。
同年、編集者の娘であるキャサリン・ホガースと結婚した。二人は10人の子に恵まれたが、性格の不一致のため結婚生活はうまくいかなかった。なお、ディケンズはキャサリン・ホガースよりもその妹のキャサリン・メアリを愛していたが、まだ幼かったこともあり、結局その姉と結婚したが、メアリはディケンズの結婚後もディケンズ夫妻の住まいに同居しており、この翌年急死した時にはディケンズにしばらく執筆活動を中断させるほどの打撃を与えている。
続いて発表した『ピクウィック・ペーパーズ』がサム・ウェラーの登場後に大人気となり、第一流の小説家として文才を認められた。さらに雑誌「ベントリーズ・メセラニー」の編集長を務め、同誌に初めて筋書きのある長編小説『オリバー・ツイスト』を発表、小説家としてのディケンズの人気はその後、終生衰えることがなかった。その後は虐待学校を題材にした『ニコラス・ニクルビー』、悲劇的な物語『骨董屋』などを発表、『クリスマス・キャロル』(1843年)以後毎年刊行された「クリスマス・ブックス」ものは子供から高い人気を得た。先に出た『ニコラス・ニクルビー』や『骨董屋』などの作品や、以後の作品では、主人公は多く孤児であり、チャールズの少年時代の体験が影響している。
このころ、J.ホースターと親交を結ぶ。またベン・ジョンソンの『十人十色』を友人らと上演。義捐基金のための素人演劇で、もっぱら演出と主演を兼ねた。
1842年に夫人とともに訪米し、長期のアメリカ旅行を行った。ただ、南北戦争前夜の米国は、当時の著作権問題などもあって良い印象を与えなかった。そのため、帰国後に発表した小説『マーティン・チャズルウィット』や、旅行記『アメリカ紀行』で記した米国観はあまり良いものではなく、米国でも不評であった。ただし、南北戦争後の1867年に再訪した際には、大歓迎を受けて印象を改めている。
『ドンビー父子』の次の作品『デイヴィッド・コパフィールド』は自伝的要素が強い作品で、このころの作品から次第に社会的要素を取り組んだ、凄惨な作風へと変化していく。ヴィクトリア朝の社会を批判した『荒涼館』や、社会制度を批判した『リトル・ドリット』、フランス革命を背景とした『二都物語』、失意の人々を描く『大いなる遺産』などである。
編集長としても、1850年から「ハウスホールド・ワーズ」、1859年から「一年中」をまとめ、ギャスケル夫人やコリンズなどの作家に作品発表の場を与えた。もっとも、編集者としては勝手に小説の内容に手を入れたり、などというワンマンぶりもよく知られている。また慈善事業や講演といった活動も行っている。
晩年はエレン・ターナンと不倫関係にあり、1858年から夫人とは別居していたが、これはディケンズの死後まで公的には秘密にされていた。創作力の衰えと並行して、執筆を離れて公衆の前での公開朗読に熱中し、過労で死期を早めた(2度目の米国旅行の際にも、各地で公開朗読を行っている)。1865年には鉄道の事故に巻き込まれて九死に一生を得る。この事件も、晩年の作品に目立つ暗い影の一因ではないかと言われている。
1870年6月9日、『エドウィン・ドルードの謎』を未完のまま、ケント州ギャッズ・ヒルの広壮な邸宅で、脳卒中により死去した。死後、ディケンズ自身はロチェスターに一私人としての埋葬を希望していたが叶えられず、ウエストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。墓碑銘は “He was a sympathiser to the poor, the suffering, and the oppressed; and by his death, one of England's greatest writers is lost to the world.”(「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった。その死により、世界から、英国の最も偉大な作家の一人が失われた 」)となっている。
一般にプロットの巧みさなどにはやや難があり、最良の部分は人物描写などの細部にある、と言われることが多い。多作家でもあるため出来栄えにムラがあるが、『大いなる遺産』などの名作では、そうした描写力に、映画のカメラワークにも似た迫真のストーリー・テリングが加わり、読者をひきつける。精密な観察眼と豊かな想像力で、時代社会の風俗を巧みに描いた。日常生活の描写は具体的で、丹念に細部に亘って生き生きと写し出されており、登場人物の性格はシェイクスピアのそれに比して多種多様であり、ほとんどが典型として戯画化されているにもかかわらず、型を破ってはみ出すような生命力に満ちている。とくに前期の作品においては主人公に個性があまり見られず、脇役にこうした特色を与え作品を盛り上げている。
また、幼少時の貧乏の経験からおのずと労働者階級に同情を寄せ、時に感傷が過度になることもあるが、常に楽天主義と理想主義に支えられ、ことに初期の作品には暖かいユーモアとペーソスが漂っている。その点、ヴィクトリア朝の代表作家として並び称され、中・上級階層を中心に描いたサッカレーとは対照的である。後期には、健康状態の衰えなどの影響もあって徐々に悲観的な価値観に傾斜していき、作品発表のペースも落ちた。初期の明るいユーモアや天才的なキャラクター造形は目立たなくなっているものの、プロットは複雑で深遠になり、主題を強調することに成功している。ただし偶然に頼ったご都合主義の物語展開や、最後をめでたく終わるといった典型は最後まで残った。これは月刊分冊という発表形態で、売れ行きや人気を考えてあらすじや登場人物を変えていったためである。
作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。しかし、一方で帝国主義的な色合いもあり、ジャマイカ事件ではカーライルなどと共に総督エア側に組して、反乱を擁護しエアを弾劾するミルらと論争したことが知られている。ただし、年代の違いもあって、一般にはキプリングのように人種差別主義者などと露骨に批判されているわけではない。
最終作『エドウィン・ドルードの謎』は、コリンズなどの影響もあって、ミステリーのプロットを導入し、後期のディケンズの中でも特に陰鬱な雰囲気に包まれた野心的な作品であった。しかし、作者の死により全体の半ばほどを残してついに未完に終わった。そのため、犯人(正確には、表題人物の失踪の原因)は不明のままであり、さまざまな説が提唱されている。ただし厳密には、殺人の謎解きは『バーナビー・ラッジ』ですでに登場しており、これが世界初の推理小説と言われることもある。
没後、そのストーリーの通俗性、あらすじの不自然さ、キャラクターの戯画化などのために、通俗作家として、芸術至上主義的な19世紀文壇からは批判された。確かに分冊販売という発表形態のために、人気の上下動を見て、もともと考えていた筋に執着せずに、時に強引とも思えるストーリーの変更を行った。特に『マーティン・チャズルウィット』や『ニコラス・ニクルビー』などではプロットの不自然さが目立つ。
しかし、一般大衆の人気がこうした批評で衰えることはなかった。プルースト、ドストエフスキーなどの小説家も愛読者として知られ、ギッシング、チェスタトン、ジョージ・オーウェルなども優れた評伝を寄せている。L.トルストイはディケンズをシェイクスピア以上の作家であると評価しているほどである。近年ではエンターティナーとしてだけでなく、小説家としても作品の再評価が進んでおり、小説が映画、ドラマなどで映像化されることも多い。弱点こそあれ、現在の評価は、英国の国民作家というその正しい位置に、ほぼ復していると言える。
日本においては、その膨大な作品量も災いして、未だにディケンズの翻訳全集は、昭和初期の、舞台を日本に移した翻案に近い選集を除いて、存在しないという状況にある。なお、ディケンズの生涯と作品を研究する団体として、ディケンズ・フェロウシップ日本支部がある。

[ 113] チャールズ・ディケンズ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%BA



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