ローマ帝国とは?
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ローマ帝国(ローマていこく、羅:Imperium Romanum、英:Roman Empire)は、紀元前27年(帝政の開始) から 1453年(東ローマ帝国滅亡)まで、地中海世界一帯を支配した帝国。広義には、共和政ローマからの古代ローマも含む。また後世にいう「東ローマ帝国」(ビザンティン帝国)も自称は単に「ローマ帝国」である。 「ローマ帝国」はラテン語の「Imperium Romanum」の訳語である「Imperium」は元々ローマの「支配権(統治権)」という意味であり、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指す。ラテン語の「Imperium」はドイツ語では「Reich」という言葉が当てられ、英語やフランス語では一般に「帝国」を意味する「Empire」という訳が当てられるが、ラテン語の「Imperium」とドイツ語の「Reich」という言葉は、本来「帝国」という言葉の意味する皇帝の存在を前提とはしておらず、共和政時代には既に成立していたとされるが、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられている。 また、中世における「ローマ帝国」である東ローマ帝国や、ドイツの「神聖ローマ帝国」と区別するために、西ローマ帝国滅亡までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。 4世紀のコンスタンティヌス1世のとき、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷し、同世紀末に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂した。 なお、ローマ帝国という名称を名乗る国家は1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落まで存続しているが、7世紀以降の東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)はギリシア系住民が多い地域を支配していたために古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に入っているため、単に「ローマ帝国」と言ったときには含めず、476年の西ローマ帝国の滅亡を以ってローマ帝国の終焉とするのが一般的である。 ただし、西ローマ滅亡後もコンスタンティノポリスの皇帝が名目上全ローマ帝国の皇帝とされており、東ローマ帝国では古代末期のローマ帝国の政治経済の体制が数百年にわたって継続されていた。 ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がテヴェレ川のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初はエトルリア人の王を擁いていたローマはこの異民族の王を追放して王政を経た後に、貴族による共和政を布いており、2名のコンスルを指導者とする元老院が大きな力を持っていた(共和政ローマ)。 都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍でイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。 「内乱の一世紀」と呼ばれる動乱の時期を経て、ローマは次第に元老院支配体制から有力な個人による統治へと性質を変化させた。カエサルやポンペイウスなどの有力者たちが権力を握った三頭政治の後、カエサルがポンペイウスを戦場にて撃破し、全ての実権を握った。元老院派によりカエサルが暗殺された後、その養子オクタウィアヌスは、第2次三頭政治を経てマルクス・アントニウスとプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ7世をアクティウムの海戦にて撃ち破り、長きにわたる混乱を収拾した。紀元前27年オクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受け、最初の「皇帝」となった。これより後を帝政ローマという。 以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重して元首としてふるまった。これを「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。 「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。 「護民官職権」を実際に護民官には就任していないにもかかわらず行使する権利。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。 これらに加え、皇帝たちは必要な場合執政官やケンソルなどの共和制上の官職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また歴代皇帝は死後に神格化されることも少なくなかった。 アウグストゥスの後、帝位をめぐる曲折を経て、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。 のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に秀材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内の流通と経済が盛んになった。 「至高の皇帝」。最大領土を現出。東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。 「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は災害や蛮族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。 五賢帝の時代を過ぎると、各地で反乱が頻発するようになった。これに対処すべく、212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによってローマの都市国家的要素は全て消滅したが、反面、財産や教育といった面から見て、かつての基準を下回るローマ市民を大量に受け入れる事となり、原則的に権利の上では平等であったローマ市民権保有者の間での階層化を生む事となった。 いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人の皇帝が入れ替わるようになり、これを「軍人皇帝」と呼んでいる。 パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。 四分割統治を表す像。1204年に第4回十字軍によって陥落したコンスタンティノポリスからヴェネツィアに持ち出されたもの 284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首、つまり終身大統領のような存在であった皇帝を、本物の君主にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。この制度により、帝国は一時安定を取り戻したが、ディオクレティアヌスのもうひとつの策であったキリスト教迫害は失敗し、彼の死後、帝国は再び混乱した。 ディオクレティアヌス後の混乱を収拾して再び単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、キリスト教の勢力と妥協し、313年ミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(380年)。 コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化し、帝国の解体は止まらなかった。 キリスト教を国教化したテオドシウス1世は、死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。 ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡した。その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したがクロヴィス1世による新興のフランク王国領に編入され消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行ったが、フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、カールが教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した。 東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。 東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持つようになった。 その後、ギリシア化の進行や、イスラムによるオリエントの領土喪失、西欧諸国の自立などによって当初とは大きく姿を変えはしたが、若干の断絶を挟みつつ1000年にわたってローマ帝国の正統な後継者として存続した。しかし、1453年にオスマン帝国に征服された。なお、征服者オスマン帝国スルタン・メフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞っていたといわれている。 |
[ 77] ローマ帝国 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD
