中立とは?

国境線の線引きをめぐって折り合いがつかない国同士が、とりあえずお互いに領有権を主張している地域を中立地帯として、問題を棚上げすることがあります。このような中立地帯には、(1)双方が行政権を及ぼす、(2)双方の行政権が及ばず自治地域になる・・・などのパターンがあります。
また、強国が弱国の領土の一部を植民地にしたうえで、境界線から一定距離の弱国側の領土を「中立地帯」という名の緩衝地帯にして、弱国側の軍備や行政運営、居住に制限を加えるケースもあります。
1919年のアラビア半島の地図 アラビア半島の大半はヘジャズ王国領、エルハサはイギリス委任統治領ということになっています
一昔前の世界地図を見ると、アラビア半島の北側・サウジアラビアとイラクの国境に「中立地帯」と記されたアヤシイ菱形の一角がありました。これらの中立地帯はどうして生まれ、どうして消えたのでしょう?
アラビア半島の大部分は沙漠だが、もともと不毛な沙漠に国境線はなかった。最近まで地図を見てもアラビア半島の各国の国境は海岸付近しか決まっていなかった。定住者は海岸付近に住む漁民や農民だけで、沙漠の住民はわずかな草を求めて年中移動を続けている遊牧民だ。こういう場所で土地を押さえても、住民は年中入れ替わってしまうから支配できない。そのかわり××族はどこの王やスルタンに属するかということははっきりしていた。日本ではムラを単位とした地縁社会だから支配者はまずムラ=領地を押さえたが、遊牧民は部族を単位とした血縁社会だがら支配者は部族を押さえたということ。
それでもサウジと北側のイラク、クウェート、ヨルダンとの間には、砂漠の中でもきちんと国境線が引かれていたが、これは第一次世界大戦後、これら3ヵ国を支配したイギリスが、「国境線をはっきり決めないなんてありえない!」と強引に国境線画定を進めたため。しかし当時、サウジとイラクは犬猿の仲だったので最終的にどうしてもまとまらず、中立地帯が生まれた。
サウジアラビアとは「サウド家のアラビア」という意味。今でこそアラブの大国だが、王朝自体はそんなに古くない。サウジアラビア一帯はオスマン・トルコが支配していたが、1902年にイブン・サウドが20人の仲間とともにリアド城を奇襲した事件がそもそもの始まり。イブンらは1913年にペルシャ湾沿いのエルハサを占領し、第一次世界大戦ではイギリスの後ろ盾でオスマン・トルコの支配地を奪って勢力を拡大。そして1921年にネジド王国の独立を宣言し、24年から26年にかけてはアラビア半島西岸でオスマン・トルコから独立したばかりのへジャズ王国を征服して、イスラム教の聖地たるメッカを支配。こうして現在のサウジアラビアが建国された。
一方で、サウジアラビアによってメッカを追われたヘジャス王国のフセイン王は、かつてマホメッドを輩出したクライシュ族の流れをくむハーシム家の当主で、イブン・サウド王が戦乱で成り上がった王様なら、こちらはアラブ随一の名門の出。イギリスが第一次世界大戦後にオスマン・トルコ領だった地域を支配するに当たって、まず目をつけたのもハーシム家だった。第一次世界大戦が始まると、イギリスはハーシム家の当主・フセインと「イギリス軍に協力すればハーシム家の下でアラブ独立を認める」という、フセイン=マクマホン協定を結び、フセインは1916年にヘジャズ王国を建国した。そして1920年のセーブル条約ではヘジャズ王国はアラビア半島の大部分の領有を認められ、国連にも加盟したが、翌年イギリスは新興のネジド王国も承認。イギリスに二股をかけられたヘジャズ王国はあえなく滅亡してしまった。
イギリスの委任統治下でフセイン王の次男エミルはヨルダンの国王に、三男ファイサルはイラクの国王に迎えられている。ヨルダンの現国王はフセイン王の子孫。だからサウジアラビアとヨルダンは今でも何かと仲が悪い。
こうして1921年にファイサル王のイラクがオスマン・トルコから分離したが、イラクが直接「親の仇」ともいえるサウジと交渉して国境線がすんなり決まるわけがない。砂漠の真ん中とはいえ、所々に井戸や牧草地があって双方の遊牧民が使っていたし、下手に国境線を決めて行き来を制限したら遊牧民が反発して、よけい争いを招きかねない。特に国境一帯にはザファールという気性が荒いことで有名な部族もいた。
そこでイラクを代表して交渉に当たったイギリスが提案したのが双方の主張が対立する地域に7044平方kmの中立地帯を設定すること。中立地帯は土地を両国で分割せず、双方が平等に半分ずつの権利を持つというもので、翌年12月に調印された条約で、中立地帯には軍事基地を設けず、双方の遊牧民は自由に出入りできるとされた。
サウジアラビアとイラクが中立地帯を分割することで合意したのは1976年のこと。サウジの王家を「親の仇」と見ていたイラクの王家は、55年のクーデターですでに倒された後だし、サウジとクウェートの中立地帯(後述)と違って石油が出るわけでもなかったので、分割交渉はかなりスムーズに進み、81年12月には最終的な国境線が画定した。この時、周囲のデコボコした国境線も直線に引き直された。
その後、湾岸戦争でイラクはサウジと決めた国境画定を放棄すると言い出したが、サウジは相手にせず、イラクとの間で以前決めた条約を国連に登録。こうして国際的にも「アヤシイ菱形」の中立地帯は消滅したのでした。
1919年のアラビア半島の地図 イギリスはクウェートを通じてアルハサ(エルハサ)を支配するつもりだったが・・・
1921年のアラビア半島の地図 ネジド王国の拡張で混沌とするアラビア半島。いちおうアルハサの首都はクウェートということになっています
1920年代半ばのアラビア半島の地図 「エルクウェイト・エルハサ」という地域名だけ残っています。イラクとの国境はまだ昔のまま
かなり古い地図を見ると、「アヤシイ菱形の中立地帯」のほかにも、クウェートの南側にもう1つの中立地帯が存在していました。
大国の都合で領土が大幅に移動させられてしまった国といえば、ポーランドが有名です。第一次世界大戦で独立したポーランドは、第二次世界大戦後は東半分をソ連に取られ、代わりにドイツ領だった部分を獲得して、国が西側へ引越してしまい、400万人の国民が東から西へ移住しました。それと並んで、いやそれ以上に領土が大移動してしまったのがクウェート。第一次世界大戦前後に、ほとんど首都クウェートの町だけを残して南から北へ大移動しています。でも、当時のクウェートはイギリスの保護国で独立国ではなかったし、石油が出なかった頃はマイナーな存在だったので、ほとんど知られていなかったようですけどね。
現在のクウェートは、サバーハ家の首長が統治しているが、もともとサバーハ家はネジド地方(現在のサウジアラビアの内陸部)出身の商人で、旱魃のため17世紀後半に仲間たちと海岸へ移動を開始。最初はカタールの西のズバラ周辺に出たが、そこも水が不十分で良い土地ではなかったので、水を求めて北上を続け、たどり着いたのがクウェートだった。こうして18世紀前半に商人たちはクウェートに砦を築き、商人たちの互選でサバーハ家が首長に選ばれて代表者になった。当時クウェートは、オスマントルコの領土の最南端に位置する寒村だったが、商人が支配者だけあってたちまちペルシャ湾の貿易港として発展するようになり、サバーハ家はバスラ(現在のイラク南部)の総督からクウェートの支配者として公認された。これが現在のクウェート国のルーツ。
やがてオスマントルコは領土をもっと南へ広げて、アラビア半島のペルシャ湾岸(東アラビア)を支配しようとする。1871年にトルコ軍がクウェートからカタール対岸にかけてのアルハサ(またはエルハサ)地方へ出兵すると、クウェートもトルコ軍に協力してアルハサへ遠征軍を送り、サバーハ家はアルハサ地方の総督に任命された。もっとも当時のアルハサは、海賊海岸や休戦海岸(現在のアラブ首長国連邦)と同じく、各部族の土侯たちが群雄割拠している状態で、実際には要所にトルコ兵が駐屯したくらいで、クウェートの支配はほとんど及ばなかったが、名目的にはサバーハ家はアルハサの支配者ということになった。
やがてこの地に進出してきたのがイギリスだ。インドへの航路の安全を確保したいイギリスは、1892年に休戦海岸の首長たちと条約を結んで保護領にしたのに続き、ドイツがトルコからイラクへ至るバクダッド鉄道の敷設権を獲得(※)すると、その終点に予定されていたクウェートを押さえるべく、99年にはトルコの支配から脱したがっていたサバーハ家と条約を結んだ。こうして年間1万5000ルピーの補助金を与えることと引き換えに、第三国への領土割譲禁止や軍の駐屯権を得て、クウェートを保護領にした。
※ベルリン、ビサンチウム(イスタンブール)、バクダッドを結ぶ鉄道で、ドイツの「3B政策」の要だった。しかしトルコ〜イラク〜クウェートの鉄道はイギリスとの妥協で1914年に建設を放棄
クウェートはイギリスの保護国になりながら、サバーハ家はオスマントルコから総督に任命されるというややこしい状態になった。とりあえずイギリスは1913年にオスマントルコと条約を結んで、サバーハ家の支配地域を確定することにし、クウェートの町から半径80kmを領土として、さらに南側へ100kmの範囲(アルハサの北半分)がサバーハ家が徴税する権利を持つ地域、つまり支配領域ということになった(※)。
※ようするに、クウェートはもともとバスラ州の一地方に過ぎず、歴史的にイラクの領土の一部なのに、イギリス帝国主義の陰謀によってイラクから切り離された土地であり、クウェートをイラクが取り戻すのは当然のこと・・・というのが1990年にクウェートを武力併合しようとしたサダム・フセインの主張。1961年にクウェートが独立した時もイラクは猛烈に抗議したが、当時のカセム大統領が63年に暗殺されたため、ウヤムヤになっていた。
第一次世界大戦で、イギリスはアラブからトルコ勢力を一掃するため、アラビア半島の大半を自らの保護下に置いたヘジャス王国によって独立させ、イラクはイギリスの委任統治領として支配し、さらに保護国のクウェートをトルコから正式に独立させ、クウェートを通じてアルハサ地方も支配しようとした。しかしアルハサは新興のサウド家が1913年に占領し、ネジド王国(1932年以降はサウジアラビア)の建国を宣言していた(※)。
※サウド家はリヤドを中心としたネジド地方で王国を作っていたが、1891年に元家臣だったラシード家に追い出され、カタール周辺を流転した末、同郷出身のサバーハ家が支配するクウェートに亡命していたこともある。
その後もアラビア半島を征服し続けて勢いに乗るネジドは、アルハサ全域を支配すべく、1920年にベトウィンの部隊がクウェートに侵入して、首都から40kmの地点まで占領した。さすがにこの時はイギリス軍が装甲車や航空機を出動させたのでネジド軍は撤退したが、その後1922年12月に結ばれた国境協約(ウカイル協定)で、クウェートはアルハサの領有権を正式に放棄してそれまでの支配領域の3分の2を失い、さらにクウェートの南側の領土は首都から40kmまでに削られて、そこから南側の5180平方kmは中立地帯とすることになった。
当時クウェートはイギリスの保護国だったから、ウカイル協定を実際にまとめたのはイギリス。クウェートにとっては大敗北のような内容だが、イギリスとしてはアラビア半島の新たな覇権者たるネジド王国に恩を売るにはちょうど良かったのだ。そのかわりイギリスはイラクとの国境画定ではクウェートに味方して、翌23年にはサバーハ家の求めに応じて、1913年の条約で「首都から80km・・・」と決められながらも実際にはサバーハ家の支配が及んでいなかった北側の湿地帯58km分を正式にクウェート領にした。
これによってイラクは海への出口をほとんど塞がれることになり、イラクのファイサル王は反発したが、当時のイラクはイギリスの委任統治領だったし、ファイサル王はイギリスのお陰でイラクの国王に据えられた人物だったので抵抗することは出来ず、クウェートとイラクの国境線は1927年に再度確認された。イギリスとしては委任統治領で間もなく(1932年)独立してしまうイラクに海岸線を与えるより、保護国として末永く支配できるクウェートの手で確保しておきたかった。かくしてクウェートは「腹黒紳士」ことイギリスの策略によって、南側の支配地を失った代わりに、北側の支配地を固めてもらったのだった。
クウェート南側の中立地帯は、イラクとネジドの中立地帯と同様に、土地を両国で分割せず、双方が平等に半分ずつの権利を持つというもので、中立地帯には軍事基地を設けず、双方の遊牧民は自由に出入りできるとされた。
当時、中立地帯では石油は発見されていなかったし、定住者も存在せず、雨が降った時に遊牧民が家畜に草を食べさせにやって来る程度だった。だから両国とも中立地帯に対する行政は、放置しておけば良かった。ところがサウジアラビアとクウェートの中立地帯では、53年にアメリカの石油会社が陸上でワフラ油田を開発し、59年には日本のアラビア石油が沖合でカフジ油田を開発した。日本人やアメリカ人の技術者や、パレスチナ人やレバノン人、ヨルダン人、エジプト人、インド人、パキスタン人などの外国人労働者が住む国際村がいくつも誕生し、無人の沙漠だった中立地帯は人口が2万人に達した。
オイルマネーの利益は両国が半分ずつ分ければ良いが、困ったのが行政管理だ。両国が権利を持つ反面、両国が行政義務を果たすことになり、油田の周りには両国の警察や裁判所、郵便局、出入国管理事務所が建てられ、法律も両国のものがどちらも適用された。サウジの警官に見つかればサウジの法律で咎められ、クウェートの警官に見つかればクウェートの法律で咎められるという仕組み。これでは弊害が大きいので中立地帯は解消されることになり、65年に中立地帯は南北に分割されて、それぞれ両国に併合されることで合意、70年から実施に移された。ただし、石油など天然資源の利権は引き続き双方で平等に配分し、双方の国民は旧中立地帯内は自由に立ち入れることになった。
その後2000年になって、サウジアラビアとクウェートは旧中立地帯の石油利権区域についても両国で境界線を定めて分割した。「ま、金が絡む物事は、はっきりしといた方がいいんじゃないの?」と一般的にはそう思うのだが、思わぬとばっちりを受けたのが日本。中立地帯の海底油田は日本による自主開発油田として長年にわたり石油の安定供給に大きな役割を果たしてきたのだ。旧中立地帯からの石油は99年時点で輸入全体の5・4%を占めていたが、旧中立地帯の利権分割に伴って、サウジ側では2000年に、クウェート側でも2003年にアラビア石油は採掘権を失ってしまった。いやはや、中立地帯の消滅は他人事じゃないですね・・・。
ASTERがとらえた地球の造形 旧中立地帯の衛星写真。砂漠の中に産油施設と道路、パイプラインがあるだけ
アラビア半島ではアラブ首長国連邦(UAE)とオマーンとの間にも、いくつかの中立地帯が存在していました。しかしこれらの地域はあまりに小さいので、世界地図には載っていませんでした。
サウジアラビアとイラク、クウェートの中立地帯は、もともと時おり遊牧民が訪れる程度の砂漠地帯だったのに対して、アラブ首長国連邦とオマーンの中立地帯はその地域における重要な町や村で、マスフットは盆地のオアシスで、ハッタは高原のオアシス、ディバはアラビア海に面した港町だ。
現在は別々の国家になっているアラブ首長国連邦とオマーンだが、かつては大海洋帝国を築いたオマーンのスルタンの宗主下にあった。しかし19世紀にオマーン宮廷が弱体化すると、各地の部族が独立状態になって数多くの首長国が生まれ、19世紀後半に相次いでイギリスの保護領になった後も、戦国時代のような状態が続いて、首長国同士は勢力拡大を争っていた。このため各首長国やスルタン領の領地は流動的で、絶えず変動し続けていた。
イギリスはインドへの通路となるアラビア湾岸を他の列強に奪われたくなかったから保護領にしただけで、内政はおろか首長国同士の争いにも干渉せずに放置し続けていたが、戦後になって石油が発見されると、採掘権を確保するために各首長国やスルタン領の境界線を明確にすることが必要となった。そこで1950年代に各首長との部族や氏族のつながりや、交易関係をもとにして首長国の領域がはっきり決められ、その結果各首長国の領土は飛び地だらけの複雑なものになった。さらに重要な町ではそれぞれ別の首長やスルタンに忠誠を誓う複数の部族が混住していることもあって、どこの領地に帰属すべきか決めかねる場合もあった。こういう場所はとりあえず「中立地帯」ということにして境界線の画定は棚上げされた。
もっとも住民たちは政府ではなくそれぞれの部族のリーダーに従って暮らしていたわけで、同じオアシスに住んでいても、A首長国とつながりの深いA部族の人はA国の住民、B首長国とつながりの深いB部族の人はB国の住民となっても、特に不都合はなかった。いわば戦国時代の民衆は地元の殿様に従って暮らしていたわけで、その殿様が豊臣方についていようが、徳川方についていようが民衆には関係なかったようなものだろう。最終的な主権はどちらにしてもイギリスだった。
1970年代にマスカット・オマーンと呼ばれていたスルタン領はオマーン国として、トルーシャル・オマーン(休戦オマーン)と呼ばれていた各首長国はアラブ首長国連邦としてそれぞれ別々に独立すると、境界線があいまいな中立地帯は住民管理の面でも石油利権の確定の面でも厄介な存在になった。そこで80年代後半から中立地帯の分割が行われ、1999年に最終的な境界線が画定した。
しかし1つの町やオアシスが国境線で分断されてしまうと住民にとっては不便極まりない。そこでこれらの旧中立地帯では、出入国管理の面ではUAEに属している。UAE内にあるオマーン領の飛び地のマダとその中にあるUAE領の飛び地のナワ、さらにアブダビ首長国とオマーンに跨るブライミオアシス(アブダビ側の町はアルアイン)でも、同様のシステムになっていて、オマーン領も含めて地元では自由に行き来できる仕組み。ただしオマーン本土との間の通行では審査を受けなければならないことになっている(※)。
※ブライミオフイスでは2006年10月から、外国人はUAE側から入る場合でも出入国審査を受けなくてはならなくなったようです。
UAE内の首長国同士には、この他にもドバイ首長国とアブダビ首長国、シャルジャ首長国とフジャイラ首長国の中立地帯があるが、UAEの国内のことなのでヤヤコシイ問題はないようだ。
砂漠と外国経由のドバイ市内バス このHPの姉妹サイト。旧中立地帯の現地ルポ。国境線錯綜地帯を行くもあります
左図:1891年の地図。紫がプロシア領、オレンジはオランダ領、黄緑色はベルギー領。AACHEN(アーヘン)の左にある白い三角の場所がモレネの中立地帯
右図:ベルサイユ条約直後の地図。緑はベルギー領、赤はオランダ領、黄色がドイツ領。緑枠で赤の斜線の地域はドイツからベルギーに割譲。その北側にモレネの中立地帯
第一次世界大戦前のヨーロッパは、飛び地やら二重支配やらがやたらとゴチャゴチャあって、ヤヤコシイしキリがないし興味もないので、このHPでは取り上げないことにしてますが、かつて約100年間にわたって存在した中立地帯について、ちょこっとだけ取り上げます(笑)。
中立地帯が存在したのは、現在はベルギー領のモレネ(Moresnet)。かつてここはドイツとオランダ、後にオランダから独立したベルギーを加えた3カ国の中立地帯でした。
現在のベルギー一帯は中世以降、ハプスブルク家が支配し、スペインやオーストリアが統治していたが、フランス革命後の1795年にフランスが併合していた。ナポレオン失脚後の戦後処理を話し合った1814〜15年のウィーン会議でベルギーはオランダ領となることが決まったが、「会議は踊る、されど進まず」と評されたウィーン会議で、最後まで決められなかったのがオランダとドイツ(プロシア)の国境線。モレネには亜鉛鉱山があったため、両者が領有権を主張して譲らず、結局16年に西側のモレネ村はオランダ領、東側のPrモレネ(ニューモレネ)村はドイツ領となり、中間にあった鉱山一帯はどちらの国にも属さない中立地帯となった。1830年にはベルギーがオランダから独立したのに伴って、モレネはベルギーとドイツ(プロシア)の中立地帯になったが、オランダもモレネに対する権利を放棄しなかったので、形式的には3カ国の中立地帯だった。
中立地帯ができた当初、ここには256人の住民が住んでいたが、亜鉛鉱山の生産拡大に伴って人口が増え、1858年には2572人となった。このうち852人がベルギー人で、プロシア人807人、オランダ人204人、他の国14人だが、残る695人は当初から中立地帯に住んでいた人たちの子孫でいわゆる中立人。中立人は無国籍者で、外国へ行った場合どこの政府の保護も受けられなかった。人口は最盛期(19世紀末)には3781人に達した。
中立地帯では関税が適用されなかったため物価が安く、アルコール製造が自由だったので、主にオランダ向けの酒密輸の拠点としても栄えた。また中立地帯の住民は1847年まで兵役に就かずに済んだので、兵役を嫌う人たちも流入した。1823年の取り決めでは、中立地帯の住民はオランダ(ベルギー)かプロシアかどちらの兵役に就くかを選択し、市役所で宣誓することになっていたが、プロシアの兵役期間の方が長かったため、プロシアの兵役に就く者がいなくなってしまう恐れがあるので実行されず、やがてベルギーで1年、プロシアで1年の合計2年間の兵役に就く案が検討されたが、これだと兄弟が別々の国の軍隊に所属する可能性があるということが問題になって断念。結局、1847年にベルギーが国外に住む国民(=モレネに住むベルギー人)にも兵役を課すように法律を改正し、1875年にはプロシアも同様の制度となったため、兵役に就かずに済むのは中立人だけになった。
中立地帯の行政は、プロシアとオランダ(後にベルギー)双方から派遣された委員の下で、市長と10人の評議員で構成される市役所が行ったが、実際には学校の建設や医療などの行政サービスは鉱山会社が行い、市役所も鉱山会社の建物内にあった。法律は中立地帯が設定される前の支配者だったフランスの法律が適用され、裁判所は住民がドイツで裁かれるかオランダ(ベルギー)で裁かれるかを選択できた。法定通貨もフランス・フランだったが、現実にはドイツやオランダ、ベルギーの通貨も使われ、1848年には独自のコインが発行された。
1885年に亜鉛鉱山が閉山するとモレネの重要性は失われ、さらに1900年以降はモレネの併合を狙ったプロシアは、電気や電話などをカットするなどさまざまな嫌がらせを始めた。モレネでは独自の郵便局を設置してオリジナル切手の販売を始めたり、エスペラント語の「国歌」を制定しようとするなどして独自の国づくり(というか、村おこし)に乗り出した。1903年にはフランスの法律に基づいてカジノを誘致する計画が持ち上がり、市長とベルギーは乗り気だったが、ドイツが「カジノを作るなら中立地帯を分割して占領する」と強硬に反対したため頓挫。第一次世界大戦が始まると、モレネはドイツ軍に占領され、その後のベルサイユ条約で、中立地帯を含むモレネ一帯はベルギー領に編入されることになり、1919年に中立地帯は消滅しました。
ジブラルタル北方の衛星写真 国境南側の空港一帯がイギリスの旧中立地帯、北側の空き地が多い一角がスペインの現中立地帯(google
ジブラルタルといえば、スペインの一角にあるイギリス植民地。ジブラルタル海峡に突き出たイギリス軍の要塞だが、最近では観光地として賑わっているようだ。ジブラルタルの大部分は巨大な石灰石の山で、スペイン本土とは長さ2・4km、幅800mの砂州で繋がっているが、この砂州の北半分、つまりスペイン領の部分が「中立地帯」となっている。この中立地帯は非武装エリアとも呼ばれ、スペイン軍は進入できない緩衝地帯だ。
ジブラルタルはスペイン継承戦争さなかの1704年にイギリスが占領し、1713年のユトレヒト条約でイギリス領と確定したが、当時は砂州全体が中立地帯で、その真ん中に国境線が引かれた。中立地帯となった砂州には英西両軍とも進入できないことにされたのだが、18世紀の間はスペインはジブラルタルを奪還しようと、たびたびフランスと手を組み海と陸(つまり砂州)からイギリス軍を攻撃していた。
そんな状況が一転したのが18世紀末から19世紀初頭にかけてのナポレオンのヨーロッパ征服だった。1810年にイギリスとスペインは反ナポレオンで同盟を結び、スペインの国王は中立地帯に面したスペイン軍の砦を、「ナポレオンの手に渡るかも知れないから」という理由で、ジブラルタルのイギリス軍の提督が取り壊すことを認めた。その頃、ジブラルタルでは黄熱病が流行して、1805年には住民の3分の1が倒れたほど。1815年にも再び流行したため、スペインはイギリス側の中立地帯に伝染病患者の隔離施設を建設することに同意したが、当時ジブラルタルの住民は大部分がイギリス軍の兵士だったわけで、「隔離施設」といっても、実際にはイギリス軍のキャンプ地のようなものだった。
1854年には黄熱病の流行はおさまり、隔離病棟は撤去されたが、病棟と一緒に設置されたイギリス軍の監視所や、「病気の兵士も訓練を怠らないように」ということで作られた射撃場はそのまま残され、結局イギリス側の中立地帯は「非武装」ではなくなってしまう。そして1908年にイギリスは「歩哨の仕事は大変だから合理化が必要」という口実で、国境線に有刺鉄線のフェンスを設置して、イギリス側の中立地帯をジブラルタルの他の地区と一緒に統合してしまう。スペイン政府は抗議をしたが、当時は飛ぶ鳥落とす勢いの大英帝国による「既成事実」の前にはなす術がなく、かくしてスペイン側の中立地帯だけが残ったという次第。
イギリス側の旧中立地帯には、イギリス植民地恒例の競馬場が作られて春と秋にダービーなどをやっていたが、ナチスドイツの台頭でヨーロッパの雲行きが怪しくなってくると、イギリスはスペインに対して、砂州に両国が共同使用する空港を作ろうと提案。ドイツと仲が良かったフランコ総統が拒否すると、「じゃあ、イギリス側だけで作りますわ」と、競馬場を壊して空港を建設。こうしてイギリス側の旧中立地帯は空軍基地になってしまった。う〜ん、やっぱ植民地経営にかけては腹黒紳士のイギリス、とことん抜け目がないですね。
世界で最も幅が狭い国境線は、いったいどこでしょう?北朝鮮とロシア、中国とアフガニスタンなんかが思いつきますが、中国とポルトガル(マカオ)の方が断然狭かったですね。幅1kmくらいしか接していなかったんだから。でも、マカオは1999年に中国へ返還されたので、国境ではなくなってしまいました。
飛び地マニアの方だったら、「スペインとモロッコ!」なんて思いつく人がいるかも知れません。スペイン本土からジブラルタル海峡を挟んだ飛び地・セウタとメリリャでモロッコに接しているというわけですが、現地の地図をよ〜く見てみると、セウタやメリリャの周りには、スペインにもモロッコにも属さない中立地帯が設定してあるので、微妙なところで接していません。セウタの中立地帯は無人で住む人はいないが、メリリャの中立地帯には村があるようだ。
じゃあ、スペインとモロッコはまったく国境を接していないかというと、実はペニョン・デ・ヴェレス・デ・ラ・ゴメラ
Fortress of Monte Hacho セウタ中立地帯の手前の城壁、南側の中立地帯のボーダーはかなり賑わってそうですね(英語)
アンコール・ワットといえば、カンボジアが誇るクメール文明の象徴。ところが数年前に、タイの人気女優が「アンコール・ワットはタイのものだ」と発言したとかで、プノンペンで暴動が起こり、タイ大使館が焼き討ちされる事件に発展した(女優の発言はデマだったらしい)。
なぜまたアンコール・ワットが「タイのもの」なのか。かつてここに首都を構えたクメール王国は、現在のカンボジアからタイ、ラオスに跨る広大な地域を支配したが、やがてタイ人が建てたアユタヤ王朝に攻められ、1431年にクメール王国は首都をプノンペンへ移転。アンコール・ワットは放棄されて、タイの支配下に入った。その後カンボジアは1867年にフランス植民地になり、アンコール・ワット一帯は1907年にフランスがタイから獲得し、名実共にカンボジアの領土に「復帰」したのは、カンボジアが独立した1953年のこと。つまりタイ人にとっては、アンコール・ワットは600年近くタイの領土だったのに、フランス帝国主義に奪われ、カンボジア領になってからまだ60年も経っていない・・・という理屈にもなる。
一方、同じくフランス植民地だったラオス。タイ人とラオス人は民族的には同じ「広義のタイ族」で、タイ語とラオ語は方言程度の違い。ラオスの首都・ビエンチャンでは市民はもっぱらタイのテレビ番組を観ているし、タイ東北部のイサーン人はラオ語を話している。フランスが進出してきた当時、ラオスにはタイの宗主下でビエンチャン王国、ルアンババーン王国、チャンバサック王国などが分立していたが、1893年にフランスは軍艦をバンコクに派遣して領土の割譲を要求。こうして結ばれたシャム仏講和条約で、ラオスはフランス植民地になった。つまりタイ人にとって、ラオスはフランスの「砲艦外交で奪われた領土」ということにもなる。
この時の条約では、タイとフランスの国境はメコン川だったが、メコン川の中州や島はすべてフランス領とされたほか、タイ領として残ったメコン川西岸も幅25kmが中立地帯になった。中立地帯はタイの領土だが、非武装地帯とされて、タイは軍事施設の建設が禁止された。
フランスがメコン川にこだわったのは、中国への進出ルートとして利用しようとしたためだった。ベトナムとカンボジアを植民地にしたフランスにとって、内陸のメコン川両岸も抑えれば、コーチシナから雲南省まで「フランスの川」として支配できるだろうと考えたのだ。
しかし、メコン川上流の西岸(現在のミャンマー・シャン州)はイギリスが征服してしまい、肝心なメコン川の河運も、カンボジアとラオスの境界一帯に横幅が世界一とも言われる巨大な滝(コーンパペーン)があるため、中国まで船でいけないことがわかった。こうしてフランスは川を抑えることより、土地を抑えた方が得策だと、1904年にタイと新たな条約を結んで、メコン西岸のうち北部のルアンババーン周辺と南部のチャンバサックを獲得した代わりに、タイに非武装を命じた中立地帯は廃止した。
しかしタイにとって、ルアンババーンとチャンバサックはラオス3王国のうち2つの中心地。1932年の立憲革命を経て、38年に首相に就任したピブンは「大タイ民族主義」を掲げ、翌39年に国名をそれまでのシャム王国からタイ王国へ改称し、領土回復に乗り出した。
なぜシャムをタイに変えると領土回復につながるのかというと、現在では「タイ人」といえば一般にタイ国民のことを指すが、もともとタイ人(タイ族)とは、ラオスのラオ族やミャンマーのシャン族(大タイ族)なども含んだタイ語系の言葉を話す民族の総称のこと。そのうちシャム族(小タイ族)の王朝が建てた国がシャム王国だった。つまりシャムからタイへ改称することで、「シャム族の王国」から「タイ族全体の王国」へ脱皮することになり、フランスに奪われたラオスや、イギリスに奪われたシャン州は、「シャム族の土地ではないが、タイ族全体の土地」なので、タイの一部だと改めて主張することができるという発想だ(※)。
※同時にタイ国内に住むシャム族以外の民族や華僑に対しても「「タイ人」への同化政策が強化されたほか、チェンマイで650年近く続いたランナータイ王国(シャムの属国)も取り潰され、中央集権化が進められた。
そして第二次世界大戦が勃発し、フランス本国がドイツに占領されると、タイはさっそく領土奪還の実力行使に乗り出した。40年に日本の調停でメコン川西岸を取り戻し、1907年にフランスに奪われたカンボジアのバッタンバン州とシェムリアップ州も併合したが、フランスの敗戦と日本の威光で奪い返した領土に過ぎず、いずれも46年にフランスへ返還して、そのままラオスとカンボジアの領土になった。
タイ周辺の地図(1942年) 日本軍と手を結んだタイが、カンボジアやラオスの一部を奪還。現在のタイ・カンボジア国境は「アラン」
日本の敗戦でピブンも失脚し、「領土回復」の望みが消えたタイは国名をシャム王国に戻したが、やがて復権したビブン首相によって49年に再びタイ王国に変えられて、現在に至っています。
関東州と中立地帯(1921年) ピンクの部分が日本租借地の関東州。その周りのオレンジ色の部分は中立地帯
山東半島の地図(1921年) 赤枠で囲まれた部分が威海衛(イギリス租借)、緑枠内が膠州湾(ドイツ租借地)。その周りのオレンジ色の部分は中立地帯
という日本の植民地だったが、当時の地図を見るとその北側に「中立地帯」と表示された一角があった。これはロシアが関東州を租借した時に清朝との条約で設定したもので、中立地帯はあくまで中国領で、行政や司法なども中国側の管轄だが、中国の軍隊はロシア側の同意がなければここに入れない。また中立地帯は第三国への供与や鉱山開発、道路建設などの権利を与えることを禁止された。日露戦争で日本がロシアから関東州の租借権を引き継いだ時、中立地帯もそのまま引き継いだというわけ。中国側は中立地帯とは言わず隙地界線(緩衝ライン)と呼んでいたが、こちらの表現の方が実情に合っていそうだ。
かつて中国が列強に貸し与えた租借地では、他に 膠州湾(ドイツ)と威海衛(イギリス)にも中立地帯が存在したが、条約の内容はそれぞれ違っていた。膠州湾はドイツ軍は中立地帯を自由に通行でき、中国が中立地帯で行う行政措置はドイツ側の同意が必要とされた。威海衛では中立地帯には中英両軍が駐屯することができ、イギリスには道路、水道、病院などの建設を行う権利が与えられていた。
康徳三(1936)年度、満洲国農村実態調査報告書にある統計資料について 江夏由樹氏の論文。満州国時代の蓋平県の農民の収入や税負担などのデータもあります

[ 168] 中立地帯
[引用サイト]  http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/churitsu.html

私が二十歳の頃、非武装中立というのは労働組合や新聞紙上ではまさしく正義でありました。これに異論を発するものは悪魔のごとく毛虫のごとく嫌われたのです。
この方が私の住んでいた地方都市に演説に来た時、私も組合から駆り出されました。会場は怒号が飛び交い演説なんて雰囲気ではなかったことを覚えております。何を語ったのか覚えてません。
地方に行けば、いまでも、戸締りなどしないで外出している家が山程あるということです。隣近所の信頼関係か衰えていないなによりの証拠であり、これ(信頼関係)にまさる平和と安全はないということです。
また、世間には、スイスのような中立国でさえも武装しているではないかといって反論する人もいます。軍隊があり、抵抗の姿勢を示しているからこそ、中立も保たれているのだというわけです。しかし果たしてそうでしょうか。スイスに侵略するものがないのは、この国の軍隊を恐れるからではないはずです。どこの国とも仲よくしようという熱意と誠意を基礎にした外交、これを一致して絶対に支持する国民、そして、これらを暖かく見守る国際世論と環境、それらが相まって、スイスの安全は保障されているのだと思います。
そうはいってもとにかく、不安だ。もし攻めてくる国があったら「降伏」せよというのかと、さらに執拗に迫ってくる人たちがいることも事実です。
このような人たちは、「攻めるとか、攻められるとかいうような、トゲトゲしい関係にならないように、あらゆる国、とくに近隣の国々との間に友好的な関係を確立して、その中で国の安全を図るのだ」といくらいっても聞こうとはしないものです。私は、こういう人たちには誤解を恐れず、思いきって「降伏した方がよい場合だってあるのではないか」ということにしています。
『国家が仲良く』という意味を私は理解できません。きっと石橋さんは童話の読みすぎか頭の中でしか国際関係を知らなかったのでしょう。
彼に下心がないならば純粋であり、同時に考えが足りないとしか言いようがない。彼が旧ソ連の手先であったなら最高のアジテーターである。
軍隊を持つ持たないという横軸と、同盟を結ぶか結ばないかという縦軸を考えてみました。もちろん他にもいろいろなケースはありえます。まあ、簡単なモデルから始めましょう。(非武装中立って美味しい話題ですからこれっきりではもったいない)
もちろん位置づけとして同盟が強い場合、弱い場合、重軍備・軽装備とあるでしょうがとりあえず省略、(モデル化では単純化ということが重要なのだよ、明智君)
投影法では第1角法から第2角法、第3角法、第4角法が考えられますが、現実には第1角法と第3角法しかありません。
化学の世界でも分子構造は考えられても存在しないものはたくさんあります。また非常に不安定で短時間で分解してしまうものもあります。
しかし、スウェーデンはNATOによって平和を維持できていたということを見逃しちゃいけません。いえ本当はNATOとワルシャワ条約機構の緩衝材として東西両陣営からその形態を要求されたというのが真実でしょう。同様にフィンランドもワルシャワ条約機構には属しませんでしたが旧ソ連の支配下にあり緩衝材の働きをしていました。
スイス、石橋さんも褒め称えておりますが、要するに戦火を交えて占領する価値があるか否かという点に尽きるのではないですか?
第二次大戦の時だってスイスがポーランドやベルギーに位置していたら武装の有無に関わらずヒトラーに蹂躙されていたことに、おばQは頭の3本の毛を賭けます。
現在のイスラエルにしてもアメリカの後ろ盾がなければアッという間にアラブの海に没するでしょう。そうなる前にイスラエルは核武装するでしょうが、非正規軍を相手に核兵器が効果があるかは疑問です。
嗚呼、日本はいまだに国連から敵国として位置付けられています。そんな日本が国家安全保障を国連頼みとしてよいのでしょうか?国連から見れば『勘違い』『お門違い』に過ぎないでしょう。
本日のお題「非武装中立」でありますが、かっての社会党の頭の中にはありましたが、現実に存在しているか否か私は知りません。
もっともこの方は、以前『ベトナムに平和を』とベトナムを理想の国と信じていたが、ベトナムがカンボジア侵攻したときにはベトナムは悪だと語っています。また以前『北朝鮮は理想の国だ』と賛美していましたが、最近は『北朝鮮の真実は違うようだ』と語っています。要するに主旨一貫しないたわ言でしかなさそうです。そのうち、コスタリカは理想の国でなかったといいだすのではないかと気がかりです。
人口と国民総生産に見合った軍備を持っていますし、そしてアメリカとしっかり同盟関係にあります。日本がイージス艦を持っていて、コスタリカは持っていないといってもそりゃ国家規模から言って当然ですよ。
規模が小さい国々では軍備をまったく持っていないか形式上わずかな軍隊を持っているかの違いはありますが、これしか選択肢がないのかもしれません。
人口28万人(アイスランド:2000年)では維持できる軍隊は数百人でしょうから意味ある力にはなりません。見た目を飾るより非武装同盟がコスト的に有利なのは当然です。
電車の中で『非武装中立』という言葉を見て、『ああ、この言葉を懐かしく思う人は多いだろう』と感じました。
たとえば日本はGNPの1%という限度を決めています。そうすれば保有する兵員も勤労者の1%が限度というものでしょう。
日本人口1億2千万として半数が労働可としてその1%すなわち60万人の軍隊を維持するのが限度となります。
日本の自衛隊の人口比は0.2%、コスタリカも0.2%ですからそれから考えるとアイスランドは非武装といえるでしょう。
ちなみに空軍の場合、1機を運用するのに30名の人員が要るようです。それは私が公表されているデータから考えたので経験則あるいは実績というわけですが・・・
もちろんそれはパイロット、整備、基地警備、レーダーサイト、主計までを含めてですから、規模によって間接部門の占める割合は変わります。ですから空軍の規模によって1機当たり25名くらいから35名くらいの幅はあります。
これをもとにアイスランドで空軍を保有した場合を類推すると、航空機がせいぜい4機から5機しか運用できないことになります。その内訳が早期警戒機が1機、戦闘機が2機、連絡用1機、練習機1機じゃあ落語です。
といって早期警戒機だけじゃ意味がなく、戦闘機だけでも意味がない。結論はそんな空軍はありえないということです。
人口2200万人の北朝鮮が100万人の軍隊を保有しているということは、異常なことだとお分かりでしょうか?

[ 169] 非武装中立
[引用サイト]  http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/hitori030516.htm

この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。必要に応じて編集することは可能ですが、その変更はコミュニティーの合意を反映している必要があります。大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。
中立的な観点 (NPOV, Neutral Point Of View) はウィキペディアの根本的な方針のひとつです。これは、すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない、というものです。この方針は記事以外のテンプレート、ポータルなどにも適用されます。ウィキペディアの創始者ジミー・ウェールズ (Jimmy Wales) の言葉によれば、中立的な観点は「絶対的で交渉の余地のないもの」“absolute and non-negotiable” です。[1]
Wikipedia:中立的な観点はウィキペディアの記事における方針の三つのうちのひとつです。ほかの二つは検証可能性 (Verifiability) と独自の研究を含めない、です。ウィキペディアではこれらの方針を合わせて記事名前空間に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互補完的、議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。これらの方針はほかの二つと切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。
2.1.1 中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?
一般利用のための百科事典は、中立的な観点から編纂、収集された知識を集めたものです。百科事典の記事を書く際には、中立的な観点以外のどのような特定の立場をとることも、可能な限り明確に避けるべきです。
中立的な観点からは、意見や事実について、それを支持する者と批判する者とが共に合意できるように記述することを目指します。もちろん、両者の完全な合意は不可能です。この世界には、自分の見方を押し付けるための記述以外のどのような記述に対しても譲歩することのない人々もいます。我々にできることは、個別の点については見解が分かれていても、本質的に合理的な点で共通している人々の間での合意を目指すことだけです。
百科事典の記事では、執筆者にそういう確信があったとしても、営利企業は犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません。そのかわり、一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明し、それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。
百科事典の記事は、自由放任型の資本主義が最良の社会システムである、といった議論を展開するべきではありません。(ちなみにこれは私の信念なのですが。)そのかわり、記事ではそのような見方を持つ人々の議論を、それに賛同しない人々の議論と併せて紹介するべきです。
おそらく、ある記述を百科事典向きにあつらえる簡単な方法は、ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くことでしょう。
もし上の声明を読んで私の考えが主観主義か集団主義か帝国主義だと思うとしたら、たぶんそれは誤解だと思います。私に尋ねてみて下さい。人々が何を信じているかは、客観的な事実の問題であり、中立的な観点からたやすく記述することができるものです。――ジンボ・ウェールズ (Jimbo Wales)
訳注:Jimbo Wales はウィキペディアの創設メンバーの一人で、ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団の終身理事長である。
ウィキペディアには大切な方針があります:大まかにいえば、全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くべきだ、というものです。これは、記事は偏りのない「客観的な」観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません。
ウィキペディアの中立性についての方針は、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない、というものなのです。
記事を中立的なものにするためには、我々の共同作業が不可欠です。それはウィキペディア成功の秘訣のひとつでもあります。
以下のエッセイでは、このポリシーについて踏み込んで説明しますが、このエッセイ自体、多くの議論の賜物です。我々はあなたもこのエッセイを読み、それについてコメントし、大筋において理解するように強くお勧めします。
はじめに:中立性という基本的な概念と、何故ウィキペディアが中立的であるべきかについて。中立的な見方とは何なのか? 「偏りのない」、「中立的な」と言う時、我々は何が言いたいのか?
中立性のポリシーの言い換え:事実を記述し、様々な意見についての事実も記述せよ、だが、意見の表明は避けよ。
ウィキペディア成功のカギともいえる方針は、記事が「偏っていない」あるいは「中立的な観点」から書かれているべきだ、というものです。これらの用語は一般とはやや異なった意味で使われています。私たちがどのように中立性を捉えているのかを知ることは、とても重要なことです。このページを丁寧に読めば理解する助けとなるでしょう。
基本的には、偏りのない(中立的な観点から)記事を執筆するということは、特定の観点からの意見を主張するかわりに、論争における様々な立場を公正に説明することです。これはやや単純な定義で、もっと細かな点に配慮した定義は後に書きます。今の時点では、偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明することだ、と言っておくことにします。
ウィキペディアは一般用の百科事典です。これは、様々なレベルでの一般的な知識を集めたものと言えます。しかし、私たち(人類)は全ての物事について同じ見方をしているわけではありません。複数の異なる論理に基づいた意見同士が競合するときや、他の視点から見ると矛盾が生ずる意見があるとき、一つの意見を固守する人は他の意見を間違いと信じ込み、知識と思わなくなってしまいます。なにが真実であるか意見が食い違う時は、何が知識であるかについての見解が異なっていると言えます。ウィキペディアは共同作業だからこそうまくいく試みです。ですが、このような見解の相違から、ある人が p であると書き、次に編集する人が p ではないと書き直すような、終わりのない「編集戦争」をどうしたら避けられるでしょうか?
ウィキペディアの作業をする上で私たちが受け入れている解決策は、「人類の知識」は(意義のある、出版されている)全ての異なる観点を含む、というものです。私たちはそのような意味での人類の知識を提供することに最大限の注意を払っています。これは「知識」という語の意味としては、一般に広く受け入れられているものとそう変わらないでしょう。この意味で「知られていること」は時間と共に変化しますし、このように「知っている」という言葉を使うときには、引用符を使って表現することがあります。中世では、私たちは魔神が病をおこしたことを「知っていた」。今日では、そうではないことを「知っている」。(訳注:直接誰かの発言や文章を引用するわけではなく、それらの記述が自分の考えではないことを強調するべく、引用符を使うわけです。scare quotes参照)
私たちはこういう意味での人類の知識を、偏った形で編纂することもできるでしょう。あるトピック T について、様々な理論を説明し、その後で T についての真実はこれこれである、と主張します。ですが、ご存知のように、ウィキペディアは国際的な共同作業のプロジェクトです。おそらく、プロジェクトが成長するに従って、ほとんど全ての事柄についての全ての観点が(いずれは)編集・執筆にする人や記事を読む人の中の誰かに支持されることになるでしょう。終わりのない編集戦争を避けるためには、様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべきです。そしてそれが、このページで言う記事を「偏りのない」「中立的な」ものにする方法です。中立的な観点から記事を書くことは、論争の種になっているトピックについて主張を含めずに書くことです。そのためには、競合する観点についてそれぞれの支持者にとって多かれ少なかれ納得がいくような形で記述すれば事足りることがほとんどです。
このポリシーの基本的な根拠を今一度まとめると:ウィキペディアは百科事典であり、人類の知識を編纂するものです。しかしウィキペディアは国際的な利用のために共同編集されるものです。編集に携わる人々全ての間で全ての事柄について(あるいは多くの事柄について、であっても)、人類が手にしている知識にどのようなものがあるかについて特定の観点を共有することは望めません。そこで、人類の知識についてやや緩やかな見方をして、互いに競合する様々な理論がどれも人類の知識の一部である、と考えることにします。私たちは、ひとりひとりが、そして全体としても、競合する諸理論が公正に提示されるように、特定の立場が主張されないように、努力するべきです。
中立性の方針を掲げることにはもうひとつの理由があります。それは、私たちが特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります。もしもわれわれが中立性のポリシーを維持することに成功したら、世界中の全体主義的な政府や独断的な組織はウィキペディアに反対することになるでしょう:広範な問題について、競合する様々な理論を提示することは、ウィキペディアのクリエイターが、読者が各自で意見を形成する能力を信頼する、ということを示します。複数の観点について、それらの利点を公正に示し、どれか特定の観点を採用するように要求したりしない記事は、読者を解放する効果があります。中立性は独断主義を倒すのです。これはウィキペディアで作業しているほとんど全ての人がよいことだと認めていることです。
中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?
「偏りのない」「中立的な」という言葉についてはいろいろな妥当な解釈がありえます。ですが、ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というものです。これにはもう少し説明が必要でしょう。以下にそれを示します。
まず、最も重要なことは、論争の種になるような立場を、主張することなく単に記述する、ということがどのようなことかを考えてみることです。偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。全ての観点を提示するということは、p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というようなの記述をすることです。全ての観点を提示するにあたって、誰がどのような理由で p や q を信じており、どちらがより広く支持されているか、といった背景の説明を大量に供給できることが理想です。(広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。)詳細に書かれた記事であれば、p 主義者と q 主義者がお互いをどのように評価しているか、それぞれの立場が、相手に対して持っている強みなどを説明しつつ、どちらが優れた立場であるかについては確固として言及を避けることになるでしょう。
この点について、もう少し詳しく説明すべきでしょう。中立的な観点は、論争となっている点をめぐる多くの立場の中の、比較的「中立的」な、あるいは「中間的」なひとつの観点ではない、と上に書きました。これは「中立的な観点」という語についての特殊な理解に基づくものです。ウィキペディアにおいて多くの支持を得つつある理解では、「中立的な観点」とは実際にはひとつの観点なのではなく、「中立的に記事を書くことは、どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが正しい、ということになります。
もうひとつ説明しておくべきがあります。偏りのない記述をするということは、ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである、と考えることもできます。ここでの偏りのない記述とは、論争について冷静で、公正で、分析的な描写だと考えていいでしょう。当然ながら、いずれの立場も正しいと暗示することなく、複数の観点を記述することなど可能だろうか、という疑いがあります。ですが、経験を積んだ学者、論争好きな著述家、レトリックの研究家などはみな、自分や他人の記述の偏りについてよくわきまえていて、論争の説明にどちらか一方の側をひいきするような偏りがあれば、それを見つけることもできるものです。もし望むなら、彼らは、多少の創造性を発揮し、その偏りを取り除くこともできます。
重要な制限事項がひとつあります。複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。論争を説明する際には、少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません。それは論争の形について誤解を与えかねません。公正に論争を記述するためには、競合する様々な観点を、その主題についての専門化や関係者の勢力に合わせて提示すべきです。しかし、これは少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありません。ウィキペディアにはサイズの制限はありません。そのようなページにおいて、その観点が詳細に説明されているかも知れませんが、その観点が真実であるといった形で表現されるべきではありません。
観点の偏りは、特に意識されていたり、熱狂的に支持されているとは限りません。例えば、ある分野の入門者は、論争の余地のない常識に聞こえることが実は特定の、論争の種になるような見方に結びついている、というようなことをしばしば見落とします。(そこで、記事を偏った見方を完全に取り除くためには専門家が必要になることも稀ではないわけです。)別の例を挙げれば、執筆者は、意図せずして「地理的」な見方の偏りを記事に反映させてしまい、ある論争がある国でどのようであるかについて、他の地域ではその論争が違う様相を呈していることを知らず、地域を明記しないままに書いてしまったりします。
この方針はしばしば別の言い方で表現されます:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな。ここでまず、「事実」という言葉は、特に深刻な論争の種になっていない情報を意味します。この意味で、「ある調査が特定の調査結果を出版したこと」は事実です。火星が惑星であることも事実です。2+2 = 4 も。ソクラテスが哲学者であるということも。これらについて真剣に反論するような人はいません。ウィキペディアンはこうした事実を思う存分記述します。その一方、「意見」という言葉は、何か深刻な論争の種になっている情報を意味します。特定の論争を「深刻」と見なすかについて確信が持てないような、判断の難しいケースも当然あります――ですが、意見を表明する記述も多くあります。神は存在する、というのは意見です。直観論理は日常論理より優れている、というのは意見です。
何かが事実であるか意見であるかを判断するには、実際に物事がどうであるかは関係がありません。理論上は、誤った「事実」(全ての人が合意するが実際には誤っている観点)がありえますし、真実に照らして正しい「意見」は数多く存在します。数の上では誤った意見の方が多いようではありますが。
ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。つまり、「神は存在する」と意見を書く代わりに、「アメリカ人のほとんどが神が存在すると信じている」という事実や、「トマス・アキナスは神が存在すると信じた」という事実を書けばいいわけです。最初の例では意見を表明していますが、次の 2 つの例では意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えています。もうひとつ重要なことは、意見を提示する際に、意見がどのように提示されるべきかについて意見が衝突することもあるということを忘れないことです。場合によっては、主題についての主要な意見全てを公正に記述し、全般的な特徴を説明するために、ある意見の説明を限定したり、いくつかの定式化された記述を提示するにとどめたりすることが必要になることもあります。
ですが、ウィキペディアの中立性のポリシーについて、それは事実だけを記述し意見は控えるというものだと言うだけでは不十分です。ある意見についての事実を述べる時には、その意見に対立する意見についての事実を述べ、かつ、それらの意見のどれか一つが正しいと示唆せずにおくことも重要です。一般的に、それら対立する意見の背後にある考え方や、誰がそうした意見を支持しているかについての事実を提供することも重要です。(その意見を代表するような人物を引用することが、しばしば最適の方法です。)
もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。多くの記事は、対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになってしまっています。これは失敗です。ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。それはどのような事実をとりあげて説明するか、(どのような事実をとりあげないか)、それらをどのように配列し、まとめるか、といったことを通じて行われます。例えば、ある立場に対立する意見を紹介しながらそれを否定する説明を行うと、そうした対立意見を「対立意見」のセクションにまとめて紹介する場合と比べて、ずっと説得力がなくなります。
こうしたことをするかわりに、記事を書く時には、説明されている全ての立場は、少なくとも賛成できそうに思えるものだというトーンで書くべきです。全ての競合する立場を好意的に説明しましょう。例えば、○○の考え方はよいアイディアだ、但し、一部の反対意見によれば、そうしたアイディアは××を見落としていると言われている、という書き方ができます。もしこういう書き方ができなければ、記事の内容にはいろいろ問題が残り、後に他の人の編集の際にそれを中和するような変更がなされることになるでしょう。
特別なケースがひとつ考えられます。審美的な判断にかかわるものです。ウィキペディアの記事の一部はアート、アーティスト、その他クリエイティブな話題(例えばミュージシャン、役者、本、テレビゲーム、など)を扱うもので、執筆者が感じたことを表現する傾向にあります。これは、百科事典にそぐわない記述だと言えるでしょう。だれそれが歴史上最も偉大なベーシストである、といったことについてはわれわれは意見の一致を見ることができないでしょう。ですが、あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。ある作品についての一般的な解釈の概説をすること、それもできればその解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて、はよいことです。例えば、シェイクスピアが英語による著述家の中で最も偉大な人の一人だということは、どこかの生徒が百科事典から学ぶべき重要な知識でしょう。ただし、注意して下さい――作家や作品が大衆や批評家にどのように受け止められたかを判断するためには、下調べが必要でしょう。ですが、そのような情報は百科事典にとっては非常に重要で、ウィキペディアの執筆者の独自の見解は重要ではありません。
例えば政治的に論争の的になっているような事柄について常に自分の観点を主張しようとして、他の観点がフェアに提示されているかどうかについては気にしない人は、この中立性のポリシーに違反しています。中立性の方針は、執筆者が自分の立場だけでなく、自分と反対の立場についてもきちんと説明するように求めています。このポリシーを守るように努力しなければ、ウィキペディアはいまよりもずっと頼りない情報源になってしまうでしょう。われわれは皆、各人の観点をできるだけ好意的に説明するように努力すべきです。
これは、一部の人にとっては既に明らかな事を明文化しただけのものです。もしもわれわれ各人が完全に偏った文章を投稿してもよいとしたら、そもそも中立性のポリシーに誰かが違反するなどという可能性がどこにあるでしょうか? このポリシーの命じるところは、「中立的な観点から書け」というものです。もしも、このポリシーが「同意できない立場についても、フェアに説明を行うように各人が努力べきだ」ということを意味しないとしたら、何を意味するでしょうか? あるいは、こう考える人もいるかも知れません「自分の立場をフェアに提示すべきだ、そして他の人がそれを編集するのを受け入れるべきだ」これは解釈としては少しは意味が通るかもしれません、でも少しだけです。もしも「ページを保存」するボタンを押す時、そのユーザーが記事の全文に責任を負っているのだとしたら、そのユーザーが自分の賛同する立場だけを説明したり、対立する立場をフェアに説明しなかったり、不完全な形で説明したりしているような場合には、その人はウィキペディアに偏った見方を付け加えていることになります。このように記事の全文に責任を負うと考えることは意味が通るでしょうか? それとも、文章の一部だけに限定して、「この部分は自分の文責だ」と考えることの方が意味が通るでしょうか? あるいはそう言うこともあるかも知れません。ですが、中立性の追及を強く、明白に掲げるこのウィキペディアのプロジェクトには、そういう態度はふさわしくないように見えます。
あるユーザーが自分と反対の立場についてのフェアな説明を試みたところで、当の反対の立場に立つ人は、その説明が不十分なものだと考えるかも知れません。ですが、重要なのは説明が成功するか失敗するかではなく、フェアな説明を試みるべきだという考え方です。中立性をめぐる論争がある時に、全ての立場がフェアに説明されていなければならないし、誠意を持って自分の立場以外の立場をフェアに説明しようと試みなければならないという考え方をわれわれが共有していれば、その論争の解決はずっとうまく行きます。そしてそのような態度は、何も試みないことよりもずっと相手方の理解や謝意を得ることになります。
「敵のために書く」と言えば、あたかもわれわれが欠陥のある議論をわざわざウィキペディアに追加するという奇妙なことをしているかのように思われるかも知れません。ですが、ともすれば不可解なこの行動について、(出版されている中で)最良の反論を、できるだけ賛同するような立場から追加しているのだ、できればその反論を、記事中で紹介しているのと同じ形で提唱している著名な人物を引用しようともしているのだ、と考えるのがいいと思います。学者、例えば哲学者は常にこういうことをします。
偏った見方から書かれた文章の例と、ウィキペディアの参加者がそれをどんな風に比較的偏りのない記事にして行ったかを考えてみることは、この問題についての理解の助けになるかも知れません。
2001年初頭に、妊娠中絶の記事は、自分の意見を声高に唱えようという何人かの参加者によって、レトリックの応酬のようなものに使われました。どのような議論が紹介され、それら対立する立場がどのように提示されるべきかについての合意に達することもできない状態でした。その記事に必要だったのは、――そして実際にもたらされたのは――様々な時代における妊娠中絶の道徳的、法的な正当性についての様々な立場を扱う踏み込んだ議論でした。そのような諸立場の議論は慎重にデザインされ、どのような特定の立場もひいきされないように工夫されました。これにより、妊娠中絶をとりまく様々な立場が、好意的な視点から強みと弱みと共に紹介されることになり、それらの諸立場を整理し、理解することを容易にしました。
他にも、事実上特定の立場の推進のために書かれる形で始まり、その後、全ての立場を明確に、好意的に提示するように心がけている人々によってきれいに仕上げられることになった記事のサクセスストーリーはたくさんあります。
客観性などというものは存在しない。少しでも哲学的に洗練された人なら誰でも知っていることだ。それなのにどうして「中立性」のポリシーを真剣に受け止めることができるのか? 中立性、つまり偏りのない見方、というのは端的に不可能だ。
これはおそらく中立性の方針に対する最もよくある批判です。これはこのポリシーについての最もよくある誤解をも反映しています。(ちなみにこのポリシーは、もともとはある哲学者によってヌーペディアのために作成されたものです。)誤解があるのは、このポリシーが客観性の可能性について何か議論の余地があるような主張をしているという点です。客観性についての主張はこのポリシーには含まれていません。特に、このポリシーは客観性なるものがある、(トーマス・ネーゲルの言葉を借りれば「どこでもない場所に立った観点」)そしてその観点から書かれた記事は客観的に真である、 という主張すらもしていません。このポリシーはそういうものではないし、われわれの目的もそういうものではないのです! むしろ、われわれは「中立」「偏りのない」といった概念についてある独特の理解をします。これはわれわれの多くが慣れ親しんでいる解釈とは異なっているものです。このポリシーの主張するところは、単に、論争に参加するのではなく、論争を描写するべくベストを尽くすべきだ、というものです。これは、哲学的に反論可能であるようなことは何も書くな、という意味ではありません。これは、哲学者であれば非常に相対主義的な立場の者でも、いつもやっていることです。(哲学者がある議論を立てる時には、対立する意見を過小評価して、それを反駁するだけに終始している、という批判を逃れるために、事実上まず対立する意見をフェアに紹介できることが必要です。)洗練された相対主義者は、このポリシーが彼らの相対主義と完全に一致するものであると即座に見て取るでしょう。
この路線のポリシーにとって何か問題含みな点があるとしたら、それは論争をフェアに描写することができる、だから全ての主要な参加者が結果として生み出された文章を見て全ての観点が好意的に、できるだけ完全な形で紹介されている(少なくとも議論の文脈に関係がある範囲内で完全である)と合意できるだろう、という含意でしょう。これは実証的な問題であり、このような文章を書くことがそもそも可能なのか、という哲学的な問題ではありません。そして、実際にそのようなことが可能だということは、もっとも有能な学者、百科事典執筆者、教科書の著者、ジャーナリストなどによってそのような文章が日々書かれているということを考えれば明白です。
疑似科学のトピックについての記事はどのように書くべきでしょう――科学者の大部分がその疑似科学の意見は信用できないもので、真剣にとりあげる値打ちもない、と考えている場合には?
もしわれわれが「人類の知識」の総体を提供するつもりなら――つまりわれわれが知っていると信じていることの全てを提供するつもりなら――われわれは、不快感を催すような見方であっても、それが誤りであると主張することなく説明しなければならないことに同意しするべきでしょう。しかしながら、これは必ずしもそうひどいことではありません。われわれに課せられた任務は、その疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介するという何かインチキな「フェア」の概念に基づいて論争をフェアに描写することではありません。むしろわれわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。
しかしながら、一部のウィキペディアンはこの点について非常に強い思いを抱いており、「中立的な観点」の代わりに「科学的な観点」が採用されるべきだと信じています。ですが、これらの人々がうまく示せなかったのは、そのようなポリシーをわざわざ設ける必要があるという点です。疑似科学に惑わされるかも知れない人に対して、疑似科学についての科学者の見方が明確に、完全に、フェアに説明されるべきだというポリシーが既に存在しているわけですから。
ほとんどの西洋人にとって感情を害するような見方――人種差別、性差別、ホロコーストの否定などはどうでしょうか。これらの見方を実際に持っている人はいるわけですが。もちろんわれわれはこれらの見方について「中立」であるべきではないですよね?
もちろん、われわれが持っている道徳的な嫌悪感について長い議論を含めることができます。そうしつつも、そのような意見を特定の著名な代表的人物、集団などのものであると説明することで、中立的な観点に対する健全で一貫したサポートを維持することができます。他の人々はそれらの問題について各自で判断を下し、もし理性的であれば、われわれの見方に賛同することになるでしょう。人種差別な見方や性差別的な見方などを持っている人は、偏った観点から書かれた記事を読んでも説得されることはないでしょう。そうした記事は彼らを防御的にするだけです。それに対して、もしもわれわれが中立性のポリシーを適用するように一致協力すれば、そのような嫌悪を催すような信念を持っている人がそのような考え方を改めるような洞察を与えることになるかも知れません。
ちょっと待った。科学対疑似科学についてのその楽観的な見方は、きちんとした考えがあってのものだろうか。疑似科学を支持する人は嘘をついたり、敵を口汚く罵ったり、何かをほのめかしたりして事実を追い払ってしまうことは歴史が示している。疑似科学を信じる人の多くはその見方を他の人に対してすぐ押し付けようとすることも。もしこのプロジェクトが地球が平らだと主張する人やホロコーストはなかったと主張する人にも平等な妥当性を認めるとしたら、(そういうつもりではないとしても)結果としてそうした人たちに正統性を与えてしまい、害悪としかいいようのないものが普及するのを助けることになってしまうことになる。
ひとつ注意してほしいことがあります:ウィキペディアの中立性のポリシーは、われわれが平等な妥当性をそうした観点について認めなければならない、とは明言していませんし、そういうことを暗に示唆してもいません。そのポリシーが明言するのは、百科事典の執筆者として、特定の立場をとってはならないということです。ですがこれは、主流派の見方を主流派の見方だと紹介することを禁止するわけではありません。嫌悪感をひきおこすような見方に対する強力な反論をフェアに説明することも禁止されていません。そのような問題のある見方について多くのまっとうな人々が感じる激しい道徳的嫌悪感について説明することも禁止されていません。その他、いろいろなことが禁止されていないわけです。
以上から、一方でウィキペディアはこのような、とるべき立場が明らかな問題についても公式な立場などは持たないことになります。その一方で、われわれウィキペディアの執筆者が、道徳的に嫌悪感を催させるような見方についてもあたかも他の見方と平等な信憑性を見出しているかのように見える、ということにもならないわけです。ウィキペディアの執筆者は、教育を受けた様々な人々をおおまかに反映していることを考えれば、われわれの読者も過激な観点について、多くの人々に共通した見方を期待できるでしょう――われわれの大半はそのような観点を嫌悪します。
ウィキペディア英語版はアメリカ中心主義的な観点をとっているように見えます。これは中立的な観点のポリシーと矛盾しませんか?
そうです。確かに矛盾しています。そしてウィキペディアにはその点を擁護する人はいません。英語版においてアメリカ合衆国の観点からのみ書かれた記事があることは、単に多くのアメリカ人がプロジェクトに参加していることの反映です。それはひいては、英語版のプロジェクトが英語を使って進められており、英語を使うアメリカ人のインターネットユーザーが非常に多いことの反映でしかありません。
これは継続的な問題で、多くのアメリカ人以外の人々(多くの人々がいます)の積極的な参加によって修正されうるものです。
中立性の観点のポリシーは、偏った見方から書かれた文章を削除する理由として持ち出されます。これは問題ではないでしょうか?
多くの場合、問題です。われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。
時折、特にほんの少数の人しか知らないトピックについて、ある主張が真実なのか、あるいは有用な情報なのか、を判断するのが難しい場合があります。このような場合、ノートのページで疑問を提起するといいでしょう。もし偏った記述を投稿した人が今後その記述を変更することがないだろうと考えられるのであれば、その記述を本文からは消してノートのページにコピーするという方法をとってきました。(ですが、完全に削除するという方法はとりません。)しかし、この方法は、多かれ少なかれ最後の手段として用いられるべきであって、決して、偏った記述をした人への罰のように行われるべきではありません。
中立性の観点のポリシーには賛成しますが、完全に、手の施しようのないくらい見方が偏った人がいます。彼らの投稿を編集しなければなりません。どうしたらいいんでしょうか。
本当にひどいケースでない限りは、その問題を公然と指摘し、この(中立的な観点の)ページを示し、他の人の助力を求めるのがいいでしょう。但し、礼儀正しく指摘することです。大抵の場合、その方が効果的です。もしも問題が非常に重大なら、ジンボ・ウェールズを呼び出してげんこつを食らわしてもらうのもいいでしょう(文字どおりの意味ではありませんよ)。それでも非常に強い抵抗にあった場合には、プロジェクトを離れるように頼むことになるでしょう。このプロジェクトを完全にオープンなものにしておこうというわれわれの強い関心も、圧倒的多数の執筆者が持っている別の関心によって制限される場合が確かにあります――執筆者は、われわれのポリシーを尊敬しない人々による妨害を常に直し続けるようなことなく執筆活動を行いたいという願いがあります。
みんながもっとこの質問をしてくれればいいのですが。われわれはウィキペディアがどんな偏った見方を提供すべきかについては論争すべきではありません。ウィキペディアはどんな風にも偏っているべきではないのです。
偏った見方をめぐる論争を終わらせる最良の方法は、われわれがみな、それなりに聡明で、能弁であり、そうでなければそもそもこのプロジェクトに携わり、それについてあれこれ考えたりもしていないはずだ、という点を思い出すことです。われわれはお互いの観点を理解し、それぞれの観点がフェアーに提示されるように努力することを目標にしなければなりません。もしもある記事について、特定の主張がなされなければならないか、何が真実であるか、などについて論争が持ち上がった時には、個々の主張に反対する立場などをとるべきではありません。一歩身を引いて、「この論争はどんな風にしたらフェアーに説明できるだろうか?」と考えるように全力を尽くすべきです。これは新しい論争の種が登場する毎に行われるべきです。ウィキペディアが何かわれわれの独自の観点を反映するように編集し、それを他の人の改変から守るなどということは、われわれのなすべき仕事ではありません。われわれの仕事は、協力し、主に新しいコンテンツを付け加え、必要とあれば論争がどんな風に説明されるべきかについて妥協し、全ての陣営にとってフェアーな扱いができるようにすることです。
こんな場合はどうでしょうか? ――ある事柄について、複数の、長い記事を書く場合には、反論の余地のある前提を受け入れて書かなければ記事が書けないのではないでしょうか? 例えば進化論について書く時には、進化説と創造説(人間も他の動物も神が創造したとする説)の論争を全てのページで展開しなければならないわけではないですよね?
もちろんそんな必要はありません。どんな主題について書くのであれ、誰かが反論の余地があると考えるような前提が必ず入ってしまうものです。これは進化生物学に限らず、哲学、歴史、物理学などについてもあてはまることです。
個別のケースについて判断を下すための一般則を提供することは難しいですが、以下のような考え方は助けになるかも知れません:もしもある前提について他のページで踏み込んだ議論を行うのであれば、その前提について別のページで議論する優れた理由は、たぶん存在しないでしょう。ですが、手短で、他の記述の妨げにならない程度の言及はよいと思います。例えば、馬の進化について扱った記事で、創造説をとる人々の一部は馬の(そして他のいかなる生物の)進化があったことを一切認めないということを手短に一文書き、関連する記事にリンクを張るのはよいでしょう。もしもより具体的な点についての具体的な議論があるのなら、それについて説明する専用の記事があるのもいいでしょう。
「敵のために書く」という話には納得が行きません。敵のためには書きたくないです。敵に当たる人のほとんどは、誤りだと証明できるようなことを事実として主張するという手段に頼って議論しています。中立的な観点のためには、同意できないような観点を善意を持って説明するために、私も彼らと同じような嘘をつかなければならないというのでしょうか?
それは中立性のポリシーについての誤解です。あなたは敵にあたる人の主張を「これこれの人はかくかくの理由によりしかじかである、証明終わり、と主張する」と説明するだけで、あなた自身が何かを主張するわけではありません。これは、道徳的なやましさを感じることなく、真顔で行うことができるものです。何故なら、その主張はあなたの主張ではなく、誰か他の人が主張しているものとして説明されるからです。それが重要な点なのです! もしもわれわれが上に定義したような形で人間の知識を編纂しているのであれば、敵にあたる人の主張について説明を省略することは、重要な情報を収録しないことになってしまいます。
人文諸学などにおいて研究者がうけているトレーニングは注目に値します。彼らは、ある点についての証明をしようとする際に、その主張に対する反証となるような反論をとりあげなければならず、それらの反論が何故間違っているのかについて説明しなければならない、ということになっています。このような学術的なトレーニングは、学者に、原典資料や、過去にどのような説が否定されてきたかについてのより優れた知識をもたらすことにもなります。中立的な観点のポリシーとよく似た何かが、学者達にとっては多かれ少なかれ暗黙の前提のようなものなのです――もしもその前提が守られなかったり、あるいは特定の論点を指示する事実だけが用いられて反証となるようなものが無視されたりすると、そのような振る舞いをした学者は地位や評判を失うこともありえます。
反論を書く前に、以下のリンクを参照して下さい。中立性の観点をめぐる多くの物事は、非常に多く議論されてきました。もしもその議論に貢献できるようであれば、ノートのページが利用できます。

[ 170] Wikipedia:中立的な観点 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9

中立(ちゅうりつ)とは、対立が存在する際に、そのどちらにも与しない第三者の立場のことである。国際関係における国際法上・国際政治上の概念として用いられる。
国際法上の中立には、永世中立と戦時中立、一般的中立と部分的中立、任意的中立と協定中立、好意的中立と厳正中立などの区別がある。通常それは戦時中立を意味するが、戦時中立とは戦争が発生した場合それに加わらず、交戦国双方に対して公平な態度をとる国家の法的地位のことである。それはその戦争と無関係な立場にある国の地位ではなく、交戦国との間に一定の権利・義務をもつ国の地位である。中立国は、その領土・領海・領空について交戦国による一切の侵犯から免れる。他方、それは交戦国双方に対して厳正に公平である義務を負う。それは、交戦国に軍隊、船舶、武器、弾薬、資金その他直接、間接に戦争に使われうる物資を提供したり、その領内を軍事基地や軍事的移動経路として使わせたりしてはならない。中立国の権利・義務のうち、複雑なのは、中立国と交戦国との通商に関するものである。例えば、中立国は自国民が交戦国と通商することを妨げる義務はないが、それに対する、交戦国による一定の干渉(海上封鎖、船舶の停止と捜査、戦時禁制品の没収等)を黙認しなければならない。
国際法上の中立は、国家主権の絶対性が信じられた時代のヨーロッパ国家体系の産物である。それ以前、即ち他国がすべて潜在的な敵であった古代にも、キリスト教倫理が国家判断より重視された中世にも、中立の概念は発達しなかった。ただ、中世末期には地中海商人層の間に一種の海法(コンソラート・デル・マーレ)が生まれ、その中で中立商業についても規定がなされている。16世紀以降、世界貿易の発達につれて中立の概念もしだいに明確化された。特に18世紀末から19世紀にかけて、例えば1793年にアメリカが中立宣言を発し中立の権利・義務を明示したこと、ロシア帝国(旧)が2度にわたり北方諸国を結集して武装中立を宣言したこと、ナポレオン戦争の際に英仏両国が相互に封鎖を宣言して第三国の通商を害したことなどが、中立の理念の発達に刺激を与えた(英国の海上封鎖、フランスの大陸封鎖令)。永世中立については、1815年のウィーン会議がスイスのそれを定めたほか、19世紀内にベルギー(1893年)、ルクセンブルク(1867年)の中立を規定した国際条約が締結された。戦時中立に関する国際的規定はクリミア戦争後の1856年のパリ宣言、1907年のハーグ平和会議、1909年のロンドン宣言等により完成された。
しかし20世紀初頭を過ぎると、国際社会の統合と国家主権の相対化が進み、中立の維持は急速に困難になった。第一次世界大戦後に国際連盟が結成され、戦争に訴えない義務、違反国に対する制裁に参加する義務が加盟国に課せられるとともに、加盟国の立場と中立の地位が矛盾する可能性が生まれた。1928年のパリ不戦条約も同様の矛盾をさらに強めた。第二次世界大戦に際しては、アメリカが中立を宣言しながら、しだいに連合国側に傾斜してついには参戦したこと、独が中立国ベルギー領を侵犯して対仏攻撃を行ったことは、第一次世界大戦のときと同じであったが、中立は以前よりもさらに無視されやすくなった.。1945年8月にソビエト連邦による日ソ中立条約の破棄もその典型である(中立条約参照のこと)。
第二次世界大戦後、侵略者に対する加盟国の軍事行動を定めた国際連合憲章が制定され、国際法的な中立の矛盾は拡大した。さらに、国際社会がヨーロッパ国家体系とは質的に違った地球大のものになり、軍事的・政治的・経済的な相互依存の関係も飛躍的に強まった。大国を巻き込まない地域的戦争も多発しているが、それは主として第三世界で発生し、多くがゲリラ戦的様相を伴うため、伝統的中立の理念は通用しにくくなった。他方、大国を二分した東西対決がもし戦争に至れば、それは核戦争となることが予想され、第三国が戦争を避けて存在しうる余地は少ない。1955年にはオーストリアの憲法規程による中立宣言が国際的な承認を得たが、国際法的な中立の可能性は低下し、それに代わって国際政治的な中立が大きく浮かび上がってきた。前者の中立が戦争に巻き込まれないで自国の地位を維持しようという消極的・自己保存的なものであるのに対して、後者のそれは国際的な対立と緊張を緩和し、戦争の可能性を防止しようとする積極的・能動的なものである。前者が地位であるとすれば、後者は政策である。第二次世界大戦後に交戦権の放棄を憲法で謳った日本においても、日米安全保障条約からの離脱を主張する政治勢力が、後者の意味で非同盟中立ないし非武装中立というスローガンを掲げることもあった。しかしながら、中立政策を実際に採用している国々は、中立という言葉に含まれる消極的・受動的な印象を避けるため、ほとんどがその政策を非同盟と呼んでいる。
中立条約(ちゅうりつじょうやく)は、条約締結相手国が第三国との紛争に巻き込まれた時に中立遵守を約束する条約である。ただし、紛争発生時に限ってのみ適用される事や中立条約の規定及び国際法上における中立義務に違反しない範疇における第三国支援は可能である(常時適用及び遵守の対象とされ、一切の第三国支援が禁じられるのが一般的とされる不可侵条約よりも効果は低いとみなされている)。
1941年に締結された日ソ中立条約は、締結国双方が互いの同盟国と交戦(ドイツ対ソ連、日本対アメリカ)したために効果が極めて限定的で、ドイツ降伏の1945年4月にはソ連側より終了通告が出されて4ヵ月後には終了期限を待たずにソ連の対日宣戦が行われた。
どちらにも傾かない、あるいは方向付けを持たない立場として中立の語が使われる。生物学では進化論における中立説がある。
一般社会における二つの当事者間に対立があった場合、第三者に意見が求められることがある。これは両者の利害に関係しない中立な立場、および客観的な立場から問題を見た場合の判断を期待するものである。特に問題が技術的、あるいは科学的などの専門性を有する場合、その分野の識者をその対象とする場合がある。しかし、これが期待通りに機能するとは限らないこともある。宇井純によると、公害問題においては、第三者の中立的立場は大抵は加害者側に有利になると言う。たとえば大きな工場などが被害を出し、地元の一般市民がそれを糾弾するといった構図の場合、当初は工場側はその関与を一切否定するから、その中間に立てば、工場側の加害があったという判断を第三者が簡単に出せないので、大抵はいくつかの可能性を挙げるなど、問題をぼかした形にしてしまう。

[ 171] 中立 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AB%8B



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