場面とは?
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これは、MOHOの教科書の用語である。私の言葉ではない。きちんと知りたい方は、原著を読んで確認してください。以下は私の解釈、感想です。 これは、いわば、評価のための評価方法である。この評価場面は、純粋に評価のみを行おうとする場面のことである。つまり、その場面は、評価を行うための、その評価マニュアルにのみ支配されている場面のことである。まぁ、実際には難しいであろうが、場面をその評価のために構成支配していくように意図して作っていく場合である。 私の精神科作業療法の経験では、これに近いことは、開始する頃にはしたことがあるが、私がその後の精神科作業療法実践の多くの場合にやる評価というのは、以下のような場合である。 これも、勿論MOHOの用語である。私の言葉ではないが、私が使ってもおかしくないくらいの用語である。このような用語は、第一版で使われてなかったと思う。かなり、臨床よりの方法をきちんと説明していて、私が、珍しく気に入った用語である。 これも、正しく理解したい人は、原著を薦めるが、私の解釈では、どのような場面でも、評価として、利用ができるならば、してもよいと言うことである。これは非常に臨床の現実に即した考えである。もちろん、MOHOでは、こうした方法で行う場合の厳しい注意をきちんと呼びかけている。 しかし、そもそも、MOHOにおいて、本当にこの評価で満足しているのかは疑問である。やはり、基本的には、構成的資料収集法を使用することを薦めているのではなかろうか。 MOHOの考えから生まれたという構成的資料収集法をそのまま実施するには、精神科作業療法分野での臨床現場では、制度と、ケースの数、時間的制約からかなり困難な状況がある。私は、要は、それらの評価項目を、実際の臨床現場で、訓練の働きかけとともに、どのように評価として見ていくかと言うことの方に関心が向かっている。 私は今は、病棟に入って評価をすることが多いが、例えば、皆さんは、患者の入浴後に手や足の指の爪をカットしたり、させたりしながら、これを評価手段にして、身体的な評価ばかりではなく、生育歴とか作業歴を評価している、なんてことはしていないですか? 手の指がカットされているケースは多いし、その場合は、殆どが、仕事中の事故が多いものだ。足の怪我の場合は、仕事中だけでなく、バイクとか交通事故とかの場合も多い。また、体の割に足がかなり大きいとか、片方の足だけがとても大きいとか、女性ですごく足が小さいとか、色々みられる。 そうした、形の特徴は、遺伝の要素もあるであろうが、各々の個人の作業歴や生育歴に理由があると納得出来ることも多い。私は手足は、作業歴の跡がよく現れる身体ではないかと考えている。 このように、手や足に限っても、そこを切り口に爪を切りながら聞いていくと、風呂上がりのリラックスした、気分のいいときでもあり、色々な情報を語ってくれることがよくあるのである。 もちろん、妄想を話す場合もあるし、記憶違いの場合、嘘をつく場合もあるので、他の評価や情報収集によって補い、慎重に判断すべきではある。 さて、人間作業モデルの話から、評価の場面に言及してきましたが、ここでは、いよいよ、ごく一般的に、伝統的作業療法の評価場面について言及します。 なんて、大袈裟に述べましたが、私の言うことは、あまりに基本的なことしか、言えません。でもその基本をおさえてしているのが、伝統的作業療法なのです。 評価場面の一つ目は、患者を前にして、評価し、訓練しているその現場です。いつも言っていることですが、作業や集団作業などを使った評価では、働きかけや訓練と同時に、評価もしているのです。そもそも、評価と言うには、患者などからの情報を取り入れ、比較、参照、考察、判断などをする過程の機能のことであり、働きかけは、その判断から、それに基づいた具体的な方策を企画し、行動や言語などで表現していく過程の機能のことであります。ですから、それは、伝統的作業療法という過程のなかでは、本来的に順番に、あるいは、ほぼ同時に行っていることなのです。 評価場面の二つ目は、そういった、評価し、訓練をしている場面が終わり、その場面を振り返る記録の場面であります。実際の訓練場面で、評価したことが、その後の記録時の場面では、いやいや、あそこで評価した内容は、やっぱりこう考えた方がいい、あそこの場面の、この患者の反応は、こういう理由だったかもしれないなどと振り返って再評価、考察をする場面なのです。 患者と接しているとき、患者と接してはいないときでも、評価をしているのです。どちらも重要な評価場面だと思います。 |
[ 161] 評価の場面
[引用サイト] http://www.hpmix.com/home/otr/C18_1.htm
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場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)とは、家庭では何の問題もなく話すことができるのに、社会不安のために、学校など特定の状況で話すことができない状態を言う。 別名、選択性緘黙症。英語名、Selective Mutism。 選択性緘黙症とは、話す際に著しい、感情的に断固とした選択性があるのが特徴であり、子供がある若干の状況で言語能力を示すが、別の(定義可能な)状況では話すことができないものである。この障害は、通常、社会不安障害、ひきこもり、過敏症または治療に対する抵抗、などを含む、際立った個性機能と関係している。 他の状況では話すことができるにもかかわらず、ある特定の状況(例えば学校のように、話すことが求められる状況)では、一貫して話すことができない。 この疾患によって、学業上、職業上の成績または社会的な交流の機会を持つことを、著しく阻害されている 。 話すことができないのは、その社会的状況において必要とされている話し言葉を知らなかったり、また、うまく話せない、という理由からではない。 コミュニケーション障害(例えば、吃音症)ではうまく説明できないし,また,広汎性発達障害、統合失調症またはその他の精神病性障害の経過中以外にも起こるものである。 「DSM精神疾患の診断・統計マニュアル」では、子供にまれに起こる精神疾患の1つとして「選択性緘黙」という名称で記載されている。 この疾患の子供は(大人の場合も)、言語を話したり理解することが十分できるにもかかわらず、ある社会的状況に置かれると、話すことが求められても、話すことができないのである。 この子たちは非常に内気な様子を示したり、グループでの活動に入りたがらなかったりするが、行動面や学習面でほかの問題を持たない。 この子供たちの様子は、恥ずかしがり屋のひどい場合であるように思われる。しかし、場面緘黙症と恥ずかしがり屋との大きな違いは、症状が大変強く持続期間が長いということである。 例えば、ある子供は、家にいるときには自由に話し、時にはうるさいほどおしゃべりなのに、学校では全く言葉を発したことがなく、それが何年も続いたりすることもある。 この疾患はコミュニケーション障害とは異なる。 というのは、この子供達はたいてい、表情や動作やその他のやり方で、人とコミュニケーションをとることができるからである。また、広汎性発達障害や精神病性の障害の場合に、症状の1つとして、緘黙症状が見られる場合がある。 診断時に、自閉症スペクトラム障害やアスペルガー症候群との鑑別診断は難しく、混同されることがある。特に心理士の前で子供が人に対して関心を示さない様子である場合がそうなる。こうして間違った診断のために適切な治療を受けることができない子供がいることは、たいへん憂慮すべきことである。 “selective mutism”は、以前に“elective mutism”という名称だった。この名称のために「ある特定の状況で話さないことを自分の意志で選んでいる」と、心理学者でさえ誤解するような状況が広まってしまった。 しかし、場面緘黙症の人たちは、話そうとしても、極度の不安のためにどうしても声が出ないのであり、それで沈黙したままになるのである。故意に話さないのではなく、声を出すことができないのである。DSMでは1994年、故意に話さないのではなく、話すことができないのだと言うことを示すために、“selective mutism” と改称された。 しかしながら、これに類する誤解が、今なお多く流布している。例えば、2005年5月26日のABCニュースでは、ニュースリポートの中で、この疾患の原因はトラウマであるとか、わがままで故意に話さないなどと、誤った報道があった。 場面緘黙症の発生率は、明らかではない。というのも、この疾患にたいする一般の理解が乏しいために、多くのケースが診断されないままになっているからである。 報告された症例数に基づき、通例、発生率は1000人に1人の割合と推定されている。しかしながら、アメリカの精神医学誌The Journal of the American Academy of Child and Adolescent Psychiatryの2002年の調査では、その発生率は1000人中7人の割合に増加修正されている。 リストバンド:場面緘黙症の認識の向上のために、多くの人たちが身につけてもらおうと、青緑色のリストバンドを世界中に送る試みがなされている。 場面緘黙症は、年齢とともに自然に症状が改善されていくとか、大人になればそのうち治るなどとよく言われてきたが、本当は低年齢のうちに治療を受けることがとても重要である。そのままにしておくと、周りの人はその子は話さない子と考えるため、緘黙症状そのものが強化されてしまい、話すことがますます難しくなってしまう。このような場合は、誰もその子のことを知らない場所に環境を移すこと(転校等)で状況が変えられることも時にはありうる。 子供に無理に話させようとしてもうまくいかない。そんなことをすれば、不安の程度をよけいに強めてしまい、緘黙症状が強化されるだけである。緘黙の子供は、外からは、片意地を張っていてわざと話さないように見えることがよくある。というのも、子供はそういう状況で、コミュニケーションやボディランゲージを全くしなくなってしまうため、見る人には失礼な行為と受けとられてしまうのである。 適切な治療は、子供によって、年齢やその他の要因によって非常に異なる。 年齢の低い子供に対しては、刺激フェイディング法が行われるのがアメリカやイギリスなど欧米では一般的である。 薬物治療については、精神医学界でも意見が分かれている。不安を取り除く薬はきわめて少量で効果があり、服用量が多すぎる場合だけが問題なのだと考える人たちがいる一方で、 子供に対して、精神薬の副作用はたいへん危険であるため、少量であっても、たとえ一時的効果があったとしても使用すべきではなく、行動療法的なまた心理療法的な取り組みのほうが好ましいと考える人たちもいる。 この方法では、患者はまず、コミュニケーションがとれる安心できる人といっしょに、条件が整えられたある状況設定の中におかれる。 治療上のたくさんの小さなステップを用意しながら、その状況設定の中に徐々に他の人を招き入れる。 これらのステップは、それぞれ段階別によく用いられる。「すべり込み手法(スライディングイン・テクニック」と呼ばれるもので、新しい人をすでに話している人のグループにすべり込ませていく方法である。この方法で、初めの1人や2人から、しだいに多くの人たちへと移って行くには、比較的長い時間がかかる。 次のステップへの心の準備を整えるために、最初は間接的なコミュニケーションでも良いとする。たとえば、より直接的なコミュニケーションに挑戦する前に、Eメールや電話、テープへの録音などの方法がある。 フルオキセチン(fluoxetine)のような抗鬱剤が、場面緘黙症の子供の治療に効果的であることを示すいくつかの学術的証拠があると考えている開業医もいる。 フルオキセチン以外の精神薬についても、不安を軽減しコミュニケーションを促す精神薬は場面緘黙症に効果があると、多くの医学界の人たちが考えている。しかし、子供に対する精神薬の使用に対して厳しく反対し、精神薬が様々な行動障害の発生に関与するという医学的証拠はまだ得られていないと指摘する開業医や活動家《Peter Breggin・David Healy を参照》もいる。行動不安障害の子供に対する向精神薬の投与に関する告発は、複数の製薬会社への民事訴訟(2005年継続中)以来、特に強まってきた。製薬会社は、非公開内部調査文書を事前に提示したが、その内容はフルオキセチン(fluoxetine)や他の抗うつ剤であるSSRIと、自殺や精神病、言語の発音や正常な社会性発達のための脳の部位へのダメージ等の危険性を増加させるというものだった。 |
[ 162] 場面緘黙症 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E9%9D%A2%E7%B7%98%E9%BB%99%E7%97%87
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映画の一場面を歴史的なドキュメンタリーフィルムとして放送する事故が起こった。 MBCが15日午後9時の『ニュースデスク』を通じて報道した日本軍731部隊の生体実験場面。 『ニュースデスク』はこの日「ロシア軍事映像保安所にあった731部隊の撮影画面が公開された」とし、実験場面と手術台の上で人の臓器を分離してホルマリンの容器に入れる場面などを731部隊の生体実験の証として紹介した。 しかしこの場面は1990年、国内で公開された『マルタ黒太陽731』という映画の一部分で、公開当時非常に残忍だという理由から削除されていた。 この事実を最初に指摘したインターネットメディア独立(トンニップ)新聞のシン・ヘシック代表は「映画はカラーだったがMBCの報道では白黒で処理し、まるでドキュメンタリーであるかように視聴者を欺いた」とし、明らかに故意の虚報だと主張した。 同新聞はこれについて、MBCで報道した映像と『マルタ黒太陽731』の映画は▽凍傷にかかった実験対象者の手を鈍器で叩く姿▽マスクをかけた医師が臓器をホルマリンの容器に入れる場面−−などを1つ1つ取り上げ、報道映像が偽物である根拠を具体的に指摘した。 731部隊とは第2次世界大戦時、中国ハルピンにあった旧日本軍の関東軍防疫給水部本部の細菌/化学戦術実験部隊をいう。1936年から45年夏まで戦争捕虜及び拘束者3千人を対象に、非人道的細菌、薬物実験と生体解剖などをしたことで悪名高い。 MBCは16日午後9時の同番組を通じて過ちを認めて謝罪した。「一部画面は 88年に中国で制作された映画『黒太陽731』のであると確認された」とし「MBCはロシアで問題の画面を手に入れたが、真偽の確認をしない状態で報道した点を視聴者の皆さまにお詫び致します」と述べた。 しかしその謝罪放送直後からMBCのインターネットサイトにはネチズンたちの非難の意見が書き込まれた。「取材のABCも守れず扇情的な場面で視聴率を上げることにあくせくしていた」「冒頭で謝罪せず、ニュースの中間でこっそりと挟み込んで流した謝罪だった」などの投稿があった。 湖南(ホナム)大学新聞放送学科のキム・ギテ教授は「光復60周年という時点に合わせて報道しようという過剰取材競争がもたらした姿勢が誤報につながった」と診断した。放送委員会の審議委員会は早いうちに会議を開き、制裁するかについて議論することにしている。 2005-11-16 13:33:21 【映画の一場面を歴史的なドキュメンタリーフィルムとして放送する「事故」が起こった。】?「事故」とは偶然に起こるものを言うが、捏造を事故と言い張る新聞も珍しいw 2005-09-11 23:01:38 中学生の頃、「悪魔の飽食」を読みました。2作目が回収との騒ぎは覚えています。そんな背景があったのですね。 2005-08-23 11:51:14 韓国メディアは捏造するならするで、どうしてこうも杜撰なんだ。日本人を絶対悪にするのが目的なら、自称従軍慰安婦のお婆さん達にもばれない嘘の方法とか前もってしこむべきではなかったの?最近は慰安婦を調理して食べたなぞ、中国兵がやりそうなことを日本兵にすりかえるトンデモ婆さんが北で出現したようだし。単なる自国人の民度の低さにつけこんでメディアは扇情主義の悦に浸っているのだから本当に処置無しだよ。 2005-08-22 20:59:31 毎日毎日、中央日報の書き込みを精読している内に、私までが、韓国人に無礼な言動を平気でするようになってしまいました。今日も、「家族のように可愛がっていた犬が死んでしまった。」と落ち込んでいる韓国人の友人に対し、何気なく無意識のうちに「喰ってしまったのか?」などと言ってしまいました。相手は一瞬唖然とした顔をした後「お前もか。」といった目で私を見つめていました。後悔しています。 |
[ 163] MBC「マルタ」実験場面は映画の一場面だった
[引用サイト] http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=66716&servcode=400§code=400
