長年とは?

鎌倉末・南北朝時代の武将。村上源氏の流れを汲む伯耆の豪族長田行高の子とされるが、その系譜は必ずしも明らかではない。伯耆国名和浦を拠点に海上交通、商業活動に従事する家に生まれたと推測されている。初名長高、長田又太郎と称す。1333年、閏2月、隠岐を脱出して伯耆に上陸した後醍醐天皇を船上山に迎え、鎌倉幕府軍を撃退した。この功によって後醍醐から「年」の字を与えられ名を長年と改め、同年3月、従四位下伯耆守に叙任された。同年6月、後醍醐天皇を守り、上洛、建武政権では記録所・武者所・雑訴決断所の一員となり、さらに東市正に任じられるなど、後醍醐の腹心として新政権の施策を担った。1335年10月、鎌倉で建武政権に叛した足利尊氏軍は翌年正月、京都に進撃したが、長年は近江瀬田で足利直義、高師泰軍を破り、京都では新田義貞らと尊氏を破り西走させた。しかし、同年5月、尊氏が反撃を開始すると、後醍醐に従い近江江東坂本に移った。6月、入京した尊氏軍を義貞らとともに攻撃したが、30日、三条猪熊で戦死した。
この方もまた、顕家様と直接的な関係無いのですが、大錦号の気になる御方・・・と言うことで、登場させました。
顕家様との関わりがあるのは、長年の息子 義高の方なんですけれどね。まあ、知名度から言えば、長年が大きいのですが。
三木一草(さんぼくいっそう)とは、ご存知の方が多いとは思いますが、鎌倉幕府倒幕の際に後醍醐天皇方として活躍した者の中で、特に朝恩の大きかった4人のことを指します。すなわち、楠木(き)正成、伯耆(き)長年(=名和長年)、結城(き)親光、千種(ぐさ)忠顕です。
長年は、「太平記」では隠岐から脱出した後醍醐天皇が伯耆国名和湊に到着した時、この辺りに名のある武士はいないかと里人に尋ねると、“此辺には、名和又太郎長年と申す者こそ、その身さして名のある武士には候はねども、家富み一族広うして、心がさある者にて候へ”と返事が返ってくる場面で初登場します。名和長年は特に有名ではないけれども、裕福で一族が繁栄しており、度量があると地元では評価されていたんですね。
で、この話を聞いて千種忠顕が天皇の使者として長年を訪ね、天皇に味方するよう下命します。そして長年は、一族を集めて身の振り方を相談します。
この親族会議(笑)において、弟の長重が“たとえ屍を軍門に曝すとも、一天万乗の天子のために戦ったなら、その名を後の代に残し、生前の思い出、死後の名誉たるべし”と意見を出し、一族も同意したので、名和一族の名を後世に残そうと、長年は天皇方として兵を挙げます。
こうして長年は、後醍醐天皇を奉じて船上山で戦うことになるのですが、このときのエピソードのひとつとして、名和七郎の意見を取り入れて、白い500反ほど使って旗を作り、周辺の武士の家紋を描いて立て、実際よりかなり多くの兵がいるように見せかけたというのがあります。
大錦号が注目しているのは、天皇方に就くと決定するときも、戦の策にしても、一族から出された意見を吸い上げている点なんです。
もし今まで評定が、トップダウン方式で決められていたら、このように一族の誰かが頭に浮かべた考えを自由に発言する訳ないですよね。ですから、名和一族は自由に意見を交換し合い、皆が納得した上で方向性を決めてきたのではないかと思っています(ほとんど私の希望的推測というか妄想なんですが)。
つまり長年は、一族の長として最終決定権を持ってはいたけれど、それは自分の意見を皆に押し付けるタイプではなく、一族で色々な意見を交換し合った結果、最終決定を下していたんではないかなーという感じがするんです。正に心がさある=度量がある、すなわち“心が大きく、相手の考えを受け入れる性質”ですね。

[ 55] 名和長年
[引用サイト]  http://page.freett.com/redlum/akiie/zinbutu/zinbutu-6.htm

先週行われたパレスチナ評議会選挙ではハマスが衝撃的な勝利を収めたが、米国内の反応はイスラム過激派組織を権力の座へともたらした事態において米政府の果たした役割を無視しているように思われる。
報道によると米議会もブッシュ政権も、ハマスの敵対的な反イスラエルの立場と武装グループ、アル・カッサーム部隊によるテロ活動により、イスラエルのパレスチナとの和平交渉に応じない権利は正当化されると主張している。
一方、イスラエルはすでにパレスチナとの和平交渉を5年近く中断してきたが、米国側の明確な反発はない。世論調査によるとイスラエル国民の多くはPLOのファタハ政権下での交渉再開を支持していたが、ブッシュ政権と米議会は右派のイスラエル政府が米国、ロシア、欧州連合、国連の4者が提示した「ロードマップ」和平案の遂行についてパレスチナ政府との交渉を拒否する姿勢を支援し続けた。
出口調査によると、パレスチナの人々は穏健派のファタハを再選することで和平交渉が再開すると信じていたなら強硬派のハマスを支持していなかったと思われる。
イスラエルは2001年2月に右派のアリエル・シャロンが首相として政権の座についたときに和平交渉を打ち切った。エジプトのタバで開かれたイスラエルとパレスチナの交渉がようやく最後の平和条約締結にいたりかけたちょうど1ヶ月後のことだった。シャロンのイスラエル政府は明らかに米国の後ろ盾を得て、それ以来交渉再開を拒否してきた。
英国のジェラルド・コーフマン下院議員は『ガーディアン』紙に寄稿し、米国が当時のイスラエルのイツハック・ラビン首相に「PLOと交渉しなければハマスしかいなくなる」と警告していたことを振り返り、「ラビンは警告を聞き入れたが、シャロンは耳を貸そうとしなかった」と指摘した。
シャロン首相は1月初めから昏睡状態にあり、エフド・オルメルト首相代行はハマスに対して「イスラエル破壊を求める武装したテロ組織」との交渉はありえないとしている。(関連記事)
一国の政府の第一の責任は国民の保護だが、ファタハが支配していたパレスチナ自治政府は、世界でただひとつの超大国であり続ける米国の支持を受けたイスラエルの占領部隊の圧倒的な力を前に、その力がなかったことを露呈していた。
10数年前にパレスチナ自治政府が誕生して以来、イスラエルは数百人の民間人を殺し、広大な土地を没収し、数千個の家をブルドーザーで破壊し、ヨルダン川西岸の広大な一画を分断する10メートルの高さの障壁を作り、果樹園、ぶどう園、その他農場を破壊してきた。
ブッシュ政権と米議会は2002年のイスラエルによるヨルダン川西岸の激しい攻撃を支持し続けたと報じられている。この攻撃によりこの地の住民の社会基盤は大きな損害を受け、パレスチナ自治政府の建物や資財も被害を受けた。
米国は政府関係者も議会指導者も、国際的な法規範を犯してパレスチナ過激派の容疑者を暗殺するイスラエル政府の政策を擁護し、2004年に国際司法裁判所がイスラエルの占領するパレスチナ領内に食い込んだ分離壁の建設を違反と裁定したことを非難していた。
ヨルダン川西岸のパレスチナ自治政府が支配する地域では、保守的なファタハ勢力の下で汚職や無能が公然とはびこっていたため、パレスチナの有権者はハマスを選んでも失うものはないと感じていたにちがいない。ハマスの武装勢力あるいはその反動的社会政策を支持するパレスチナ人は少数だが、浄化の必要性を感じてハマス支持に転じたものと思われる。
また、ハマスがイスラエル軍の支配下で、あるいはファタハの無能な地方政府の下で苦しむ人々に、学校、医療施設、社会事業のネットワークを提供していることも大きく評価された。
穏健派の有権者に訴えるために、ハマスは選挙綱領でハマス憲章には記されているイスラエル破壊に言及しなかった。またイスラエル軍により一連の嫌疑あるハマス指導者が暗殺されたにもかかわらず、ハマスはイスラエルに対する一方的な停戦をほとんど静観してきた。
ハマスの勝利を受けて、米、ロ、EU、国連の4者は30日にロンドンで会談を行い、「ハマスが支配するパレスチナ自治政府は、暴力を放棄し、イスラエルを認めなければ、援助を削減されることになる」と声明を発表した。
国連のアナン事務総長は4者を代表して「今後パレスチナ政府は一丸となってロードマップ和平案を含み、非暴力、イスラエルの認知、これまでの合意と義務の受諾に責任を持って取り組まなければならない」と述べた。
4者の声明はハマスがイスラエルを認め暴力を放棄するという原則を将来の平和条約の一部として受け入れるべきだと主張しているように思われるが、一方で米国はそうした原則は即座に無条件に実行されるべきだと強調している。
統治責任を担ったことでハマスが現実的で穏健な方向に変容するかどうかはまだ不明である。米国が支援する湾岸の諸王国からの資金によりハマスが行ってきた社会事業を通じてハマスはパレスチナ人の信用を得たことを考えると、欧州その他の非宗教の市民社会組織が支援すればパレスチナの透明性と民主主義が強化される可能性はある。
同時に、欧米の支援が中断すれば、パレスチナの過激なイスラム主義者を長年支援してきたイランやサウジアラビアにパレスチナ政府がより依存するようになる可能性もある。
選挙で選ばれた政府との交渉を米国が拒否すれば、米国の民主的な選挙に対する支援は自国の政策に沿った結果になったときだけだとアラブとイスラム世界に皮肉られるだろう。
12月に米下院は、435名の議員のうち反対票は16名だけで、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス大統領がハマスを選挙に参加させたことを非難した。これも米国のアラブ世界での民主主義支援が選択的であることを物語っている。
核心となる問題は、米国が支援するイスラエル政府がイスラエルに接する存立可能なパレスチナ国家の成立を認めないことだ。ハマスとイスラム過激派はイスラエルの占領が長期に続く前にはパレスチナの政治に登場していなかった。
米国の力が弱まって交渉による解決の希望がパレスチナの人々に見えたオスロ宣言後10数年が過ぎ去るまで、ハマスは決して過半数の人々の支持を受けることはなかった。(原文へ)
米国サンフランシスコより、パレスチナ評議会選挙でハマスが圧勝したことをめぐる考察を報告したIPS記事。著者のスティーブン・ズーンズはサンフランシスコ大学の政治学教授で、『Tinderbox: U.S. Middle East Policy and the Roots of Terrorism』(2002年)の著者である。(IPS Japan浅霧勝浩)
核心となる問題は、米国が支援するイスラエル政府がイスラエルに接する存立可能なパレスチナ国家の成立を認めないことだ。ハマスとイスラム過激派はイスラエルの占領が長期に続く前にはパレスチナの政治に登場していなかった。写真:Envolverde

[ 56] 世界・パレスチナ情勢:ハマス台頭は長年の必然
[引用サイト]  http://www.news.janjan.jp/world/0602/0602118997/1.php



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