書くとは?

「書く力」は新出漢字の漢字を、送りがなも含めて正しく書くことをねらいとしています。1年生は25問、2年生以上は50問(注1)で、その際、現在学習している漢字だけでなく、既習の漢字も組み合わせて、応用的な問題を作成し出題されています。
「書く力」は、本校で20年以上も前から行われています。卒業生やその父母の方からは、卒業後の中学や社会人になって、「大きな力になっています。」という報告もあります。
本校での「書く力」は、漢字のテストのことですが、それに至るまでの国語科の漢字の学習や取り組み方、学習方法を含めて「書く力」と考えています。
1年生の前期は主にひらがなの学習ですが、すでに「書く力」の内容が、入学当初からスタートしています。国語科の学習内容より「止め、はね、はらい…。」という基本的な書き方を「注意して書く」ことを大切にしています。チェックは厳しく、繰り返し学習します。
筆順は1年〜3年まで、統一した色分けで学習します。1.赤 2.青 3.緑 4.黄色 5.黒 (それ以上は繰り返し、黒板では白ですが書くときは黒です)
3学年までに、漢字(平仮名や片仮名含む)の基本的な筆順や書き方を身につけることによって、4年生から応用できるようにします。
学習する内容のポイントから、各学年の段階に応じた指導が行われています。例えば、1学年ではひらがな・漢字の止め、はね、はらいは厳しくチェックされますが、高学年になると「許容の範囲」が次第に広くなってきます。でも類似などによる間違いを防ぐために、大切にしなくてはいけないことは低学年と変わりません。(例:水と木。水の2画目は1画目と離しはねる。木の2画目は、はねても許容の範囲になるが類似として「はねてはいけない」など。)
本校の書く力のテストは、1・2、3・4、5・6学年担当教諭(3名)によって作成されます。これは、担当教諭が段階に応じた出題ができるようにすること。また、各学年の担任と連絡を取り合うことで全体を把握することから行われています。
書く力の取り組み方は、学年により…またご家庭により様々です。学年段階に応じた取り組み方がありますし、子どもたち個人に応じた学習の仕方があるからです。例えば1年生ですと、繰り返し注意して練習すること。1年生の後半からは、漢字の意味を考えて答えることが大切になります。漢字の意味については、漢字のなりたち・つくり・構成(形成)なども大切ですし、その漢字を使った「言葉集め」高学年は意味調べ…と、なります。
さらに、漢字の意味から「出題例」へと、取り組み方は展開していきます。こうした内容から、それぞれの取り組み方を考えていくことが大切です。
書く力問題数は、1年生が25問で、2年生以上は50問になっています。でも漢字の字数とは一致していません。字数で言えば(あくまでもおよその数ですが)1年生は50文字、2年生は100、3・4年生は150、5・6年生になると180文字になります。(注1)
時間は40分間。先生が高学年の模範解答を実際に書いてみると10分はかかります。早い子でも25分位ですから、「うーんと…」と、じっくり考えていると時間がなくなります。子どもたちは時間以内に終わるよう、すぐに思い出せなかった漢字は後にまわすなど工夫をしています。
出題は新出漢字の他、既習の学習の内容を組み合わせて出題されます。漢字の意味や使い方、送りがなをしっかり覚えることが大切です。間違えやすい字は、子どもたちの実態に合わせて出題されます。出題には前回行われた書く力からも出題されるため、毎回行われる内容は繰り返し練習するのがポイントです。
目標としてほしい点数は「90点以上」です。年間約8回行われる書く力を前期と後期ごとに表彰しています。
それぞれの取り組みを応援するため、授業中や宿題の中で、実態に応じて小テスト…など声をかけて指導していきます。また、再テストを実施することもあります。再テストの方法もいろいろあり、間違えた字をもう一度チェックする方法の他さらに早く正確に…を目指して取り組むこともあります。
本校教員が黒板に書く字は「完璧」です。「当たり前?」と、思われる方もあるでしょうが、書いた文字が完璧でないと、先生も子どもたちからにチェックを受けるのです。
これは指導する側と子どもたちとの約束です。先生が間違えたときは「ごめんなさい。」と言います。はっきり言ってうれしいですね。だって、よく見ていたのですから…。
このような指導は、子どもたちと共に学習をつくり、「大切にしたい学習内容」だと考えています。
僕が「書く力」をやって良かったと思う点は三つあります。一つは漢字を多く覚えられ、熟語も多く覚えられたことです。二つめは効率的な勉強法を見つけられたことです。三つ目は忍耐力を育てられたことです。
「書く力」のおかげで難しい文を読んだり、勉強を効率よくでき、学校での勉強を楽しくやってます。
まず書く力は、全ての漢字が一年の間に二,三回でてきて熟語もあるので、実用の祭にどの字を使うかはほとんど迷わなくなりました。
また話す力では、三学年の前で発表する機会があり、学校で生徒会をやっているのですが、その上でこの経験がとても役にたっています。
最後に計算力。これは友達と競うことで計算が速くなり、回数をこなすと暗算が正確になりました。中学に行ったらその差はとても大きいと感じました。

[ 157] 北陸学院小学校・書く力
[引用サイト]  http://www.hokurikugakuin.ac.jp/primary/2006/tokubetu/kakutikara/kakutikara.html

気分を変えて、今夜はアニー・ディラードとともにぼくの秘密をちょっとだけ書くことにする。とはいえその大半は、アニーのスカートから零れるとんでもなく周到な脚さばきを見ているうちに触発されたものだ。彼女の煙草はヴァンテージだった。
君は言葉を一列ごとに書く。それはそれでよい。けれども、そのとき自分がどのようにその言葉を思いついたのか、それを並べることにいかに苦心をしたかということを、もし数列数十列の中に書いていたのなら、それを捨てなさい。
文章は思考ではない。思考に見えるように書くだけだ。そのように見えるには、実際に思考したタイヤの跡を消すことだ。このことを知ることが出発点になる。
君は文章はきっと建築っぽいものだと思っているかもしれない。しかし、そうではない。肝心な柱だと思った柱が文章の中ではまったく役に立たなかったり、邪魔だったりすることはよくおこる。
建築家なら出来上がった建物のその柱について「これを取っ払ったらいいんだが、ホールがつぶれてしまうからな」と未練がましく言うだろうが、文章家はそれをさっさと切っていく。
「作家や文章家が臍の緒を切らなかった作品はたくさんある」とアニーは言う。まったくその通りなのだ。アニーはそれを「正札を外さなかったプレゼント」とも譬えた。これはうまかった。読者というもの、たしかに書き手からのプレゼントは愉しみだが、そこについている正札など見たくもない。
次に、君は文章を書いていて行き詰まったときがのべつあっただろうが、そのときはたいてい構造が二段に分離したせいなのだと思いなさい。そうでないのなら、その文章にはたくさんの毛筋ほどのヒビが入っている。
前者も後者も使いものにならないが、とくに後者のときはすべてを捨ててしまうことである。前者では、これはおまけにしてあげるのだが、辛うじて半分が残せる。
文章を書くことはまさに自由を手に入れることである。けれどもそれは好き勝手に喋るということではない。
つまり、バカな連中が決まって言う「表現の自由」なんてもののためではない。「表現の自由」なんて言葉はすぐに紙屑籠に放り投げなさい。アニーはこう言っている、「むしろ勝手なことを言わないで書く自由が手に入るのだ」というふうに。
誰かが君に「誰の作品が好きなの?」と尋ねた。もし君が「誰も好きじゃない。僕は僕でしかないさ」と一回でも答えているようなら、足を洗いなさい。文章は自己表現ではなくて、表現の中に自己を見せる技術が文章なのだから。
おそらくは、文章を書くことは天空に割れ目を探すことである。ただ、そのためには天空に関心をもたなければならない。
問題は割れ目をさがすことを自慢しすぎている連中が(君のことだが)、たいていは天空の構造を自分で描写できないことだ。これでは割れ目が生きてはこない。まず天空、次に割れ目。
むかし、アニー・ディラードは紙とペンと膝さえあればものが書けると思っていたという。ところが、たった数行のソネットを書くために倉庫が必要だったり、草稿を書きなおすために気にいった島を見つけなければならなかったり、たった一語か二語の変更のために机を離れてコンラッド・エイキンの詩を声に出さなければならないことを知った。
文章は紙の上やパソコンの中で生まれるのではない。文章はそれを書いているときの時間が生むものでもない。文章にはいつも空間がついている。その空間のサイズを知っておくことが、書くことの前提なのである。
ぼくは書こうとするときに、ぼくの中の未知の部分をいつも猛然とさせなければならず、書けないときは何をもってこの作業を中断するのかの理由を発見するのに苦労する。
つまり文章を書くには、君は未知な部分と書きたいことを繋げることをするべきで、それにはその繋ぎが渋滞した瞬間に中断できるためのスイッチをたくさん用意しておかなければならないということだ。文章を書くとは、このスイッチをあらかじめ入手しておくことなのだ。
ところで君はヴィジョンがあれば、なんとか書き始めることができると思っていたら、まったくまちがっている。ヴィジョンがあるのはごく少なめの必要条件かもしれないが、十分条件は書き始めた言葉がどのように次の言葉を生んでるのかという連鎖に、耐えることにある。それゆえ、書き終わったすばらしい文章はヴィジョンでできているのではない。細部と細部のつながりでできている。
そもそも書くということは、説明できないものを発見することなのだ。「これはちょっと説明がつかないな」と思ったら、そこから執筆の幕が切って落とされる。
君は文章を書いていると、すぐに息切れがくる。よくあることだろうと思う。これに敗けては何もない。
アニーはこういうことを勧める。「手を抜くな。すべてを容赦なく調べなさい」「とくに一つの何かの作品の細部に入っていきなさい」。アニーは君を追いつめて、さらに言う、「離れてはいけない、飛び越えてもいけない、わかったふりをしてはいけない」と。そうなのだ、書くことは見えないものを追跡する見えないケンタウロスになることなのだ。
どこまでの? 「ついにそのもののもつ独自性と神秘性のなかにその正体を見るまで追い詰める」までの。
何かを読んでいて、ハッとするときがある。そういうとき君は、生き生きしたイメージには必ず秘密があると思えるだろうか。
もし、ぼくの文章の何かに感じたとするのなら、そこには必ずぼくの文章の秘密があったのだ。その秘密を嗅ぐことが書くことの秘密に追いつける秘密なのである。
アニー・ディラードはぼくとほぼ同い歳のピッツバーグ生まれの作家だ。二人の男と次々に結婚してこれを振って、三人目の男よりも書くことに夢中になっている。
邦訳のある代表作『アメリカン・チャイルドフッド』は、以前に「半巡通信」に紹介したが、こんな瑞々しい文章には出会えなかったとおもうほどの傑作で、かつ、ぼくの知らない「少女の正体」を追いつめていた。
正直なことを言うと、ぼくにはアニーのような文章を書きつづけることはできない。それはあまりにも精緻に彫塑されているし、あまりにも厳格に削られているし、あまりにも文章を離れて読めるようになっている。そこまで褒めるのもなんだとはおもうけれど、まるでジャコメッティなのだ。
しかし、本書を読んで、ひとつだけアニーに近づけるかもしれないというか、おっ、これならぼくもこれはやってきたと思えたことがあった。それは自分が書くことについての消尽感覚のようなものである。
消尽とは、文章を費い尽くすことをいう。そのことをアニーの文章から引いて、今夜の秘密の提供を未練なく閉じる。
私が書くことについて知っているわずかなことの一つに、一回一回、すぐに使い尽くせ、打ち落とせ、弄(もてあそ)べ、失えということがある。出すのだ、すべてを出し切るのだ、いますぐに。
参考¶アニーは作家である。ただし『アメリカン・チャイルドフッド』(パピルス)は回想記にもなっている。ほかに『ティンカークリークのほとりで』『石に話すことを教える』(めるくまーる社)がある。本書の翻訳は『アメリカン・チャイルドフッド』も訳した柳沢由美子によるが、すばらしい。彼女は上智大学英文科ののち、ストックホルム大学スウェーデン語科に脚をのばした人で、女性文学や女性活動の紹介もめざましい。

[ 158] 松岡正剛の千夜千冊 『本を書く』アニー・ディラード
[引用サイト]  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0717.html

今日は技術評論社の方が取材に来てくれました。人生において、自分の話をひたすら1時間なり2時間なり聞いてもらえるということは、実はそんなになくって、こういう取材のときぐらい。よく考えてみるととても非日常的なことです。自分の話を聞いてもらえる、というのは楽しいものです。
僕は大学の頃、計算機を専門にしていない学部に所属していたこともあって、計算機関連の知識はほぼ独学で、雑誌や書籍、それからインターネットからその多くを学びました。執筆者の方の名前を見るたび、ここにその人の名前が載っているということは、技術者にとって相当なステータスであり喜びなんだろうなあと、憧れていたものです。結城浩さんとか、宮川さんなんかはその憧れの代表格でした。
それは今でも変わりません。僕にとって雑誌や書籍に自分の名前が載るということは、ある種最高の栄誉なんだと思っています。
1年と半年ほど前から、blog を通じてか、僕にも雑誌の記事や書籍を執筆する、という機会をいただけるようになりました。とても幸運なことだと思います。UNIX USER に自分の初めての記事、RSSに関する話が載ったときのことは今でも鮮明に覚えていて。発売日に書店にいって立ち読みしたりしたものです。
そんなわけで、技術系の物を書く、というのに僕はものすごく思い入れがあるのですが、どうやらそういう価値観は珍しいのかもしれないと思わされる場面に近頃遭遇しています。
雑誌の執筆の話をいただいた際に、スケジュールの関係でちょっと難しいというときにはてなの社員に書いてみないか、と聞いてみることがあるのですがあまり良い返事はもらえません。僕だったら有無を言わさずに飛びつくのになあ。技術評論社の方も、そういう飛びつくタイプの人ばっかりだったらどんなに楽なことか、と笑っていました。
確かに技術の話を人にわかりやすく伝える文章を書くのは大変だし、ネタに困って頭を悩ませることもあります。締切に追われ、通常業務とバランスをとりながらそれをやっていくというのもまた、辛いと思うときもあります。でも、僕が結城さんや宮川さんに憧れていたように、自分もそういう風に思われる日が来たらすごく嬉しい、人生において自分の名前がどこかに残るということは、この上ない喜びだ、と思うとなんてことはなく乗り切れるものです。結局、自己顕示欲が強いかどうかなんじゃないかなあとか、技論の方と笑ってお茶を濁しました。
ぼくも1回だけ小さな記事を書かせていただいたことがあるのですが、そのときは、勝手に原稿を送って、頼むから載せてくれ!とアピールしました。それでもやっぱりうれしかったです。前のエントリーで、「無理に自分を優秀だと見せ付ける癖は何も生み出さない 」ってのがありましたが、でも意外に優秀な人ってオレオレな力が強いような気がするのは、ぼくだけでしょうか。もちろん実力もすごいのですが、最終的には自己顕示欲のような気がしています。
僕も掲載された時はとっても嬉しかったです、ハイ。また依頼されたら時間が許す限りちょっと無理しても飛びつきます^^。
自分は雑誌などへの執筆経験なしです。ただ、機会があるのにも関わらずそれを放棄してしまうのは、自己顕示欲とかそういう気質の問題ではなく、単にその価値が分かっていないのかと。売上の数字とか分かりやすい効果が現れるものではないですが、世の中には表に出て来ない優秀な技術者が沢山おり、そういった人々の殆どにはそのような機会を与えられていないというのをあまり分かっていない気がします。ただ一方、「社員教育の一環として」業務命令とか強制の形でもいいので書かせれば?とも思ってしまいました。「書くのもうあきたよー」っていうなら話はまた別ですが。
私も思いいれがある方だと思います.問題は,自分のネタが受けるのだろうかって考えて,書くのをしり込みしてしまうことにあるんじゃないでしょうか.マイナスに名前が残っちゃったらどうしようとか,仲間がこれを読んだときに,いまいち,と言わないかなぁとかって感じです.慣れれば(すべっても)なんとかなる物だと思うんですけどね.
技術系とは少し路線が違いますが、執筆の話を頂いた時は飛びつきました。書いて読んでもらうことの敷居がWebによって下がった今も、紙媒体で世に出ることの価値はまだまだ高いものだと思います。
こんにちは。私も記事執筆に燃える人間の一人です。普段のBlogよりも何倍も気合を入れて書きます。だってお金を払って雑誌を買ってまで読んでくれる方々がいるのですから(^^; それに記事を書きながらそれまでの知識なりを分かりやすく噛み砕いて形にしてみる、という行為そのものが自分にとっても良い機会になると思っています。
自分は雑誌に執筆したことはないのですが、いつかは自分が書いた本を出したいと思っています。blogが普及した今であっても、紙媒体での出版は特別な意味を持つと考えてます。
shibachoさんと同じく、自分もいつかは自分の本を出してみたいというのはありますね。自分の記事もしくは本に対価を払って読んでもらえる。これほど光栄なことはないと思います。
怪しい情報を扱っている訳でも無いのに、怪しい出版社の怪しい雑誌からしか執筆依頼が来ないので断るというか無視してます…………ImpressBBで連載中の「ブロードバンド百景」 http://bb.watch.impress.co.jp/cda/hyakkei/からの依頼を無視したのは実際の居住地情報なんかが記載されるため……(>_<)
こんにちは。私の夫も技評さんで記事を書かせてもらっているので、今回のお話に思わずコメントせずにはいられませんでした。夫も自己顕示欲の強いタイプではありますが、でも、それだけでは執筆の仕事を続けて行くことはできませんよね。自分の文章が活字になり、世の人の目に触れるということの価値や可能性を何より分かっているからこそ、執筆活動を続けているのだと思います。正直、執筆の仕事が多くなると、締め切りに追われ、寝る間を惜しんで文章を練り直す夫の姿を見ることになるので、辛いし、夫はそれ以上に辛いだろうと思うのですが、活字になり、製本されて送られてくる夫の記事を読むと、それまでの夫の苦労や頑張ってきた成果が「世に出る」という形で報われたような気がして嬉しいです。それに、その記事が掲載されたことによる反響もまた嬉しいものです。ですので、技術系の会社で年間購読されているような雑誌に夫の記事が掲載されるということは、載るのが珍しくなくなった今でも、とても名誉なことだと感じていますし、今後も応援したいと思っています。
やっぱり雑誌や書籍への執筆は栄誉あることですよね。デジタル化が進んでもそういう感覚は変わらないでいて欲しいですね。
”夫”です。伊藤さんの記事、いつも楽しく読ませていただいてます。 WEB+DB PRESSでAjaxの技術部分を書かせてもらったmasuiです。 やっぱり雑誌に書くのは色々大変ですが楽しいですよね。技評さんからはPukiWikiで書かせてもらったのが初めてですが、そのときとてもうれしかったのを覚えてます。 最近は書く機会が増えて、なにが本業なのか分からなくなってる自分がいますが、それでも毎号、自分の記事が活字になるのはとてもワクワクします。
おお、夫は増井さんだったんですね。(笑)そうですね、見本誌が送られてくるとなんともいえない達成感がありますよね!
自分にもお誘いがちょくちょく来るので自分が暇無いときは同僚その他に振るんですが、なかなかやりたがらない…。私から見れば十分書ける実力があると思うんですけどね。一人は説明文よりコードを書きたいタイプで、一人は謙遜タイプかな。ま、なんだかんだ言って、「自分」がやりたい/価値あると思わない限りは、ですねぇ。

[ 159] 技術系の雑誌、書籍を書くこと - naoyaのはてなダイアリー
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/naoya/20050815/1124111112



お気に入り



  • track feed
    • seo