良典とは?

西良典(にし よしのり、1955年7月19日 - )は、日本の総合格闘家である。長崎県五島列島出身。拓殖大学で柔道家木村政彦に師事。宮城県仙台市では東北柔道専門学校(現・仙台接骨医療専門学校)と大道塾に通う。
日本でも早くから総合格闘技に取り組み、大道塾の北斗旗空手道選手権で活躍、「北斗の覇王」と呼ばれた。のちに全日本キックボクシング、シュートボクシング、トーワ杯、リングスやバーリ・トゥード・ジャパン・オープンにも参戦し、日本人として初めてヒクソン・グレイシーと試合を行うなどしたが、戦績は今ひとつ奮わなかった。1987年には「空手格斗術慧舟会」を設立、後進の育成にも力を注いでいる。
「負けることを恐れて闘いを止めることが一番の恥と認識し、これからも強くなりたいという男の夢を追い続けるつもりです」は名言。
一時期、長崎放送のラジオパーソナリティーを勤めたり、タウン誌にエッセイを寄稿するなど、長崎のローカルタレントとしての側面も持っている。
1994年7月29日、「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン 1994」の1回戦でヒクソン・グレイシーと日本人として初めて対戦、チョークスリーパーで敗れる。この敗戦に危機感を感じ、柔術再生の意味を込め、団体名を「和術慧舟會」に改名。
2000〜2002年頃、「ヒクソンとの対戦」を半ば独りよがりに標榜していた「キングダム・エルガイツ」の入江秀忠は「ヒクソン・グレイシーと対戦経験のある人との対戦」を望み、それをクリアすることでヒクソンに近づくと考えていた。ほとんどの格闘家やプロレスラーは対戦を拒否したが、西は2001年5月2日のキングダム・エルガイツ「北沢タウンホール大会」での入江戦を了承した。ところが、対戦数日前になって西は腰の負傷を理由に欠場した(会場の壁には負傷の診断書が貼られていた)。入江と代役出場した選手との試合観戦及び負傷欠場の挨拶のために来場した西に対して、入江は「ケガが治ったら対戦することを約束してください」と悲壮感を漂わせながら訴えた(入江はよく悲壮感を漂わせた「涙のマイクパフォーマンス」をする)。そのパフォーマンスに怒りを感じた西は「うるさい!」(入江の解釈。実際には音響が良くなかったため何を叫んだか聞き取れなかった)と一言叫び、早々に会場を後にしてしまった。この騒ぎを、一部の格闘技専門誌は「あまりにもヒクソンと対戦した男ということばかり言う入江に対して、西良典が腹を立てて、古傷を悪化させたということにして対戦を拒否した模様」と検証していた。
カテゴリ: 日本の総合格闘家 | 空手道選手 | リングス | 長崎県出身のスポーツ選手 | 1955年生

[ 119] 西良典 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%89%AF%E5%85%B8

西良典を知っているか?何、知らない?でもK-1とか格闘技が好きだと?ちゃんちゃらおかしいとはこの事さ。大体ね、K-1しか知らない奴に限って、知ったかぶりをするから困ったものだ。テレビを主体としたくだらないマスメディアの氾濫で、アホ芸能人とのタイアップで世間の人気をとったK-1なんぞ、格闘技のほんの一角に過ぎないんだぜよ。そこから視野を広げて原点を見ないことには、本当の奥深さがわからんぜ。そういう誤った認識を持っている人達に理解してもらうべく、「西 良典」とは何者なのか?俺の想像も踏まえて説明しよう。
いきなりプロレス的キャッチコピーだが、別に北斗の拳に出てくるラオウの事ではない。西良典の格闘家としてのネームヴァリューがブレイクしたのは、格闘空手・大道塾(極真の虎と恐れられた添野義二館長主宰 ※ちなみに竜は山崎照朝 ※※<空手バカ一代>参照)のオープントーナメントである「北斗旗」を二連覇したところから始まる。まさに西にはうってつけの肩書きだ。※もし許されるのなら俺も名刺の肩書きにつけたい(笑)
ちょっと余談。10年以上前になるが当時、空手といえば極真というほど、他流派はいるのかいないのかわからないくらい、存在自体が薄かったが、元芦原空手師範・石井和義館長率いる正道会館と大道塾は、画期的な手法を取り入れた。「グローブ着用」である。それまで空手は、極真もそうだが顔面攻撃は反則という掟があり、中にはさばきのみの演武だけに取り組んでいる空手館もあった。(芦原空手は今でも徹底的にさばきのみという独自路線を歩んでいる。)
「空手が最強とちゃうんか?」格闘に取り組む者として至極当然のポリシーを持って生まれたのがグルーブ空手である。そして更に画期的なのが、大道塾は「投げあり」。要は相手を掴んで投げても良し、更に顔面を思う存分攻撃してもよい、という一般人が聞くと恐ろしいルールの元、誕生した格闘トーナメントが「北斗旗」なのである。
元々、西は若い頃よりさまざまな格闘技を体験している。空手、柔道、キックボクシング、ムエタイ、テコンドー等など、ありとあらゆる格闘技にチャレンジし、そういった格闘人生を歩んできた西が初めて、表立った栄光をつかんだのが北斗旗なのだ。そして西の野望はここから始まる!
総合格闘技団体・和術慧舟会を作り(この頃は“和術”はついてなかった気がするが)、みずからも現役で闘い続ける。そして、前田日明が作った総合格闘技団体・リングスへの単独参戦!初めて、打撃と関節のグランドが主体の団体に戦いの場を移し、オランダ人キックボクサーや、当時人気急上昇だった正道会館の角田信明を撃破する。しかし、この頃より西自身が懸念していた大問題が勃発する。
そう、年齢的にもピークを超えていた西に、ラウンド制のない戦いをフルで戦うスタミナはもはや切れていた・・・。ラウンド制を進言しての戦いでも若手相手に不甲斐ない判定負けを喫してしまい、自己を見つめ直す意味もあり、リングスを撤退する。そして、地下に潜り込みひたすら修行を続け(後進の指導がメイン)虎視眈々、再び浮上する時を待つ・・・。そして・・・。
西の標的はまだ見ぬ強豪・ヒクソングレイシーに向けられる。400戦無敗を誇る柔術の達人。修斗率いる佐山サトルが1994年、第一回ヴァーリトゥード・ジャパンオープンに黒船来襲よろしく、ヒクソンを招聘。(俺も見に行きましたぜ。)当時シュ−ティング最強であった川口健次らに混じって、西もここぞとばかりにエントリー。自ら一回戦でヒクソンと当たった。スタミナ?そんなものは関係ない!俺は強い奴と戦うために格闘人生を歩んできた。ここで俺が出なくてどうする!
短期決着を狙った西であったが、1ラウンド、ヒクソンのチョークスリーパーに沈んでしまう。奇しくも「初めてヒクソンに挑んだ日本人」であると同時に、「ヒクソンに負けた最初の日本人」というレッテルを貼られてしまった。(余談だが、ヒクソンはその前にも何度か日本人格闘家と戦った事があるとの情報あり。事実関係は謎)
その後のヒクソンの快進撃はご存知の通り。最初、400戦無敗などというべらぼうなキャッチコピーを笑ったりもした格闘関係者(現役選手含む)もいたが、ヒクソンはとてつもない強さを発揮し、仲井祐樹、木村浩一郎、リングスの山本宜久を完膚なきまでに撃破!高田延彦に至っては完全に子供扱いで2回、船木優勝も高田同様の負けであった。
その後、西は再びキックの世界に身を投じ、また弟子達が台頭してきたのもこの頃からである。堀辺率いるケンカ格闘技団体・骨法(以前は喧嘩芸・骨法」と言っていた)とのつぶしあいでは、完全なアドバンテージを得た上での圧勝劇を演じている。自らも肉体的な衰えは拭えないもののキックのリングで再び北斗の覇王健在をアピール(初代キック・ヘヴイー級王者決定戦。判定負けしちゃったけど)、弟子である村上一成の本場ブラジルでのヴァーリ・トゥード勝ち、PRIDEの名物男・小路晃の活躍(日本人で初めて、グレイシー直系であるヘンゾと引き分けた)、最近ではシュートに参戦し、ウェルター級チャンプの佐藤ルミナを撃破した宇野薫。・・・西良典の遺伝子は今なお成長し続けているのだ。

[ 120] 西 良典
[引用サイト]  http://home3.highway.ne.jp/backdrop/grapp/kakutou-ka/nishi.htm



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