タモリとは?

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タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、男性、1945年8月22日 - )は司会者、お笑いタレント。福岡県福岡市南区出身。東京都目黒区在住。 身長161cm(*ジャングルTV 〜タモリの法則〜の測定による)。靴の大きさ24cm。田辺エージェンシー所属。女優の伊佐山ひろ子は実の従妹。
1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人BIG3の一人として称される。特に『笑っていいとも!』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2007年現在においても記録を更新している。多芸、多趣味であるが、特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。作家の小林信彦は、この点でトニー谷に近いと評したことがある。弟子希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るようである。
芸名である「タモリ」は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。通常「タモリさん」「タモさん」と言われ、和田アキ子、愛川欽也、おすぎとピーコといった親しい芸能人からは「タモちゃん」と呼ばれている。また、トリビアの泉で品評会会長に就任以降、高橋克実、八嶋智人、ビビる大木の3人からは会長と呼ばれている。
かつて、萩本欽一が「大将」、ビートたけしが「殿」、明石家さんまが「若」、などと呼ばれていたのに対しタモリにはその"愛称"がない、とのことで、笑っていいとも!の中で愛称の公募がなされた時があったが、この時レギュラー出演していた明石家さんまが最も気に入ったのが「チーママ」。タモリ本人は嫌がったが、さんまが「『チーママ』で〜す!」と言うとタモリ本人も「いらっしゃいませ〜」とノッていた。
タモリの趣味は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道・料理・坂道の研究・BCL・アマチュア無線・武道・オーディオ・ダム・船舶・女装等多岐でかつ造詣が深い。「日本坂道学会」副会長・「日本変態協会(略してNHK)」会長・「おっぱい星人」などの肩書きも自称している。
音楽は主にジャズを好む。後述の早稲田大学在学中における実績があるほか、植草甚一の死後、膨大なレコードコレクションの散逸を防ぐために、その全てを一括して引き取っている(約5000枚)。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出すなどの音楽活動も行っている。フュージョンバンド「THE SQUARE(現T-SQUARE)」の初期アルバムにはトランペットやヴォーカルでゲスト参加している。
鉄道ファンとしての分野は、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路ファン」であると称している(一部では『鉄道の事情通』とも言われている)。自身が司会を行う『笑っていいとも!』の楽屋にも、いつも時刻表と地図が置かれているという。自身が司会を担当する『タモリ倶楽部』では初期からしばしば鉄道関係の企画を行っている。ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他共に認めるハイレベルである(いいとも増刊号のコーナーで電車でGO!をやらせたらパーフェクトで最後までいっていた)。好きな駅は福岡市の西鉄薬院駅[旧]で、大牟田線(現天神大牟田線)と西鉄福岡市内線城南線(路面電車。現在は廃止)の鉄路が平面で直角に交差しデッドセクションとなっていたところが、線路、ひいては鉄道を好きになるきっかけだったとのこと(タモリ倶楽部にて本人談)。また船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有するほか、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。
料理はプロ級の腕前であると評される。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身はキッチンに篭り料理に没頭するため、番組と違ってトークで盛り上がることは稀であるらしい。
坂道については、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂をまわり、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載し、2004年にはその活動が『タモリのTOKYO坂道美学入門』としてまとめられた。
「日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という『創作変態論』を唱えている。また、「バストが大きい女性が好き」であると公言し、「俺はオッパイ星人」と発言している。しかし、(“壁おんな”としてドラマに主演の)伊東美咲好きでもある。
アマチュア無線では、コールサイン「JA6CSH」を取得していた(現在は失効)、当時、通話表での言い替えの代わりに「JA6・Cyah・Sukebe・Hentai」(キャースケベヘンタイ)と言っていたと言う。また、過去にラジオたんぱ(現在のラジオNIKKEI)でBCL番組を担当していた実績も持つ。
1945年8月22日、福岡県福岡市南区に生まれる。福岡市立高宮中学校、福岡県立筑紫丘高等学校を卒業後、アマチュア無線に興味を持ち、電気通信大学を受験するが失敗[要出典]し九州英数学舘にて1年間の浪人生活を送る。1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学科(夜間学部)へ入学[2]。その後学費未納のため抹籍処分となる[3]。1968年に帰郷後、保険外交員(朝日生命)・喫茶店従業員・ボウリング場支配人等の職を経て、ジャズピアニストの山下洋輔や赤塚不二夫らと出会い、再度上京。30歳で芸能界入りする。テレビ・ラジオで「ハナモゲラ語」や「イグアナ」のモノマネといった独自の芸を披露する。ラジオにおける発言等から各方面からの反発も受けたが、1982年から『笑っていいとも!』の司会に起用され、2007年現在に至るまで番組司会の長寿記録を更新しており、ラジオ・CM等においても芸能活動を続けている。
本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。これは祖父が尊敬している田中義一(陸軍軍人、昭和初期に立憲政友会総裁として首相を務める)にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。
幼少時代はおゆうぎが嫌だったために幼稚園入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた[4]。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立する遠因となっている。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国や中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。
早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、鈴木良雄らがいる。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、タモリのラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・MCを担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。早稲田大学を去った理由は、2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったためである。学費未納のため抹籍という処分となった。但し、モダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた[1]。
早稲田大学では吉永小百合と在学時期が重なっており、学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に食べ残した食パンの端を見つけ、食べたい衝動に駆られ理性と欲望の狭間で暫し様子を窺ったが、勇気が無くて結局諦めたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。
福岡に帰郷した後は、保険外交員・喫茶店従業員等の職を転々とする。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、ライブハウス照和の近所の喫茶店の雇われマスターだった頃は、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。
山下洋輔との出会いは、1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だった時に始まる。当時の山下はライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。サックス奏者(資料によってはドラムス奏者とする場合もある[1]がこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭に被り、メンバーで虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら踊り始めた。中村はその非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために双方が意気投合したという。「この男はジャズファンに違いない」と確信した山下らジャズメンは、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[1]。開かれた独演会では「四ケ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。臨席したうちのひとりである漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。
バーでの一件の直後、赤塚不二夫自身が出演する生放送にそのまま連れて行って同様のパフォーマンスを演じさせたところ、黒柳徹子からその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心したと赤塚不二夫がコメントしている。タモリの居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるというものだった[1]。赤塚本人は下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は自書の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。
30歳で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』でデビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』で人気を不動のものとする。
「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は常にアイパッチ(眼帯)を使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「密室芸人」という評も与えられていた。
当時の芸は「中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」、「イグアナのモノマネ」、「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語やベトナム語も取り上げている。特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。
1976年10月から1983年9月まで水曜1部に出演したラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』では、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさし、人気作家の五木寛之、名古屋及び名古屋人などに対しての批評を行い、ファンとの対立を起こした。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、虚弱、歌よりトークが長い」、五木寛之は「ひねくれている、エロ親父」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」等とそれぞれに対して評した。「名古屋人はみゃーみゃー言う」(実際にそのような方言を言う人はほとんどいない為、他地域と混同していると思われる)等の大きな誤解と間違った偏見を世間に広めたため、名古屋出身者からも猛反発を受けた。その他、特産物や観光地が少ない埼玉県をダ埼玉と発言している。
1979年には『ばらえてい テレビファソラシド』(NHK総合)にゲスト出演し、後にレギュラー入り。NHKのゴールデンタイムの番組出演で、新たなファン層を開拓する。人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)にも臨時司会者として出演するが、この際当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことでファンからの抗議が殺到する。ただし『ザ・ベストテン』の司会者の1人であった黒柳徹子とは親交が深く、長寿トーク番組『徹子の部屋』では、年末のタモリ出演とその際黒柳に新作モノマネを披露するのが恒例になっている。
こうした活動のほか、1977年には赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。団しん也や小松政夫も参加し、一時はビートたけしも参加していた。また、山本晋也監督の映画『下落合焼とりムービー』に所ジョージや大ブレイク前のアルフィーらと共に出演している。
1982年からフジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』(以後『いいとも』と略)の総合司会者に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになり、以降は各種バラエティー番組の司会者としての活動が主となる。1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなり、過激さを失ったとの評価もある。しかし『タモリ倶楽部』でその点を補っているとする向きも多い。
『いいとも』におけるタモリの起用理由については、プロデューサーの横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。1986年に4周年を迎え放送1000回を、1990年に8周年を迎え放送2000回を、1994年に12周年を迎え放送3000回を、1998年に16周年を迎え放送4000回を、2002年に20周年を迎え放送5000回を、2006年には24周年を迎え放送6000回を達成した。
『いいとも』出演以降は、眼帯の着用をやめ、主にレイバンサングラスを使用している。これが2007年現在に至るまでタモリのトレードマークになっている。『いいとも』以前は片眼に眼帯をしていることが多かったが、昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮から変更されたらしい。このサングラスは、昼番組と夜番組を併せて1983年、1990年、1991年、1996年、2002年の5回変わっている。『いいとも』開始当初から1990年までと1991年〜1996年までは「昼の番組で真っ黒なサングラスはどうか?」ということもあって、目元がほぼ見える薄茶色のサングラスを着用していた。いいとも以外の番組では黒色のサングラスを着用しており、1996年から2007年現在の『いいとも』を含む全番組出演時は黒色に統一されているが、同型でレンズカラーの違うスペアサングラスを所持しているようだ。また現在着用しているサングラスは俳優の内藤剛志からのプレゼントである。
NHKで放送され、司会を担当していた動物番組「ウォッチング」では、手元にVTRのコントローラーを置き、ゲストの解説に合わせて巧みに操作していた。
ラジオにおける活動は、『いいとも』出演以降も行われている。『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた過去から、ナイターオフシーズンにはニッポン放送にレギュラー番組を持つ。2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言していたが、この事件が解決したことで、同年秋からはブリタモリ大百科事典に出演した。
その他、1983年12月31日にはデビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』の紅白総合司会を務める。2006年現在に至るまで、現役・元アナウンサー以外の紅白総合司会者はタモリのみである。1986年には、タモリの半生を描いた『歌と笑いの41年 戦後タモリ史』という番組が放送された。また、『いいとも』のフリートークで「疲れてるときにユンケル(栄養ドリンク)はいいよね」と発言したところ、ユンケルを発売している佐藤製薬からユンケルを大量に贈られ、これをきっかけにユンケルのテレビCMにも出演するようになった。
いいともではよく、ゲストと話す際、「んなこたーない」と言うことがあるため、コージー冨田などによくネタにされる。これは現在、アスキーアートにもなっている。
1985年5月14日、筒井康隆全集全24巻の完結を記念したパーティーにおいて、「君が代」が演奏されるたびにタモリが昭和天皇の声帯模写をし、パーティーの最後にはそのままになり、二次会、三次会、翌朝5時までそれを続けた。 このパーティーの様子は翌週の「週刊読書人」にバッチリと掲載されることになり、それ以降タモリは右翼から脅迫を受け続け、最終的にはタモリの所属事務所、田辺エージェンシーの社長田邊昭知が監禁される事態にまで至った。筒井康隆もエッセイ「笑犬樓よりの眺望」(『噂の眞相』1985年8月号掲載分)にこのパーティーの様子を書いているが、タモリの身辺に危険が及んだためか、一部の固有名詞を『伏字』にしている。
1990年7月某日、船舶免許取得中、乗船時にヨットの柱に額をぶつける。この事故により、髪型をそれまでの7:3分けから、現在のオールバックへ変えたと同時にサングラスもいままでの茶系のものから黒色のものへ変更し、大幅なイメージチェンジを遂げる(ただし、1991年〜1996年までの間は「いいとも!」「ジャングルTV」「音楽は世界だ」の3番組のみ、90年までの茶色いサングラスとは違う茶色いサングラスをかけていた)。その年のFNSの日「FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島'90」で包帯を巻きながら復帰し、コーナー司会の露木茂に受ける。その7月中の「笑っていいとも!」については司会・進行をその当時のレギュラー陣が代役を務め、そのFNSの日の7月22日日曜日のいいとも!増刊号生SPで復帰、翌日7月23日月曜日から通常の平日のいいとも!にも本格復帰した(この日が事実上のいいともではオールバック髪型最初の日となる)。その後も何度かサングラスを変更している(それまで番組によってサングラスをかえていた本人であったが、1996年以降はついに全出演番組でサングラスを統一した。2002年に現在かけているものに再変更)。
2000年5月6日、東京・目黒区で人身事故を起こした。タモリの車が左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲。タモリに怪我は無かった。
2001年11月4日関東近郊のゴルフ場でプレイ中、ボールがサングラスのつるに当たり、左こめかみ付近を負傷。都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。『いいとも』は当時の各曜日レギュラー陣が代役を務め、「ミュージックステーション」では、タモリとともに司会を務めているテレビ朝日アナウンサー武内絵美(2000年4月 - 2004年3月まで担当)とこの日出演したアーティストが交代で特別司会を務めた。
このほかトークで、バイクでの事故経験を語ったこともある。「乗っていたバイクが竿立ち状態になりコントロールできず、無関係の家の垣根を通り抜けて庭に突っ込み、食事中の一家から「どなたですか?」と言われた。」という。
『いいとも』開始後間もなく、「たけし(ビートたけし)は大包茎。オシッコが真っ直ぐ飛ばない」と発言した。そのすぐ後の放送日に、「タモリさんさぁ、俺のこと包茎とか言ってたって?そりゃマズいだろ!」と、ビートたけしが番組に乱入した。当時レギュラーだった田中康夫に対しては「お前のことは前から気にいらねえんだよ!」と首を絞めて押し倒すなど、番組内で暴れた後に退散した。この件は、それまでタモリとビートたけしの共演がほとんどなかったこともあり、『いいとも』に興味を示さなかった視聴者層や芸能マスコミにも広く話題を呼んだ。この件について、ビートたけしは後に「あれはプロデューサーの横澤さんに頼まれたこと」と、ヤラセであることを暴露した。元来ビートたけしはタモリより先に『いいとも』の司会を頼まれたが辞退した経緯があり、開始当初人気が安定しなかった『いいとも』へのテコ入れとして、タモリと不仲説のあったたけしを番組に乱入させたらしい。ちなみにビートたけしは自分が包茎であることを『オールナイトニッポン』などでは何度もネタにしていたが、タモリの『オールナイトニッポン』に自分の歌を宣伝するために出演した折、番組に参加していた女性達に自分の局部を露出し、それを見た女性達に笑われた挙げ句タモリにも見せると「すごい包茎」と散々に突っ込まれていた。
出演者等の条件によって、タモリが必ず行う恒例の行事がいくつかある。間寛平が出演すると、お互いに猿の真似をしながらスタジオ中を駆け回る(それだけでテレホンショッキングの時間のほとんどを使ったことがある)。テレホンショッキングでユースケサンタマリアから花が届くと「カタカナの人」と言う。また、毎年フジテレビ系列で放送しているFNSの日の「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」では、(自身が昨夜から総合司会を続けてきたかのごとく)「まあ、毎年この時間が一番、眠いんですよね」とタモリが発言し、他の出演者にツッコまれることも恒例となっている。
「テレフォンショッキング」初期でお馴染みとなった台詞「友達の友達は皆友達だ」は、実はタモリ発のセリフではなく、「いいとも!」開始半年前まで放送されていたTBSラジオ「小島一慶の耳コミ ランチタイムぴいぷる」内の1コーナー、「テレフォン交遊録」の冒頭で小島一慶が発していた台詞をそのまま用いたものである。ちなみに、「テレフォンショッキング」自体が「テレフォン交遊録」そのままの内容で、タモリも数回出演していたという経緯があり、企画発案者でもあった小島一慶も「テレフォンショッキング」を見て驚いたが、抗議しようにも声が小さかったと後のインタビューで答えている(※因みにこの「テレフォン交遊録」と共に「いいとも」が企画を参考とした番組としては同じくTBSテレビで放送されていた裏番組の『悪友親友』(司会:芳村真理)があり、これについては同番組の構成を務めていた塚田茂に後年、初期の『いいとも』のプロデューサーであった横澤彪やディレクターの三宅恵介らが謝罪の意も含め「そのまま企画を流用させて貰った」と告白している)。
2004年7月25日にフジテレビの27時間テレビの中で行われた『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』のテレフォンショッキングのコーナーでは自分の番組にゲスト・森田一義として登場した。この時、司会は27時間テレビの総合司会を務めていたナインティナインの岡村隆史が行った。同じく総合司会だった矢部浩之と中居正広は観客席にいた。
当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが、田邊昭知が芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落とした。
「ハナモゲラ語」のレパートリーは、英語、中国語、韓国語、朝鮮語、ロシア語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、ベトナム語、アラビア語、スワヒリ語、ハワイ語…とハナモゲラ語を操る人物の中でも、その数は随一である。また、中国語においては、北京語と広東語の二方言を使い分け、ドイツ語においては、通常のドイツ語と、アドルフ・ヒトラーにインスパイアされた、軍隊式の語気の強いものを使い分けるなど、そのバリエーションも豊富である。
タモリ最初の所属事務所は、非公式ではあるが山下洋輔と「ジャックの豆の木」のA子女史が設立した「オフィス・ゴスミダ」。テレビと文化祭の二度の仕事だけで解散。このへんのタモリデビューのいきさつは『ピアノ弾き翔んだ』(山下洋輔、徳間書店、1978年)に詳しい。
1980年代初頭においては、タモリとビートたけしの間に不仲説が存在した。タモリは「俺とたけしは仲が悪いと思っている人もいるみたいだけど、実は仲がいいんだよ」、たけしも「タモリさんの奥さんと俺の女房は仲がいい」などと発言したことがある。ただし、たけしは「タモリさんの奥さんが物凄く大きなダイヤの指輪をしていて、俺の女房の目に刺さりそうだった」と続けて笑いを取る場合が多かった。
よく言う冗談は「俺はジャニーズシニア」「俺は『ZOO』にKAZU(カズ)の名前で所属していた」など。特に後者に関しては、ZOO解散前の最後のテレビ出演が『MUSIC STATION』となったため、タモリも曲中のダンスに参加しスタジオを沸かせたという逸話を持つ。また、EXILE新メンバー募集の際には『MUSIC STATION』にて自らKAZUを推薦していた。その他、要潤に似ているとよく言われると言っている。
横澤彪によればタモリは30歳を超えて芸人に転向したこともあり驕り高ぶった所も見せず、「俺たち芸人なんか世間でまじめで働いてる人から見れば詐欺師稼業みたいなもんだ」というのが持論だという。
普段は温厚であるが、かつて森脇健児が焼肉の網に肉を隙間なく並べたことに激怒した、と数回発言したことがある。しかしいずれも、本当に心から激怒していたとは思えない口調であり、とにかく温厚だという見方もある。
前の携帯はナインティナインの岡村隆史にプレゼントされたものであり、それまでタモリは携帯電話を持っていなかった。現在は自分で買った携帯電話を持っている。
雑誌などの取材やインタビューはあまり受けないが、過去に「週刊朝日」の取材に答えた事がある。そのとき「いいとも」の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と答えている。「いいとも」ではスタッフ含めた反省会などの類も行っていない。
俳優業にも一時期チャレンジしたが、今はやっていない。ナインティナインの岡村隆史が、ジャングルTVでタモリ主演のビデオカセットを見せたとき、「止めてくれ」と言った。どうやら、俳優業は自分に不向きだと思っているようである。最近ドラマに出たのは1991年の『世にも奇妙な物語』のエキストラ出演し、1999年の「今夜は営業中」ではタモリ本人と日テレプロデューサー森田一義(もりた・いちよし)の二役で木村拓哉と共演、2004年の『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』にデビュー当時のサングラスを外し、眼帯をつけた姿で一瞬だけ出演し、2007年の『和田アキ子殺人事件』に本人役で出演した(ちなみにTBSのテレビは久々の出演である)。さらに同年9月公開の『HERO』では花岡代議士役で登場している。事実上この作品が俳優復帰作と言っても過言ではないだろう(ちなみに8年ぶりに木村と共演している)。
佐藤製薬のユンケル黄帝液シリーズに新発売当時からCMキャラクターとして起用されていたが降板後は同社の歯槽膿漏治療薬のアセスのCMキャラクターとして起用されている。同社にとって手放すには惜しみある存在。(注:タモリ降板後はイチローがユンケル黄帝液のCMキャラクターに起用されている。)
ダウンタウンがいいともに初出演した際、ダウンタウンがいいとものコーナーにケチをつけまくったため、「うるさいなぁ…」とタモリが小声で言うと、浜田雅功が「司会者が「うるさい」って!かなわんなぁ」と言い返したため、「本当にうるさいなあ!!」と怒鳴った。
若いころは度のきつい丸型のメガネをかけていて、容姿は将棋の大山康晴名人に似ているとタモリ本人が認めている。
新宿厚生年金会館横にあるJAZZ SPOT J(1978年開業)の設立メンバーで、80年代はよく顔を見せていた。オーナーと間違えられることが多かったが、タモリは取締役宣伝部長である。
漫画家の魔夜峰央がタモリによく似た格好(サングラス、スーツ等)をしているが、これは魔夜によると「自分で考えたもので、その何年か後にタモリが出て来た」と単行本で語っている。よって偶然の一致らしい。ちなみに魔夜は美男子のアシスタントを「笑っていいとも!」に出演させ、それをダシに番組に乱入しタモリとの競演が実現したことがある。
2003年6月27日のミュージックステーション(テレビ朝日系)で、t.A.T.uが番組を途中放棄した。その後、「いいとも!」出演者からt.A.T.uの話が出るたびに「タトゥーの話はするな!」と(ネタではあるが)怒っている。空耳アワーでt.A.T.uが取り上げられた時でも、「t.A.T.u以外のを送ってくれ」とネタにしていた。
日本テレビには殆ど関わらなくなっているが、その真相は「今夜は最高!」に絡む確執や「出演料が高いから」という説がある。
自身の出ている番組で募集している視聴者投稿コーナーではペンネームでの投稿を好まざる趣旨の発言を幾度かしている。アナウンサーに任せがちな投稿募集要項であるのに、ボキャブラ天国では自らペンネーム禁止を明言して『名前を呼ばれることは恥では無い、名誉だと思ってくれ』と云う内容の発言を洒落っぽくしている。
青汁が嫌いでいいともの罰ゲームのコーナーは自らがNGを出し、打ち切らせたコーナーである(1997年、「恐怖のドカン大作戦」)。
恥ずかしいという理由で自らが出演した番組のビデオはあまり家では見ないと番組では話しており明石家さんまとは対照的な所を見せている。
笑福亭鶴瓶はかつて、タモリに「なんで人の笑いを邪魔するのか」と尋ねたことがある。これに対し、「お前やさんまは笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると帯番組はマンネリになる。だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう。それがマンネリ解消になる」と答えた。鶴瓶はその予定調和を嫌う態度こそがタモリがトップに君臨する理由と見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいると語った。(週刊文春2007年8月30日号)
お酒が好きで仕事が無い日曜には深酒するらしく、月曜日のいいともは酒が残っていることが多々ある。デーモン小暮閣下が二人の母校の記念ビールを持ってきて、テレフォンショッキングのCM中に二人で酒盛りしたので『あんたCM中いけない事したでしょう』と突っこまれた。
自身はゲイではないが、番組で体格が良い男性芸能人(例:ケイン・コスギなど)が来ると胸などの体を触る傾向にある。
みのもんたとは誕生日が同じ8月22日である。共演は笑っていいとも!のテレフォンショッキングゲスト出演以来実現していない。
近年、TBSや日本テレビには出演していない。ニッポン放送にはプロ野球オフ期間中、毎年出演していたが、ブリタモリ大百科事典を最後に出演が途絶えている。
フジテレビの新人女性アナウンサーが笑っていいとも!でデビューするのかつては恒例であったがその際にタモリの面倒見がいいことを露木茂が自著に書いている。
笑っていいとも!春・秋の祭典スペシャル(フジテレビ、笑っていいとも!の改編時特番)※本名の森田一義名義
笑っていいとも!増刊号 新春スペシャル(フジテレビ、毎年、正月の特番) 〃
笑っていいとも!増刊号 生スペシャル(フジテレビ、毎年、夏の特番) 〃
笑っていいとも!特大号 年忘れ・クリスマス・クリスマスイブ(フジテレビ、笑っていいとも!の年末特番)
タモリのジャポニカロゴス 春・秋スペシャル(フジテレビ、タモリのジャポニカロゴスの改編時特番)
第30回NHK紅白歌合戦(1979年12月31日) ‐ 白組応援。応援団長の三波伸介と共に番組エンディングまで出演。
スタジオL 浅井慎平のこの人と話したい 「タモリ・売れないころがおもしろかった」(1987年9月14日)
ピンクレディー 汗と涙の大晦日150分!! 紅白歌合戦をぶっとばせ! ビキニでフィーバー(1978年12月31日)
FNS26時間テレビ 国民的なおもしろさ!史上最大!!真夏のクイズ祭り 26時間ぶっ通しスペシャル(2006年)
チャンネル泥棒! 快感ギャグ番組! 空飛ぶモンティ・パイソン(東京12チャンネル・1976年4月9日 - 9月24日)
ドラマ(タイトル不詳) 下宿が舞台のドラマで、常田富士男と2人で「アリスとテレス」というコンビを組み、毎話、下宿の食堂で漫談をするという、ミニコーナー的な出演をしていた。 (1980頃?)
毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇のモノマネだった。発売になったのは修正版。
『タモリ3戦後日本歌謡史』(レコード:1981年、アルファレコード、限定発売のためか品番がなくTAMORI-3と替わりに入っている)
実際には『タモリ2』以前に録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずだった。戦後の名曲をパロディー(替え歌)にしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる。
録音日が1978・4・7〜1981・1・14となっているため、発売に際して録音し直したと思われる。元バージョンテープの存在は『タモリだよ!』(平岡正明、CBS・ソニー出版、1981年)にチラッと書かれている。
『タモリ』および『タモリ2』からサンプリングした音源をタックヘッド(Tackhead)がリミックスした企画盤。On-Uサウンドのエイドリアン・シャーウッドがダブ・ミックスを行っている。
『HOW ABOUT THIS』(タモリ本人が数曲で作詞作曲、様々な楽器の演奏、歌唱もしている本格的なジャズ・AORアルバム。ジャケットの男性はストロング金剛)
ほかに、大瀧詠一がプロデューサーとして招かれたものの、タモリがヴォーカル録りをしないまま終わった幻のアルバムの企画があったと言われている。
THE SQUAREのアルバム『MAGIC』内の2曲にトランペットおよびバックボーカルで参加している。
パイパー(PIPER:山本圭右がリーダーを務めた1980年代のJ-POPグループ)のサードアルバム『GENTLE BREEZE』のジャケット写真(古風な赤い消防車に雪が降り積もっている)の撮影を担当。
※このうち、「タモリ」「タモリ2」「ラジカル・ヒステリー・ツアー」の3作が2007年12月19日に復刻発売される事になった。
タモリ『21世紀ブックス タモリのカセット面白術 : もてる!ウケル!きわめつけ実例94』、主婦と生活社、1977年。
タモリ『行ってから読むか読んでから行くか : タモリのNew York旅行術』、講談社、1980年。
タモリ+イースト・クイズ班編『クイズ!タモリの音楽は世界だ』、マガジンハウス、1993年。(ISBN 4-8387-0313-9)
赤塚不二夫、タモリ『赤塚不二夫とタモリの西サモアに行ってこれでいいのだ』、コミックス、1994年。(ISBN 4-06-313704-X)
タモリ、筒井康隆、山下洋輔、赤塚不二夫、赤瀬川原平、奥成達 『定本ハナモゲラの研究』(1979年、講談社)
笑っていいとも!編『タモリの世紀末伝説 : 関根くん家とマチャミん家のおかしな人々』 フジテレビ出版、1993年(ISBN 4-594-01321-X)
フジテレビ「タモリのボキャブラ天国」編『タモリのボキャブラ天国 : フジテレビオフィシャル』 フジテレビ出版、1993年(ISBN 4-594-01186-1)
フジテレビ「タモリのスーパーボキャブラ天国」編『タモリのスーパーボキャブラ天国 : フジテレビオフィシャル』、フジテレビ出版、1994年(ISBN 4-594-01494-1)
フジテレビ「タモリのスーパーボキャブラ天国」編『タモリのスーパーボキャブラ天国 : お・と・なスペシャル版』、フジテレビ出版、1995年(ISBN 4-594-01638-3)
森田一義アワー笑っていいとも!「インスタントイングリッシュおばちゃん海外輸出計画」 フジテレビ出版、1999年
森田一義アワー笑っていいとも!「曜日対抗いいとも選手権!!BESTゲーム集88」 フジテレビ出版、2002年
森田一義アワー笑っていいとも!「目指せ!達筆王すぐに上達する132のコツ」 フジテレビ出版、2006年
タモリのジャポニカロゴス国語辞典編集部編『タモリのジャポニカロゴス国語辞典』 フジテレビ出版、2006年(ISBN 4-594-05174-X)
^ 早稲田大学学生部編「第800号記念 タモリ ロングインタビュー」『早稲田ウィークリー』、早稲田大学学生部、1997年4月17日。
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[ 179] タモリ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA



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