柔道とは?

柔道(正式名称:日本伝講道館柔道)は創始者である嘉納治五郎師範が、無手または武器を持つ相手に対する攻撃防御の術として古来より日本に伝わる「柔術」を学び、新たに技術的工夫と思想的創意を加えて体系化した体育・勝負・修心の道です。嘉納師範は、柔道は心身の力を最も有効に使用する道であり、この原理はスポーツ運動の基本でもあると主張しました。
嘉納師範は、明治15(1882)年、東京下谷にある永昌寺の書院を借りて、わずか12畳の広さの道場を開き、柔道は単なる武術ではなく人間の踏み行うべき道である、として道場名を「講道館」としました。国際柔道連盟(IJF)の規約第1条に「IJFは嘉納治五郎により創設されたものを柔道と認める」という一文があり、まさに明治15年の出来事は柔道の国際的誕生をも意味するものと言えます。
柔道競技を全国的に取りまとめる組織は、昭和24(1949)年5月6日に創立され、昭和63(1988)年6月8日に法人格を取得した(財)全日本柔道連盟です。全日本柔道連盟は昭和24年10月26日、(財)日本体育協会に加盟し、同27(1952)年12月9日には国際柔道連盟に、そして平成元(1989)年8月7日、(財)日本オリンピック委員会に加盟しています。
柔道競技がオリンピック種目になったのは、昭和39(1964)年第18回東京大会からです。日本で生まれた柔道が東京の大会で初めて正式種目になったのですから、日本国民の期待は大きく膨らみ、全階級で優勝を、といった盛り上がりを見せ、選手、関係者もなんとしてでも勝たねばならない、と強化練習に努めました。
試合会場は日本武道館でした。柔道ファンの予想通り軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功の3選手が金メダルを獲得しました。体重無差別の予選で日本のチャンピオン神永昭夫選手は身長1.98mのオランダ人、A.J.ヘーシンク選手に僅差で負け、敗者復活戦を勝ち抜き、決勝で再び対戦しました。しかし、9分22秒、ヘーシンク選手は神永選手の掛けた体落を崩して寝技に引き込み、袈裟固で抑えました。神永選手は善戦むなしく銀メダルとなりました。この試合を見るために日本武道館に詰めかけた観客数は約15,000人でした。
柔道は昭和31(1956)年の第1回東京大会から世界選手権大会が行われている国際的スポーツであり、女子柔道は平成4(1992)年第25回バルセロナ大会からオリンピック正式種目となっています。2004年現在、IJF加盟国数は187の国と地域を数えています。
競技の詳細は(財)全日本柔道連盟のホームページ「日本柔道 栄光の歴史」で、オリンピックの入賞者はJOCオフィシャルサイト「オリンピック歴代日本代表出場選手全記録データ」で検索できます。是非ご覧下さい。

[ 121] JOC - 柔道
[引用サイト]  http://www.joc.or.jp/sports/judo.html

柔道(じゅうどう)は、明治15年に嘉納治五郎が講道館において創始した武道であり、格闘技、スポーツ、武術にも分類される。正式名称を日本伝講道館柔道という[1]。
「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」を真髄とする。単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としている。
学校教育において1898年に旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。連合国軍最高司令官総司令部により学校で柔道の教授が禁止された以降武道は禁止されたが、昭和25年(1950年)に文部省の新制中学校の選択教材に柔道が選ばれた。昭和28年(1958年)の中学学習指導要領で、相撲、剣道、柔道などの武道が格技という名称で正課授業が行われた。平成元年(1989年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。殆どの学校が柔道場を有する。剣道や空手道と並び、日本で最も広く行われている武道の一つ。
古くは、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われる武士の武術が成立し、その一つとして江戸時代柔術が発展した。幕末までに百を越える流派が生まれていたとされる。
明治維新以降柔術練習者が減少していた中、明治15年1882年に嘉納治五郎が、投技のほかに当身技、関節技、絞め技を中心とする天神真楊流柔術、当身技(中と書く)のほかに投げ技を中心とする起倒流柔術の技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化し、修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、東京下谷の永昌寺に講道館を創設した。 現在、講道館は文京区春日1丁目にあり、全日本柔道連盟もそのビルに入っている。
当初、講道館は新興柔術の少数派の一派であった。嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年(昭和3年)『作興』に連載)によれば警視庁武術大会で楊心流戸塚派と試合し2〜3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されという。この試合の後、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、山下義韶の回想記(雑誌『キング』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に講道館四天王の西郷四郎(小説「姿三四郎」のモデル)が好地円太郎に山嵐で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある。)。
柔道の試合競技は1964年の東京オリンピックで、正式競技となる。女子種目も、1988年のソウルオリンピックで公開競技、1992年のバルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。
現在は、世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域も199カ国ある(2007.9)。日本以外では、欧州で人気が高く、特にフランスの登録競技人口は、日本の登録競技人口を大きく上回っている。 2007年現在、国際柔道連盟の本部は韓国ソウルにある。
講道館柔道の技は「投技」「固技」「当身技」(あてみ)の3種類に分類される(固技は抑込技、絞技、関節技に分類される。)。またこれと平行して、立ち技と寝技にも分類される。練習形態は形と乱取りがあり、形と乱取りは車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取りによる稽古を創始当時から重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取り・試合では「投げ」「固め」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していく事となった。
関節技は肘以外はあまり採用されず、乱取や試合では肘以外は反則である。立ち技の固技もほとんど行われていない。また、当初は寝技もあまり重視されておらず、草創期に関西の他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。投技を重視する歴史的傾向から、寝技がどちらかというと軽視されてきたが、近年IJFルールによりヨーロッパ選手を中心に返し技が積極的に取り入れられるにつれて寝技も復権する傾向がみられるようである。
当身技は形の中で教授されるが、現在では昇級・昇段審査においても行われる事が稀である為、柔道修行者でもその存在を知らない事も多く、また指導者も少ないのが現実である。
当身を重視した天神真楊流から、急所や活法が伝えられている。起倒流にも当身(中)の要訣の伝承があるが、講道館にどこまで伝えられたかは不明である。
天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電、稲妻、臍下丹田、金的(釣鐘)、肘詰、伏兎、向骨。
柔道では、段級位制を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。
段位制は囲碁、将棋において古くから行われていたが、それを最初に武道に導入したのは、嘉納治五郎の講道館柔道である。その後、大日本武徳会が、警視庁で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道・弓道に導入した。
初段が黒帯というのは広く知られており、クロオビは英語圏でも通用する単語となっている。元々、柔道の帯は洗濯しないのが基本であり、稽古の年月を重ねるうちに黒くなっていく事から、黒帯が強さの象徴となったのであり、茶帯が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。
成年部(原則13歳以上)の場合の帯と段級位の関係は以下のようになっている(四級以下については、道場によって違いもある)。
一般に最高段位は十段と思われがちだが、柔道の創始者である嘉納治五郎も『柔道概要』の中で「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べている通り実際には上限は決められておらず、それ以上の昇段も可能になっている(ただし前例はない)。 また,段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではなく、それぞれの段位に進む為の修業年限が規定されている。その為、オリンピック二連覇の谷亮子選手でも,段位は四段である。
なお、2006年現在までの講道館十段所有者は、山下義韶、磯貝一、永岡秀一、三船久蔵、飯塚国三郎、佐村嘉一郎、田畑昇太郎、岡野好太郎、正力松太郎、中野正三、栗原民雄、小谷澄之、醍醐敏郎、安部一郎、大沢慶己(昇段年順)の15人のみとなっている。また国際柔道連盟での十段所有者は、アントン・ヘーシンク(オランダ)とチャールズ・パーマー(イギリス)の2人となっている。
女子の場合はこれまで十段を許された例が無く、最高段位は九段の福田敬子ただ1人(2006年1月に昇段[1])で、それに続く八段所有者も二星温子と梅津勝子となっている。
柔道競技は武道柔道の一部であるが現代ではこれがあたかも全てであるかの様に重きを置かれている。日本において、現在の試合ルールは講道館柔道試合審判規定(以降、講)と国際柔道連盟試合審判規定(以降、国)がある。
試合場内は、9.1m×9.1m(5間)(講1条)、もしくは8m×8mから10m×10m四方(国1条)の畳の上。(「試合場」は、講14.55m(8間)、国14〜16m四方の場外を含めた場所をいう) 試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続していている場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。
講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制する事を競う。当て身技は使えない。
審判員は主審1名、副審2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。また、審判に抗議する事はできない(講16条)。
試合は立ち姿勢から始まる(講10条)。一本勝負であり(講9条)、「一本」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。技の得点「技あり」と相手の反則「警告」(講)、「指導3」(国)を合わせた「総合勝ち」も「一本」と同等に扱う。
3分から20分の間で予め定められる(講12)。国際規定では、シニア5分、ジュニア4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。両者に投げ技や抑え込みによるスコアがなかった場合には、試合を同じ時間延長しどちらかが先にポイントをとった時点で試合終了となる(ただし講、国ともに、ゴールデンスコア方式で行うとは明記されていない)。それでもなお時間切れになった場合は主審および副審の判定により優勢勝ちが告げられる。大会の規定によっては引き分けとする場合もある。
相手を制しながら、背を大きく畳につくように、相当な強さと速さをもって投げた時「一本」となる。「一本」に準ずるスコアは「技あり」、「技あり」に準ずるスコアは「有効」、更に下には「効果」がある。「技あり」2回で、合わせて「一本」になる。「有効」・「効果」は、何回とっても上位のスコアに及ばない(講道館規定は有効まで)。
固技の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。(注:固技は抑込技、絞技、関節技の総称である)1つ目は、抑込技で、国際審判規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚によって自分の身体、脚が挟まれていない場合、25秒間経過すると、「一本」勝ちになる。20秒以上25秒未満で「技あり」、15秒以上20秒未満で「有効」、10秒以上15秒未満で「効果」である。尚、講道館規定では30秒で「一本」、25秒以上30秒未満で「技あり」、20秒以上25秒未満で「有効」となる。
2つ目は、固め技で、相手が「参った」と発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2〜3回たたく)をすれば「一本」勝ちになる。
大会参加選手の程度によって、関節技や絞め技が完全に極まっていれば、安全の為、選手が「参った」をしなくても「一本」になる事がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。
また、オリンピックや世界柔道選手権大会では、3位決定戦を行う関係上、敗者組の復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。
昭和4年(1929年)、御大礼記念天覧武道大会柔道乱捕試合規定、審判員三人、姿勢・態度・技術等の基準による「優勢勝ち」制定。
昭和30年(1955年)、講道館柔道試合審判規定改正、技有り後の「抑え込み」25秒で合わせ技一本等。
東海大学、天理大学等をオピニオンリーダーとする全日本学生柔道連盟(学柔連)と講道館の対立は政界をも巻き込み、1883年あたりから長く続いた。完全統一がなったのはニュージャパン柔道協会が講道館大阪支部となった1995年といわれている。学士インテリ対町道場主&骨接ぎとも揶揄された。学柔連側には山下泰裕ら主力選手が多くいたので無視できないものであった。
講道館が認めるものとは異なるルール(主に寝技)で競技を行う高専柔道や、前田光世から受け継がれたブラジリアン柔術の各派がある。また、柔道から派生した武道として日本拳法がある。日本拳法は、柔道家の澤山宗海が柔道では廃れてゆく当身技の練習体系を確立する為に創始した。他には総合格闘技団体J−DOがある。
柔道は当初柔術の稽古衣を着て稽古していたが、袖、と裾の長い現在の柔道衣を作成し稽古するようになった。1922年、嘉納治五郎がプロデュースし、船越義珍に講道館で演武、指導した時に義珍が着用していたのが柔道衣である。動作も稽古内容も柔道とは違う為、柔道衣に徐々に改良がなされ、空手道に今のような空手道衣が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのである。(詳細は空手道#空手衣)
1951年、国際柔道協会(プロ柔道)の木村政彦七段、山口利夫六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節がブラジルに招かれる。この時、グレイシー柔術と異種格闘技戦を行っている。
9月6日に加藤幸夫がリオデジャネイロでエリオ・グレイシーと対戦。試合は10分3ラウンドのポイント制無し柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。9月23日に二人は再戦し8分目で加藤が絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。 10月23日に木村政彦とエリオ・グレイシーが対戦。木村が2R開始3分目で腕を腕緘に取りエリオは意識がなくなっていた為、兄のカルロスがストップを申し出し木村の勝利に終わった。
小俣幸嗣、尾形敬史、松井勲著、竹内善徳監修『詳解 柔道のルールと審判法』大修館書店 ISBN 4-469-26423-7

[ 122] 柔道 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E9%81%93



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