都道府県とは?
|
都道府県(とどうふけん)は、日本の地方公共団体である都・道・府および県の総称である。東京都・北海道・京都府および大阪府を除く全ての地方公共団体は「県」であるため、日本の都道府県の構成は一般的に「1都1道2府43県」として認識されている。 都道府県は日本における行政区分の一つで、「市町村を包括する広域の地方公共団体」(地方自治法(2条5項))とされ、包括的地方公共団体あるいは広域的地方公共団体ともいう。そして、都道府県の行政事務を扱う中心的な機関を、それぞれを都庁・道庁・府庁・県庁という。 江戸時代の幕藩体制の時代には、領国支配・分割統治が行われていたが、明治維新後は段階を経ながら明治政府による直轄支配・中央集権の体制が敷かれていった。 順次設置された府・県・道・都のいずれにおいても、内務省(戦後廃止され自治省の後に総務省に引き継がれた)によって任命された長官が行政を司り、国の地方行政機関として中央集権体制が維持された。一方で、都道府県それぞれに民選議会が設置されたことによって、ある程度の地方自治があった。 1868年、徳川幕府の直轄領(天領・旗本の領地)が明治政府の直轄領になり、三都(江戸・大坂・京都)や、開港した5港などを管轄する重要地域を府とし、それ以外を県として、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれた。藩はそのまま大名(諸侯)が治めた。 1869年7月25日、かねてより諸侯から出されていた版籍奉還の願い出を受け入れ、諸侯を代替わりさせた上で知藩事として引き続き各藩の統治を任せた(廃止された藩もある)。 この時点で、諸侯は領地と領民に対する統治権を全て天皇に奉還したことになっているものの、実質的な地方支配体制は、幕藩体制の江戸幕府の地位を明治政府が引継ぎ大名の役名や任地などの名称が変更されただけであり、府藩県三治制と呼ばれる(府県のみ直轄)。 1869年8月24日の太政官布告によって、京都府・東京府・大阪府以外は全て県と称することが決まり、前後して他の府(神奈川府・新潟府・越後府・甲斐府・度会府・奈良府・箱館府・長崎府)が県に名称変更した。この時点では、天皇が東京行幸で東京にいたが、高御座(天皇の在所を示す玉座で、これのある場所が皇居とされる)の移動が無かったので、高御座のある京都府の方が東京府より序列が前になっている。なお、この太政官布告前は、東京府は江戸府と呼ばれており、同時に江戸から東京に改称された。 1871年8月29日に行われた廃藩置県により、藩は県となって、全国が明治政府の直轄となった。結果的に、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県となる。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったため、飛び地が全国各地にみられて府県行政に支障を来たしていた。同年12月にはこれを整理合併し、1使3府72県となった。 1876年に県の大規模合併が行われ、1878年に制定された地方三新法の1つ、郡区町村編制法により合併や領域変更が行われ、一時は37府県まで減ったものの、分割運動によって1889年の市制・町村制、1890年の府県制・郡制の制定を経て、1道(北海道)3府(東京府・京都府・大阪府)43県となった。1890年以後、県の合併・分割は一切行われず、1943年に東京府が東京都となり現在に至っている。 ただし、沖縄県は1945年から(正式には日本国との平和条約が発効した1952年4月28日から)1972年のアメリカによる占領下では、日本の統治下になかったため、その時期の日本の県の総数は42県とみなされる。 廃藩置県後、県の長官は「知県事」から「県令」と改称され、京都府・東京府・大阪府など府の長官は「知府事」から「知事」と改称された。1886年以後は、両者とも「知事」と呼ばれた。一方で、1878年に制定された地方三新法の1つである府県会規則(北海道には適用されなかった)によって府県会が置かれることになり、地方自治の主体としての性格も併せ持った。 府知事や県令(県知事)は、内務省から派遣される官僚であった。特に「府」を称している広域自治体は、1898年10月までは府知事が府庁所在地の市長を兼務しており、東京市・京都市・大阪市は自治権を付与されなかった。これら3市が自治権を得たのは、1898年10月に府知事の市長兼務が廃止された時であった。 国の地方行政官庁としての府県は、勅令である「地方官官制」によって、地方自治体としては法律である「府県制」(明治23年 法律第35号(明治32年、法律第64号で全面改正))によって規定されている。 「北海道」という呼称は、1869年7月の開拓使設置に先立って「松前地」および「蝦夷地」と呼ばれた地域を改称し、11国を設置したのに始まる。これは律令制の下で68の国を五畿七道に区分した用法と整合する。1882年に開拓使が廃止されて函館県・札幌県・根室県の3県が設置されたが、1886年に廃止され「北海道庁」が設置された。 当時、北海道庁の管轄域を「北海道」と呼んだが、「北海道」は単なる地域呼称・地方名であり、現在のような自治体名ではない(内地編入された樺太における樺太庁の命名法と共通する)。従って、地方行政官庁として他の府県と並列するときには「庁府県」という表現が用いられた。 北海道庁官制(明治19年 勅令第83号(後に全面改正))によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる官職とした。1901年、北海道会法(明治34年 法律第2号)および北海道地方費法(明治34年 法律第3号)が公布されて議会が設置され、「北海道地方費」という名称の法人格を持つ地方自治体となった。なお、北海道会は府県会と比べて議会の権限は狭かった。 戦後、1946年9月の府県制改正に伴って、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて府県制に統合され、同法は道府県制と改称された。この改正法の附則の規定により従来北海道地方費と呼んできた自治体を「道」と呼ぶものとされた。1947年5月3日の地方自治法施行とともに、北海道庁官制も廃止され、地方行政官庁であった北海道庁も、普通地方公共団体の一つである「北海道」となった。 第二次世界大戦中の1943年7月1日、東京都制(昭和18年 法律第89号)の施行により、東京市は東京府と合併され「東京都」となり、市制と自治権を剥奪された。東京都官制(昭和18年 勅令第504号)により「東京都長官」が長官とされ、東京都を設置した内務官僚である大達茂雄が、その第1代に任命された。 東京都制によって都議会が設置され、旧東京市内の各区にも区会が置かれたが、特に区部に対する国の統制は強力だった。 1947年4月、日本国憲法第92条で予定された法律として地方自治法が公布された。この中で都道府県は、以前の「中央政府の下部機関」という立場ではなく、市町村と同様の「普通地方公共団体」に位置づけられ、議会議員のみならず知事も選挙によって選ばれることになった。ただし、1947年4月に実施された最初の知事公選はまだ成立していなかった地方自治法ではなく、前述の府県制(道府県制)・東京都制改正で地方長官について公選制が導入されたことを根拠に行われた。 都道府県は、普通地方公共団体として市町村と対等であるが、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、広域にわたるもの、市町村に関する連絡調整に関するもの及びその規模又は性質において一般の市町村が処理することが適当でないと認められるものを処理する(地方自治法(第2条第5項))。 都道府県を合併したり、新しく都道府県を設置したりすることを「廃置分合」といい、次のように分けられる。 廃置分合については、都道府県の設置・廃止を伴わずに区域のみを変更する「境界変更」(市町村の所属都道府県の転属を含む。)と併せて、地方自治法第6条及び第6条の2に規定されている。 法律による(第6条第1項)。 この法律は、憲法95条に定める「一の地方公共団体のみに適用される特別法」(地方自治特別法)であると解されるので、関係都道府県において住民投票を行い、それぞれ過半数の賛成を得なければ効力を生じない(詳細な規定は地方自治法第261条・第262条)。 これは、長野県山口村と岐阜県中津川市との合併の際に、都道府県にまたがる市町村の合体(新設合併)には法律の制定が必要なこと(後述)がクローズアップされたことや、道州制導入の前段としての自主的な都道府県合併を促す必要があるとの趣旨で設けられたものでる。 合体の場合、関係都道府県の知事と議会議員は失職し、新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。 編入の場合は、編入された都道府県の知事と議員は失職するが、編入をした都道府県の知事と議員は失職しない。 分割の場合、廃止される都道府県の知事と議員は失職し、分割後に新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。 分立の場合には、分離前の都道府県の知事と議員は失職せず、分離されて新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。 都道府県の境界変更も、廃置分合と同じく法律(地方自治特別法)によることを原則とするが、次のような場合は「自ら変更する」こととなっている(地方自治法第6条第2項)。 この二つの場合においては、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定めることとなる(第7条第3項)。 一の市町村又は一の郡の全体が他の都道府県に編入されるとき(所属変更)も、都道府県の境界変更であり、前述のように法律によることとなる(昭和25年9月9日付け 自行発第203号)。 異なる都道府県に所属する市町村が廃止され、その区域に市町村が設置される場合は、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定める(第7条第3項)。 従来、都道府県の境界を越える市町村の合体(複数の市町村を廃止して、その区域に新たに市町村を設置すること)にも、第6条第1項により、新たに制定される法律によるものとされていた(昭和28年6月29日付け 自行行発第195号)。 そのためもあり、2005年の長野県山口村と岐阜県中津川市との合併は、中津川市への編入という形をとることになった。 それを契機として、平成16年法律第57号による改正により、都道府県の境界にわたる市町村の境界変更の手続きと同様の簡易な手続きによることとされた。 中部地方:新潟県 - 富山県 - 石川県 - 福井県 - 山梨県 - 長野県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 明治政府の県名の決め方の一つの説として、明治時代のジャーナリストである宮武外骨の著書『府藩県制史』(1941年刊)が有名である。その中で、明治政府内の「永久不滅の賞罰的県名」として、「早い段階から官軍側に就いた『忠勤藩』の藩名は県名にされて、官軍側に就かなかった『朝敵藩』や、官軍側に就くのが遅かった『曖昧藩』の藩名は、一つも県名には残っていない。」と述べられている。 つまり、明治維新の時に薩長軍だった所は、「都市名」を県名にされて、一方で薩長軍でなかった所は、「郡名」を県名にされている、という説である。 藩の多くは、令制国一国を領する藩を除いて、城下町を藩の名称に用いる事が多かった。ただし、城は後に異名を付けられた為、現在も『府藩県制史』が書かれた当時も、城下町名がそのまま都市名となっている所も多いが、俗称では藩主の姓を称する所もあった。 「朝敵藩」・「曖昧藩」とされた所は、城下町が所属する「郡」が、県名とされた所が多い。例えば、高松(高松藩)は香川郡から香川県、姫路(姫路藩)は飾磨郡から飾磨県、名古屋(尾張藩)は愛知郡から愛知県、水戸(水戸藩)は茨城郡から茨城県、仙台(仙台藩)は宮城郡から宮城県、盛岡(盛岡藩)は岩手郡から岩手県、となっている。 「朝敵藩」・「曖昧藩」などの城下町・門前町・港町においても、「都市名」が明治維新で改名された後に、県名にされている所も見られる。例えば、明治維新で徳川将軍家(第15代将軍の徳川慶喜)が移住した「朝敵藩」に分類される静岡(駿府)は安倍郡に属すが、「安倍県」ではなく「静岡県」にされている。 また、当初は「郡名」を県名にしたが、再設置で「都市名」が県名にされた所もある。例えば、福井は足羽郡に属するが、1881年の再設置では「足羽県」ではなく「福井県」にされている。この他にも、富山は新川郡に属するが、再設置で「新川県」から「富山県」に改名され、徳島は名東郡に属するが、再設置で「名東県」から「徳島県」に改名されている。 石川県のように、美川(現白山市)から金沢へ県庁が移った際に、「都市名」を取った「金沢県」の名称を改めて、「郡名」から「石川県」とした所もある。 九州の県は全て、「都市名」が県名にされている。また、山陰・山陽・四国の9県のうち、「朝敵藩」とされた3藩のうち高松藩・松江藩の属した2県は、それぞれ「郡名」を取って香川県・島根県とされた(ただし、松山藩の属した県は古事記由来の愛比売から愛媛県となっている)が、それ以外の6県は、「都市名」が県名にされている。 一方で、東北地方や関東地方には、「郡名」が県名にされた所が多く、意図的に県庁所在地や県名が変えられた所も多い。 それには、宮武外骨が主張する「永久不滅の賞罰的県名」論によれば、薩長(薩摩藩と長州藩)と、その支援に回った「忠勤藩」が多いとされる西日本に手厚く、逆に奥羽越列藩同盟の東北地方や、江戸幕府のお膝元であった関東地方には、冷たく臨んだということになる。 特に、「朝敵藩」の双璧とされた奥羽越列藩同盟の盟主である会津藩の会津若松や、北越戦争で薩長軍と敵対した越後長岡藩の長岡は、それぞれ廃藩置県当時には比較的大きい城下町であったにも拘らず、いわゆる「賊軍」であるとされ、県庁を置くことも永久に許されなかった。 1876年8月21日には、旧会津藩領(若松県)は福島県(中通り)や磐前県(浜通り)と合併させられ、県庁も会津若松から遠い福島に置かれ、県名も郡名を取った「信夫県」ではなく、都市名を取った「福島県」とされた。 長岡が位置する中越地方(旧古志郡他)も、当初は柏崎に県庁が置かれて柏崎県となったが、旧新潟県(下越地方)や相川県(佐渡島)と合併させられ、旧越後長岡藩の領内で、1843年に天領にされた港町の新潟に県庁が置かれ、県名も郡名を取った「蒲原県」ではなく、都市名を取った「新潟県」とされた。宮武が言う所の「永久不滅の賞罰的県名」の典型例である。 ただし、宮武の主張は、県の廃置分合の過程に関わる個々の事情への考慮が薄く、単純に「史実」として受け入れることはできないという指摘もある。 越後長岡藩の場合、同藩が廃止されたのは廃藩置県の際ではなく、これに先立つ1870年11月13日であり、藩財政の破綻により藩の側からの願い出たものであった。政府はこの願出を受け入れて、同藩を廃止して隣接する柏崎県に編入した。この柏崎県は、戊辰戦争に際して薩長軍が占領した桑名藩の飛地領の中心都市である柏崎に、既に1869年8月から設置されていたものである。廃藩置県の時点で「県」に替わるべき「長岡藩」は柏崎県の一部となって既に存在しておらず、長岡を忌避してわざわざ柏崎に県庁を移したわけでは必ずしもない。 一方、会津松平家が斗南藩に移封された後の会津地方は政府直轄とされ、1869年6月13日に会津若松に県庁が置かれて「若松県」と称した。若松県は廃藩置県後も存続し、上述の通り1876年8月21日に福島県に合併された。「永久に許されない」とする前説に拘らず、7年間にわたって会津若松は県庁所在地であった。 なお福島藩も旧「朝敵藩」であるが、藩主の板倉家の三河重原藩移封後に同じく政府直轄となって、1869年8月27日に「福島県」が設置された。廃藩置県後、福島県は一旦「二本松県」となったが、数日で「福島県」に復している。 また、仙台県→宮城県、金沢県→石川県、宇和島県→神山県など改称例の多くは、実際は人心一新を望む県からの上申に政府が応えて実施されたものである。県令として赴任した者の多くが官軍側の出身であり、「人心一新」を必要としたのが旧「朝敵藩」や旧「曖昧藩」であったことに蓋然性はあるが、宮武説のように政府が「懲罰」として体系的にそれらの県の改称を主導したと断言することは難しい。 1876年に大規模合併が実施された県では、分割運動が起こって、分割された県も存在する。1888年末に香川県が愛媛県から分離されて以来は、都道府県の分割は実施されていない。 しかし、今もなお、都道府県の分割を求める声が、市町村長や都道府県知事やネット上などで見られる。ここでは、市町村長や都道府県知事が県の分割や分離を示唆している都道府県を挙げる。 2006年3月上旬に、嶺南(若狭地方)に当たる敦賀市や小浜市の市長が、「(もし道州制が敷く際に、)嶺北(越前地方)が北陸州へ入るなら、嶺北とは縁を切っても近畿州へ入る。」と発言し、嶺南の福井県からの脱退を示唆している。 筑摩県が分割されて、長野県に編入されて以来、分割を求める動きが度々出ている。合併後、県民意識を高めるために、県歌「信濃の国」が歌われている。 関門海峡の両岸に位置する下関市と北九州市が合併して、山口県や福岡県、さらには道州制の州にも属しない「関門特別市」を結成する動きがある。 新潟県 | 富山県 | 石川県 | 福井県 | 山梨県 | 長野県 | 岐阜県 | 静岡県 | 愛知県 カテゴリ: 地方公共団体 | 日本の地理 | 日本の都道府県 | 行政区画の単位 | 政治地理学 |
[ 109] 都道府県 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C
