産むとは?

本稿は出産を経験した女性たちがぐるーぷ・きりん(以下「きりん」と省略)のアンケートに自由に書き寄せたコメント集のうち、「陣痛促進剤について」分析することを目的とする。これは前稿(「産む文化 6」)「会陰切開への適応」の続編にあたる。
そこで前稿「会陰切開への適応」を本稿と関連づけながら簡単にまとめておくことにしたい。方法はそれぞれのコメントをコード化する中で、会陰切開という出産への医療の介入を女性たちはどのように納得し受け入れたのかを考察する上で重要な柱を構成すると思われる要因をとりだし、それらの相互の関係を分析するという手法をとった。
このような分析から出現してきた要因を用いて、「会陰切開への適応」の概略を図示しておくと以下のようになる。
「きりん」のアンケート調査対象者493名中、会陰切開を受けたという回答者は400名だった。このうち、およそ7割にあたる269名の女性は会陰切開が自分の出産にとって「やむを得ない理由があってのこと」と回答している。産む側としては「会陰切開はなるべくならしない方が良い」と回答者全体の8割近くが要望しているのに、二人に一人は自分の会陰切開を必然性があることと認識していることになる。
図1はこうした会陰切開への適応度が相対的に高いのはなぜか、ということをコメント集から析出した要因から説明している。もちろん、一人の女性が会陰切開をするお産としないお産を経験したり、事前説明とは違う切開後の痛みの経験や、会陰切開のない出産経験者の話を聞くことは、女性たちの会陰切開観を変える可能性をもつ。また今後のデータの収集によって、要因がさらに加えられたり修正される可能性もある。その点で、図1は不適応の局面や変化の局面を保留にし、傷のない身体の損失をなぜ受け入れるのか、という関心に答えるものである。
さて、前稿で要約したように、現代女性の支配的な会陰切開観は「できるなら切開しないで欲しいが、必要なら仕方がない」ということであった。
施術の局面では医師の判断で行われるのに、施術後に当事者である女性がそれらを根拠として納得しているのはなぜか。これは、母子の生命の安全性と健康の保証が限りなく100%に近づくことが追求された結果、99%以上の出産を病院に委ねた女性たちにとって「母子の安全」はあらゆる医療的介入の合理化目標とならざるを得ない。図1はこうした現代の出産状況を基盤として理解すべきだろう。
では、医療的介入の一つである会陰切開への適応を支えた要因と、本稿で扱う陣痛促進剤使用に対する意識や態度を構成する要因は関連するのだろうか。まず以下では、コメント全体の内容的分布と傾向をおさえておく。
陣痛促進剤(以下、「促進剤」と互換的に用いる)について、全対象者493名中、251名(50.9%)が使用した(された)と回答している。251名に対する「きりん」の質問項目とそれに対する回答は大変興味深い。
「きりん」の調査から、コメント集の分析と重要な点で関連する質問項目を拾ってみる。それらは[1]産む側からみた陣痛促進剤使用の理由[2]陣痛促進剤使用の提案者[3]陣痛促進剤使用に関し、医師は産む側の諾否を確認したか。それは口頭か文書か。[4]陣痛促進剤使用に関する医師の説明(効果と危険性)の有無[5]産む側からみた陣痛促進剤使用の必要性の有無、である。
コメント集の分析に先立ち、陣痛促進剤を使用した(された)251名を対象とした[1]〜[5]までの結果に関し、「きりん」の集計結果を一部整理し再掲すると以下の通りである1)
第一位は「身体的理由」(192名)、第二位「病院側の都合」(52名)第三位「自分の都合で計画分娩を望んだ」(17名)、その他(29名)である。
第一位「了承をとった」(57.8%)、第二位「了承をとらなかった」(42.2%)。了承は1名をのぞき、すべて口頭による。
第一位「どうしても必要であったと思う」(57.8%)、第二位「そう思わない」(32.8%)、第三位「わからない」(8.8%)、第四位「無回答」(1.1%)
本稿で対象とするコメントの書き手には、表1の回答者である陣痛促進剤を使用した人もしない人も、ともに含まれている。コメント集を分析する最終的な目的は、アンケート結果を背景情報として、調査側の質問の枠組みに拘束されない自発的なコメントから、より現状に即した産む側の出産に対する意識や態度を考察することにある。つまり、現在のように医療的介入が主流となった出産への適応とそれへの反発をともに研究の対象とし、それらがどのような要因のもとに成立しているのかを析出していく試みである。
そう考えると、コメントがサンプリング段階で統制できないという理由によらなくても、その量的分布がここでの課題にとって第一義性をもたないことはすぐわかる。そこでまず、コメント全体の様相はおさえた上で、個々の要因の析出とそれらの関連をみるという2段階を踏むことにしていく2)。
表2は「きりん」の調査対象者493名のうち、コメントを寄せた160名の陣痛促進剤使用経験の有無を示している。コメントからは判断できないとして除外した中に使用の可能性が考えられる例が少なからずあるが、これらを含むとコメントの対象者に占める使用経験者は約7割と推測される、調査対象者全体に占める陣痛促進剤使用者の割合は約5割であるから、陣痛促進剤使用者によるコメントが比較的多いといえる。
まず陣痛促進剤とは医学的には「子宮収縮剤」とよばれ、陣痛が起きていない場合に「誘発」したり、弱い陣痛を「促進」する目的で使われる薬剤をいう。日本で臨床的に使用されたのはオキシトシンが1954年から、プロスタグランディンは1974年からとされている3)。
図3は一条元彦らによる『計画分娩のすべて』(1975年)に掲載されていたものを引用した。図4は一条らの計画分娩に関する説明にしたがって図示したものである4)。あえて20年前のテキストから引用したのは、次のような根拠による。
日本母性保護医協会(1994年3月以降日本母性保護医産科医会と改称、略称日母)が「社会的適応による誘発分娩時に用いる用語」として「計画分娩」という用語を公に用いることにしたのが1973年。その20年後1993年11月日母医報で「計画分娩」という用語を廃止すると発表した。
この用語廃止の意味は、病院側の都合だけで分娩の時期を選んでいるのではなく、あくまで薬剤による分娩誘発が安全な出産にとって必要な臨床上の医療コントロールだという考え方を明示したものだった。
しかし図2に示す通り、この発表が単に言葉に終始しただけであって、医学的適応や社会的適応の範囲が内容的に変わったわけでもなく、誘発分娩が「広い意味で医学的適応に基づいて殆どが行われている」(傍線筆者)としている点では、むしろ「殆どの」出産を医学的適応としていく方針を含む見解と受け止められる5)。そのためむしろ「社会的適応による誘発分娩時に用いる用語」として「計画分娩」を用いると決定した時期のテキストを用いることで、計画分娩の位置づけを明らかにしておくことが重要だと考えたからである6)。
図3から計画分娩は経膣可能な医学的適応のない、自然分娩のできるものを時間的にコントロールする分娩であることがあらためてわかる。図4はそのためにそれぞれを単独で用いることも可能だが、多くは併用される3通りの方法を示している。
計画分娩に積極的な加藤宏一は「分娩時に起こるトラブルは、いかに注意深く最新の知識を動員して分娩に対しても、産科の性質上避けられない宿命にある。……現在の我が国の医療体制下でできることは、母児に後遺症を残さないように分娩時トラブルが発生した場合でも十分に迅速に適切な処置が出来る環境のもとで分娩をさせるためには週日の日中に分娩を終了させることである。計画分娩の必要性はこの点にあり、我が国でこそ必要な診療体制であるといわねばならない」と述べている。多くの専門家達のチームワークが揃うことが「完全な産科医療」を行なう要件だという考えである。また、彼は計画分娩群と自然分娩群の子どもを追跡調査し、防衛医大方式(加藤方式に近い)で行っている計画分娩によって出生した児の身体発育・精神発達は何ら悪影響を受けていないと考えているとし、さらに「3歳児の精神発達習慣のスコアリングを見ると、数字の上では計画分娩児の方がよいように見える」とさえ言い切る。彼の解釈にしたがえば「理論的には日中分娩により十分に管理されたもとで分娩された計画分娩の方が、夜中に難産で生まれてきて、十分な処置もされなかった児も含まれると考えられる自然分娩児より良成績を示すのは当然のこと」なのである7)。
こうした臨床医としての加藤の考え方が、先に説明した日母の立場を構成するそれと共通するものであることはすぐにわかる。
しかしこの医師側の見解と、産む側の見解とでは相当な開きがある。本論では、この両者の主観的ズレ−どういう状況を産む側は日母がいうところの「医学的適応」として認め、陣痛促進剤の使用を納得しているのか、あるいはそうでないのか−を明確にしていく。
コメントはヨコ44字で最小1行、最大でも8行、平均3〜4行程度の分量である。産む側から陣痛促進剤使用について、何に言及しているか項目を立ててみると、[1]陣痛促進剤使用をなぜ納得しているか [2]陣痛促進剤使用決定にみる医師−産む側の関係 [3]陣痛促進剤に対する基本的態度 [4]陣痛促進剤がもたらす痛みと、他の副作用に対する不安、の4項目になった。
これらのうち[1]〜[3]は前稿であげておいた「会陰切開観を構成する3つの軸」のうち〈会陰切開合理化認識〉および〈会陰切開了解条件〉と重複する。新たな軸として本稿で、[2]として相互作用を明示的にとりあげたのは、前稿では合理化認識や了解条件の一部としてコード化しておいたコメントであっても、出産をめぐる産む側の要望の提示や意志決定とか、陣痛促進剤使用時の「分娩誘発の要約」(使用するための条件)の一つとして先の日母の見解でもあげられている説明と同意(インフォームド・コンセント)がどういう条件下で成立するのかを考えるのに重要なコメントは別に主題化した方がいいと判断したからである8)。
また[3]として陣痛促進剤使用に対する基本的態度をあげたのは、会陰切開に比べ陣痛促進剤使用の場合、医療の介入はどこまで必要かに対する要望や態度が比較的多く表明され、また内容的にも多様性が認められたためである。
[1]は前稿と同様に、「自分の出産にとってなぜそれが必要だと考えているか」という意味で「合理化認識」という概念を用いており、しばしばそれは専門家がいうところの「医学的適応」と重なる点も同様である。違う点は、合理化要因の中から[2][3]と判断されるものは除いたことである。結果として[1]にコード化されたコメントのほとんどは「医学的適応」とさらに重なる傾向をもつが、なぜあえて「合理化認識」とか「合理化要因」と呼ぶのかは既に説明したのでここでは省略する9)。では[1]〜[4]の各項目ごとにコメントの分布状況を把握し、次にそれらを個別に分析し相互の関連をみていく。
陣痛促進剤の使用をどのような理由から納得しているか、その要因をコメントから取り出し表3に示した。要因の配列はコメントで言及される頻度に応じている。要因のうち2、3、7、9、10、12、13の各項目は陣痛促進剤使用の際の「医学的適応」に該当する。これらが全体のほぼ半分をしめる。会陰切開合理化要因との関連でいえば、合理化認識に大きく寄与していた「みんながするもの」という〈常識〉の作用や、「裂傷になるよりはまし」といった相対的満足も、陣痛促進剤使用の合理化認識ではあまり重要ではないようだ。
陣痛促進剤使用の場合、「帝王切開になることを考えればそれよりまし」というコメントも2例(127、148)あり、相対的満足が全くないのではない。観点を変えれば、医療介入の受け手はある選択をしなかった場合、より危険なコースを辿る可能性を示されると、現状の介入を合理化する傾向は常にあると考えられる。医療介入の程度が進むということは、出産が危険なコースを辿ることを示し、一般的には出産が帝王切開になる頻度は経膣分娩になる頻度より小さいわけだから相対的満足のコメント数が減少することは容易に予測がつく。
陣痛促進剤を医学的適応のない分娩に使用するかどうかは、病院によって積極的に行なうところとそうでないところがあり、日母の見解とは別に現場の産科医の間での方針はまちまちである。
総合母子保健センター愛育病院では「事情が許す限り行って」おり、また防衛医大の1989年から1993年までの分娩統計によると、予定帝王切開や緊急症例を除いた4028分娩のうち陣痛促進剤を分娩誘発および促進に使用したものは2564分娩であり、これは全体の64%を占める。他方、武久 徹らは彼の個人医院における1990年から1992年の総分娩数2194のうち誘発分娩は136例(6.2%)だったと報告している。武久産婦人科医院では「医学的理由以外の適応はゼロ」であったという10)。以上の例からも、医学的もしくは社会的適応の有無以前に、病院や医師の方針が陣痛促進剤使用の割合に決定的に影響を与えていることは明らかである。
全国規模での陣痛促進剤使用割合については推測の域を出ないが、「きりん」での調査でも2人に1人は使用し(され)、厚生省人口動態統計が明らかにしている火曜日をピークとする平日分娩数や午後2時をピークとする日中の分娩数が相対的に多いことを考慮すると、会陰切開ほど多くはなくとも、「きりん」の結果は全国規模での割合とそう違いはないかもしれない。
再び表3に戻って、陣痛促進剤の使用を産む側はなぜ納得するかを考えてみよう。合理化要因は次のように4つのタイプに分けられる。[1]医学的根拠の内面化: 専門家の判断する根拠となった医学的適応(項目2、3、7、9、10、12、13)が存在するか、使用を可能とする医学的要約(項目4、14)の一部を満たしている[2]他律的判断(項目1と項目6の全部または一部)[3]自律的判断(項目5の全部または一部)[4]結果に対する満足(項目6、8の全部または一部)。項目6は番号の分布からこれらのいずれにも関わりがあるとみてよさそうだ。
表3では合理化要因として、微弱陣痛と予定日を迎えても陣痛が発来しないことに言及したものが最も多い11)。この医学的適応や要約の存在(合理化要因[1])は基本的にもっとも重要であるにもかかわらず、現実の運用面では病院の方針や医師によってバラツキがあることも含め、これだけでは産む側の納得には不十分である。使用の納得には他の要因が影響する。第一に、この理由のもとに陣痛促進剤使用を十分納得するには使用の決定にいたる医療者と産む側との双方向の関係が重要である。これについては次の4−3で記述する。第二に、産む側の使用に対する基本的態度である。これは4−4で述べる。第三に、産む側の事前の情報収集とそれに基づく判断と理解である(合理化要因[3])。
しかし合理化要因が医療スタッフとの相互作用によって支えられなくても、また産む側がさまざまな選択肢や情報を考慮しなくても、陣痛促進剤使用を評価し納得する可能性もある。陣痛促進剤使用が結果的にその個人の出産にとって効果的に機能した場合である(合理化要因[4])。逆に使用してみた結果、それが機能しないばかりか、副作用や強度の痛みをもたらす可能性もあり、それによって促進剤は危険だという認識も生まれる。二つの典型的事例をみてみよう。
「一人目のお産は2日がかりでとても大変な上に微弱陣痛ということで、陣痛促進剤を使用したことで自分も使用した後は楽だった。」(99)
「一人目の時は微弱陣痛で長い陣痛の後に、吸引分娩になりました。それを思えば二人目の時(陣痛促進剤使用)は、陣痛が波のように起こり、会陰切開もせずにすんだので、出産そのものだけを比較すれば、ものすごく楽なお産でした。」(111)
「私の場合予定日までは間があったのですが、かなり下がっていたのが自分でもわかり、どこで生み落とすかしれないという事が理由で、計画出産しました。幸い、陣痛も短く楽なお産でした。(第二子)第一子の時、子宮もかなり開いていたのにも関わらず、陣痛が弱かったので促進剤を使用しました。いずれも楽なお産でした。」(131)
「私の場合予定日超過(15日)ということで使用したが、まったく効果なく(一番強い薬にも)、結局微弱陣痛で用手法になってしまった。促進剤は間欠時期もなく、ただしめつけられるだけなので、母子ともに苦痛がある。何らかの危険がない限り使うべきではないと思う。」(52)
「第一子の時は予定日を2週間近く過ぎても陣痛がなかったため、人工的に陣痛を起こしました。その時は(促進剤を使用して)非常に苦痛でした。「待つお産」であればできるだけ使用せずにすむと思う。しかし、子供に危険が迫っている場合、どう判断するか医師に任せざるを得ない。」(95)
「私の場合三人目を出産した時、一度おきた陣痛がなくなってしまったため、促進剤を使用したのですが、自然の陣痛と違い痛みが強く急激で、そのわりに子宮口は開かず時間がかかり大変でした。」(100)
「陣痛が来なかったので使用したが、いきなり激しい痛みになるから本当つらかった。自然と痛みが少しづつくるのと違い不快です。」(132)
「陣痛がものすごくきつくなったのですが、初めてなので、促進剤による異常なのか、陣痛がそんなものなのかわからない」(72)
「第二子の時、子宮口が全開しているのにいきみが来なくて、注射をされた。その直後にいきみが来た。その注射については何の説明もされなかった。出産も普通にすみ何の異常もなかった。」(116)
「早期破水だったため、納得も何も、しなければならないものと思った。結果についてもよかったのか不必要だったのかわからない。」(129)
「何の説明もなく、知識もないまま一方的に行われてしまったという感じがします。したがって私の場合、是であったのか非であったのかいまだにわかりません。」(155)
ここでいう判断保留の対象には、陣痛促進剤により自分の身体に起こったことや痛みに対する場合と、分娩室で医療者が行った処置に対する場合の二つがある。自分の身体に起こった異常を異常と認められるか、痛みをどう判断すべきか、これらは比較参照すべき自分の過去の身体経験や身近な人の身体経験がない場合、むずかしい。女性たちにとって身体経験に関する情報を共有する場がなければ、よほどの苦痛や危険な事態に遭遇しない限り、「こんなものかなあ」とか「仕方がない」というところに落ちついてしまうのは当然かもしれない(合理化要因[2])。次のコメントは産む側のこうした意識をよく示している。
「医師に必要だと言われれば、信頼して任せるよう他にないのは仕方がないこと。陣痛の始まっている状態で、身体的にも精神的にも緊迫した中で説明を求めたり抵抗したりできない。」(91)。
出産における専門家のサービスに対し、製品の購買者と同様に、それが不要だとか欠陥があるとか不十分であるということを消費者として明確に言いにくいのはなぜだろうか。サービス提供者が医師を中心とする医療スタッフであるということは重要な要因だ。そのためにサービスの受け手は黙ってそれを所与のものとして受けとめてしまいがちだ。これに加え、先に述べた身体経験に関する情報の欠落、4−3で触れる分娩室という環境における産む側の依存的位置、そしてなによりも情報とサービスの提供とその内容の決定が医療スタッフ、とりわけ医師に集中していることが大きな要因だと考える。
表1に概要を示した「きりん」の結果では陣痛促進剤の使用は不必要だったと考える女性は3割にすぎない。およそ7割の女性は医師の語る医学的適応の内容を、自分の陣痛促進剤使用理由とし、納得したり、納得しないまでもその是非を判断保留している。これは病院分娩が所与となり、医師の存在なくして出産が考えられなくなった現代のあり方が、産む側の意識に反映されたものに他ならないといえる。
陣痛促進剤の使用をなぜ納得しているのかについて分析する中で、使用を納得するにはその使用理由が説得的であるだけでは不十分であって、陣痛促進剤使用決定(または使用しない決定)にいたる医療者と産む側との関係が重要であることを指摘した。具体的なコメントを紹介しよう。
「危険性は医師から十分説明を受けるべき。点滴の時に、気軽に投与量を増やされたことには不安を感じた。説明がほしかった。」(4)
「足のむくみが出始め、妊娠中毒症の危険を説明されて、すぐに出産ということになったが、後から周囲を見ると実は病院側の都合が優先していたように思う。分娩後出血が多かった。自分の知識不足で病院側の計画分娩に了承し、結果的にそれが陣痛促進剤使用(暗黙のうちに)ということになったことに怒りを感じた。」(5)
「『陣痛早めましょう』という言葉のみで、了承を求めたとも言えるし効果についての説明とも言える。初めてのことで、あのまま使わなかったらどういう状態だったのかわからないし、とりあえずは何事もなくよかったと思う。」(6)
「私の場合人工的に破水させられ、痛みだけが(激痛)30時間以上も続き、そんな場合陣痛促進剤がどのように効果を示したか、またはそのために長時間苦しむことになったのか、何もわからない状態で出産し、かなり疲労しました。」(16)
コメントを4例ほど示したが、陣痛促進剤使用について[1]医療者側から短い説明によるか、時には説明ぬきで決定が下され、[2]陣痛促進剤による効果と副作用が産む側に理解されておらず、そのため[3]産む側の意向や判断に基づくものではないことが共通している。
使用の決定にみられるこうした関係を本稿では〈一方的関係〉と呼ぶことにする。専門家とサービスの受け手にしばしばみられるこの関係は、産む側が陣痛促進剤に関する知識・情報をもっていない場合(とりわけ初産の場合)に強化される。コメント6以外にも、「第一子は何もわからないまま、医師のするままに任せてしまいました。」(27)、「何も言わずされるままだったと思う」(32)といった産む側の自覚的な判断のない薬剤の使用が読みとれる。
こうした使用決定が〈一方的関係〉の中で起こる条件としては、産む側の情報不足と使用の情報提供の不十分さの他に、提供時期も含まれる。つまり会陰切開と同様に、すでに分娩が開始し産む側の関心が自分の身体の痛みや疲労に収斂し、分娩がなるべく早く終わることに向いている時には、冷静な判断が難しいと考えるのが妥当だろう。しかし現実には薬剤の効果だけ(「きりん」のアンケート結果では口頭による了承を求められたのは約6割。そのうち副作用の説明を受けていない人が約9割)に関する短い説明か、使用することそのものの了解すら得られていないのが、産む側からみた現状なのである。
こうした〈一方的関係〉に対し、決定に至るまでの過程が双方向的である場合は産む側はどのような受け止め方をしているだろうか。これに該当するコメントは160のうち6例だけだった。長くなるが全例を紹介しておこう。
「私の場合、a.m.6時に10分間隔で入院したのですが、その後間隔が長くなり、疲労を感じたのでp.m.6時頃、知り合いの助産婦さんが陣痛促進剤の使用を促してくれ、納得して使用しました。」(3)
「自分の場合は、予定日より超過し過ぎて陣痛が来ないのです。一人目は一日目は薬を飲んでもだめで、二日目点滴によって出産できました。二人目は薬によって一日目で産まれました。いろいろと本やテレビなどで危険性について知っていましたが、助産婦さんが必ずついて下さったので安心していました。」(49)
「私の場合、初産で、どの程度の陣痛がくればよいのかわからずに一晩過ごしました。主治医の先生はなるべくなら自然に任せましょうといってくれました。でもあんまり微弱な様子だったために、促進剤を使用すると説明を受け使用してもらいましたが、それでもなかなかスムーズには分娩できませんでした。個人差はあると思いますが、私は使用してもらって良かったと思います。」(65)
「予定日より2週間過ぎていても陣痛が来なかったので、ぎりぎりまで待って先生と相談して分娩誘発剤を使用しました。陣痛促進剤もむやみに使用するのではなく、妊婦の状態によっては使用しなくてはならない事もあると思います。その時には医師からの説明を聞いて、きちんと理解した上で使用することが大切だと思います。」(68)
「私は自分の出産する病院について(すべて計画出産の病院)、事前に本を読んでいたし、検診時など助産婦から計画麻酔分娩のことについて説明されたので、促進剤などのことについても了承していました。医師も助産婦も親切で、また技術的にも促進剤で何か間違いがあるとは感じられませんでした。促進剤そのものは、必要な場合もあると思う。問題は使用する側と産婦の意識ではないか。」(90)
「私の場合、夜破水して入院したが、子宮口も固く夜だということで朝まで様子を見ることになり、促進剤を使わず、その後急速に進んで朝方出産しました。破水後の促進剤は必要があると認識しても、やはり抵抗があったので、結果的には使わずにすんで、先生の判断にはありがたかったと思います。(ただし、出産時あわててらしたようですが。)」(109)
はじめの4例は微弱陣痛(そのため分娩が長期化し母体が疲労)と予定日超過が使用の理由とされている。最後の2例は、一つが病院の方針を産む側が予め了解した上で入院し分娩にいたっており、コメントには分娩時の具体的な相互作用には言及していないが、情報が相互に交換され納得していることがわかる。もう一つは早期破水であるから医師によっては陣痛促進剤使用決定にいたるかもしれないところを、産む側が使用しない意向を表明した結果、医師もそれに応じた経過が示されている。
使用にいたる場合、医師から出産の過程の説明を受けることで自分の出産にとって陣痛促進剤が必要である理由を認識し、その上で使用に対する意向を表明している。その経過が助産婦によって継続的に観察され急激な進行にも対応できるようになっていた。この場合の助産婦は単に医師の処置に対する補佐的存在ではなく、産む女性の疲労によっては陣痛促進剤の使用を促すという、医師とは異なる立場で出産の進行に関与している。
産む側は使用決定までに自分なりの感覚や認識に基づき、一方的に決定を迫られるのでなく、医療スタッフと双方向的に相談し、その上で陣痛促進剤使用・不使用に決断を下し、納得している。こうした決定や了解過程を保証する関係を〈双方向的関係〉と呼んでおく。
木下康仁は「寝たきり老人」の介護状況において介護者と被介護者の関係は、「社会的に逃げられない状況」に置かれやすいという。つまり特定の介護環境にあっては老人にとって介護者(ケア職員とか家族)は命綱になり、同時に介護者も介護を放棄することができない。そうした関係にあると「逃げられないがゆえに自由な感情表現を避ける傾向がきわめて強い」(「感情交流の極小化」)と指摘する。こうして起こる「言葉のやりとりも動作もパターン化され、コミュニケーションが平板になる」関係を、彼は「儀礼的関係」と呼ぶ。
これに対し「人間と人間の関係を活性化させる相互作用のダイナミズム」をもつ概念として木下は「三者関係」を対置させる。第三者とは物理的な存在ではなく、硬直した二者関係に陥らないための風穴であったり、関係の豊かさを保証するための概念的存在である。
さてこの考え方は医療者と産む側との関係を考える上でたくさんのヒントをもつ。施設で出産することは医師や助産婦、看護婦らが主導しやすい立場になる。産む側は、近親者や友人もいない場で面識のまったくない、もしくはあってもそれほどの親しさのない他者である医療者に文字通りむきだしの関係にさらされる。こうした状況で医師と違う立場の助産婦や看護婦がいること、あるいは夫や友人が立ち会うといったことは、概念的な第三者の役割を果たすために、産む側はより感情を表出し、自分の要望を出しやすくなる12)。
出産の場で、産む側と助産側が相互の希望や方針をどう出し合って調整していくか。二者関係であっても相互理解の上で方針が決定できれば〈一方的関係〉にはならない。だが表3をみる限り、コメントの対象者の大半はこの一方的関係のなかで陣痛促進剤の使用を決断しているといえそうだ。次のコメントはその心情をよく表している。
「医師が『使う』と言うと何故か『そうか』と思い込んでしまう。やり取りをする気持ちの余裕がない。」(96)
介護関係を「儀礼的関係」と「三者関係」という対概念で分析した木下は前者を「人間の関係性の豊かさが極小化したときの関係のあり方」であるとして、これを「克服されなくてはならない関係」という13)。
分娩室における産む側と医療者との関係は、一般の診察室における患者と医療者との関係と様相が異なる。出産時に高くて固く狭い分娩台に乗ることは産む側には身体的な負担が強いられる。それ以上に特徴的なのは、下半身に衣類をつけず足を固定された状態は、産む側を精神的には医療者に対し隷属した独立性のない人間にしてしまう傾向がある。それだけに、寒いと言ったらタオルケットや毛布をもってきてくれたことや、娩出後、足の固定をとって赤ちゃんを抱かせてくれたといった、医療者による周辺的で小さなサービスが産む側の出産時の苦痛をやわらげる相互作用として記憶される。逆に、否応なく依存的な関係に追い込まれた結果、「叱られる」「怒られる」「笑われる」ことに対する産む側は非常に敏感になる。分娩台について寄せられたコメントからいくつか示してみよう。
「子宮口が10センチになってさていきむ時に心身ともに疲れていて全然いきめなくて看護婦さんに『しゃがんでもいいですか?』と聞いたのですが、とても怒られてしまいました。」
「いきむとき上から見下ろされて声をかけられることや、医師や助産婦の目が会陰に集中して、腕組みをしている。そして自分は天井しか見れないことが空しかった。」
手術台の患者ならば、すべての手続きは医療者の指示にしたがっていくところを、出産における分娩台では自力でのぼり、自分の力でいきみ娩出することが期待されながら、医療者は全員が立って動ける状態で、産む側は彼らより低く仰臥し、そして足を開いて足首を固定した状態をとる。産む側が期待される自立性を分娩台の姿勢は見事に裏切っているともいえる。コメントは、自立性を失った姿勢にある女性が出産時に精神的に、いかに依存的で医療者の言動に過剰に反応しやすい状態になっているかをよく例示している。
産む側の陣痛促進剤に関する情報の獲得と平行して、分娩状況での双方向的関係の創出とそのための環境づくりは大きな課題である。
ここでは先にあげた4つの軸のうち、[3]陣痛促進剤に対する基本的態度、および[4]陣痛促進剤がもたらす痛みと他の副作用に対する不安、について考察を進める。
陣痛促進剤使用について「促進剤を使用するということに、何らかの抵抗や不安がありますか」という問いに「きりん」の調査対象者493名のうち約8割はあると答え、「なるべくなら使用しないほうがよいと思いますか」という問いには約9割近くが「はい」と回答している。
逆に陣痛促進剤使用に抵抗や不安がないとする人は15.2%、使用しない方がいいとは思わない人も5.2%はいた。コメントのなかにもごく少数例ではあるが「計画分娩大好き型」といってもいいタイプがある。
「私は自分から計画分娩希望だったので、それに子宮口も2センチほど開いていたので、先生は『あなたは大丈夫』との事でした。先生は安全だといっていましたし、もし先に陣痛が来なくても使ったと思います。」(63)
このように陣痛促進剤使用を積極的に歓迎する女性は、アンケート結果をみても、これまでの分析を通じて記述してきたようにごく少数である。多くは身体への薬剤使用への不安をもっている。医学的適応を合理化要因としながらも、陣痛促進剤が大きな苦痛をもたらすことがわかった時、陣痛促進剤への態度は変わる。
「長男を出産する時に微弱陣痛だったので促進剤を使いました。腕に針をさした途端に激痛が走り、『これはすごいものだ、二度と使いたくない』と感じました。次男、三男出産時は、医師に促進剤は使いたくないとお願いし、自分の力で産みたいという意志を理解してもらい、促進剤は使わずに出産しました。自然にまかせ出産したのと、促進剤を使ったのでは、ものすごく違うことを体験しました。赤ちゃんは自分で出よう出ようとしているのです。その赤ちゃんの気持ちを促進剤でめちゃくちゃにしてはいけないと思います。」(64)
表5はコメントに現れた陣痛促進剤使用に対する態度をコード化したものである。コメントの表現になるべく即して分類しているため項目間の内容的重なりはあえて整理しなかった。しいて、陣痛促進剤使用に対する許容度で表すなら6>1>2>5>7ということになる。3、4は、6、1、2にまたがる。
コード化を進めながら気づいたのは、「自然な出産」「自然な力」といった表現が何度となく登場したことである。こうした形で出てくる「自然」観は出産観の分析にとって、文化的脈絡のなかで改めて主題化する必要があることだけを指摘し、項目3として立て〈自然分娩志向〉と呼んでおく。またこの自然分娩志向や次に述べる使用条件最小化原理が陣痛促進剤使用や出産経験に先だって形成されているのか、それともこれらの経験後に明確になったのかはここでは区別しないことも付け加えておく。
表5からもう一つ特徴として指摘できることは、項目1に示された陣痛促進剤使用を最小限にとどめるべきだとする態度が相対的に多くみられることである。これを本稿では〈使用条件最小化原理〉と呼んでおこう。これら〈自然分娩志向〉と〈使用条件最小化原理〉は項目1、2、3、4にみられる態度あるいは志向である。
こうした態度もしくは志向がいつ形成されたかは問わないとしても、なにを根拠としているかを、コメントから推測しておくことは意味があるだろう。その根拠は[1]身体への信頼感[2]薬剤一般に対する忌避感、そしてこれとは別に[3]陣痛促進剤の危険性に対する不安、ではないかとわたしは考えている。[1]と[2]は別のものではなく、生体としても胎児環境としても自然なリズムをもつ身体だからこそ、化学的に合成された薬剤によってそのリズムを破壊することに対し、忌避ないし躊躇するということだ。この忌避ないし躊躇が薬剤拒否までにほとんど至らないのは、病気を治癒し身体の危機を救い、健康を回復する正当性が医師に独占的にあり、これを否定できるだけの明示的な科学的根拠や他の選択肢をわたしたちがもっていないことがその理由だろう。
[3]の陣痛促進剤の危険性に対する不安をここでは〈促進剤危険性認識〉とよんでおく。陣痛促進剤使用による事故は、近年になって新聞、雑誌、あるいはTVといったメディアを通じて比較的よく知られるようになった。「きりん」のアンケート結果でも72.2%の人々が知っていると答えている。
コメントで陣痛促進剤使用の危険性について言及したものを拾ってみると表6のようになった。陣痛促進剤の危険性を知ったのは実は自分自身の出産後だった、というコメントは8、出産前から知っていたとするものは3、他の3つはいずれとも判断できなかった。493名全体のうち7割が危険性認識をもっていたとしても、やはり半数以上は自分の出産の後にその危険性を知ったのだろうか。アンケートからはこれに関する回答が見い出せない。
いずれにしても使用される薬剤のもつ危険性を自分の出産前に知るのと事後に知るのとでは大きな違いがある。既に表1でみたように、「きりん」のアンケートから使用前に陣痛促進剤の効果に関する説明がなされたのは半数に満たないことがわかっている。危険性に至っては9割近くの人々が説明を受けていないという結果である。もちろん、医療スタッフ側の見解を無視して産む側の見解に全面的に依拠することに反論が出るかもしれない。医師が説明したのに、産む側がそれを説明として受け止めていない事態もありうるからだ。
しかし4−3で検討したように、病院出産という現代社会の支配的な分娩様式における医師と産む側の関係を考えれば、出産の質をサービスの受け手から見直すことが第一に重要であることはわかる。さらに陣痛促進剤使用を出産前から予定していた人は2割以下であること、大半は入院後出産が始まってから使用が決定され、しかもその使用の提案(あるいは決定の通達)の9割が医師からという結果は、この重要性を強調する意義をさらに確信させる。出産後に知ったコメント例をみてみる。
「自分のお産の時はまったく知らずにいて、NHKの報道で知った。その後産科に勤務したが、その産科の医師も陣痛促進剤は(他院より使用量は少ないということだが)かなり使用していた。」(85)
「私の場合は陣痛が予定日をかなり過ぎても来なくてやむを得ず使用しました。その時は全く知識がなくて何も思わずにいましたが、かなり後で使用による事故の話の記事などを読み、驚きました。」(107)
陣痛促進剤が医学的適応を越え、広く使用されるようになったのは1970年代前半であり、こうした使用の拡大に対し、現場の産科医の間でも見解が分かれていたことを背景に日母が1973年に「計画分娩」という用語を公式に定義したことは3で記述した通りである。しかし陣痛促進剤がどの程度頻繁に用いられるものか、それによる副作用はどういうものであるのか、また母親の死亡、子の死産といった最悪の事態が起こる可能性などに関する情報はほとんど一般に知られなかった。にもかかわらず、「陣痛促進剤による被害を考える会」によれば、会に報告があっただけでも、陣痛促進剤による事故は1970年に1件、1975年に1件、その後確実に増え、1992年現在で93件あり、このうち60件が裁判にもちこまれ、18件が裁判準備中であった14)。
これらTVや雑誌等で報道されるようになったのは先に挙げたコメントにあるように、ごく近年のことである。〈促進剤危険性認識〉の普及には、医療裁判の困難にもかかわらず、陣痛促進剤の被害にあった女性たちが裁判を通じてその実状を明らかにし始めたことが大きく寄与しているようだ。
彼女らが裁判を通して公的な活動に入ったのは1980年代後半になってからである。たとえば1985年に出産事故にあった町田市在住の夫妻が提訴していた裁判は、子どもが仮死で生まれその後死亡した(母親は子宮破裂および子宮全摘)のは病院側の責任であると、1993年1月の東京高等裁判所による判決で終結した。この病院が上告せず、7年半にわたる裁判が産む側の全面勝訴によって終わったことは、マスコミに広くとりあげられた。この判決後まもなく、陣痛促進剤に関するTV報道番組がいくつか組まれている15)。
〈促進剤危険性認識〉の形成は知人や友人が死亡したり子どもが重度障害をおったといった直接的情報によるものと(コメントでは2例)、週刊誌やTV、あるいは医療裁判に関する新聞記事など、マスコミ報道による間接的情報がある。表6からは、後者の影響が大きいことが推測される。だとすれば、陣痛促進剤がやみくもに危険という形での報道ではなく、どのような状況での使用が危険であり、また必要なのかを知るための情報提供は重要だといえる。
コメント数では前稿の「会陰切開」より少なかったものの、「陣痛促進剤」もまたそれ自体の必然性の有無、身体への危険性の問題、使用までの決定に至る医療者と産む側の関係のあり方、産む側の情報の不足と基本的態度、そしてマスコミの報道の内容と時期、といったさまざまな問題が含まれていることがわかった。
会陰切開や陣痛促進剤の使用に関するコメントを読み、その中で産む側の医療的介入に対する要望を代表したものを出すとすれば、わたしは次のものをあげる。
「(促進剤を使用しての結果)難しいです。子供が無事であったことに対してはよかったと思います。異常と呼べるものかどうかわかりませんが、身体の回復にかなりの時間がかかったと思います。決して安易に使用すべきものではないと思います。慎重な上にも慎重に、使用しなければならない時のみのものだと思います。そして、促進剤イコール悪といったイメージを持つことも、注意しなければならないと思います。もし、それを使わなければ、不幸な結果になったであろう出産も中にはあると思いますので。」(136)
現代の病院分娩を前提として、そこで支配的な<一方的関係>を変えていく方法の一つとして、弁護士鈴木利廣は「より人間的なお産を求める声が、とりもなおさず妊産婦の権利だというふうにとらえていいと思う。そして助産婦は、妊産婦からその権利の擁護者として期待されているわけです。その期待に応えるためには、患者の権利運動の文脈から言えば、お産に対してさまざまな選択肢があることを伝えることから始まる」と述べている16)。ここでの助産婦とは医師−産む人の媒介にたつ第三者である。もちろん〈双方向的関係〉の創出には、たくさんの方法があるわけで、病院分娩を前提にしなければさらにその選択肢は広がってくる。
しかし、こうした選択肢が見えてくるかどうかは産む側にも依存している。既にコメントを通じてみてきたように、「そうするものだと思っていた」とか「こんなものかなあ」といった態度や思考様式がいつのまにか形成されていく中で、わたしたちは何が選択できるのかを知る努力を怠っていたのではないだろうか。いや怠っていたと思う以前に、こうした常識を自明のこととする文化の中でわたしたちは出産に対処していたのであり、本当に自覚的な少数の女性やカップルが現代の出産に対し自分自身の責任においてそれを受け止めるか、あるいは疑問を抱き、別の選択肢を模索していたと考えるべきかもしれない。
選択肢を広げるためには、産む側に向けた当事者観点にたった情報提供も重要である。吉村典子が「出産の時産婦の身体がどのような状態になり、産婦自身が各段階でそれをどのように感じ」るかを、助産者の見え方と同時進行の「出産のドキュメント」として記述した箇所
17)。は、医学書からまったく抜け落ち、また出産を迎える女性たちに渡される手引き書からも抜け落ちていたところだった。つまり、まず正常な軌跡を辿った場合の出産を知ることと、それを当事者の感覚の変化を中心とした情報のまとまりとして手渡し共有することが大切なのである18)。
さらには、産む側の多様な声をまとめて提示していくこともまた大変重要であり、その意味において本稿が依拠した「ぐるーぷ・きりん」の活動や成果はおおきな意味をもっている。それによって個別の私的だと思われた経験が広く女性たちに共有されるものだと気づくことができるからである。本稿の分析がこうした個々の女性たちの出産をめぐる経験をすべて包括し得たとは思わないが、多少とも意義をもつとすれば、これらの個々の経験がどういう条件のもとに生まれてくるのかに着目して関連づけ、その条件を明らかにし、納得のいく出産に向けて何が変えられていく必要があるかを暫定的ながら提示したことにある。
「きりん」の集計結果は質問によって、その回答数が一致しない。質問項目が非常に具体的で細かく、項目数が多いこと、また人によって出産の経験から長い年数を経ていることが、こうした結果をもたらしていると思われる。したがってここではその中でもほぼ回答数の一致した項目を選んでいる。
コメントが寄せられた8項目とは「会陰切開について」(222)「内診台について」(58)「分娩台について」(207)「陣痛促進剤(分娩誘発剤)について」(160)「分娩時の夫の立ち会いについて」(240)「母子別室と母乳育児について」(126)「妊産婦のこころについて」(204)「助産婦の仕事と助産院について」(150)「助産婦と助産士について」(141)である(項目の後の数字はコメント数を示す)。 コメント数が多いことは、必ずしも産む側の関心の高さを反映しない。「分娩時の夫の立ち会い」のコメント数がもっとも多いからといって、産む側にとって陣痛促進剤使用や会陰切開を受け入れるかどうかの決定より、夫立ち会いの是非がより重要な問題だとは誰も判断しないだろう。
1993年12月12日毎日新聞朝刊、および日本母性保護医協会メモ「I いわゆる”計画分娩”に対する考え方−−計画分娩という表現の廃止−−」1994年1月。日母の会見の際に説明書類として配布されたこの資料は、会見に出席されたきくちさかえ氏が送って下さった。陣痛促進剤について補足すると、医学的に用いられる場合は子宮収縮剤というのが一般的であると述べたが、全く一般的用語として医学上使われていないわけではない。『産婦人科治療』Vol.64, No.5、1992年、862〜865ページ参照。
詳細は大出春江「“計画分娩”について考える」『助産婦雑誌』Vol.48 No.6、1994年、参照。
図4の機械的(器械的)方法として現在もっとも一般的なのは、ラミナリヤ桿の使用である。これによって、子宮頸管が成熟しなければ除去した後、再び挿入。(これを抜去してメトロイリンテルを用いるとかプロスタグランディンE2を内服する場合もある。)順調に進行すると、この後に子宮収縮薬を点滴し分娩に至る。どういう手順を踏むかは、どの程度どの薬剤を用いるかは各病院や医師によって異なる。
コメントのコード化するのに相互作用を主題の一つとしたのは、木下康仁が介護状況における「儀礼的関係」と「三者関係」という(用語としてはやや未完成ではあるが)大変示唆的な概念を提示したことに刺激されたためである。木下康仁『老人ケアの社会学』医学書院、1989年、第11章参照。
大出春江「産む文化 6−−現代女性の出産観:会陰切開への適応」東京文化短期大学紀要、第12号、1994年、71ページ。
総合母子保健センター愛育病院については『周産期医学』Vol.21,1991年、臨時増刊号、204ページ、防衛医大の分娩統計については『周産期医学』Vol.24, No.12、1994年、12月号、1645ページ、武久産婦人科医院については『産婦人科の実際』Vol.41, No.11,1992年、1743ページをそれぞれ参照。
「妊娠37週より42週の間の分娩であれば、正常の正規産」とよぶが(松山敏剛「妊娠分娩の生理」『教育と医学』40巻3号、1992年)、実際には「ほとんどの施設で満41週をすぎると入院管理の上で分娩誘発を行って」いる(1994年1月日母前掲メモ)という。つまり予定日超過1週間ということになる。コメントで予定日超過とするものは短いもので6日、長いものは16日にわたり、14日あたりがもっとも多かった。
夫立ち会いを望ましくないとする意見が医療者や産む側の一部にある。その根拠の一つは、出産する女性をサポートするはずの夫に、産む主体の女性が依存するあまり、出産の遂行が妨げられるということのようだ。物理的に第三者が存在しても、産む側の意向や身体の進行にかかわらず、助産婦や看護婦が医師の方針に全面的にしたがったり、逆に産む側の夫や親族が産む女性の楽になりたい希望だけに応えていく場合は、ここでいう第三者とは呼べない。つまり三者が存在しても〈双方向的関係〉にはなり得ていない。
「陣痛促進剤に関する調査報告93例」(陣痛促進剤による被害を考える会調べ、平成4年)という資料は、会員である伊藤節子さんが送付して下さった。「陣痛促進剤による被害を考える会」(出元明美代表、会員50名)は1988年に陣痛促進剤により子どもが仮死状態で生まれその後死亡するという被害を体験した女性三人で結成されたものである。
[1]1993年3月14日読売テレビ「葬られし子へ、医療過誤の構図パートII」[2]1993年2月26日NHK「くらしのジャーナル:シリーズお母さん知っていますか」[3]1993年4月26日NHK「クローズアップ現代:誕生日を決める薬−−陣痛促進剤はどう使われているか」 [1]については舩橋惠子『赤ちゃんを産むということ』(NHKブックス、1994年、58ページ)で知った。
参考として手元の放送大学教材テキスト『母子健康科学 I』をみると、副題として「すこやかなマタニティーのために」とあるから、これから妊娠する人を念頭においた教材と考えていいだろう。執筆者はすべて医師である。
このテキストを読みながら奇妙なことがいくつかあることに気づいた。21ページには家庭分娩から施設分娩への移行によってもたらされた利点と問題点が図式化されており、子供の育成に関わることがらが伝承されにくくなってきたこと、それによって出生率の低下、母親意識の低下の問題が指摘されている。にもかかわらず家庭分娩の担い手であった助産婦への言及がどこにもなく、そもそも索引にすら載っていない。
また22〜23ページで「母子健康科学」を学ぶ意義が「自己の身体を知ること」「人の生命の誕生、子供の発達を、家族、学校、社会と接触した生活の中で、……理解し、その個人の健康の意義を考察できるように」そのために「抽象的・平均的な身体ではなく、自分自身の身体について具体的なイメージ」が得られる、といっているにもかかわらず、出産や避妊という誰にでも関心が寄せられる項目については当事者観点が完全に欠落しているために、実際には「自分自身の身体についての具体的イメージ」が得られないことである。
こうしたテキストの社会的影響力を考えると、当事者観点にたった出産情報の体系的な提供の大切さが一層明らかである。

[ 9] H.O.Text:産む文化 7
[引用サイト]  http://www.tokyobunka.ac.jp/dataroom/archives/shakai/text/text07.html

柳澤伯夫・厚生労働大臣が27日「女性は産む機械」などと発言したことについて、日本の女性国会議員28名は29日夕方に厳重な抗議を行ない、辞任の要求をし、申入書を手渡した。福島瑞穂・参院議員がほぼすべての女性国会議員によびかけた結果、与党女性議員の賛同は得られなかったが、連絡のつかなかった1名の議員を除く、すべての野党女性国会議員・衆参28名が賛同をした。
柳澤厚労相への抗議/要求を行った後、福島瑞穂、辻元清美(社会民主党)、岡崎トミ子、小宮山洋子(民主党)、吉川春子(日本共産党)らは記者会見を行ない、あらためて発言の問題点などを指摘した。女性議員が指摘した柳澤発言の問題点などは下記の通り(筆者要約)。
1500名ほどがあつまった問題の集会には、仕事を続けながら子を生もうかと悩んでいる女性もいた。そのような当事者の女性や、子育て支援が万全ではない日本社会で、出産をどうしようかと悩んでいるカップルの苦悩にも反するものだ。さらに不妊に悩む女性やカップルの悩みも踏みにじった。
訂正したといっても、発言内容のひどさは変わらない。傷ついている人は多いし、子どもの教育にもよくない。悩んでいる人たちを「機械よばわり」した責任は重大だ。
国連のカイロ会議で提起されたリプロダクツヘルス・ライツ(生む、生まないの選択権など)は、差別撤廃条約にも盛り込まれ、日本は批准した190カ国の1つである。その結果、リプロダクツヘルス・ライツの考え方は政府の関連白書や、内閣の男女共同参画の指針などに盛り込まれてきた。
そのような考え方を知らない柳澤氏には、厚生労働相に就任する資格はないし、安倍首相には任命の責任もある。厚生労働委員会の審議拒否も視野に入れながら対応すべき問題である。女性議員の抗議に対して柳澤厚労相は「私の妻も働いている」「娘には男性と同様の教育を与えた」などと釈明したが、「男性と同様の教育」発言の人権感覚なども疑う。
BBCなど国際的な注目も集まる中で、柳澤厚労相は事態の深刻さがわかっていない。欧州なら即刻、閣僚を罷免されてしかるべき発言内容・人権感覚だ。
女性は子を産む機械ではないし、年金の支給者をつくる者でもない。子を生んで育てることが、幸せだと思える社会をつくることこそが少子化対策なのではないか。人(ひと)としての、怒りの共感の輪を拡げていきたい。
新聞報道によると、柳澤伯夫厚生労働大臣は27日、松江市内で開かれた自民県議の決起集会で、「15から50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」などと発言されました。
男女がともに、子どもを安心して生み育てる環境を整備することは、厚生労働省の施策の大きな柱です。しかし、柳澤大臣の発言は、政府が果たすべき役割を棚上げし、少子化の問題を女性側に責任転嫁するものに他なりません。また、男女共同参画社会基本法にも明記されている「女性の性と生殖の自己決定権」を尊重するという視点が、柳澤大臣に欠落していることについては、驚きを禁じえません。
いま出産する病院さえ確保できずに困っている女性の現実を、柳澤大臣はご存知ないのでしょうか。一人ひとりに届く子育て支援、仕事と家庭の調和の実現、男女共同参画社会の推進など、担当部署である厚労省の課題は山積みです。
柳澤大臣は、後に発言を「適切ではなかった」と釈明をされています。しかし女性を、意思のない“産む機械”と例えることは、戦争前・戦中、国策であった「産めよ殖やせよ」にも通じ、女性の人権を踏みにじるものであり、断じて許されるものではありません。
安倍首相は、26日の所信表明演説で、少子化問題にも取り組む姿勢を強く打ち出したばかりです。しかし、このような認識の厚労大臣のもとで、提出される法案であるならば、私たちはその本意を疑わざるを得ません。
いま、国がすべきことは、単なる出産奨励ではなく、望む人がのぞむときに子どもを生み育てるための子育て支援、そして、現実に直面している少子高齢を前提にした社会の枠組みの編成であるべきです。
ここまで露骨な発言だと確信犯ではないかと勘繰りたくもなります。当人の「職務を全うしたい」という発言の一方で「ポストには拘っていない」なんて情報が出て来るのも、首相に慰留されているので辞められないとの印象を高め、政権へ与えるダメージを増しています。宏池会の安部潰しの策略というのは考え過ぎでしょうか?
辞任させるべきだ。安部内閣は困るから辞めさせない。この度の野党が審議拒否は駆け引きでなしに徹頭徹尾やるべきだ。中途半端はいけない。小生長年の自民党贔屓も今度ばかりは呆れた。同じ年代に生を受けた小生にして厚労相発言は理解出来ない。根底にある日頃の持論が噴出したのであろう。国民の多くはなんとか風の流れを変えたいと思っているのでは?なれど対する政党の確固たる論拠にいま一つの不安定さを感じている。国民の国民の為の確かなるリーダーを我々は欲している。
これは議員以前の問題であるにもかかわらず、自民や公明の女性議員達の消極的な態度は理解に苦しむ。野党であろうと、なぜ女性からの誘いに賛同しないのか。男女差別のなくならない理由の一つは、こうした一部の女性自身の態度にあることを、今一度しっかり考えてもらいたい。意見を求められて、不快感を表明した議員もいたがどこまで本気かと疑う。女性としてもっと結束しない限り、この大きな課題は、少なくとも日本では解決が非常に難しいと思います。
再度のコメントをありがとう。「経済脳」という言葉を、ある主の経済的発想の頭の固さの揶揄として使っているというのは理解しました。実際にそういう意味で使っていることは、文脈からわかりますし確かにそういう硬い発想の経済専門家もいるでしょうね。だから、そういう揶揄的意味では「経済脳」は便利な言葉かも知れません。脳科学者が「そんな物ない」という批判がありうるので、その批判も組んで「」に入れて使うなら良いかもしれませんね。批判的精神を記者は大いに発揮すべきだし、真面目な揶揄は大いに結構と私も思います。しかし専門家が一般人と日常の言葉を特殊な意味で使うということはよくあり経済学も例外ではないけれど、それでもやはり「女性=産む機械」とう発想は経済学からは直接出てこないですよ。柳沢氏の「日ごろ考えている経済との類似」という表現は、その場逃れのいいわけか、さもなくば彼の考える「経済」というのが、たとえば暮らしの経済や労働経済とは全く無縁の無機質ものなのでしょう。でも、そんな人々の暮らしの心を離れた「経済発想」で厚生労働大臣として少子化問題や厚生・労働問題を取り仕切られたら、国民は「たまったもんじゃない」と思いますね。
選挙制度は勉強不足できちっと議論できないのですが、比例代表制は運用がよければ死票を最小限にし、その点死票割合を最大化する小選挙区制とは反対の長所もありますね。でも国民は党でなく、人に投票すべきだと思いますから選挙民が個人を識別できない制度には問題があると思います。
>「女性=子供を産む機械」なんて、経済的発想ではないと思いますよ。人的資本論は人材の経済的生産性を問題にしますが出産を生産と同一視したりしてはいません。今回の発言はやはり柳澤氏個人の資質に負うところが大きいと感じます。
経済脳という言い方はちょっと乱暴でした。でも、経済畑でそこそこ「優秀な」人の一部に、えてして人を人と見れなかったりする傾向、森田さんの仰る「生まれてくる子どもたちを単なる数字としか見ていない冷たさ」という傾向が、厳然としてあることも事実だと思います。これは一種の職業病でもあると思っています。それを揶揄しての「経済脳」のつもりでした。
私は、最初にこの話を聞いたときから、「ああこいつもか」と思ったのですが、以下の釈明を見ると「あたり」だったように思います。
「柳沢氏は記者団には、『日ごろ考えている経済との類似の例えで説明しようと思った。おわびもしており、私の本意でないことははっきりしている』と釈明。」
前回は自分の感想だけ書きましたから、今日は少し他の記者と対話したいと思います。
佐藤さん、コメントをありがとう。比例代表性も個人の重みを減らしましたよね。前回の衆議院選では個人だったら選ばれないのに、自民党候補だから議員になった人が大量に当選したし。党が「お前は国民に選ばれたんじゃなく、党が議員にしてやったんだ」と言える議員が増えてしまった。これは国民にとっては損失ですよね。
別の点ですが、佐藤さんの「経済脳」という解釈、忍野さんも反発していますが、面白い解釈だけれど私もちょっとそれはと思います。確かに経済的発想には、実際以上に人々は損得勘定で動くというようなバイアスはありますよね。そういう発想が少子化対策をゆがめている面もあると思います。でも経済学に関する限りは性別には一応中立的な姿勢をとっていますから、「女性=子供を産む機械」なんて、経済的発想ではないと思いますよ。人的資本論は人材の経済的生産性を問題にしますが出産を生産と同一視したりしてはいません。今回の発言はやはり柳澤氏個人の資質に負うところが大きいと感じます。
真田さん、「何ですかこの騒動は」ですが、貴方のコメントは問題をよりはっきりさせてくれたと思います。騒動の理由は2つあると思うんです。ひとつは、「女性=子供を産む機械」という発想が、柳澤氏は全く意識していなかったと思うけれど、女性が子供を産むという役割と同一視されることからくる女性差別や自由の制限はそれこそ世界中で長い歴史があって、そこから長い時間をかけてやっと近年抜け出てきて、今日の男女共同参画を目指す社会があると思うのです。それなのに厚生労働大臣が「女性=子供を産む機械」などと、たとえ人口推計の説明のためであれ、無知・無神経にいう。男女共同参画社会基本法の理念と真っ向から対立する考えです。「この大臣は女性の置かれてきた歴史への何の理解もない人だ」と「男女共同参画社会基本法」を反故にする人だ、と反発する人が、女性に限らず多くいても、当然と思います。
第2点ですが、真田さんの指摘する柳澤氏の本音は「お願いだから、頑張って産んでくれ〜」ということですが、まさにそういう発想が問題なわけだと思います。素人が言ったのならともかく、厚生労働大臣がこんなことをいうなら怒って当然です。多くの女性は子供を産みたいと思っている、それなのに産めない、あるいは産まなくなる事情があるわけです。理由がいろいろあるけれど、わが国は子育てを非常にしにくい国だということがその大きなひとつの原因です。OCED発表の仕事と育児の両立度指数でも、わが国はOCED諸国のほうで最低のほうです。だから女性ががんばるとかいう問題では全くなく、子育てがしやすく子育てが喜びとなるような、社会環境を作るのが急務なはずです。そのことに政策上大きな責任がある厚生労働大臣が、そのことを棚に上げて、ただ女性にがんばってもっと子供を産んで、という。これはいわば労働条件の最低の工場の経営者が、労働条件はそのままにしておいて、「みんな、今以上にもっとがんばって働いてほしい」と言っているようなものです。冗談じゃない、と怒って当然です。
森田さんへ。同感です。子供の数を増やすことにしか関心がなく、生まれてくる子が幸せになること社会作りを重視していない。でも最新の少子化白書を読むと実質はともかく理念は後者の方向に向かっています。だから少子化対策が良い方向に向かうことを期待したいです。でも柳澤大臣は全くそうではなく、逆に全く後ろ向きで木戸さんのいうように、がっかり、というか、むしろもうがっくりですが。
だからね、機械という表現を使うと、真田記者がおっしゃるようにもとれるけど、別の意味にもとれる。いろんな意味にとれる表現なら使わないはずだ、と申してるんですよ。確かに「単なる産むだけの存在」ともとれますからね。
それと、子どもを産んでくれ、といいながら、安心して産み育てるどころか、相変わらず男だけが企業に取り込まれ残業し放題で母親過重負担になってます。
それに、国民の多くが何も考えずに結婚し出産してる(ただし一人っ子やDINKSを含め子どもが少なくなってるのは事実)という流れは、私ごときが吼えた程度で変わりませんよ。当然、この先収入が激減したらどうするかという対策を殆ど誰も打ってないですし、そうならないという保証はなさそうですから。状況を賢く考えれば、安易な結婚や出産は控えて正解です。別に他人が産むことまで止めようとは思いませんけど。
むしろ、生まれてくる子どもたちを単なる数字としか見ていないことに、冷たさを感じます。

[ 10] 政治・人権無視の「産む機械」発言
[引用サイト]  http://www.news.janjan.jp/government/0701/0701290053/1.php



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