胃散とは?

「太田胃散」の創業者である太田信義は天保8年(1837年)生まれ。鳥居藩(現在の栃木県)の家臣として文武両道に秀で、槍術御指南番を勤める傍ら、幕末維新における天下の情勢を把握するため、江戸に派遣され、儒学者田口文蔵の許で水戸藩をはじめ諸藩との交流を計りました。明治維新、廃藩置県に際し、信義は三重県四日市の高等官吏となり、後に東京で開かれた第一回内国勧業博覧会の開設委員として出向を命ぜられました。欧米文化の導入により急速に変貌する東京の経済情勢を目の当たりにし、信義の心は揺れ動いたのでした。官職を辞し、商道に入ったのは明治11年のことでした。
日本橋呉服町に居を構え、友人頼復次郎(頼山陽の子息)より譲り受けた『日本外史』及び『日本政記』の分版権により出版業を始めました。この頃、信義は胃病に苦しんでいました。信義が大阪へ出張した折診察を受けた、時の名医緒方洪庵の娘婿緒方拙斉医師の処方薬の効力が素晴らしく、間もなく長年の胃病は快癒しました。この薬こそ後に信義が譲り受け、売り広めた胃薬「太田胃散」に他なりません。拙斉の説明によると、この処方薬は先年オランダより来日したオランダ人名医ボードウィン博士の英国処方を譲り受けたもので、原料はほとんど英国本土及び英国植民地から取り寄せたもの。いわば「太田胃散」のルーツは英国処方ということであります。
信義は出版業を行うかたわら、明治12年に胃散元祖太田製として「太田胃散」を官許を得て売り出しました。「太田胃散」の発売に当たり、「宝丹」の森田治兵衛氏と「精綺水」の岸田吟香氏にお世話になったことが、大変大きかったことを書き添えます。
ドクター・ボードウィンは、ドクター・シーボルトに引き続き、長崎の出島に診療所を開いて、治療技術を新しく日本にもたらした他、塾を開き、医学教育を振興し、松本良順、緒方惟準等の逸材を輩出させ、さらに長崎、大阪に医学校を開く等、その功績は極めて大きなものと言えましょう。
125年経った現在も、英国処方に端を発した「太田胃散」が、最大級の売上を示していることは、「太田胃散」が日本人の食生活にマッチした胃腸薬であることを物語っています。
すなわち「太田胃散」に含まれる生薬の大部分が肉食を主体とするヨーロッパ人に必要なスパイスと同等なものから成っていることが注目されます。桂皮、肉豆蒄、丁子、茴香等はヨーロッパにおいて、食肉加工及び各家庭の調味料として多大の消費がなされており、「スパイス」=“健胃生薬”と言っても過言ではありません。スパイスで肉料理の味が良くなることは、体がスパイスを要求していることなのです。すなわち、脂っこい肉類の消化吸収のために、スパイスが直接間接的に役立っているのです。ボードウィンの遺方が、太田胃散として今日ある如く、多くの人々に役立っていることは、自然の貴重な産物である「生薬」の未知の世界の解明に心を燃やす人々にとって、大きな刺激になるものと期待されます。

[ 46] 伝統薬ロングセラー物語 太田胃散
[引用サイト]  http://www.tokakyo.or.jp/dentoyaku/otaisan/



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