京介とは?
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氷室京介が作曲し、一部作詞にも携わったKAT-TUNの新曲「Keep the faith」が、10月16日火曜22:00〜スタートの日本テレビ系ドラマ「有閑倶楽部」主題歌になっています 2007年2月24日からスタートした27ヵ所47公演となる全国ライブツアー中の氷室京介だが、3月13日大阪厚生年金会館にて収録されたライブ映像を世界最速で iTunesにてリリース。 4月4日リリースの第一弾の3曲を皮切りに、全国ライブツアーのスケジュールにあわせて、7月7日、8日さいたまスーパーアリーナでのツアーファイナルまで、順次ライブ・ミュージックビデオが追加されていく。 公演からわずか3週間後のリリースは、デジタルミュージックストアならではの初めての企画。氷室京介自身のポッドキャスト「Kyosuke Himuro Podcast」においても、この企画の成り立ちを語っている。 最終公演を完成形としてDVD作品で成立させることとは別に、現在進行中のツアーにおいて、ほぼ未編集のレアな映像を1曲1曲作品としてダウンロードできるネット上での新たな試みに挑戦している。 4月15日(日)、鹿児島市民文化ホール第一にて、開催を予定しておりました、氷室京介の公演に関しまして、公演を中止させて頂きましたことを報告させて頂きます。 ファンクラブKING SWINGでお買い求めのお客様は、KING SWINGより連絡させて頂きます。 チケットぴあ、ローソンチケット、ファミリーマート、セブンイレブン、サンクス、サークルK で、お買い求めのお客様は、お買い求めの店頭で、4月18日より払い戻しをさせて頂きます。 CD購入者先行、ここだけネット先行、チケットぴあプレリザーブにて、お買い求めのお客様は、払い戻しのご案内をそれぞれ購入先から連絡させて頂きます。 K&Mコーポレーションより郵送販売にてお買い上げのお客様は、4月30日までに下記住所まで、チケットをお送りください。現金書留にて払い戻し致します。 〒892-0842 鹿児島市東千石町18-1 K&Mコーポレーション 氷室 京介 チケット払い戻し係 2006年の夏、氷室京介とGLAYによるシングル「ANSWER」(8月2日発売)、味の素スタジアムにて開催されたコラボレーションライブ"SWING ADDICTION"(8月5、6日延べ10万人動員)が記憶に新しいこの世紀の競演が、さらに氷室京介の新作でも結実!氷室京介作曲、TAKURO作詞、GLAY演奏による「Say something」。TERUのコーラスなど、GLAYが全面的に参加している。 今まで自分のアルバムをレコーディングする中で、LAのミュージシャンにリクエストしていた、"ビート音楽の理想的な絡み方"がそこにあった」 昨年のカウントダウン・ライブ(のべ4万人動員)、この夏の「味の素スタジアム」でのライブ(のべ10万人動員)でも披露され、強烈な印象と感動を残した新曲「SWEET REVOLUTION」が、ファンの熱い要望に答え、いよいよシングルとして発売されることが決定。カップリングの「IN THE NUDE〜Even not in the mood〜」も氷室の真骨頂であるビートを強調した、最強の楽曲です。 ソロデビュー曲『ANGEL』から最新シングル『EASY LOVE(LIVE EDITION)』まで、レーベルを越えて過去楽曲の映像作品を収録したベスト盤とも言えるPV集。 M1は、メローなメロディと対照的な揺れが緊張感を醸し出す官能的なポップバラード“EASY LOVE”(music.jp CMソング)。M2は、ミクスチャー性を更に凝縮したようなロックナンバー“BITCH AS WITCH”(「WOWOW ヨーロッパサッカー」イメージソング)。強固なビートと荒れ狂うギターの隙間をかいぐぐるボーカルのソリッドなスピード感。ワイルドだけれど野放図にならず暴力的でありつつ繊細。エネルギッシュでなおかつクール。こんなスタイリッシュなロッカーは日本にいない。 2004年8月22日に東京ドームで行われた一夜限りのスペシャルGIGの模様を全曲収録しDVD(特典映像含む3枚組)としてパッケージ化。 |
[ 180] Capitol Music Co. / アーティスト情報:氷室京介
[引用サイト] http://www.emimusic.jp/capitol/artist/himuro/
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氷室 京介(ひむろ きょうすけ、1960年10月7日 -本名は寺西修。 )は日本のロックヴォーカリスト、ミュージシャン。ロサンゼルス在住。 1982年、氷室狂介の名前でロックバンドBOOWYのヴォーカリストとしてアルバム『MORAL』で再デビューを果たす。 システムに組み込まれないという価値観と性急なまでの縦ノリビートが当時、二十歳前後の若者に絶大なる支持を得て、日本独自のビート系ロックバンドとして、それ以後、解散までの約6年間に、日本のロック界ではまだ有り得なかった数々の伝説を残した(音楽評論家の間では、よく「BOOWY以前、BOOWY以後」と表現された)。 1988年ソロデビュー後も独自のロック美学と圧倒的なライブパフォーマンスがカリスマ的に多くのフォロワーや業界関係者に影響を与える。バラッドでの声の広がり、音程など、その歌唱技術にも定評がある。 1994年ロサンゼルスに創作拠点を置いて以後、マスメディアへの露出は更に減ったが(「たとえファンが離れても仕方ないと思っていた」と後にコメント)、日本でライブコンサートを開けば驚くほどの数のファンが集まる。ロサンゼルスという環境を生かして凄腕の外国人エンジニア、アーティスト、ミュージシャン等に自らオファーを出し、自らをプロデュースするという形をとっている。またクロムハーツとコラボレートするなどファッションにもこだわりを見せている。 1979年、当時、高校生だった彼は、同級生の松井恒松ら四人で結成したアマチュアバンド「デスペナルティ」で、ヤマハ主催の「EAST WEST '79」決勝大会において入賞。これを機に上京し、音楽事務所「ビーイング」と契約。しかしながら、事務所社長・長戸大幸の意向でバンド解散。その後、バンド「スピニッヂ・パワー」のシングル『BORO BORO BORO』にコーラスとして参加。 1980年、第三期ボーカリストとしてスピニッヂ・パワーに正式加入し、シングル『HOT SUMMER RAIN』、アルバム『IN & OUT』で、本格的にプロデビュー。テレビ番組TBS「11時に歌いましょう」などに出演する。しかし、ポップス色の強かったバンドの音楽性などが肌に合わず脱退(その後、バンドも解散する)。 1981年、全てが思い通りにならない、どん底の時期、意を決した彼は、同郷のライバル布袋寅泰に声をかけ、彼の協力のもと、曲作り及び失った自らのバンドの再生を果たす。 1987年、既に絶頂期の人気を獲得していたBOOWYは、その年、解散という噂とともにツアーを続けていたが、ファイナルの12月24日渋谷公会堂のアンコール、氷室が振り絞るようにしてバンドの終焉を宣言。 1988年、解散公演からわずか3ヵ月後の7月、シングル『ANGEL』でソロデビュー。その後、ツアーも開始。ほとんどの特設会場で雨に祟られるという苦行を強いられた。(それ以後、先行シングル、アルバムリリース、アルバムに基づいたコンセプトツアーという活動を、コンスタントに続けて行くこととなる)。最初のツアーでこそ、当たり前のようにBOOWYの曲もやっていたが、彼にとって「BOOWY」が厄介な存在になることもあった(ソロとしての実績を作ってもなお、過去の歴史BOOWYは売れ続け、再結成などと囁かれることに苛立ちを隠せない時期があった)。 1994年、一時期、自律神経失調症などと診断されるようにもなっていた彼は、自身の希望により家族とロサンゼルスに渡米。エンターテイメントやロックの長い歴史や風土の中、これまでスタッフ任せにしていたことなどを自分自身でやるなどして、本来の自分を取り戻した。アルバム『I・DE・A』以降の活動は明らかに、それまでとは違うものになった。 10月27日 ARBのラストコンサート(代々木体育館)にゲスト出演(『TOKYO CITYは風だらけ』を競演する) 11月7日〜12月6日 企画から写真選択に至るまで自身で手がけた写真集「PAPARAZZI」(コンサート会場・通信販売限定、撮影・加藤正憲)のためローマからカイロ、セイシェルからニューヨークまで世界6カ国を旅する。 1月19日 11日からスタートしていた「TOUR 1993 ”L'EGOIST”」の大阪城ホール。体調不良のまま開催されたこの日、本人の納得するものが出来なかったとして、この日のオーディエンスを後のコンサートに招待すると発言。 11月8日 TOKYO FMスペイン坂スタジオにて公開生放送出演。彼に一目会いたいと集まった2万5千人の行列新記録を作る。 12月7日 VIDEO CONCERT 「Film The One Night Stand」スタート。ライブ「The One Night Stand」は、ローリング・ストーンズのステージデザインでも有名なデザイナーによる壮大な仕掛けや、グラミー賞ギターリスト、スティーヴ・スティーブンス(Steve Stevens参照)を迎えるなど話題を呼んだ。 2003年のソロ15周年ライブ「Case Of Himuro」に続くツアー、「Higher Than Heaven」の郡山公演の最中、うずくまってしまって歌えなくなりスタッフが駆け寄るというハプニングがあった。ネット上のファンの間などで様々な憶測が飛び交ったが、後で「20年来のいつも一人で来るファンと暫くぶりに目があってしまい、こみ上げてしまって」とコメントした。同じツアーのファイナルである東京公演の「Cloudy Heart」では、もはや誰にも分かるくらい号泣。かわりに自然に起こったオーディエンスの合唱が会場を包んだ。後のインタビューで「あの歌は、あれで上がりでしょう」とその日のオーディエンスに敬意を表し「Cloudy Heartは今後ステージではやらない」とコメントした。 2004年にNBAのシャキール・オニールが所有していたビバリーヒルズにある豪邸を約7億円で購入し、アメリカのメディアでも取り上げられる。 2004年8月22日、東京ドームでしばらく封印していたBOOWY時代の曲を自らのソロ曲と共に演奏する「21st Century Boowys VS HIMURO」を行い、5万5千人のファンが全国から集まった。バンドの元フロントマン自らトリビュートしたことに関して、「長年、応援してくれているファンが喜んでくれれば」「当時のバンド仲間に敬意を込めて」「(再結成や様々な問いかけに対する)俺なりの答えです」とコメントした(ちなみにツアーのサブタイトルの和訳は「温故知新」である)。 2005年9月14日に発売された映像作品「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」のテーマ曲として『CALLING』が使われた。15年以上も前の曲が使われた理由として、プロデューサーの野村哲也は以前から氷室京介のファンで、「製作中にずっとこの曲がイメージとして頭にあった」とコメントした。 作詞に関しては、初期は、松井五郎が主だったが、最近では、森雪之丞の起用が目立つ。本人曰く、「BOOWY時代は、詞を書いたが、ソロではほとんど詞を書かなくなった」、「アルバム『FOLLOW THE WIND』は全て雪之丞さんに作詞を依頼した」とのこと。実際、デビュー当初から一貫して女性作詞家を一切起用しないスタンスを取っている。 自分で作詞をしなくなったのは、BOOWYのアルバムMORAL収録曲の「SCHOOL OUT」の詞の内容に影響された若者が、「あなたの言うとおり学校を中退した」などとする内容の手紙を送ってきたためで、歌詞の影響力について深く知ったためと述べていた。 シングル『EASY LOVE』、アルバム『IN THE MOOD』収録曲『Ignition』で、再び松井五郎を起用している。氷室は「息子の成長を見守ってる内に自分にも心境の変化があった。この世界を表現するには松井さんが適任だと思った」「彼の詞は聴き手によって、どちらの意味にも取れるのでありがたい」と話している(過去のアルバムの中には、作詞家との共作も含め何曲かは自分で詞を書いている)。 2006年8月5日・6日、GLAYと『KYOSUKE HIMURO+GLAY 2006 at AJINOMOTO-STADIUM "SWING ADDICTION"』を味の素スタジアムで開催した(10年以上前のインタビューではGLAYについて聞かれ、「今は目の前のことをガムシャラにやってるのかも知れないけど」「10年後くらいに俺と同じような気持ちでやっていてくれたら素敵なことですね」と忠告とも応援とも取れるコメントをしていたが、10年以上経ったこの日、氷室はGLAYに「こいつらは親友です」との賛辞を贈った)。 レコーディングでは、ジョシュ・フリーズ(Dr.)、マイケル・ランドー(G.)などL.Aの売れ筋ミュージシャンを多く起用している。アルバムは何度もつめて作り直すなどアレンジや録音に多くの時間をさいてクオリティを高め、インダストリアルな傾向が強い。渡米後は特にロックとしての音への拘りが大きくなり、わざと単調にして荒くしたり歪ませたりといったことをしている曲もあるため「クレームが来ないか心配だった」と日本の主流との違いを認めるコメントもしている。好んで聴いているのが、オルタナティブ・ミュージック系や、ポップ・パンク系で(中でもグリーン・デイの前面には出さない緻密さが勉強になるとコメント)あることなども影響している。しかし「ロックでいいです」という感想を聴いて「日本も変わったんだな」とのコメントもしている。ただ、ほとんどの楽曲はツインギター構成となっている。 ソロ15周年の「Case Of Himuro」以後ライヴツアーの本数が増えてきていることに関しては、「肉体的には疲れても精神的にはエネルギーをもらえるから」とコメント。ツアーのサポートミュージシャンも、本田毅(G.)、西山文明(現・西山史晃)(B.)など主要メンバーは定着していて、クオリティーを保ちつつも、ドラマーやキーボードなど起用するミュージシャンにより、変化あるツアーを実現している。また時には洋ロックの有名ハウス・エンジニアを迎えるなど本物の音作りを追求。そのためライブではリピーターが多く、10代から50代まで幅広い層のファンが地元に限らず他の会場へも足を運んでいる(男女比は7:3くらい)。 最近はポッドキャストで自宅のスタジオから無報酬で嘘のない思いを発信するなど音楽以外のところでも若い人たちとの交流を試みている。また「ウエブ進化論」を愛読するなど今後のデジタル音楽への造詣も深く、好評となっている。 2007年のツアーにおける3月13日に行われたライブの映像が、4月4日からiTunes Storeにおいて順次リリースされた。公演後わずか3週間でライブビデオとしてリリースするという試みは日本人初である。 「そろそろ”氷室京介”のプロテクトを外して」の言葉どおり2007年7月16日開催のap bank fes '07にシークレットゲストとして出演し、会場を驚かせた(ファンにも当然知らされていなかった)。ツアーファイナルのさいたまスーパーアリーナでもアンコールでBOOWYの曲を演奏するなど近年の自由な発想とスタンスは、多くのファンには好意的に受け止められている。 雑誌・ラジオには比較的多く出演しているが、「テレビ嫌いである」と公言しているため、出演をしないスタンスを取る。BOOWY時代もTV出演は全国的にブレイクした頃の短期間に限られていたが、ソロになってからも『FLOWERS for ALGERNON』が「ベストアルバム賞」を受賞したときの日本レコード大賞、HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP、めざましテレビに出演した程度だった。露出が少ない分、近寄りがたいイメージが一般的には浸透していたが、ダウンタウンなどとの会話でも解るとおり、決して口数が少ないというタイプではない。ただ「今後も出ないと思います」とのコメント通り、その後もTVとは一定の距離を置いている。だが、自身がテレビを見る事はある。 吉田拓郎 - 子供の頃ファンでギターを始めるきっかけになった。後に「たどりついたらいつも雨降り」を氷室がカバー。 RCサクセション - 氷室は再デビュー前、挫折して群馬へ帰る直前、彼女にもらったチケットでコンサートを見に行き、ステージだけに集中している多くのファンたちの様子などを目の当たりにして、音楽に対する情熱を取り戻し、帰郷を思い留まったというエピソードがある。 カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2007年9月 | 日本のシンガーソングライター | BOOWY | 1960年生 | 高崎市出身の人物 |
[ 181] 氷室京介 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%AE%A4%E4%BA%AC%E4%BB%8B
