仏像とは?
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奈良・平安仏から江戸時代の円空(えんくう)・木喰(もくじき)まで、一木彫(いちぼくちょう)の名品が上野に集結します。 寺外初公開の滋賀・向源寺(こうげんじ)の国宝十一面観音菩薩立像(渡岸寺(どうがんじ)観音堂所在、2006年11月7日(火)〜12月3日(日)展示)をはじめ、国宝4体、重要文化財41体を含む146体をご覧いただきます。日本人がこだわった木で仏像を造ることの意味を考えるとともに、そこで培われた良質な木の文化を通して日本人の心や精神性に触れることができるでしょう。 一木彫は、大地に根を張った生命力あふれる木から造られた仏像です。拝する人を圧倒する力にご注目ください。 前売券および前・後期券は、電子チケットぴあ、ローソンチケット、JR東日本の主なみどりの窓口・びゅうプラザ、ファミリーマート、サンクス、セブンイレブン、JTB、イープラス、CNプレイガイドおよび東京国立博物館 正門観覧券売場(開館日のみ)にて、10月2日(月)まで発売。 東京国立博物館キャンパスメンバーズ会員の学生の方は、当日券を800円(100円割引)でお求めいただけます。正門観覧券売場(窓口)にて、キャンパスメンバーズ会員の学生であることを申し出、学生証をご提示下さい。 特別展「仏像 一木にこめられた祈り」会期終了後の2006年12月5日(火)〜24日(日)まで、本特別展半券を当館正門 観覧券売場にてご提示いただければ、当館平常展を半額の割引料金でご覧いただけます。詳しくはこちら。 東京メトロ銀座線・日比谷線 上野駅 、千代田線 根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分 木彫像の制作工程模型と一木彫像で使用される樹種のサンプルを展示します。また、模型を制作していただいた東京芸術大学学生ボランティアのギャラリートークも行います。 「見仏記」でおなじみのみうらじゅん、いとうせいこうによる仏像トークショーです。展覧会に出展される仏像から、二人の思い出の仏像まで、熱く語ります。 映画「埋もれ木」を上映します。火山噴火によって立ち木のまま埋もれた古代の森「埋もれ木」をテーマに、木の神秘性に迫ります。 滋賀・高月町立観音の里歴史民俗資料館学芸員 佐々木悦也 氏を講師に講演会を行います。映画「古墳と観音の里 高月」も上映します。 インドの伝説では、世界で初めての仏像はインド産の白檀(びゃくだん)で造られたとされています。白檀は木目が緻密で美しく、芳香を放つことから仏像の材として珍重されていました。幹の直径が30cm程度にしかならないため、小さな像しか作れませんが、材の特色を生かして表面に彩色をせず、細かな彫りをするのが特色です。 中国でも唐時代にインド風の小さな檀像(だんぞう)が流行しましたが、中国では白檀が自生しないため、「栢木(はくぼく)」で代用する考えが出されました。日本では、奈良時代から平安時代初期にかけて、「栢木」をカヤとみなし、カヤによる代用檀像が流行しました。カヤは針葉樹で、木目がつみ、木肌も少し黄味がかった白色で美しく、良い香りがする木です。檀像の緻密で鋭い彫りをご覧ください。 大化改新で有名な藤原鎌足(614〜669)の長男・定恵(次男は藤原不比等)が唐から持ち帰った可能性が高い像です。きわめてインド的な風貌に注目してください。頭部上方の菩薩面から足の裏に伸びるほぞまで、白檀の一木で作られた典型的な檀像の十一面観音像です。 頭上の面から台座の蓮肉(れんにく)まで木目のきめ細かな針葉樹の一木から造る典型的な檀像様の仏像です。作風は全体に伸びやかで、腰を少し曲げることで生じるわずかな薄い衣の動きが自然な質感で表わされています。また、明確に刻まれた切れ長の眉や眼、口端をくぼめて微笑む端正な唇の表現にも特色があります。 日本の仏像の歴史の中で、8世紀後半から9世紀前半にかけては、一木彫の名品が数多く造られた魅力的な時代です。こうした状況を生む大きな要因となったのが、中国からもたらされた檀像と白檀の代用材「栢木」による檀像の概念であったと考えられます。日本人は、中国からもたらされた檀像の緻密な造形世界に魅せられつつ、仏像の材料としての木の素晴らしさに目覚めていったに違いありません。 その一方、日本では古来、木は神や霊が宿る依り代(よりしろ)として信仰されてきました。中国からもたらされた檀像と日本古来の木の信仰が融合し、一木彫成立の基盤が形成されたと思われます。 ここでは、この一木彫の世紀に造られた名品の数々を通して、その魅力や多彩な造形世界をご覧いただきます。 瞑想するかのような慈悲深い表情、ふくよかな胸や腹の肉付け、腰をひねって立つすらりとした肢体などその類まれな美しさから、多くの人々を魅了してきた像です。 顔の脇、頭上や後頭部に10の面を大きく表す姿は非現実的ですが、それをまったく違和感なく、美しい調和の中にまとめあげています。柔軟な肉体や衣の薄く柔らかな質感表現も見事です。すべて針葉樹の一材から彫り出していますが、破綻がなく、仏師の高度な技術がうかがえます。 肉体とそれを覆う衣、そこにできる皺(しわ)を完璧にとらえた一木彫の名作です。瞳に黒い珠を嵌め、二重瞼で切れ長な眼の表情は異国的で、中国・唐代彫刻との強い関連性がうかがえるでしょう。 宝菩提院願徳寺はかつて長岡京の北域(向日市寺戸町)にありました。後に荒廃したため、この像をはじめとする諸仏は花の寺として知られる勝持寺(京都市西京区大原野所在)に一時移動安置されていましたが、近年、勝持寺の近くに復興されています。 平安時代の10世紀後半から12世紀頃を中心に、表面にノミ目をのこす不思議な一木彫像が流行しました。これらの像をいま鉈彫(なたぼり)と呼んでいます。実際には鉈による裁断面を残すのではなく、表現がいかにも荒いのでこう呼ばれます。材はカツラやケヤキなどが多く、その多くは神や霊が宿る神木、霊木であったと考えられます。鉈彫は、霊木から次第に仏像が現れてくるプロセスが示されていると考えられます。鉈彫は京都や奈良の新旧の都や四国・九州では今のところ発見されておらず、関東から東北地方に多いのが特色です。 鉈彫初期の代表的な作例。三尊ともカツラの一木で造られています。薬師如来は顔や胸を滑らかに仕上げ、螺髪(らほつ)を精細に刻み出していますが、それ以外は台座をふくめてノミ目が同じ方向に整然と刻まれています。一方、両脇侍は顔や胸、宝冠、下げた手の指先にいたるまで全身にノミ痕を残しています。三尊とも白木のまま彩色をせず、目、眉、ヒゲ、菩薩の胸飾などが墨で描かれています。 宝城坊のある丹沢山塊の日向山の中腹には、かつて霊山寺という山中寺院がありました。この三尊像はその創建時からの本尊であったのでしょう。 鉈彫初期の代表的な像。背面は平らに仕上げ、正面からみえる部分に、意図的に横縞状のノミ痕を留めています。全身は白木のままで、本面の唇と化仏の唇にわずかに朱が残り、眉、目、ヒゲ、胸飾を墨で描いていることからこれで完成させたことも明らかです。表現が穏やかであることから11世紀の作と推定されますが、頭の十一面から足先、手先、天衣、左手の水瓶に至るまで1本のケヤキから造り、内刳り(うちぐり)もないことから、平安時代初期の一木彫刻の古い伝統に基づいて制作されたことがわかります。 円空(1632−1695)と木喰(1718?−1810)はしばしば並び称されますが、同年代の人ではありません。両者に共通するのは、日本全国を廻って大量の仏像を造ったこと、専門の仏師ではなく、庶民に親しまれる独特の造形を創造したことです。円空、木喰の像は、ノミだけで仏像を造り上げ、飾りは一切ほどこしていません。江戸時代の村の人々の祈りに寄り添った像と言えるでしょう。 ただし、その作風は対照的で、円空の像はナタで割った木材の切断面がそのまま残され、彫刻面のノミ跡もごつごつしたままです。木喰の像は、表面をなめらかに仕上げ、造形に丸みが目立ちます。顔立ちはしっかりと彫られ、ことに微笑むような表情の像が多いことが特徴です。 岐阜県関市洞戸に聳える霊峰高賀山、円空はこの地を3度訪れ、現在29体の円空仏が伝わっています。1本の丸太を割って3体の像を造っており、各像の背面は彫刻していないので、3体を重ねれば丸太の形が復元できます。善女龍王は、雨を降らせ五穀豊穣をもたらします。円空は高賀神社で実際に雨乞いを行なっています。円空仏の最高傑作のひとつ、善財童子像の背の高い細身の身体は、上へ上へと伸びる木の生命力を感じさせ、尖った頭頂、無垢な表情とあいまってことに印象深い像です。 木喰は享和3年(1803)から2年半、越後に滞在して230体ほどの像を造りました。86歳の木喰は、享和3年8月1日から24日までの間に、小栗山観音堂(小千谷市)の中尊如意輪観音像と32体の観音像、行基菩薩・大黒天像を造立。これらは公孫樹(いちょう)の大木から造ったと伝えられます。翌年6月9日から7月13日には宝生寺(長岡市)に三十三観音像(高90cm前後)、引き続き7月14日から 8月15日は金毘羅堂(長岡市)に三十四観音像(高65〜75cm)を完成させました。この3つの堂あわせて百観音、すなわち西国・坂東・秩父の観音霊場を再現したのです。 |
[ 126] 東京国立博物館 特別展 仏像 一木にこめられた祈り
[引用サイト] http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=3460
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仏像(ぶつぞう)は、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。仏(仏陀、如来)の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊、釈迦如来)を指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などのさまざまな「仏」の像が造られるようになった。 「仏像」とは、本来は「仏」の像、すなわち、釈迦如来、阿弥陀如来などの如来像を指すが、一般的には菩薩像、天部像、明王像、祖師像などの仏教関連の像全般を指して「仏像」と言っている。広義には画像、版画なども含まれるが、一般に「仏像」という時は立体的に表された彫像を指すことが多い。彫像の材質は、金属製、石造、木造、塑造、乾漆造など様々である。 もともと、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。 また、原始仏教は宗教的側面もあったが、四諦や十二因縁という自然の摂理を観ずる哲学的側面の方がより強かったという理由も挙げられる。さらに釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかった。したがって初期仏教においては仏像というものは存在しなかった。 仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。そのため人々は釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹などを礼拝していた。インドの初期仏教美術には仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)は多数あるが、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるのみであった。 仏像が出現したのは釈迦入滅後500年以上経ってからである。最初の仏像がどこでどのようなきっかけで制作されたかは明らかでないが、最初期に仏像の制作が始められたのは西北インド(現パキスタン)のガンダーラと、中インドのマトゥラーの2つの地域であり、おおむね紀元後1世紀頃のこととされている。 ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、決着を見ていない。しかし、仏像がさかんに造られるようになったのは紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。 マトゥラーの仏像がインド的であるのに対し、ガンダーラの仏像がギリシャ彫刻のように彫りが深いのは、この地にさまざまな民族が侵入し、西方の文化を持ち込んだためである。紀元前330年頃にアレクサンドロス大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。その後も紀元前2世紀にはバクトリア王国のギリシャ人の支配を受けるなど、西方文化の流入は続いた。つまりガンダーラの仏教美術とは、仏教とギリシャ美術が融合した結果であった。 もともと仏陀像は釈迦の像に限られていたが、仏教の展開に応じて、いろいろな像が生まれ、仏教は偶像崇拝的性格を持つようになった。ガンダーラにおいても銘文から弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩などであることが明らかな作例が確認されている。 仏十号の一。仏の尊称。「如去如来」或は「如来如去」の略。「真如の世界へ去り、また真如の世界より来られし者」という意味で、修業を完成して、真理すなわち悟りを開いた人の意。 三十二相八十種好と呼ばれる特徴があるが、かならずしも全てを造形的に表現していない。頭部が盛り上がっている(肉髻)、頭髪が右巻に渦巻いている(螺髪)、眉間から伸びた身長くらいの長さの白い毛が右巻に渦巻いている(白毫)、体が金色である、装飾品は身に付けない等。 通常、衣服は衲衣と裳を纏っているだけである。大日如来だけは例外で菩薩のように着飾っている。如来は印を結んでいるので、この印相で見分けることが出来る。 持物は持たないが薬師如来だけは薬壷を持っている。 一般的な姿は上半身に条帛(じょうはく)を纏って、下半身に裳を着け、天衣(てんね)を両肩から垂れ下げている。髻を結い上げて宝冠を頂き、また瓔珞(ようらく)、耳?(じとう)、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、足釧(そくせん)などの装飾品をしている。地蔵菩薩だけは頭を丸めて宝冠もつけず、僧の姿で表わされる。 如来のように印は結ばず、それぞれ持物(じもつ)を持っている。 未だ教えに従わない救い難い衆生を力づくでも帰依させるために、明王が大日如来の命を受けたとも、如来が自ら明王に変化したとも伝えられている。 古代インドの宗教の神々が仏教に取り入れられ、仏法の護法神となった者の総称。官服を着た貴人姿、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など多様な姿をしている。 日本における如来像の頭髪は、いずれも螺髪(らほつ)といって渦巻状の集合体である。ガンダーラ仏等初期のものは、いわゆるパンチパーマ状ではなかったが3世紀以後の仏像は、螺髪となった。大阪大学教授の肥塚隆によると、インドにおいて偉大なすぐれた人物は凡人とは異なった特異な姿でこの世に現れるという考えがあり、その一つが特殊な頭髪として現れたという。 この「仏像」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる執筆協力者を求めています。(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教) |
[ 127] 仏像 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F
